2014年4月27日

【アヴィニョン演劇祭の60年】アヴィニョン演劇祭の歴史と再出発(藤井慎太郎)

 南仏で毎年7月に開かれているアヴィニョン演劇祭は今年、7月4日から27日にかけて第68回が開催される。その起源となったのは、1947年9月4日〜10日にジャン・ヴィラールの手によって開催された「アヴィニョン芸術週間」である。それが、1200万ユーロ(2013年の数字、1ユーロ=140円として16億8000万円)の予算をもとに、フランスはもちろん世界各地から35から40作品が招聘され、全部で300回ほど上演され、のべ12〜14万人の有料入場者数を数える、ヨーロッパはもちろん世界でも最大級の舞台芸術祭となるに至った。これは、同時に開催され、1000を超える上演団体(演劇、ダンス、サーカス、大道芸…)が勝手連的に結集するアヴィニョン・オフとは完全に別個のフェスティバルである(「オフ」はエジンバラ・フェスティバルでいえば「フリンジ」にあたり、「オフ」と区別するときには演劇祭は「イン」と呼ばれる)。だが、両者の盛り上がりは共鳴し合って、7月のアヴィニョンは、南仏の容赦ない日差しのもと、ミストラルと呼ばれる強風にときに見舞われながら、街全体が演劇都市に変身する。 Read the rest of this entry »


【タカセの夢】身ひとつで向きあう(石井達朗)

 十数年前に過ぎ去った20世紀を思い返してみる。こと芸術の領域に焦点を当ててみると、過去数世紀ぶんの蓄積が引っくりがえりそうな、大胆な改革と革新の嵐が吹き荒れた。20世紀初頭のロシアアヴァンギャルド、イタリア未来派、ダダイズム、シュルレアリスムの華々しい幕開け。音楽では12音技法や電子音楽が古典派・ロマン派の流れとは訣別した世界を切り拓く。ダンスではイサドラ・ダンカンが身体を拘束するコスチュームを脱ぎ捨て裸足で緩やかに踊り始め、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ)が古典バレエとは異なる強烈なイメージを舞台に召喚する。またドイツの表現(主義)舞踊が、感情や状況を等身大以上に表わす動きで、後に日本で暗黒舞踏が誕生するひとつのきっかけを与えている。そのあとに続く、不条理演劇、アンチロマン、アングラ、ハプニング、ポスト・モダンダンス、ミニマルアート、コンセプチュアルアート…などの用語を思い浮かべるだけでも、気持ちのいいほどに破壊と創造が謳歌された世紀であった。 Read the rest of this entry »


【マネキンに恋して】&【Jerk】際から際へ思考を揺さぶる:対立項を並べるジゼル・ヴィエンヌの分野超境的芸術(岩城京子)

 欧州の舞台芸術界で、近年、よく聞くことばに「分野超境的(インターディシプリン)」あるいは「分野複合的(マルチディシプリン)」というものがある。日本の舞台芸術界ではまだ耳慣れないことばだが、要するにこれは、演劇、ダンス、音楽、映像、建築、彫刻、ヴィジュアル・アートなど、多種多様な表現形式を越境的/複合的に採用する芸術表現のことである。主な作家に、ロメオ・カステルッチ(1960-、イタリア)、ティム・エッチェルス(1962-、英国)、ブレット・ベイリー(1967-、南アフリカ)、フィリップ・ケーヌ(1970-、フランス)、マルクス・オェルン(1972-、スウェーデン)、ファブリス・ミュルジア(1982-、ベルギー)などが挙げられる。私見では、これは時代に要請されて生まれた芸術表現であるように思う。つまり複数の断片化された物語が、つねにオンライン/オフラインといった異なる位相で同時進行する、多層的な「現代都市社会」を過不足なく表出するためには、かつてのような単線的、時系列的、分野限定的な演劇表現ではなにかが決定的に不足し、その欠落感への応答として、こうした複合的な表現形式が必然的に生まれてきたのだ。そして静岡で今回『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズー』(2013年初演)と『Jerk』(2008年初演)を上演する作家ジゼル・ヴィエンヌ(1976ー、オーストリア/フランス)は、この分野越境的な舞台作家たちのなかでも、際立って異質な表現方法を選択する作家だ。 Read the rest of this entry »


