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2019年1月9日

<『顕れ』#012>リベラシオン紙劇評

いよいよ『顕れ ~女神イニイエの涙~』開幕まであと5日となりました!
パリ公演舞台写真や、作中の楽曲を使ったトレーラー第二弾を公開!
作者のレオノーラ・ミアノさんからのメッセージ動画もアップしています。ぜひご覧ください。

今回のブログでは前回2回(ル・モンド紙レゼコー紙)に引き続き、パリ公演期間中に仏主要紙に掲載された劇評をご紹介します。
 


『Révélation /顕れ』と命の連鎖
アフリカにおける奴隷制の歴史を扱った3部作「Red in Blue」。その第1部を舞台化するにあたりカメルーン系フランス語作家レオノーラ・ミアノが必要としたのは、日本の宮城聰だった。突飛で誇大な美感の差異を武器に「文化の盗用」にまつわる一連の議論を逆手に取ったその手法とは。

Ève Beauvallet
2018年10月4日 リベラシオン紙
(原文はこちら

 
 『Révélation /顕れ』の演出を任せられる人物とは誰だろう。神話化された「奴隷制」の歴史を劇場の舞台にのせ、三角貿易の片棒を担いだ人々を裁くため結集した「アフリカの」神々による法廷を具現化させられる人物。果たして誰がいるだろうか。決して誰でもいいというわけにはいかない。「その人じゃ物足りない、ってレオノーラに言われると思うよ」。国立コリーヌ劇場芸術監督ワジディ・ムアワッドは同業の友人たちから異口同音に釘を刺された。「Red in Blue」(3部作で、Révélationはその第1部)を任せられる演出家を一緒に選ぼうと持ちかければ、レオノーラはきっとアフリカ系の出自の人を希望するだろうし、もっというとサハラ以南のアフリカに出自をもつ人、欲をいえば女性で、という話になるかも。とにかく誰か、一族や自分自身の出自の一端において奴隷制の歴史に切実な、しかも民族的にも当事者性を有する人物をみつけて、キャスティングに関してもその人自身の目から見て「正当なアイデンティティ」の認められる俳優を直接選んでもらう形にしないといけない。西洋人に依頼するなんて論外だっていわれるね、絶対。どんなに誠実な姿勢で取り組もうと、「文化の盗用」を犯しているという誹りは免れないんだから。
 「文化の盗用」とは社会学者エリック・ファサンがつい先日「ル・モンド」紙上で論じた、いわば「やさしいコロニアリズム(植民地主義)」のひとつの形であり、「支配者(もしくはその子孫)」が「被支配者(もしくはその子孫)」の文化を借用したり、広めたり、語ったりすることを指す。まあとにかく、フランス語で作家活動を行い、なかんずく、植民地主義に関するテーマとくれば大小問わず徹底的な論争を仕掛けて厭わないことで知られるレオノーラ・ミアノともあろう者が、アフリカを中心に据えて世界を描いたこの戯曲を黒人以外の手に委ねるなど許すはずがない。

文化移植とは

 「そういう風に言ってきた人たちはいましたね。もちろん、彼女がもし本当にそういう人だったらその時点でこの企画自体を諦めたと思います」とムアワッドはいう。だが自身もカナダとレバノンに出自をもつ作家であり演出家である彼は、自分で確かめてみたいと考えた。「僕としては、レオノーラの作品は小説もエッセイも読んでいたし、なにしろ彼女の筆に惚れ込んでいたので、そんな乱暴なことをいう人じゃないんじゃないかな、という気がしたんです」。
 かくしてムアワッドは、緊張の面持ちで敬愛する作家レオノーラ・ミアノの前に赴き、今回の企画について説明した。国立劇場の芸術監督という仕事をいわば、アーティストたちに思いがけない出会いを提供する橋渡し役だと考えている自分としては、この「Red in Blue」3部作を、然るべき「強力な」演出家をみつけて舞台化したいと考えているが、教条主義的な発想に囚われた人選は避けたい。「すると彼女の答えはこうでした。(西欧人が言うところの)「アフリカの」苦しみにまつわるこの歴史がこれまでいかに征服者の側で広め伝えられてきたかという点に自覚的な人でありさえすればいい。この作品では、断罪するとか罪悪感から解放するとかいったことよりも、鎮める、なだめることを試みているので、なまじ当事者性のある出自のアーティストに任せて対立軸に囚われてしまうのが怖い、と」。そこからふたりの話し合いが始まり、実に何ヶ月にも及んだ。それぞれが思い思いに候補を挙げてゆくがどうにも意見が合わず、一時は企画自体を断念することも考えた。そして思い余って出た言葉が「誰でもいいから理想のアーティストをひとり挙げてみてくれ。故人でもいいし、可能性ゼロの人でもいいから、なにかイメージをつかむ手がかりが欲しい!」。はたして、レオノーラ・ミアノが口にしたのは「サトシ・ミヤギ」。一瞬の沈黙に続いて、困惑したような笑いがワジディの口から漏れた。アフリカ系でもなく、支配した側の子孫でもなく、極東のアーティストだって?

