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2026年5月11日

ご意見ご感想まとめ『さあ環境に抵抗しよう、死に抵抗しよう。そうさ生に抵抗するのさ、』

「SHIZUOKAせかい演劇祭2026」で上演されたワーク・イン・プログレス公演『さあ環境に抵抗しよう、死に抵抗しよう。そうさ生に抵抗するのさ、』にご来場いただいたみなさまから寄せられたご意見・ご感想をまとめました。
※段落等一部軽微な修正のうえ、みなさまからいただいた原文を掲載しています。


ワーク・イン・プログレス公演の様子

公演詳細:https://festival-shizuoka.jp/event/shimojimareisa-work-in-progress/


◆4月25日(土)

このタイプの(物語の筋のない)演劇は久しぶりでしたが、非常に満喫しました。感触が3~4段階で変化したのがとてもここちよく観劇のだいご味につながった気がします。最初は多少ゆるい感じがして、下島さんのあいさつも若い不慣れな演出家の方だなと無意識で少しなめてしまった感じでした。(第1段階)
それが見ているうちにだんだんと楽しくなっていき、役者さんそれぞれの身体や芝居の経験や強度の違いを見比べたり、「どこまで段取りでどこからその都度の流れかな」とか考えたり感じたりするのに夢中になっていき、「ああ、これ、いつまででも見ていられるやつ」という感触に到りました。(第2段階)
それが、ある時点からさすがに(みなさんの課されている情境がハードになってきたと感じられる頃)急にしんどさを感じられるようになり、ものすごい緊張に包まれてきて地獄を見せられているという認識に急激に変化しました。(第3段階)ここまで来るとスタートからの変化(演出?)を分析できるようになり、これは自分のあるいは一般普遍的な人生の変化の縮図を数十分で体感できている。すごい体験をさせてもらっているぞと感じながら(出ている役者さんのためにも)「早く早くおわってあげてくれ~」と必死で祈るようになっていました。その時ふと下島さんをみたら全く顔つきが変わっていて多くの人(役者さんたち)に何かのために、つくりものの作品とはいえ苛酷なことをやらせている人間の立場の苦しみを強く感じ、しばらくその表情から目が離せなくなりました。(ここもどこまで芝居か本気か区別できない没入感がありました)
最後、ビートルズが再び流れ「もうじき終わる」ことを予感し、心が落ち着いてきた状態で、演劇史をきっちりふまえるようなテント芝居のラストのようなエンディングを体験し、これも心地よい余韻と満足感につながりました(最終段階)
冒頭の緩さもあれ以上だと「ねらって芝居や演出として演っている」感が出てしまうので絶妙だったと感じました。マンガやテレビドラマと違い、演劇は途中で切られる心配のほぼない形状のジャンルなので、最初にゆるく感じさせ、だんだん心をつかんでいくという段階的な変化を仕込むのも効果的だと思います。
終了後の討論会、がっつり参加したかったのですが、バスの関係で5:50過ぎに抜けなくてはならず、悔しかったです。
数人の方が演劇というよりダンスに近いと感じたとの話されていたのが、ものすごく衝撃でした。ぼく的にはどこからどう見ても、ものすごく演劇的な演劇としか見えず、感じられない作品だったからです。
このチームのメンバー構成もとても素晴らしく1人1人に役割を深く感じ、全員を見届けたいという気持ちにつつまれ、特に第2段階に達してからはキョロキョロいろんな方向を見てしまうのが快感でした。こういうチーム、作品を作り上げていく稽古の過程を想像出来、それを感じながら作品を観進めるのも非常に心地よい演劇体験でした。ほんとうにみなさまお疲れ様でした。

 

開場すると真ん中に体操の長いマットの様な物が敷かれている。その上を何処かに隔離されている様な病人の様な男女が一人一人奇妙な仕草をしながら行ったり来たりしている。ゾンビのようでもある。まだ開演はしていない。ようやく開演時間になると、いつの間にかいなくなった先ほどの男女がまるでボーイスカウト、ガールスカウトのような格好の制服を着て登場する。演出の下島がいつもの稽古をするように声をかける。その言葉に従い、様々な歩行を繰り返す。どれも結構奇妙でおかしい。下島が音楽を掛けるように指示を出す。エッジの効いた音楽に乗ってどんどん歩行を繰り返す。歩行は奇妙なままだが、開演前の印象とは違ってどんどんカッコイイと思えてくる。リズムに乗ってコンサート会場に来ているようにも感じてくる。人は他人の着ている物、外見、その時掛かっている音楽に容易く影響を受け認識を変えていく。理性ではなく直接脳がそう感じるのだ。恐ろしい。
歩行は続き次第に体力の限界に近づいてくる。脱落する者が出てくる。脱落した者も休むことなく回廊を回っている。いよいよ最後の48回目だ。それはなんと「48回往復する」だ!思わず笑ってしまう。残酷で秀逸なユーモアだ。指示をする者とされる者、演出家と役者、支配者と被支配者、収監されていた袴田さんと裁判官と私達、などなど。
最後の歩行が終わり、中央の白い道に皆集まってくる。いつの間にか置かれた透明で小さなガラス瓶。それぞれが瓶を手に取り、中から目には見えないが小さな虫の様な生き物を救い出す。手のひらに乗せ自分の腕に這わせる。愛おしく優しく見守る。楕円堂の扉に向かって歩き出す。皆で外への扉を開いていく。そこは森と空だ。空と森に向かって目に見えない生き物を解き放つ。それは解放された。解放した歩行する者も解放された。今まで見守っていた私達観客もまた解放されたのだろう。もちろん袴田さんも。
私はこのラストを忘れることができない。
袴田さんもこの森の緑の深さと空の青さを今見ているのだろうか。

