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2013年6月18日

<制作部よもやまブログ#42>【映像】大岡淳によるポーランド演劇入門!(「まるふ」演目紹介⑨『母よ、父なる国に生きる母よ』2)

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2013」第4週の今週末(6/22・23)、
ポーランドから『母よ、父なる国に生きる母よ』がやってきます!
しかしポーランドといっても、あまりなじみのない方が多いのではないでしょうか。
2012年の「ワルシャワ演劇祭」で本作を観劇したSPAC文芸部の大岡淳より、
ポーランド演劇の歴史と魅力を40分でお伝えします!
この映像をご覧いただいたあとに公演をご観劇いただければさらにお楽しみいただけるはずです!
ぜひご覧ください!!

【WEB配信ミニ講義】ポーランド演劇入門 講師:大岡淳(SPAC文芸部)

6/22(土)・23(日)『母よ、父なる国に生きる母よ』チケット販売中!
*6/22(土)は残席わずかです。ご希望の方はお早めにご予約ください。

★ワルシャワ演劇祭のレポートはコチラからご覧いただけます。
ブログ-日本軽佻派大岡淳と申しますっ!
「ポーランド演劇の現在――WARSAW THEATER MEETINGS観劇報告」

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<ポーランド演劇入門:参考資料>

◆イェジー・グロトフスキ
(Jerzy Grotowski/1933年~1999年)

ポーランドの演出家。「貧しい演劇」を提唱、簡素で禁欲的な空間において、徹底した訓練によって成立する、俳優の肉体の表現を重視した。

1933年 ジェシュフ生まれ。
1951年 クラクフの国立演劇大学俳優学科入学。スタニスラフスキーを学習。
1955年 モスクワの演出高等学院に留学。メイエルホリドを学習。
1956年 中央アジアを旅行し、インド哲学に触れる。ポーランドへ帰国。学業の傍ら、演出助手を務める。
1959年 実験劇場(Teatr Laboratorium)をオポーレに創設。この後、ジャン・コクトー作『オルフェウス』、カーリダーサ作『シャクンタラー』、ヴィスピアニスキ作『アクロポリス』等を演出。1962年に初演された『アクロポリス』で、グロトフスキの提唱する「持たざる演劇」が初めて具現化された。
1963年 ワルシャワで開催されたITI(国際演劇協会)総会で、実験劇場で演出助手を務めていた、イタリアの演出家バルバによりグロトフスキの文書が配布され、話題を呼ぶ。このときグロトフスキはクリストファー・マーロウ作『フォースタス博士』を上演しており、成功を収める。
1964年 ジャック・ラングにより、第2回ナンシー演劇祭審査員として招かれる。
1965年 実験劇場をヴロツワフに移す。
1966年 リチャード・シェクナーが教授を務めるニューヨーク大学に招かれる。
1967年 カルデロン作、スウォヴァツキ訳『不屈の王子』によって成功を収める。20世紀史上の最重要作に数えられる。
1969年 最後の演出作品となる『姿のある黙示録』を上演。
1984年 実験劇場を解散してアメリカに移住。
1985年 イタリアに拠点を移し活動を継続。様々な大学で教鞭もとる。
1999年 白血病により死去。


◆タデウシュ・カントール
(Tadeusz Kantor/1915年~1990年)

ポーランドの演出家、画家、舞台美術家。前衛的・革新的なパフォーマンスにより、ポーランド内外で高い評価を得た。

1915年 ヴィエロポーレ生まれ。クラクフ美術大学で絵画と舞台美術を専攻(1933-39)。構成主義、バウハウスに傾倒。
1942年 ドイツ占領下のクラクフで、若い画家のグループと共に地下劇場を結成し、全ての芸術活動に対するドイツの禁止令の下で、活動を展開。
1944年 ヴィスビャンスキ作『オデュッセウスの帰還』を地下劇場で演出。
1947年 奨学金を得て1年間パリに滞在。
1948年 戦後初めてのポーランド現代美術展を企画。クラクフの美術大学の教授に任命。
1949年 社会主義リアリズムの押しつけに対し、公式な文化活動への参加を拒否。教授職を取り消される。
1955年 クラクフの「美術家の家」に劇団クリコット2を結成。
1956年 戦後初めてのヴィトカッツィ公演である『烏賊』を初演。
1969年 ブレドで「不可能の演劇」に取り組む。
1975年 クラクフのクシシュトフォリ画廊で『死の教室』初演。「死の演劇」宣言を著す。
1976年 アンジェイ・ワイダが『死の教室』を映画化。
1982年 『死の教室』を、富山県の利賀フェスティバル、東京のパルコ劇場で上演。
1990年12月8日 クラクフで急逝。



