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2014年7月25日

【アヴィニョン・レポート】 『室内』当日パンフレット掲載インタビュ― 

アヴィニョン演劇祭『室内』公演の会場で配布されているパンフレット掲載の、
クロード・レジ氏インタビュ―も通訳の浅井さんに翻訳していただきましたので、
ご紹介いたします。

アヴィニョン演劇祭『室内』パンフレット
 
 
『室内』
クロード・レジ氏 インタビュー

すでに演出された作品を再び扱うのは初めてですね。なぜ、日本人俳優との仕事を受けましたか?

C.R. 新たなテキストを使っての経験を試みる方が好きなので、そうですね、初めてです。今回の制作過程は今までとは違い、静岡県舞台芸術センターの芸術総監督である宮城聰氏から日本人俳優とクリエーションをしてほしいという依頼があり、それをお請けして始まりました。
宮城聰氏の演出の仕方は私のとは全く違いますが、何度も私の作品をフランスでご覧になっているのを知っていましたので、その違いに興味を持っていらっしゃるのでは、と思いました。でも、とにかく私は冒険好きですから、まずメーテルリンクの作品を使って時間をかけてオーディションをし、俳優を自分で選びたいと願い出ました。

何故、この作品を選びましたか?

C.R. 初演は1985年で時間も随分と経っていますので、再びクリエーションを行なうことが可能でした。この戯曲に特に感銘を受ける理由のひとつはもちろん子供の死がテーマだからですが、もうひとつは私の方法論をもっと掘り下げる可能性を与えてくれるからです。声とイメージを分離して行なう探求をもっと突き詰めることができますし、言葉の狭間に隠されている見えないものを浮上させたいという私の熱望をも満たしてくれます。日本でも文楽という人形演劇界では17世紀からこのような探求がされていたように思います。ですから、『室内』に「マリオネットのためのドラマ(悲劇*)」とサブタイトルをつけたモーリス・メーテルリンクを日本人俳優に対峙させるのも面白いのではないかと思いました。あまり「人間的」に演技をしないようにし、つまり、(登場人物たちを*)体現しすぎず、センチメンタルになりすぎず、現実主義は完全に排除し、能動的とは言いきれない状態で行なう。
透明であるが故に通り過ぎていくものを発見できるよう、ある意味で受動態であることを寄りどころとする演技を求めました。また、日本にはもうひとつの伝統芸能、能があります。死せる者と生ける者の境目をくっきりと付けておらず、舞台に登場する俳優は死者の国からやってくるとも言います。『室内』を提案するのにいい口実がいくつもあったのです。

少女の死がメーテルリンクの戯曲の中心にありますね。

C.R. はい。でも、核にあるのは、舞台上にいる人間の一部はその娘が死んでしまったことを知っているけれど、家族は同じように舞台上にいてもまだ知らないということです。そこには意識と無意識が同時に存在しています。ジークムント・フロイトの思想や研究の基礎のひとつにこの同時性があるように思います。私が興味を持っていたのは、言葉を発し、会話し、語っている俳優グループと、完全なる沈黙の中で動き、生きている俳優のグループを対立させることでした。その対立においてメーテルリンクが関心を持っていたのは悲劇の「予感」だと言っています。知らないうちに気づいている。閉ざされた家族の世界にさえ存在しうる予感。

家族は家の中にいて、生活している(生きている*)様子が窓から見える、とト書きに書かれています。ト書き通りの舞台装置ですか?

C.R. いいえ。今回の芝居では、照明だけで空間を区切っています。テキスト自体が現実主義的ではないので、見た目の現実主義を排除することによって、メーテルリンクが起こした改革をもう少しだけ押し進められるような気がしました。演出家にとって大切なのは直感に身を委ね、感じるままにテキストを扱うことだと思っています。

貴方にとってメーテルリンクの文体とは?沈黙とともにあるエクリチュールでしょうか?

C.R. 音楽性のあるエクリチュールですね。彼のいくつかの作品のために描かれた楽譜がよく冗語的になっているのはそのせいです。リズム、ときにはアレクサンドラン(12 音節綴*)、ときにはシェイクスピアのようなデカシラブ(10音節綴*)を混合させたエクリチュールなのです。マラルメも言っているように、言葉は発せられているがどちらかというと示唆されています。とても神秘的な文章もあり、例えば、ある登場人物が傍にいる娘達について次のように言っています。
「まるであの子達は知らないうちにお祈りしているみたい。魂の声を聞いているみたい・・・」
このような文章には、演技も解釈も無限の可能性があり、我々を夢の世界へ連れていってくれます。沈黙はメーテルリンクの作品では最も重要な要素です。沈黙をつくらない愛人たちは真に理解しあっていない、とも言っています。我々は沈黙によって人間存在の核心に触れることができるのです。
激昂と騒音が常にあふれているこの世で、ゆっくりと沈黙の中で作業をすることは秩序を覆すような行為になってしまったように思えます。

でも、とても現実主義的なアクションがありませんか?

C.R. はい、でもメーテルリンクは現実主義からわざと方向をそらせています。例えば、娘の屍を担いでやってくる一行が見える箇所でも、屍は登場しません。観客が想像力を作動させるよう煽動しているのです。実際の描写はなく、テキストで示唆しイメージを想像させ、観客の想像界を支えにして芝居が構築されていくのです。

メーテルリンクは彼の演劇スタイルを表現するのに「日常の悲劇」という言葉を創りましたね。

C.R. つまり、舞台で悲劇を表現するには、何も起こっていないようにみえる静かな宵にいるところを設定するだけで十分だ、と。メーテルリンクは『室内』でまだ娘が死んでしまったことを知らない家族についてこう書いています。「誰かが立ち上がったり、歩いたり、身振りをしたりする時には、距離の遠さや光の加減、窓にかかるおぼろげなヴェールのために、重々しく、ゆっくりとした、貴重なしぐさのように見えて、あたかも霊的な存在のしぐさであるかのようである。」俳優の演技は作者が明確に書いているのです。それ以上何も加えることはありません。その指示に従うまでです。

マルトとマリーと名付けられた登場人物がいます。新約聖書にある、キリストによって甦ったラザロの姉たちと同じ名前ですね。そしてもう一人は「よそ者」と名付けられています。偶然でしょうか?

C.R. 違うでしょう。メーテルリンクはラザロについてのテキストを書いていますが、蘇生した人間がどのようにして日常生活に戻っていくのかという点に関心を寄せていました。よそ者に関しては、彼はどこにいても何に対してもよそ者であると言えます。我々と同じ世界の者だが、もしかすると別の世界から来ているのかもしれない。認識もあれば、我々にない知識も持っていますし、彼は秘密の世界と繋がっています。そのよそ者である彼が屍を見つけ、川岸に引き上げます。彼は死と生き生きとした関係性を持っているようです。

(ジャン・ピエール・ペリエ)

2014 年 7 月アヴィニョン・フェスティバル 当日配布パンフレット

*翻訳者注
(翻訳 浅井宏美)

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