2014年4月26日

【ピーター・ブルック映像3作品】ピーター・ブルックについて(河合祥一郎)

 ピーター・ブルックがシェイクスピア記念劇場(現ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー[RSC])の演出家として招かれたのは弱冠21歳のときだ。その若さに驚く。1946年のことである。
 オックスフォード大学在学中、仲間を俳優にして映画を撮っていたブルックは、当初は演劇でもフレーミングという概念を用いており、観客はプロセニアムアーチの向こうにある虚構の世界を覗きこむと考えていた。当時としては、それが常識的な考え方だったのであり、スタニスラフスキーの言う「第四の壁」によって観客席と舞台空間が区切られ、幕があくと観客の目を驚かせるような装置が舞台を飾っているというスタイルの公演が続いていたのだ。当初ブルックもそれを当然視していたが、やがて全否定するようになる。すなわち、役者は観客と空間を共有しなければならず、過剰な舞台装置はむしろ観客の想像力を制限するので、「なにもない空間」こそがよいのだという発想にたどりつくのである。 Read the rest of this entry »


クソ社会で見る一瞬の夢〜天野天街版『真夜中の弥次さん喜多さん』に寄せて〜(宮台真司)

※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を希望される方には、観劇後にお読みになる事をお勧めいたします。

ITOプロジェクト(関西在住人形劇界有志連合)が上演した『平太郎化物日記』を下北沢で観劇したのが2004年夏。それが天野天街氏の演出する芝居の初体験だった。一見すると物語の本筋と関係ない遊戯性の過剰が眩暈を醸し出す。それが迷宮感として語られる。他方、あまり語られないが、構造的かつ伝統的な構成がもたらす批評性の的確さに鳥肌が立った。

以降、天野天街氏の芝居を全て観た。どの芝居でも、恣意的な遊戯性の過剰は、ループに代表される時間軸上の混乱を必ずバックボーン(背骨)としていた。だから最終的には恣意性や過剰さが必然的だったことに納得せざるを得なくなる。しかもこの時間軸上の混乱が、戦間期前期のモダニズムを構造的に反復するものであることで、明確な批評性に結びつく。 Read the rest of this entry »


2014年4月25日

【マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜】『マハーバーラタ』 空間から場所へ(四方田犬彦)

 場所placeと空間spaceとは違う。
 空間には記憶がない。三次元世界のなかにあって、何も占有するものがないために、空虚となっているところを、人は空間と呼ぶ。たとえば映画は空間がなければ上映されない。しかしその空間が固有のものである必要はない。
 場所とは本来的に固有のものだ。場所とは来歴(いわれ)をもち、何かの形で根拠づけられた空間である。では、どのようにして、それに根拠を与えるのか。かつて人々は神話を物語り、儀礼を執り行うことを必要とした。神話が人間の物語にとってかわられると、場所はひとたび恒久の神聖さを見失ってしまう。演劇が誕生したのは、このときである。何かが度重なって演じられることで、空間は記憶を少しずつ蓄積し、ふたたび場所へと変容していく。演劇とは、互換性のある空間に固有の体験を与え、上演の一瞬においてではあるが、それを掛け替えのない場所へと作り変えていく行為である。 Read the rest of this entry »


2014年4月24日

【ファウスト 第一部】レジェンド〈ファウスト〉(谷川道子)

 「ファウスト」はどこが何故レジェンドで、何がそんなにすごいのだろう。

 まずはそもそもが、ファウスト博士(1480―1536または―1539)は実在したといわれ、医術や占星術に携わり、祈祷師で医者で魔術師、人文主義的知識をもった錬金術師でいかさま師で女たらし、とされて各地を遍歴し、さまざまな足跡を残しつつ、尾ひれもついて伝説を生みだし、それが16世紀末から数多くの民衆本や人形劇に姿を変えた。神の白魔術に対して、悪魔の黒魔術とも契約を結び、享楽と冒険と知識と欲望の限りを求めた遍歴の果てに神にそむいた罰で破滅する、中世から近世に向けての民衆のエネルギーと想像力が生みだした文字通りのレジェンドのシンボル像だ。 Read the rest of this entry »


