知識が必要なら本を読めばいい。あるいは詳しい人の講義でも受ければいい。けれど例えば「自分に必要な知識が何なのか分からない」といった時、または「知識は得たが、どうにも腑に落ちない」といった時、あなたはどうしますか? そこで必要になる「なにか」、自分の知らない、得体の知れない、けれどきっと重要であろうその「なにか」を得るにはどうしたら……そんな思いに取り組むための時間と場所が、ここ静岡にありました。
「SPAC合宿WS ~ハトバ~ 2018」は、まさにそうした「なにか」を探るためのワークショップでした。2018年2月3日~5日にかけて、静岡芸術劇場、舞台芸術公園を会場に、参加者は2泊3日の贅沢な時間を形のない問いに充てました。今回、この「ハトバ」の内容の簡単なレポートと、そこでの体験、つまり私自身が「ハトバ」に参加して感じた「なにか」について書いていこうと思います。
ハトバについて
「ハトバ」は、2012年よりSPACにて開催されてきた「静岡から社会と芸術について考える合宿WS」を引き継ぐワークショップです。中心となるファシリテーターは平松隆之さんと白川陽一さん。開始当初は「芸術の公共性について対話を通して考える」ことをメインにワークショップを行なっていたようですが、回を経るごとに「対話を通して考える」ということそのものがワークショップの中心となってきたとのこと。今回名称を変更したのも、主催者側が用意したテーマではなく、参加者それぞれの持ち寄った関心や課題に沿ってワークショップを行いたいとの意向によるものでした。
とはいえ、一応小さなテーマは設けられています。それは「わたしたちは〈ちがう〉について体と言葉で考える。」というものです。このテーマに沿う形で、例年はなかった「身体」を使ったワークを用意したそうです。
さて、「ハトバ」は以下のようなスケジュールに沿って進行していきました。
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2月3日(土) 会場:静岡芸術劇場
1.チェックイン・挨拶
2.『しんしゃく源氏物語』プレトーク
3.『しんしゃく源氏物語』観劇
4.『しんしゃく源氏物語』観劇の感想をシェアする会(ワールド・カフェ)
2月4日(日) 会場:舞台芸術公園 稽古場棟、食堂棟カチカチ山
1.WS1 身体を使ったワーク
<昼食休憩>
2.WS2 野外活動
<夕食休憩>
3.WS3 音と声を使ったワーク
2月5日(月) 会場:舞台芸術公園 稽古場棟、食堂棟カチカチ山
1.WS4 ソーシャル・プレゼンシング・シアター
<昼食休憩>
2.ふりかえり
3.チェックアウト
1日目 ワールド・カフェ
2月3日、私たちはSPACの2階にあるカフェ・シンデレラに集まりました。参加者はファシリテーターの方々を含め24人。参加者は演劇関係の人が多いのかと考えていましたが、案外そういう訳でもなく演劇とはゆかりがないという方もいらっしゃいました。また、何人かの方々は前身の「静岡から社会と芸術について考える合宿WS」からのリピーターとのことで、これも驚きました。とはいえ、そうしたいくつかの共通点を除けば、年齢や性別など、わりあいバラバラな人が集まっているように見えました。
初日のワークはSPACの演目『しんしゃく源氏物語』を観劇しての「ワールド・カフェ」。ワールド・カフェとは対話のいち方法です。最初、テーブル毎に3~4人の小さなグループを作り、まずはそのグループでテーマに基づいた対話を行います。次に、1人を残して席を移動し、残った1人がそのテーブルで行われた対話の内容を引き継ぎつつ、メンバーの変わったグループでまた対話を行います。そうして3回ほど対話と席替えを繰り返し、最後に各テーブルで行われた対話の内容を全体で共有して終わります。
今回は『しんしゃく源氏物語』を観劇しての体験をワールド・カフェで話し合いました。感想を伝えるにあたって、「フィーリングカード」というものが使われました。これは様々な形容詞や擬音、写真やイラストなどが書かれてあるカードです。自分の体験にいちばん近いイメージのカードを選んで、それを起点にして感想を言葉にしていきます。
演劇を見た感想を言葉にする、というのは慣れていないとなかなか難しく、なかなか上手く言葉にできなかったりするものです。フィーリングカードは抽象的なイメージから語り始めることができるので、慣れていない人でも感想を伝えやすい方法に思えました。