 
◆4月26日(日)

生涯で観ていて最も苦しくなった演目になりました。ここまで見せられると気持ちも突き抜けました。多分毎回俳優さんの中には何かが生まれている気がしますが、観ている我々に何かを生み出すべき答えはすぐに出てきません。圧倒されたからでしょうか?身体から脳にいかない。 この答みたいなものをはじめかさいごに導いてほしい。でなければ、俳優さんらの汗に報いることをしたいと思いました。 それはさいごの台詞の中にあるならば、もっと聞きたかったです。さいごに脳で処理したい気分です。

 

「やっぱり58回にします」(シャトルラン)地獄かと思いました。暗転してミラーボールが回り出すと私も舞台に包まれている気がしました。そしてラスト、オブラディオブラダが流れる中で蟻と共に楕円堂を出ていくあの扉が開くときの感激ははかり知れません。

 

前提)この2月までSPAC制作部に勤めていた人間です。袴田さんのことは名前、さいしんむざいになったという程度のみ。ケダゴロ作品は清水マリナートで上演されたもののみ拝見したとこあり、WIPの趣旨は2月までに制作部に共有されていた範囲で知っているという感じ。ぼーっとしててプレトーク聞きそびれ。
別レイヤーの前提)小中学生のときの学校の経験から軽いPTSDのような感じ。(眼前で繰り広げられ続ける校内暴力といじめ)
感想(見ている間))開場中楕円堂にしては緩い空気で入場しやすい、しかしレイアウト的に何らかに”付き合わされる”系の作品かしらと予想。しかし俳優の(それもSPACの)身体を眼の前で見れるのは嬉しいので意を決して最前に座る。が、わかりやすいアナウンスの後に、「逃げられない理不尽」が始まったように感じられて、あの頃教室にいたときと同じように観客であることをやめ、ただそこにいる人たちを含めて眺めるという身体に切り替えて鑑賞する。とにかく今ここで起きていることが合意のうえで起きているように、と願いながら見た。
人が目の前を走ると風が起きる。俳優は声を鳴らす器官としてある種の異常発達をしている、ということを思い知る。俳優は顔のパーツの筋肉もやはり発達しているように感じる。アウトプットに最適化した身体。
感想(終演後いろいろ人とも話して)
・WIPと銘打っているからと言って何をしていいわけではない↔演劇祭の、SPACへの信頼ともとれる
・わたしの場合は目の前の暴力や不条理に対してとにかく身体を置き去りにして自分を解離させ、今ここにありながらも思考だけ別のところにもっていく、ということを小中とやりすぎてきた、だから身体の感覚に鈍感でいつでも身体とつながる精神を無視(ネグレクト)できる
・はたして袴田さんはどうだったのか 身体を感じながら歩いていたのか 歩くことで身体を取り戻していたのか
→私自身はいまだに皮膚をむしる(親指、唇など)がやめられない。これは、教室で、体育館で、グラウンドで、ひたすら居ながら無視され、目の前で凄惨な暴力や罵詈雑言が繰り返されていたのに立ち会わざるをえなかった頃から続いているクセ。
・文句もたくさんあるけど、本公演が楽しみになった。でも、向かい合わせ客席では見たくないし、終演後の”討論会”にも次回も参加しないと思う。

 
◆4月29日(水祝)

孤独も大きなテーマだと思うので、一つの歩行のソロも見たい、じっくり解像度を上げて見たい。
抵抗なのか?欲求なのか、緩和なのか

 

数ある「公権力による自由の制約」の中で日本の子どもの多くが初めて触れるものがシャトルランだったなと思い出しました。
小学校一年生でも袴田事件に身体的に接近できるとても意義のある作品だと思います。面白い体験をありがとうございました。

 

こんなにも様々な歩行が生まれるのかとおどろいた。ワークから生まれた歩行が音楽の影響を受け、また変化するのがおもしろかった。

 
本作は2027年度に本公演を予定しております。