【ジャン×Keitaの隊長退屈男】陶酔を拒む肉体(平野暁人)

 「明けない夜はない」という表現が嫌いだ。だって、暮れない朝もないから。
 それでも、そんな定型句に一縷の望みを仮託して心をサバイブさせねばならぬほど追いつめられていたのである。この『ジャン×Keitaの隊長退屈男』には。
 初めて本作に触れた日、それはすなわち初めて作・演出のジャン・ランベール=ヴィルドと会った翌日だったのだが、主演の三島景太さんとの顔合わせを兼ねた食事会の場で手渡された分厚い原稿にはまだ別の方の手になる別の日本語訳が与えられたままだった。公演日はおろか企画自体が実現するのかすら誰にもわかっていない状況で、ジャンだけがひとり、2010年秋に初めてSPACを訪れた際たまたま観劇した『わが町』(今井朋彦演出)で三島さんを発見したときの想い出、運命の出会いを実感したその衝撃について熱病に浮かされたように語り続けていたのを覚えている。 Read the rest of this entry »


【よく生きる/死ぬためのちょっとしたレッスン】官能と内省――テアトロ・デ・ロス・センティードスの芸術(武藤大祐)

 舞台を見に出かけて、「今日はいい芝居を見た」とか「今日のはもう一つだった」とか、そういう次元に到底収まらない、精神に突き刺さるほどの体験をしてしまうことがまれにある。一時の興奮や充足感などではなく、翌日からの自分の生き方に多少とも変化をもたらすような、忘れがたい出来事になることがある。
 もちろん運さえ良ければ、作る側と観る側とのたまさかの巡り合わせで、そうしたことは起きるといえるかも知れない。しかしそんな確率の問題ではなく、あくまでも意図された芸術上の手法として、観客個々人のプライヴェートな心の琴線を震わせることのできる表現者たちも少数ながら存在する。 Read the rest of this entry »


2014年1月14日

【真夏の夜の夢】『野田版 真夏の夜の夢』——「知られざる森」の「知られざる物語」(田中綾乃)

