2015年12月30日

【映像】 『室内』アーティスト・トーク

Filed under: 『室内』2015

2015年10月に『室内』神奈川・静岡両公演で行われた、
クロード・レジ氏と宮城聰のアーティストトークの様子を
ウェブ公開いたします。

『室内』神奈川公演 10月3日 アーティストトーク

『室内』静岡公演 10月10日 アーティストトーク
前半

後半

あわせて、日本公演のレビュー、レジさんへの動画インタビューも
ご紹介いいたします。

演劇情報サイト・ステージウェブ
演出家クロード・レジが語るSPAC『室内』
http://www.stageweb.com/interview/201512520/

演劇最強論-ing
【連載】マンスリー・プレイバック(2015/10)
徳永京子と藤原ちからが、前月に観た舞台から特に印象的だったものをピックアップ。ふたりの語り合いから生まれる“振り返り”に注目。
http://www.engekisaikyoron.net/playback201510/

観客発信メディア WL
【劇評】緩やかさと静けさのなかでの神秘的体験
 クロード・レジ演出×SPAC『室内』

 片山 幹生
http://theatrum-wl.tumblr.com/post/134115015206/%E5%8A%87%E8%A9%95%E7%B7%A9%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E9%9D%99%E3%81%91%E3%81%95%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A7%98%E7%9A%84%E4%BD%93%E9%A8%93


2015年10月27日

『室内』観劇レポート(泰井良)

Filed under: 『室内』2015

この作品を「静寂」という言葉で語るのは、もはや月並みかもしれない。けれども、「静寂」という言葉で始める以外に術はない。この作品は始まりから終わりまで、「静寂」が舞台と客席とを支配しているからである。
バロック演劇である『舞台は夢』には、その特徴である光と影のコントラストが見られる。一方、この作品の空間には、光と影の狭間にあるとされる「幽玄」が充溢している。この「幽玄」は、とりわけ、日本の古典芸能である「能」の真髄とも言われ、「ユーゲニズム(幽玄主義)」として、広く世界に知られている。谷崎潤一郎は、『陰翳礼賛』において、日本人の美意識は「陰」や「ほの暗さ」を条件に入れて発達してきたものであり、明るさよりもかげりを、光よりも闇との調和を重視してきたと分析した。戦後、アメリカ式の蛍光灯による照明が、生活空間を占有するようになるまで、かつて日本人の生活は、間接照明によって「陰」を巧みに取り入れてきた。この『室内』という作品に向き合う時、我々は、まず現代の照明や照度から隔絶され、かつて日本人が親しんだ「幽玄」の世界に引き入れられる。ここでは、普段我々が最も頼りにしている視覚に依存することは難しく、視覚以外の他の感覚器官である聴覚や嗅覚が少しずつ鋭敏化していくのを感じる。これは、他のメーテルリンクの戯曲『盲点たち』にも通じることである。つまり、この作品は、我々の日常生活ではほとんど用いない感覚を刺激し、より鋭敏なものとするのである。
この物語は、人間の生と死が主なテーマであり、それゆえ舞台の上は、彼岸の世界ともいえる。舞台の上に敷き詰められた砂は、あたかも砂浜のようであり、この場所から死者の霊魂が彼岸に向けて旅立つかのようなイメージを観者に与える。ここで繰り広げられるこの世のものとは思えない動きと一定のリズムを刻んで発せられるオートマティックな台詞。登場人物の動きは、重心を一定に保ちながらゆっくり移動し、その動きは能役者の動きのように「動」を孕んだ「静」といえる。
そして、時間という観点からしても、ここに流れているのは、時計によって刻まれる時間ではなく、人々の意識において感じ取られる時間、すなわち「内的時間・意識」とも言えるものである。これは、自然とともに生活を営んできて日本人ならではの時間意識といってもよい。
このように『室内』は、我々日本人が古くから育んできた「美意識」に包まれており、そのため時間の経過とともにしだいに違和感を覚えなくなる。我々は、この作品によって、忘れかけている感覚や意識を呼び覚ますことができるのではないだろうか。

執筆クルー 泰井良プロフィール写真泰井良(たいい・りょう)
1972.9.5、神戸市生まれ
関西大学美学美術史専攻を経て、静岡県立美術館学芸員。
現在、静岡県立美術館上席学芸員、俳優。
(一財)地域創造公立美術館活性化事業企画検討委員、全国美術館会議地域美術研究部会幹事など。展覧会企画のほか、市内劇団でも活動中。


2015年10月25日

『室内』 最終公演を終えて(文芸部・横山義志)

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何かが終わったところから何かが生まれる

 レジ作品の衝撃から、日本での紹介を夢見て、
 静岡での共同製作の実現、稽古場秘話…

 3年に渡るレジ×SPAC共同製作『室内』を終えた今、
 文芸部スタッフ横山義志が胸の内を語る。

※『室内』公演詳細はこちら

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『室内』最終公演を終えて

SPAC文芸部 横山義志

『室内』の公演が終わった。一つの円環が閉じられたような気分。「何かが終わったところから何かが生まれるんだ」とクロード・レジは話していたが、やっぱりちょっとさみしくもある。忘れないうちに、いくつか書き留めておきたい。

