『マライの虎—ハリマオ』では、戦時中の日本の国策映画『マライの虎』(1943)をシンガポール人たちがリメイクしようとします。「ハリマオ」はマレー語で「虎」を意味する言葉で、この映画の主人公谷豊の異名です。戦後もこの「快傑ハリマオ」を主人公とする映画やテレビ、アニメがたくさんつくられました。谷豊は1911年に福岡県で生まれ、2歳から英領マレーで育ちました。妹を中国からの移民に殺されたのち、マレー人の盗賊団を率いて華人や英国人の金持ちの家を襲撃し、貧しいマレー人に金品を分け与え、義賊として有名になります。現地の警察に捕まったとき、日本軍からスパイになるよう誘われ、マレー半島攻略作戦に協力するようになりました。

(2018年 シンガポールでの初演)
他にも多くの民間人が現地で日本軍のスパイとして活動していたようです。映画『マライの虎』は自転車でクアラルンプール入りする「銀輪部隊」が日の丸をもったマレー人たちに迎えられ、シンガポールへと向かう場面で終わります。実はここで使われた自転車の多くは、現地の日本人スパイが各地の商店などにある自転車を数え上げ、それをもとに日本軍が「徴発」したものでした。もし今、日本を舞台に外国のスパイが活躍する映画が撮られたとしたら、私たちはどんな気持ちでそれを見るでしょうか? そんなことを思い描いてみると、これをリメイクすることにしたシンガポール人たちの気持ちが少し想像できるかもしれません。

(2018年 シンガポールでの初演)
本物の谷豊は、すっかりマレー人ムスリムとして暮らしていたので、日本軍からの依頼にかなり悩んだようです。戦前の日本は中国と並んで世界中に多くの移民を送り出していて、欧米では「黄禍」と呼ばれたりもしていました。現地の言葉や風習に馴染んで暮らしていた方、故郷への郷愁と現地の生活の間で葛藤した方も多かったでしょう。(ちなみに谷豊についての一番新しい研究書『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』は静岡大学教授だった山本節先生のご著書です。山本先生はマレー半島各地で静岡県ゆかりの方に何人も出会い、タイ南部の取材で静岡大学に留学していた大学教授に出会ったのがきっかけで、谷豊と行動を共にしていたタイ人を発見したといいます。)
シンガポールもあちこちから来た移民でできた国なので、『マライの虎』のどこにひっかかるかはけっこう人それぞれみたいです。谷豊はマレー半島をマレー人の手に返すために行動したといわれていますが、マレー半島の先端にある小さな島国シンガポールでは、マレー系ではなく華人(中国大陸にルーツをもち、その文化的アイデンティティを保持しつつ現地の国籍を持っている方)がマジョリティです。一方、この作品を上演するテアター・エカマトラは、シンガポールではマイノリティのマレー系が主体の劇団。この作品を書いたアルフィアン・サアットもマレー系です。アルフィアンとテアター・エカマトラは日本の俳優田中佑弥さん、北川麗さんと出会い、三人のシンガポールの俳優(マレー系二人、華人一人)が参加してこの作品をつくりました。映画『マライの虎』では、マレー系や華人の登場人物も日本人が演じています。それを実際にマレー系や華人の俳優が演じたらどうなるのでしょう。
この作品では、マレー系俳優と華人俳優のあいだでのすれちがいも出てきますが、日本のお客さんにはちょっと伝わりにくいかもしれません。シンガポールでは英語・マレー語・中国語・タミル語が公用語で、ふだんの生活では華人同士では中国語、マレー系同士ではマレー語、インド系同士はタミル語で話す場合が少なくありません。なので、一口に「シンガポール演劇」といっても、英語のほかにマレー語、中国語、タミル語による演劇もつくられていて、言語によって演じ方も価値観もだいぶ違うようです。

(2018年 シンガポールでの初演 左:田中佑弥さん 右:北川麗さん)
なぜシンガポールのアーティストたちが『マライの虎』をリメイクしようとしたのか。それを理解するには、シンガポールという国の成り立ちを知る必要があります。マレー半島には英国による植民地化以前からマレー人だけでなく中華系やインド系の方々が住んでいましたが、植民地政府は労働力を求め、中国や英領インドから多くの移民を招き入れました。シンガポール島は重要な貿易港で、華人の商人や労働者が集まっていました。日本軍が中国に侵攻すると、さらに多くの中国人がマレー半島に逃れてきました。ところが1941年、そこに日本軍が侵攻し、「アジア人のためのアジア」を掲げてマレー人やインド人の支持獲得を狙う一方、中華系の人たち(谷豊の妹を殺害した中国からの移民は満州事変に激怒していたと伝えられています)を抗日勢力とみなし、大規模な粛清・虐殺を行いました。1957年に「マラヤ連邦」が英国からの独立を果たし、1963年にはシンガポールが加わって「マレーシア」になりますが、マレー系と華人が対立するようになると、1965年、マレー人が安定多数を占められるように、シンガポールは連邦から事実上追放され、独立することになりました。シンガポールにおいては、日本軍による占領後の華僑(華人)粛清事件が国民的トラウマとなり、「自分の国は自分で守らなければ」と、徴兵制を正当化する理由の一つにもなりました。

(2026年 シンガポールでのリハーサルの様子)
独立当初のシンガポールは貧しかったのですが、ご存知のように、今ではアジアで最も豊かな国の一つです。シンガポール政府は、多民族国家シンガポールのアイデンティティをつくりあげていく手段の一つとして、芸術を重視していて、舞台芸術も盛んです。
アルフィアン・サアットはシンガポール社会のなかで語りにくいことをユーモアに包んで語ることで、シンガポールで最も人気のある劇作家の一人になりました。一方で、多くの人が触れようとしないところに手を突っ込むので、何度も検閲にひっかかり、修正を求められたり、上演禁止になったりしています。アルフィアンが座付作家をやっている劇団ワイルド・ライスは、助成金がカットされたとき、サポーターたちに資金援助を求めました。そうしたら自前の劇場を建てられるほどの資金が集まり、以前より助成金に依存せずに活動ができるようになったといいます。ショッピングセンターのなかにあるその劇場に行ってみたら、満場の観客が「シンガポール人あるある」に爆笑していて、すごい熱気でした。アルフィアンたちはそんなふうにして、シンガポールのもう一つの歴史、もう一つのアイデンティティをつくっていっているわけです。

(2026年 シンガポールでのリハーサルの様子)
今回は田中佑弥さんのご都合がつかなかったので、田中さんの大学の後輩で共演したこともあるSPACの杉山賢さん主演でこの作品をリメイクすることになりました。日本とシンガポールのあいだにも、そしてシンガポール人同士のあいだにも、難しい歴史が横たわっています。そんな難しい歴史をネタに一緒に遊んでみたら、どうやったらもっと楽しくやっていけるか、ちょっと見えてくるかもしれません。
(文:文芸部・横山義志)
SHIZUOKAせかい演劇祭2026
マライの虎─ハリマオ
台本:アルフィアン・サアット
演出:モハマド・ファレド・ジャイナル
製作:テアター・エカマトラ
出演:シティ・カリジャ・ザイナル、ガフィル・アクバル、北川麗、杉山賢、ダレン・クォ
公演日時:4月25日(土)、26日(日)各日13:00開演
会場:静岡芸術劇場
上演時間:90分(休憩なし)
上演言語:英語、マレー語、日本語、中国語上演/日本語・英語字幕
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