私自身は「もやもや」というカードを選びました。というのも、せっかく『源氏物語』が題材となっているのに、現代との時間的な距離感があまり感じられず、そのことに「もやもや」していたからです。しかし他の方の感想から、例えば初演時の時代と比べたらどう見えるかなど、自分の持っていなかった視点に気がつかされました。他にも「大きな劇場空間に舞台美術の竹林が照明に映えて綺麗だった」とか「主人公・末摘花の姫よりも、脇役・侍従のほうが人間的だった」とか沢山の感想が挙がり、そこからそれぞれの意見が交わされ、『しんしゃく源氏物語』を巡るワールド・カフェは大いに盛り上がりました。
2日目 身体のワーク
翌日2月4日からは、会場を舞台芸術公園の稽古場棟へと移し、身体のワークが始まりました。身体のワークは、いわゆるインプロや、シアターゲームに近い形のものを行いました。
シアターゲームは、演劇の稽古やウォーミングアップとして用いられるゲームのこと。シアターゲームの一環としても行われるインプロは、 ”improvisation” つまり即興でのコミュニケーションを重視した芝居、あるいはゲームのことです。今回行ったものは例えば「拍手送り」。まず全員で輪になり、自分の左側の人が手を叩くのに合わせて自分も手を叩きます。そして今度は右側の人と合わせて一緒に手を叩き、どれだけ速く拍手を一周させられるか? というゲームです。
また「あなた/わたし」というゲームは、「あなた」と相手を指し、指された人は「わたし」と自分を指します。そして今度はその人が別の人を「あなた」と指してゆく……というゲームです。大きな輪になっていると距離があるので、気を抜いていると自分が指されていると気が付けません。また指し示す側も、しっかりと相手に伝える気持ちをもっていないと相手に届きません。慣れてくると、今度は「あなた/わたし」ではなく、お互いの名前でゲームを行いました。繰り返しお互いの名前を呼ぶうちに、それぞれの名前をすっかり覚えてしまいました。
「手を叩く」「指し示す」「名前を呼ぶ」という比較的簡単な動作でお互いにコミュニケーションを取り、上手くできたり、あるいは上手くできなかったとしても笑いが起こったりして、心身ともに温まるワークでした。
昼食を取り、午後からは野外活動が始まりました。野外活動のテーマは「自分とちがうものを探す」です。参加者それぞれで舞台芸術公園の敷地内を歩き回り、1時間近く「自分とちがうもの」を探しました。
しかし「自分とちがうもの」を探すといっても、なにぶんテーマが抽象的なので、だんだんよくわからなくなってきます。やがて「自分とは?」「ちがうとは何か?」「ちがうと感じないなら、それは逆に何を同じと感じているのか?」などと色々考えさせられ、哲学の迷宮に入り込んでしまった気分でした。
長い散策が終わって稽古場棟に戻ると、次のワークは、先ほど見つけた「ちがうもの」を空間と身体を使って表現してみよう、というものでした。30分ほどかけて、自分なりの表現を探します。他の人の体を使ってもいい、ということだったので、何人かの人は一緒に練習したり、中にはそこにいる全員を使った大作を試みた人もいました。
ちなみに私は「ちがうもの」として富士山を選びました。というのも、稽古場棟を出たすぐそこで、茶畑越しに富士山がとても綺麗に望めたのです。その時の私は美しく望める富士山に素朴に感動していました。他にも自然が広がっているのに、そちらに対しては別に大した感慨を覚えず、なぜ富士山には感動したのか……そんな風にずっと気を取られていたので、それならと思い富士山を見ていた時の感覚を表現することにしました。
そのようにして、参加者は各々の見つけた「ちがうもの」を表現したのですが「何を表現したものか」ということの説明は、ワークの最中には一切しませんでした。表れているものを読み解くための手がかりが一切ない状態で、私たちはありのままただ目の前で起こることを眺めたり、あるいは必死でそこに意味や形を見出そうとしました。
その後は、「わの輪」というワークも行いました。これまた全員で大きな輪を作り、今度は全員で中心に向かって歩いていく、というものです。全員で中心に向かって歩くので、当然ぶつかってもみくちゃになるのですが、そこで耐えられなくなった人が大きな声で「わ!」と叫びます。それを聞いて周りの人は、「わ!」という声がどれだけ強く自分に届いたかを感じて、感じ取っただけの強さで外へ広がります。