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 シェイクスピアの作品は数多あれど、その中でも『真夏の夜の夢』(※註)と聞くと、心躍るものがある。第一に、タイトルにもあるように、この作品が<現実>ではなく、<夢>の物語であるということ。第二に、作品の舞台であるアテネ近郊の森で活躍する悪戯好きの妖精パックの存在。第三に、この物語が二組の男女の恋の行方を描いていること。そして、幻想的な夜の森の舞台に散りばめられた美しい詩的な台詞と共に、妖精と人間たちが織りなす真夏の夜の夢。何ともロマンティックでファンタジーに溢れている。
 この作品が執筆されたのは1590年代の半ば。17世紀を目前にしたヨーロッパでは、自然科学の発展に伴い、理性に重きを置いた近代が幕を開けようとしていた。よく言われるように、『ハムレット』(1600)には、デカルトの近代的自我を先取りした悩める主人公が登場する。“万の心を持つシェイクスピア”は、人間の心に潜む欲望や野心、嫉妬からの悲劇を描写するが、そのような中で『真夏の夜の夢』は、妖精と人間との戯れという前近代的な雰囲気を色濃く残す宮廷喜劇として描かれたのである。
 それから約400年後。近代化した東アジアの島国でひとりの演劇人がこの作品を潤色していた。そして、21世紀を目前にした1992年の夏、日生劇場にて初演されたのが『野田秀樹の真夏の夜の夢』(以下、『野田版』)である。野田秀樹によって料理されたこの作品では、異国の貴族たちの物語が日本の割烹職人たちの物語に、アテネの森は富士山の麓の「知られざる森」にすり替わっている。そして、駆け落ちするライサンダーとハーミアは、板前ライとときたまごに。ハーミアを追う婚約者のデミートリアスは板前デミ、これを追う元恋人のヘレナはそぼろと役名もすり替わる。
 原作では、森に迷い込んだ若者たちに妖精パックが間違って惚れ薬を塗ることで、二人の男がヘレナを巡って大騒動となる。『野田版』では、この筋を継承しながらも、騒動を起こす引き金として悪魔のメフィストフェレスを登場させる点が巧みだ。原作では重要な役回りである妖精パックも、『野田版』ではメフィストによってすり替えられてしまう。メフィストは、人々が「コトバにならず呑み込んだコトバ」—例えば、欲望や野心、憎悪や嫉妬の感情など—を契約によって実現させていく。そして、メフィストの企みは、人間たちの憎悪を増幅させることで、妖精が棲む「知られざる森」を焼き尽くすことである。
 「知られざる森」とは、「人が置き忘れた知られざること」、言い換えれば大人になったら忘れてしまうことが「富士の山ほどある」森である。この意味で、「知られざる森」とは、まさに<ワンダーランド>であり、<ネバーランド>でもある。そして、この森を焼き尽くすということは、人間の<夢>をバクのように食い尽くすことである。
 『野田版』は、メフィストを登場させることで、原作の『真夏の夜の夢』までをもあらぬ方へすり替えようとする。原作を知る者としては、この物語の行く末にハラハラするが、この換骨奪胎こそ劇作家・野田秀樹の真骨頂とも言える。終盤、『野田版』では、『不思議の国のアリス』のごとく、誰がこのメフィストを森に呼んだのか「最後の証人」を招く。ここで明らかになるのは、この<真夏の夜の夢>を見ていたのは、他の誰でもないそぼろであったということである。そぼろは、この夢が自分の呑みこんだコトバ(願望)から作り出されたものであることに気づく。原作のヘレナは、どんなにデミートリアスに邪険にされても、忍耐強く、従順な女性である。しかし、『野田版』では、原作では決して明らかにされなかったそぼろ(ヘレナ)の心底に迫ることで、この物語をそぼろ(ヘレナ)の欲望から紡ぎ出された夢として呈示するのである。
 だが、この欲望の物語は悲劇ではない。いつしか希望の物語へとすり替わっている。メフィストと結んだ目に見えない契約は、目に見えない力で破棄するしかない。その目に見えない力とは「お話」=物語である。妖精の女王タイテーニアは「人間が呑みこんだコトバはゴミばかりではない」と言って、そぼろに美しい物語を語らせることで、メフィストの心を癒し、涙の雨で森の火を鎮める。同時に、そぼろの目に見えていた妖精たちは、見えない存在となる。美しさと切なさで溢れるこの場面は、実に詩的であり、コトバ(物語)に託す劇作家の想いを汲み取ることができる象徴的な場とも言える。
 このように大胆な書き替えと卓越した言葉遊びのセンスによって、『野田版』は原作を越え出た重層的なイメージを伴う美しい物語へと生まれ変わった。そして、21世紀を跨いだ2011年、富士の麓の静岡芸術劇場において、この「知られざる物語」が蘇った。折しも、3.11後の上演となったわけだが、宮城聰の演出は、薄暗い森の中に一筋の光を当てるような祝祭劇を展開した。SPACの俳優たちの身体によって奏でられた美しいコトバ(詩)と音楽は、観客の心を躍動させたのだった。
 思うに、近代化の推進とその極限にいる現代の私たちにこそ、コトバの力や物語の力を再認識させる壮大なファンタジーが求められている。そんなことを気づかせてくれる作品である。

(※註)
原題の“A Midsummer Night’s Dream” のMidsummerは、夏至を意味する。ヨーロッパでは、キリスト教の聖ヨハネの祝日に夏至祭が行われるが、Midsummer Nightとはその前夜を指す。前夜祭では、人々は一晩中、焚火をたいて踊り、お祭り騒ぎをすると言う。また、この日に摘む薬草は、不思議な力を発すると考えられている。それ故、Midsummer Nightとは、一年の中で最も短い夏の夜の間に繰り広げられるドタバタ騒ぎ、そして不思議な出来事が起こる儚い夜を意味するのである。

【筆者プロフィール】
田中綾乃 TANAKA Ayano
三重大学人文学部准教授。専門は、西洋哲学、美学。カントの哲学研究を行う一方、演劇批評にも携わる。現代劇の批評を中心にしながら、現在では文楽や歌舞伎の見どころ解説を筋書や講座などで担当。