ブログ

2014年7月22日

【アヴィニョン・レポート】リベラシオンに『室内』記事!

ル・モンドに引き続き、リベラシオンに掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら
※ル・モンドに掲載された『室内』の記事はこちら

***
『室内』身体に開かれた窓
『リベラシオン』2014年7月19日 11時56分
ルネ・ソリス

[写真キャプション]『室内』使者たちが子供の溺死を伝えにやって来る(写真撮影:三浦興一)

アヴィニョン
クロード・レジによるメーテルリンクの上演。夢の縁にあるドラマの中で。

 メーテルリンク+クロード・レジ+日本:その結果が宗教的な儀式に極めて近いものになったことは驚くにはあたらない。この作品はウィーン・フェスティヴァルで上演された後、この五月にブリュッセルで上演された。この後のヨーロッパ・ツアーでは、パリの秋のフェスティバルで上演されることになっている。ブリュッセルの上演では、客席に入る前、待合室にいる段階で、観客は沈黙を要求された。熱心な観客たちによってこれとはまた別の指令も伝達された。劇場内の薄暗がりのなかに座った後は、お尻をもぞもぞさせてはならないし、咳払いも禁止。「シーッ」といらだった調子で注意されるなんてもってのほか。レジの作品の観客には、こうした注意が行き過ぎだと思うものは誰もいないだろう。

 クロード・レジは1985年にフランス語でメーテルリンクのこの作品を上演しているが、今回の日本語版の上演では、作品の構想とその瞑想的雰囲気はさらに遠くの地点まで押し進められていた。日本語版『室内』は昨年、日本の静岡の山中の地下にある小さな劇場で初演された。

 一面に広がる砂地。もともと「マリオネットのためのドラマ」と作者に指定されている『室内』は、一軒の家の窓の前を中心に展開する。悲しい知らせを伝えるためにやって来た老人とよそ者の男は、窓の前でたたずみ、ノックするのをためらっている。室内では、家族が無言のまま、それぞれ自分の仕事にいそしんでいる。「あの人たちはなにも気づいてはいませんね。それに話もしていない」とよそ者の男が話す。レジの演出では、舞台上には壁も、窓も、家具もない。そこには砂地が広がっているだけだ。その砂地の中央に子供がひとり眠っている。静謐であると同時に重苦しい情景。使者たちはこの家族の娘の一人が溺死したことを伝えにやって来た。死んだのは眠っている幼い男の子の姉だ。横たわるその男の子の姿もまた死を暗示している。男の子が呼吸したり、ときおり動いたりするのを見て、われわれは安堵の胸をなで下ろす。

 暗い照明、緩慢でくぐもった発声。夢の縁で展開するこの演劇のなかで常に必要とされるのは、揺らぐための時間である。L’Intérieur(「内部・内側」を意味する)というタイトルは、邦題が示すような家の内部だけでなく、観客それぞれの内面も意味している。観客は自身の内面に沈潜し、瞑想の状態に身を置くように促される。簡潔で引き締まったメーテルリンクのテクストから、クロード・レジは彼が余分だと判断したものをさらに削り取った。字幕からも余分な言葉はそぎ落とされ、極限まで切り詰められる。それはあたかも白い画面に映し出されるこの黒い文字列(この2つの色がこの舞台の基調をなす色なのだが)もまた消え去ることが運命づけられているかのようだ……

 避けることができないことがら。クロード・レジは演劇における沈黙の重要性を訴え続けている。彼はサルトルのこの言葉をよく引き合いに出す。「言葉は、言葉そのものよりもはるかに広大な、語られないことがらを解放することができる」。 この意味合いにおいて、レジは完全に彼自身が目指す地点に到達している。語られてはいないが、推察されうることがらこそ、核心となる部分である。日本語の響きは、それぞれが理解可能なある言語が作り出す未知のメロディーとなる。この響きのなかで悲報を告げるのを先送りすることも、避けることができないことがらを受け入れるもっともシンプルな方法となる。終演後、子供が起き上がり、彼の仲間たちとともに観客に挨拶するとき、微笑が戻ってくる。その場にいることに対する喜びで満たされる。

ルネ・ソリス(『リベラシオン』アヴィニョン特派員)
モーリス・メーテルリンク作『室内』。クロード・レジ演出。日本語上演、フランス語字幕。サル・ド・モンファヴェ、18時開演。7/27まで(7/23は休演)。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)