各ワークを終えると、小さなグループに分かれて感想をシェアする時間があります。「わの輪」の場合は、都市圏に住む人の「満員電車のような感じで、嫌だったが耐えられないということはなかった」という感想があったり、それに対して、「満員電車なんて乗らないし、全然耐えられなかった」という方もいました。「耐えられる/耐えられない」という二択では見えないその間、「ここまでなら耐えられる」「こういう時は耐えられない」というような無数に存在する中間にある、身体感覚での「ちがい」が少しずつ見えてきます。
夕食休憩後、身体のワークを通して感じたことのシェアを行いつつ、参加者それぞれのテーマを深めるワークが始まりました。それは、それぞれ自分が考えたい議題を紙に書いて全員でお互いの議題を見て回り、協同できそうな議題を持った人同士でグループを作って対話を始める……というワークです。
議題には「他者と自分」「言葉と身体」といったハトバのテーマ(わたしたちは〈ちがう〉について体と言葉で考える。)から出てきたような議題もあれば、「意識と無意識」「多様性について」といったハトバのテーマから少し離れたところから出てきたような議題もありました。私たちはそれまで使ってきた対話の方法や、ワークでの経験を共通言語としながら意見を交わし合いました。
3日目 ソーシャル・プレゼンシング・シアター
2月5日は、最終日に相応しくこれまでのワークを総合したようなワークが行われました。まず行われたのは、「人間関係について」というテーマに基づいて、「そのことをイメージしたとき覚える感覚に従って動く」というものです。「ちがうもの」探しの後の身体表現のワークに似ていますが、今度は全員が同じテーマで身体を動かすものです。とはいえそこからのイメージは様々で、満員電車をイメージする人もいれば、家族との関係をイメージする人もいて、表れる動きはばらばらでした。
その「イメージに基づいて、身体に動きが表れる」ということを使って、次のワークである「ソーシャル・プレゼンシング・シアター」は行われました。これは状況とそれぞれの役割を設定して、それに基づいて実際に動いてみる、動いた上で「どう見えたか」を共有していく、というワークです。初日には演劇を見てワールド・カフェを行いましたが、それを自分たちで即興劇を作って行うようなものです。
状況は「SPACで行われた婚活パーティー」です。役割は「本音と行動がちがう人」「相手の都合を無視しておしつけてくる人」「理想的な参加者」など婚活パーティーに参加している人たち。一方で「しんしゃく源氏物語」「地球」など、人ではない役割があるのも面白いところです。
状況と役割、そして役割を演じる人を決め、ワークを行います。上演は、周囲の人々と自分の役割が持つイメージによって徐々に始まり、全員の動きが自然に落ち着いて止まったところで終わります。状況と役割しか決めていないものの、そこには多様な運動が見られました。
「本音と行動が違う人は、けっこう本音を出しちゃっているように見えた」「理想的な参加者は結局、一番最初に出会った人とくっついた」「しんしゃく源氏物語は、みんなに見てもらえて嬉しそうだった」というような外側からの感想や、「この人の性格は全然よく分からなかった」「思ったよりも葛藤があった」というような演じた人たちの内側からの感想が混ざり合い、そこで「なにが起こったのか」が立体的に見えてきました。
こうして、総まとめのような「ソーシャル・プレゼンシング・シアター」が終わり、3日間のWSの全ワークが終わりとなりました。そして最後にはまた車座になって、「ハトバ」全体の感想を共有しました。
「ハトバ」のまとめと「これからの対話」に向けて
以上がハトバ合宿WSのレポートとなります。取り上げなかったワークや、2日目の夜に行われた懇親会、参加者一人一人のことなど、書ききれないことはたくさんありますが、少しでも「ハトバ」の空気が伝われば幸いです。
最後に、私がいち参加者としてハトバで考えたことについてまとめたいと思います。
まず私はハトバについて、演劇作品や劇場空間を活用し、観客の観劇体験を豊かにする実践が行われていることを心から歓迎したいと思います。演劇や劇場は公共性を目指しながらも、日本においてその実践が成功しているものは多くありません。そんな中、ハトバのような実践が前身のWSと合わせて6年も続いているのは重要なことです。
一方で、ハトバにはある問題を抱えているようにも感じました。それは意見や感想を多様に広げることには成功しているが、しかし広げるばかりになってしまっている、ということです。
