フランスのLa Terrasse新聞に掲載の、
クロード・レジ氏インタビューをご紹介します。
翻訳は、昨年の静岡での稽古からずっとご一緒いただき、
レジさんと俳優のアーティスティックな共同作業を支えてくださっている
通訳の浅井宏美さんです。
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室内
ジェラール・フィリップ劇場(サンドニ県)の初演から30年弱。クロード・レジがモーリス・メーテルリンクの戯曲に立ち戻った。静岡県舞台芸術センターの俳優たちを率いて、生と死の境界を新たに探検。
静岡の劇場から日本でのクリエーションのオファーがあった時、何故『室内』を選択しましたか?
C.R. 私は無意識というものを信じており、直感でこの戯曲を提案しました。その後に、『室内』には二つの空間が存在すると気づきました。言葉の空間と無声のイメージ空間です。この二空間の対立は文楽芸能に通じるものがあります。本来であればすでに演出した作品を再び扱うことはないのですが、この戯曲を選んだのはきっとそのせいでしょう。でも、日本語ですので、とても違ったものになりました。耳で聞いているだけでも違うでしょう。それから、メーテルリンクの作品全てに共通していますが、『室内』には沈黙が多く含まれています。そこで、私が言語だと信じているもの(つまり沈黙のことですが)は国際言語であり、日本人俳優たちと分かち合えると思ったのです。テキストの延長線上にある様々なものでそういった沈黙を共に満たしていくことができる、と。
他の作品同様、『室内』も死に関する考察ですが、なぜ常にこのテーマを扱うのですか?
C.R. 死について考えずに、また生の均衡を保っている死を考慮せずして、生についての正当な見解は持てないと思うのです。納得のいく生き方もできないでしょう。生きるという概念(というと、大概が幸せの概念に結びつけますが)だけを念頭に置いて全力で、生きるためだけに生きている人は間違いを犯しています。とても大事なのは二重考察をして物事をバランスよく配分し直すことでしょう。つまり、生に関する考察と死に関する考察の両方が必要であり、片一方だけでは成立しないと思うのです。
確かにその二重考察は戯曲において二段階の意識によって表現されていますね・・・
C.R. そこに『室内』の面白みがあるようです。少女の溺死を知っている登場人物達のグループとまだ知らずにいる家族達がいます。死の知らせが告知される瞬間まで時間が引き延ばされていて、ずっと待たされているような状態です。その死を知っている登場人物もいれば、まだ知らされていない人物もいるので、意識と無意識の明白な関係性も見えてきます。私はその境界の脆さに興味を引かれます。境界線が二つの世界を隔てているのですが、その二つの世界は常に交流しており境界線上を行き来しています。
既知の向こう側へ行こうと試みて行き来しているわけですね・・・
C.R. そうです。それどころか、理解しうる限界の向こう側へまで行こうとしています。言ってみれば、表現もできないような秘密の領域を開拓しようと試みているのです。もっと的確に言うと、我々は無意識の領域に関しては全く知識がないわけですが、理解しえないようなことを、おそらく無意識の領域に触れる何かを他者へ移行させようとしているのです。我々の内部には、普段は全く見えないけれど、時々姿を現す暗く漠然とした領域があることは確かに想像できます。その領域は、例えば、特にアーティストと呼ばれる人達の作業を通してみることができます。アーティストというよりはクリエーターと呼ぶ方が好ましいですね、想像力を駆使して作品を創る人達ですから。その想像力を働かせられる場にとどまることが大切なのです。そのためには直感のようなものを利用して知識をできるだけ結びつけなければなりません。でも、実はその知識というものは我々の思い込みであり、確実に存在しているけれど不可知の領域にあるものなのです。
1985年と今日の演出の違いは?
C.R. 俳優からくる違いが一番大きいでしょう。30年前に共に芝居を創った俳優たちのパーソナリティーにとても愛情を持っていました。以来、当然のことながら、私の中で戯曲が熟し、進展しました。今回の日本版が、ジェラール・フィリップ劇場で公演したときよりも重くないといいのですが。夢の中でこの出来事が起こっているかのように俳優たちが体験できるよう計らってきました。夢の透明感。それを再び見いだすことに執着しました。
その透明感は1985年版にはなかったのですか?
C.R. あまり。当時は劇場(舞台)の造りを利用しました。家族は舞台上(プロセニアム・アーチの奥側)に、セリフのある登場人物たちは幕前にいました。今回は、家族と外界との境界は繊細な光のみで創られています。死のような主題を扱う場合は常に悲しみに陥らないように気をつけなければなりません。特に追悼の儀式になってしまってはいけません。30年前の公演は少しその傾向があったかもしれません。今回はその点に関しては冷静に捉え直すことができたように思います。
(マニュエル・ピオラ・ソレマ)
テラス222号 2014年7月版
(翻訳 浅井宏美)
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