こんにちは。
まるふリレーブログ4回目は『ジャン×Keitaの隊長退屈男』をご紹介します。
今回は、本作の出演俳優 三島景太さんに突撃インタビューをして参りました。
↑三島景太さん
―『隊長退屈男』がとても詩的な作品とうかがっていますが、本作の見所を教えてください。
物語としては単純。日本人が見ても「ああこういう話ね」って納得できる話。
ジャンは今回、全編を詩でつくっている。詩って、言葉そのものがもつ響きだったり、手触りだったり、言葉そのものを楽しむ。「この詩の意味は?」っていうのは実は重要じゃなくて、意味よりもモノみたいにポンッとおかれた言葉のもっている質感みたいなものが大事だと思う。「揚羽のごとく舞うあなたの指先」の次に「わたしのまなこを鈍らせる」がなんで来たのか、“どうしてこの言葉の次にこの言葉がくるのかがわからない!”って言葉の意味を追いかけ始めるとなにかを見失う。
この詩の世界とは別に、俺の体があることでまったく違うものになっていくというのが正直な感想。無限にいろんな創造をかきたてる言葉の羅列が、そこにわかりやすい肉体があって、その人がしゃべることで、まったく違うものが見えてくる。それがこの作品の面白いところ。
この詩を読んだ人はある傷ついた兵士が語ってる、ボロボロになりながら極限の状態でって想像すると思う。だけど、俺っていう肉体はちょっとそれとはちがう。これを読んだ時点で、俺の肉体を創造しないと思う。だから詩と俺の肉体とのギャップを楽しんでもらえれば、割と面白いかな。
たぶんフランスの詩というものと、俺の肉体はすごく距離があって、平野君の言葉を借りると“泥臭い”俺、見目麗しいわけではなく、そんなに踊れるわけではなく、美声なわけでもなく、ただ肉体のエネルギーだけはある。単純な肉体がでてくる。まったくこのフランスの詩っていうものと相容れない肉体との出会いが面白いかな。
そういえばジャンはこれを漫画化したら面白いんじゃないかって。フランスにはコミック文化があるから、これをコミック化してくれる人が日本の漫画家でいたらいいよねって。
―イワタニ隊長はどんな隊長ですか?
イワタニさんは、極限の状態にいる人。英雄が戦地でぼろぼろになって、理念とかそういうものでは乗り越えられない人間の極限をみてしまい・・・。フランスの原題を直訳すると「栄光と倦怠」なんだけど、戦地に行って将軍とか呼ばれていた人だったけど、結局奥地をさまよっていく内に、人間の極限状態におちて、だんだん気がふれてきて、最後は自殺する。
ジャンは今回、日本のお能の要素を取り入れていて、死んだイワタニイズミが生と死の間をさまよう。死者イワタニさんが出てきてしゃべる。死後硬直がはじまった肉体が言葉をしゃべる。最後は男も女もなくなる。英雄であることが逆に滑稽だって見えてくれれば、ちょっといいかな。
―『隊長退屈男』で一番好きな台詞を教えてください。
いきなり演劇的な話になるけど、普通に読み言葉として読んだときに、琴線に触れる言葉と、しゃべっていて肉体が腑に落ちた瞬間になにか響く言葉がある。
平野君が稽古の過程で翻訳をするときに、台本を何回か書き直していて、草稿からフランスでの公開リハーサル、そして今回の公演の決定稿まで、おおまかにわけて、4稿から5稿までかわっている。フランスでの稽古の時、平野君が書き直した瞬間に、たぶん僕の声質とか肉体を想定して、その場で翻訳した言葉がいくつかあって、それがすごく腑に落ちた。しゃべっていて楽しくなる。しゃべることに快感がある。
この戯曲にはたとえば、好きな台詞のひとつに、
「揚羽のごとく舞うあなたの指先」っていう言葉がでてくる。もともとは「花びらのようにヒラヒラと舞っていたあなたの指先」っていう全然違う和訳だった。でもたしかに読むと絵的なイメージは「花びら」の方が浮かぶんだけど、平野君は俺の声をきいてその場で書き直した。書き直した瞬間にすごく附に落ちて、しゃべっていて何か高揚感がある。
揚羽のごとく舞うあなたの指先
わたしのまなこを鈍らせる
要するに恋する男の台詞なんだけど、すごく腑に落ちた。
他にも例えば「田んぼに植えた稲の穂よろしく
たわわに実る」っていう台詞がでてくるんだけど、書き言葉として読んでもなんとなく、ある人物がしゃべっているように見える。でも「たわわに実る」とか「稲の穂よろしく」って日常会話だとちょっと変じゃない?それをてらいもなく、ポンッと提出して、さあしゃべってくださいって。しゃべった瞬間、変じゃないの!しゃべることを前提に、そうやって置き換えられている言葉がいくつかあって、その意外性が結構あるかな。
左から平野 暁人(翻訳)、三島景太(出演)
あと、どの台詞も好きなんだけど、「この両脚に わたしは抗えない」も好きかな。
勝手に足が動く、だけど抗おうとしない。この両足にわたしは抗えない。運命には逆らわない。と言いつつ、足は足で勝手に動くにまかせている。
上半身は理性・思考の部分ではそれと戦おうとしている。本能と理性とか、いろんなものの葛藤が体の中で起こっている人の物語で、それを上半身と下半身の葛藤で表現されている作品。
そういえばジャンと出会った、SPAC『わが町』初演のときに、足でいろんな表現をしようと目論んでいて、足の重心の位置を工夫したりしていた。ジャンは、そんな私が、足だけ別の人格をもっているように見えたらしくて、『隊長退屈男』を三島景太という肉体でって結びついたんだって。それをフランスに行ったときに最初に話された。
―どんな方に観ていただきたいですか。
ご高齢の方にみていただきたい。ここだけの秘密なんだけど、シニアの方を想定して、作品をつくっている。意味とか内容とか分からなくても、演劇の原始的な面白さで楽しませられれば、って。普段とは違うカラダの状態でいることの面白しさにもう一回立ち返りたいかな。わたしも年だけど。
―お客様にメッセージをお願いします。
狂った男の醜態を楽しんでいただきたい。体に抱え込めないほどのエネルギーをかかえた人間の滑稽な様をみていただきたい。そして46歳の肉体美(笑)
静岡でジャンと出会わなければ、この作品は生まれなかった。
ジャンとの出会い、そのものが演劇的だった。
その出会いの結果、うまれた作品だと思います。
なので、その作品そのものもさることながら、
その過程そのものが演劇的奇跡だったように思われます(笑)。
ひとつの出会いが作品をつくるっていう奇跡の瞬間にぜひ立ち会っていただきたい!