例えば、ハトバの参加者に配られた「対話のエチケット」という資料には、「予定調和な話しあい」から「多様性を生かし知性が創発される話しあいへ」と書かれてあります。これを意地悪に読むなら「多様性を生かし知性が創発される話しあい」という「予定調和」を読み取ることができます。また、この「エチケット」に基づいて行われたワールド・カフェによる感想会でも、私は「予定調和」を感じました。「こんなにもたくさんの視点が見つけられたね。なんか良かったね」というような。しかしそれは「なんか良い」に過ぎないものではないでしょうか。
こんな例え話があります。舞台上にたった1つの石が置かれてあります。それだけの舞台作品です。観客はそれを1時間見続けます。その作品には無限の解釈の余地があります。ですがそれは、果たして良い舞台作品と言えるでしょうか? 直感的に、その舞台作品があまり良いものでないと感じるのではないでしょうか。少なくとも興行的には成立しないでしょう。舞台作品にも良いものとそうでないものはあります。それが全て「なんか良かった」にしてしまうとすれば、それはある種の思考停止です。かといって、別に私はあらゆる演劇を「面白い/つまらない」の二つに切り分けよと言いたいのではありません。大事なのは、多様な意見・感想を広げることの「その先」だということです。
これはもしかすると、「静岡から社会と芸術について考える合宿WS」から「ハトバ」へと方向性を変えたことによって可視化された問題なのかもしれません。これまでの「芸術の公共性」といったある程度特定的なテーマの下では、どれだけ意見や感想を多様に広げたところで、最後に参加者はテーマに対する態度を問われることになります。ところが「〈ちがい〉について考える」という今回のようなテーマは、何か態度を示すにはあまりに抽象的に思われます。
全体で強固なテーマを持たないのであれば、個々の関心や課題に対してよりアプローチをかけるべきだったのかもしれません。とはいえ、参加者誰しもが関心や課題を持っているわけでない以上は、全体と個が幸福に共存できるバランスを考えていく必要があります。そうしたことはこれまでも考えられてきたかもしれませんが、「ハトバ」として新たなスタートを切った今後も、引き続き考えられるべき課題でしょう。
ただ、この問題は単に「ハトバの問題」にとどまるものではないように思われます。なぜなら私たちの社会は現在、価値観が多様になりすぎたことによる揺り戻しに直面しているからです。移民を受け入れることによって排外主義が強まったり、多彩な情報を精査しきれずフェイクニュースが蔓延ったりしているのが現代です。多様性は尊重されるべきですが、いまやそれを手放しに肯定することはできません。
このような社会状況で、私たちが行わなくてはならない「対話」とはどのようなものでしょうか? 考えてみましょう。極端な例ですが、排外主義的思想を持った人と対話することを想定してみます。彼は、多様な意見・感想を肯定しなくてはならないワールド・カフェという場に、そもそも参加してくれるでしょうか? 私は難しいのではないかと思います。ですが、例えば「拍手送り」というゲームを通してなら、思想などは関係なく、私たちは同じ場にいられるのではないでしょうか?
もちろん、「拍手送り」ゲームで遊んでいれば対話したことになると思ってはいません。しかし「身体を通してなら関わり合える」というのは一つ重要なことです。これまでの多様性を広げるための対話とは別に、私たちはこれから新しい対話のモードを探していかなくてはなりません。それがどのようなものであるのか提案する力は私にはありません。しかし少なからず「身体」へのアプローチが重要な鍵を握っている気がしています。その意味でも、ハトバの「身体」を使ったワークへの挑戦は、強く評価したいと思います。
「ニッポンには対話がない」と言われたりもしますが、そうした状況を「西洋の一周遅れ」と悲観せず、いまここで可能な対話のあり方を探すべきではないかと、私は思います。そして「ハトバ」という場は、そうした新たな対話を模索し続ける実験の場になれるのではないでしょうか。そんな期待も込めつつ、ハトバの実践がこの先も続くことを願います。
黒木洋平(くろぎ・ようへい)
劇作家・演出家。1994年生まれ香川県出身。大学入学直後より俳優活動と共に自主制作映画や自身の作・演出する演劇作品を発表し始め、2015年より演劇ユニット「亜人間都市」を立ち上げる。演劇を「身体と言葉の対話」と捉え、ポストドラマ時代の新たな演劇の在り方を模索する。2017年、クマ財団クリエイター奨学金の第1期生に選出。