●ポーランド現代史年表

1) 第2次大戦終結まで

1918年 ドイツ、第1次大戦に敗北
 → ポーランド共和国樹立
1939年 9月 ナチスドイツ、ポーランド侵攻
 → ドイツ・ソ連による領土分割
1944年 8月 ワルシャワ蜂起、市民20万人死亡
1945年 第2次大戦終結 → 国民統一臨時政府樹立                


2) 共産主義時代

1948年 ソ連の後援によりポーランド統一労働者党(共産党)結成
 → 一党独裁体制へ
1952年 社会主義憲法制定、国名をポーランド人民共和国に
1956年 フルシチョフによるスターリン批判 → ポズナニ暴動
 → ヴワディスワフ・ゴムウカ、党第一書記に就任し自由化を進めるが、のち、自由化運動を弾圧
1968年 チェコ事件(プラハの春) → ゴムウカ、ソ連と協調
1970年 グダニスク暴動 → ゴムウカ失脚し、エドヴァルト・ギエレク、党第一書記に就任 → ギエレク、経済開放進め西側から外資導入し経済成長実現 → 債務増加と物価上昇により70年代半ばから経済停滞
1980年 政府による食肉価格値上げに対する全国的ストライキ → 東側諸国で初めての自主管理労組「連帯」結成 
→ 電器技師レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)を指導者として、1000万人を擁する巨大な社会運動へと勢力拡大、ポーランド統一労働者党は党員300万人の約3分の1が離党
1981年 4月 ブレストでソ連との秘密会談
 → 12月 ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ、首相と党第一書記を兼任し、戒厳令を施行
1982年 ヤルゼルスキ、経済改革関連法整備
 → 経済改革進めるも好転せず
1985年 ゴルバチョフ、ソ連共産党書記長就任 → ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)開始 
→ ポーランドも漸進的に民主化へ
1987年 経済改革推進や市民権拡大の是非を問う国民投票 → 国民はこれを否決


3) 東欧民主化以後

1989年 党第10回中央委員会総会で政治的多元主義と労働組合複数主義を容認する決議
 → 円卓会議により政治改革(民主化)・経済改革(自由化)実施
    → 6月、総選挙の自由選挙枠で「連帯」が圧勝
 → ヤルゼルスキ、大統領就任、「連帯」のタデウシュ・マゾヴィエツキ、首相就任
    → 9月、「連帯」系閣僚を中心とした、東欧初の非共産党政権誕生
    → 12月、憲法改正し、国名をポーランド共和国に
1990年 旧共産党系勢力を一掃し、脱社会主義化を推進
1991年 ヴァウェンサ(ワレサ)、大統領就任 → 「連帯」分裂し、短命な中道・右派の連立政権が続く
1993年 旧共産党系の民主左翼同盟が総選挙で勝利、左派政権成立
1995年 民主左翼同盟のアレクサンデル・クファシニェフスキ、大統領就任
1997年 総選挙で「連帯」を中心とする「連帯選挙行動」勝利、非共産党系連立政権成立
1999年 北大西洋条約機構(NATO)加盟
2001年 総選挙で左翼民主連合・労働同盟連合が勝利、再び左派政権成立
2004年 欧州連合(EU)加盟
2005年 総選挙で旧「連帯」系の流れを汲む右派の「法と正義」の少数単独内閣が誕生、大統領選も同党のレフ・カチンスキが当選
2007年 総選挙で中道右派「市民プラットフォーム」が勝利、中道右派小政党「ポーランド国民党」と連立し、「市民プラットフォーム」のドナルド・トゥスク、首相就任 → 世界金融危機に直面するも巧みな経済運営により景気後退回避
2010年 政府専用機墜落事故 → 「市民プラットフォーム」のブロニスワフ・コモロフスキ、大統領就任
2011年 総選挙で与党「市民プラットフォーム」が勝利、「ポーランド国民党」との連立政権を維持し、第2次ドナルド・トゥスク内閣が発足
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