 そして今、その驚嘆すべき文化移植はコリーヌ劇場の舞台でしかと形を成し、晴れて選出された現存する演出家・宮城聰は我々の目の前でコーヒーを飲みながら、ワジディのそれと同じく困惑したような笑いでその顔を彩っている。「こんな奇妙な企画は受けたことがありませんでした」と打ち明ける宮城。「今回の企画がなければこういう歴史に僕が自分から取り組むことはなかったと思います。大西洋横断強制連行(「奴隷制」という言葉は使わないようにしているので)というのは日本人にとってはやはり極めて遠い歴史ですからね。学校の授業でいくつか重要な年号や事件については教わりますが、それも本当に概要だけで。ですからレオノーラさんが日本に来てクリエーションに参加してくれるなら、という条件付きで承諾したんです。いまは、こういう文化的な遠さ、究極の距離感がなにかを産み出すのではないかと考えたワジディさんとレオノーラさんの慧眼に心から感謝しています」

声のシンフォニー

 しかし一方で、本作を2019年1月に目撃することとなる日本の観客たちにはむしろ共感しやすい部分もあるはずだ。というのも作中における死の描かれ方に、東洋人が抱くあの世のイメージ、さらにいえば死後の魂のイメージと相通ずるところがあるのである。ギリシア的な宇宙発生論と原始的な説話とを等しく取り込んだテクストはいわばサハラ以南を舞台としたマハーバーラタの様相を呈しており、オペラのリブレットさながら。不思議なリアリズムと魅惑の叙情に加えて、登場するのは「往来の番人」の名を与えられたカルンガ、それに様々な声のシンフォニーが奏でる宣告を通して言葉を発する神々。舞台は18世紀アフリカ(という括り自体が西欧的史観の産物であるとして、レオノーラ・ミアノはこの言葉を用いないが)を思わせるが、しかしあくまでも神話的に再構築された、とある「アフリカ」である。
 創造を司る神イニイエは未曾有の事態に直面している。ストライキという、宇宙の秩序に対する真っ向からの反逆である。なんでも、生まれんとする魂たちが「罰せられし魂たちが自らの犯した過ちについて説明をしない限り」地上に生まれ変わることを拒否する、というのである。そこでその罰せられし魂たち、すなわちサハラ以南のアフリカでその昔、植民者たちに協力しておきながら今に至るまで口をつぐまされてきた者たちの魂を呼び出し、裁きにかけねばならないということになる。「もしもテクストが被害を受けた側の立場にのみ特化した語りで構成されていたら、僕はこの作品を受けなかったと思います」とは宮城の弁である。「このように巨大な悲劇を語り継ぐに際しては、今までは残虐行為に手を染めた人間やその仲間よりも被害者側の声ばかりを耳にしてきました。これに対し本作でミアノさんは、ほとんど語ることを許されてこなかった人々に語らせようと試みたのであり、このバランスのとれた視座が僕にとって極めて重要でした」。

