SPACの舞台作品を観て感じたこと考えたことをざっくばらんに自由に語り合おう!ということで、この秋に上演された『ガラスの動物園』と『オイディプス』について「語る会」を開催いたしました。場所はおなじみスノドカフェ。
実はこの「語る会」、今回初めての試みでした。同じ舞台を観たお客さん同士が感想を言い合える場がつくれないものかと思い、スノドカフェのオーナー柚木さんに相談して実現しました。舞台は観終わったらおしまい、ではなくて、そのあとに語り合うことで観劇体験がより豊かになっていく可能性も秘められてると思います。
実際、誰かが意見を言えばそれに触発されてまた誰かが意見を言う・・・この果てしない連鎖に、会は両日とも3時間をゆうに越えるアツい語り合いでした!ここではその一端をご紹介いたします。
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『ガラスの動物園』について語る会
日時:2011年11月6日(日)18:00~21:30 場所:スノド・カフェ 参加者:20名
■語られた主なこと
【ラストの蝋燭の火】
・蝋燭の火が消えたのは、「ローラの死」を意味するのではく、「ローラの(この家からの)旅立ち」の象徴である。この舞台は「救いがない」のではく、明るい未来を暗示していると読むこともできる。
【ユニコーン】
・ユニコーン=ジム:ユニコーンの角が折れることによって、「普通の馬」になった。それはつまり、ローラの中でジムが「憧れ」の対象から「普通の人間」になったことを意味するのではないか。
・ユニコーン=ロボトミー手術:ユニコーンの角は、ロボトミー手術を表現したものではないか(手術される姿がユニコーンを髣髴とさせる)。
・ユニコーンの角が折れ(一番大事なものが壊され)、「普通の馬」になったことは、ローラが平凡の素晴らしさに気づいたからではないか。しかし、そのことはジムがローラに言った「君にしかない魅力がある」ということとは相反する。
【風】
風でチュールが揺れることの意味は?→アマンダの怒り/ローラを囲ってる「繭」の崩壊/ウィングフィールド家への新しい風
【トム】
トムは、ローラがむかしジムに憧れていたことを知ってて(知らないふりをして)、家に連れてきたのか?
・きっと知ってて、家を崩壊させるために(ローラを家から出すために)、連れてきたのではないか。
・トムとジムは実はデキてたのではないか。(ベティ=トム説)
【ローラ】
ローラはアマンダにもトムにも、好きとも嫌いとも言わない。つまり、誰に対しても感情がない。ジムと再会するまでは。
【アマンダ】
アマンダが手にしていた黄水仙の花言葉は「私のもとへ帰って」。
【ベティ】
ベティは本当は実在していなかったのではないか?
もしかしたら、ジムはゲイで、ベティとはトムのことだったのかもしれない。
【舞台美術】
・テーブルが石上純也(建築家/妹島和世建築事務所出身)を髣髴とさせたと同時に、舞台美術全体はSANAA(妹島和世・西沢立衛)を連想させるものがあった。
・二重の紗幕があることで、観客は俳優をよく見るようになる。
・目を細めて見るという行為は、記憶を遡る(思い出す)ということにつながる。ダニエル氏が言う「記憶の遠近法」に観客も巻き込まれた。
・鏡がすこし下に向けられているのはなぜか。アマンダが、鏡のなかに映った自分の滑稽な姿(過去の栄光にすがっている自分)に気付かないようにするため。
【演出】
・ダニエル・ジャンヌトーの演出は「間と影」である。観客はそこを埋めるようにして想像力をはたらかせて観る。だからいろいろな見方ができるのではないか。
・いろいろな憶測がどれもありえるように演出されている。
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『オイディプス』について語る会
日時:2011年12月4日(日)18:00~22:00 場所:スノドカフェ 参加者:12名
■語られた主なこと
【小野寺演出について】
・これは演劇?ダンス?ショウ?
・今までにない演出で「こういう表現もあるんだなぁ」と感じると同時に、俳優の動きはどこかで見たことがあるような感じもした。(ローザスに似てる?)
・身体と言葉が目まぐるしく変わっていく感じ。
・「オイディプス」のストーリー自体は、とても直視できないものであるが、小野寺さんの手にかかると楽しく観ることができる。
・よくわからない部分もあったが、人間に共通する何かを突きつけられた感じがした。
・密度が濃い舞台だった。
・「中心」がない舞台だと思った。(「転校生」や「忠臣蔵」を連想させる。)
・舞台を観ていると、「混乱」していく自分、「分裂」していく自分がいた。
・2500年の歴史の中で上演されてきたさまざまな「オイディプス」を表現しようとしたのではないか。
・階段とかが危ないなと思った。
・そもそも「オイディプス」は感情移入できる芝居ではないが、役が分解されることで(三人のオイディプス・イオカステ)、その中に自分に近い(共感できる)人物を探すことができる。
【ストーリーがわかりにくい?】
・話がわかりにくかった。演劇を見慣れていない人、オイディプスの話を知らない人は突然の展開についていけないだろう。
・静岡県の中高生ははじめて演劇を観る人が多いだろうから、これを中高生鑑賞事業でやられては困る。
・ストーリーはすごく丁寧に描かれていたと思う。大事なことは何度も繰り返されていた。
・ストーリーがわかるということが演劇の良さでは必ずしもない。わからないことを楽しめる舞台であるということも重要である。SPACが「わかりやすい」舞台ばかりを創るようになったら残念だ。
・セリフが聞き取れない部分があったが、それはそんなに不快ではなかった。わざと聞き取りにくくしているのだろうと思った。
【場面の繰り返しについて】
・ループ(繰り返し)によって、混乱を楽しむというのは非常に現代的。ヒップホップなどの音楽と通じるところがあるのでは。
・「オイディプス」の肝は、「とりかえしのつかないことをやってしまった!感」だと思うが、ループの手法は「やっちまった感」とは正反対のものである。つまり、ループは「やり直し可能である」ということを表現しているとも言える。
【三人のオイディプス】
・「父と出会って殺してしまうオイディプス」「父と出会うが殺さないオイディプス」「父と出会いもせず殺しもしないオイディプス」を表現している。
・「いまのオイディプス」「未来のオイディプス」「過去のオイディプス」を表現している。
・三島景太演じるオイディプスが本当のオイディプスで、大高浩一と森川弘和は三島オイディプスの妄想である。
【オイディプスについて】
・アテナイは民主制だったので、僭主がいかによくないかを再確認する場として、「オイディプス」という作品があった。
・だから一見悲惨なように思えるラストも当時のアテナイ市民から見ればハッピーエンドだった。
・ラストでオイディプスは両目をつぶすが、死んではいない。かろうじて生きている。最後にゼロ地点に戻ったということだろうか。
【語る会について】
・SPACの作品は当たりはずれがあるので、知り合いを誘って観にいくことができない。(「転校生」「わが町」「アンティゴネ」(イスラエル)はすごくよかった)毎回、ひとりで観にいくようにしているが、ひとりだと他の人がどう思っているかがわからないので、「語る会」開催はありがたい。
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「語る会」には作品製作に関わった演出家や出演者・スタッフは(あえて)出席しなかったので、答えの見えない議論をグルグルとやっている感じもありましたが、この思考の時間はひとりではなし得ないものであるし、意味のあるものだったと思います。「語る会」にご参加いただいた皆様、ありがとうございました!会場準備と司会を引き受けてくださったスノドカフェオーナーの柚木さんにもこの場を借りて御礼申し上げます。
また次回作でも「語る会」がやれればと思います。では。(丹)