 2017年、アヴィニヨンでソフォクレスの『アンティゴネ』を宮城聰率いる劇団の俳優たちが、テクストの音楽的な解釈(ひとつのセリフを複数の声で表現したり、声と身体を分離させたり)や、文楽や歌舞伎、能といった伝統芸能を受け継ぎ様式化した技法で上演すると聞きつけた西欧の観客たちは、当然ながらたいへんな興味を惹かれて会場へ足を運んだ。しかし今回は、(歴史の面での)大きな親和性と(美的な面での)巨大な隔たりの狭間に横たわるコントラストがよりいっそう奇想天外な、いわば怪我の功名を産み出したといえる。

アイデンティティの絶対視

 というのも、残念なことではあるが、「サハラ以南で起きた強制連行」の話を観に劇場へ来ませんか、と誘われても、劇場へ足を踏み入れもしないうちからげんなりした気分になってしまう理由に事欠かないからだ。おそらくは、同様のテーマで、しかしヒステリックな叙事詩や怒れる演者たちによって暴力の暴力性をただただ繰り返し糾弾するだけの作品に食傷気味になっているからだろう。そういう意味で、これほど炎上しやすい主題を扱っていながらひたすら美的なだけの表象を敢えて提示し、滑稽味をたたえたSF的なアプローチを選択することで移民を語ったり、あるいは日本的な神聖さを介して植民地化の遺産に迫ったりという手法は珍しい。レオノーラ・ミアノが自ら書いているところによれば日本的な美の様式がアフリカ/ヨーロッパ、黒人/白人といった、自分の目には使い古され既に不毛と映る対立の構図からこの物語を脱却させてくれるのでは、というのが彼女の期待だったという。それこそまさに今回起きたことに他ならない。本作『Révélation /顕れ』は、炎上しがちな社会に対する癒し云々以前に素晴らしい舞台芸術作品であるのはもちろんだが、件の「文化の盗用」をめぐる議論が加熱するまさに今このときに提示されていることがますます人心を惹きつけているのもまた事実だろう。

 舞台芸術の世界がアイデンティティの絶対視(たとえばネイティヴ・アメリカンの役を演じる正当な権利を持っているのはネイティヴ・アメリカンだけである、という立場。過日、ロベール・ルパージュとアリアンヌ・ムヌーシュキンが抑圧されたマイノリティとしてのネイティヴ・アメリカン史を舞台化する際、当事者コミュニティ出身の俳優を一切起用しなかったことでこうした非難にさらされた)と、ある種の普遍主義を標榜する欺瞞(人が人を演じる自由に一切の制限を加えるべきではないという立場。フランスの現状はこうなってはいない)との板挟みで膠着の様相を呈している昨今、『Révélation /顕れ』の日本語上演はそうした議論から巧みに身をかわしつつ第三の可能性、すなわち多様性に創造性を導入するという道を提示している点で実に大きな意義をはらんでいる。

(翻訳:平野暁人)

◆これまでのブログ
2018.7.15更新 #001 県大での公開授業レポート
2018.7.21更新 #002 作者レオノーラ・ミアノ氏来静!
2018.8. 5更新 #003 レオノーラ・ミアノ氏講演会レポート
2018.8.30更新 #004 研修生ポールさんの振り返りレポート
2018.9.11更新 #005 世界初演まで間もなく!
2018.12.10更新 #006 『顕れ』の世界を読んで楽しむ
2018.12.16更新 #007 静岡県立大学図書館で特別展示開催中
2018.12.24更新 #008 創作秘話 ~衣裳編~
2018.12.27更新 #009 創作秘話 ~小道具編~
2019.1.7更新  #010 ル・モンド紙劇評
2019.1.8更新  #011 レゼコー紙劇評

◆パリ公演期間中のブログ
『顕れ』パリ日記2018 by SPAC文芸部 横山義志

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SPAC秋→春のシーズン2018-2019 #3
顕れ ~女神イニイエの涙~
2019年1月14日(月祝)、19日(土)、20日(日)、26日(土)、27日(日)
2月2日(土)、3日(日) 各日14:00開演
日本語上演/英語字幕
会場:静岡芸術劇場

作:レオノーラ・ミアノ
翻訳:平野暁人
上演台本・演出:宮城聰
音楽:棚川寛子
*詳細はコチラ