はじめてレジさんの作品を見たのは1999年の『誰か、来る』(ヨン・フォッセ作、ナンテール・アマンディエ劇場)だった。すごく昔のような気もするし、昨日のような気もする。席に着くとすっかり暗くなり、今まで経験したことがなかったような静けさが劇場を覆った。目を凝らすと、かすかに浮かび上がってくる人物たち。耳を澄ますと聞こえてくる対話。だが、長い沈黙をはさんで、一音節ごとにゆっくりと発せられる言葉を聴いていると、沈黙のあいだにめぐらせた思いと、耳に入ってきた言葉との区別がつかなくなってくる。目の前にあるものが本当に存在しているのか、それとも自分だけがそれを見ているのか、分からないような感覚。「二人だけ」の生活のために選んだ、人里はなれた家に、女が一人でいるところに、大家の息子を名乗る男が訪ねてきて、「ビールを買ってきたんだ。一緒に飲まないか?」と、ビニール袋に入ったビール瓶を少し揺する。そのかすかな音が、劇場中に響きわたる轟音のように聞こえる。

そこで起きていることに、自分の体がついていけていないような感覚。現代演劇でこういう感覚を得たのは、ほとんどはじめてだったかも知れない。自分の身体感覚自体を変えなければ見えないもの、聞こえないものがある、ということに気づかされるという、ほとんど暴力的な体験。パリでレジの作品がかかると、チケットはいつもあっという間に売り切れるのに、劇場に行ってみると、途中でぞろぞろと人が出て行く。そうでなくても、ほとんど身体的な拒否反応を示している観客と隣り合うことも少なくない。やがて、レジの新作がかかるたびに、その日に合わせて、心身を整えてから劇場に向かうようになった。そんなことをする気になったのはレジの作品くらいだった。

なんとなく、こういう作品の本物の観客はむしろ日本にいるのではないか、という気がしていて、いつかレジの作品を日本に紹介することを夢見ていた。だがその頃、レジはめったに国外ツアーをしておらず、フランス以外ではほとんど知られていなかった。わざわざ他の国でやるよりも、自分が知っている環境で、いい作品を作ることに集中したいからだ、といった話を伝え聞いていた。それが、まさか静岡で作品を作ってくれることになるとは・・・。最終公演のために舞台芸術公園を歩いていて、今更のように、夢じゃないかと思ったりもした。

2004年にレジのヨン・フォッセ三部作について「可能態の現前」という文章を『舞台芸術』誌第5号に書かせてもらったが、思えばそれ以来、レジの作品についてまとまった文章を書いたことがない。フランスでも、これだけ多くの称賛を得ながら、そういえばあまり分析的な批評というのは目にしたことがない気がする。今になって、なんとなくその理由が分かるような気がしてきた。レジの作品では、実際に劇場のなかで起きたことと、自分のなかだけで起きたこととの区別がつかないからではないか。劇場のなかで起きたことをいくら描写してみても、自分がそこで見たものが見えてこないからではないか。

何度も『室内』を見ていて、今回の公演でようやく気づいたのは、自分が見ているのは目の前で起きていることではない、ということだった。そこに広がる風景は「室内」とはほど遠いし、そこに家族の日常を見るには、相当の想像力が必要になる。とはいえ、一方でそれは、そんなに難しいことでもない。たとえばおままごとで、お茶碗に盛られた砂をおいしいごはんだと思って食べるのと同じようなことだ。思えば演劇というものはそもそも、そこにあるものを別のものとして見る、ということで成り立っている。だがある時期から演劇は、あるいは視覚文化一般が、そのことを隠蔽するような形で発展していったのかも知れない。

稽古場で、レジは何度も「自分の想像力を信じなさい、観客の想像力を信じなさい」と語っていた。俳優が何かを見ていなければ、観客にもそれは見えない。もちろん俳優が見た何かが観客にそのまま伝わるわけではないが、まず俳優が何かを見ない限り、そこには何も立ち上がらない。そして観客がそこに何かを見たいと思わない限り、そう思わせない限り、やはり何も立ち上がらない。この構造はあらゆる芸術作品に共通するものだろう。だが、そこに安定した共犯構造にもとづく約束事が成立してしまうと、この構造自体は見えなくなっていく。約束を裏切らないと、約束の向こう側にあるものは見えてこない。「人類の秘密により近づくような作品を作らなければ意味がない」とレジは言う。

そういえば、3年前のオーディションのときに、こんなダメ出しがあった。「ちょっと演技が小さいんじゃないか。これは話すべきかどうか迷ったんだが、最近の宇宙物理学者は、この世界には11の次元があると言っている。たとえば11の次元の広がりを意識しながら演技してみたら、同じ演技にはならないんじゃないか。」今まで聞いた中で最もスケールの大きなダメ出し。これを言われた俳優は相当困っただろうが、今にして思えば、こんな話も、そこで見えるものに寄与していたような気もする。

それと、量子力学の話もよくしていた。以下の話をレジがしていたかどうかは記憶が定かでないが、メーテルリンクの『室内』という作品は、ちょっと「シュレディンガーの猫」に似ている。存在が0でも1でもない、そのあいだの波のようなものになっていく量子力学の思考実験。ブラックボックスのなかに放射性物質と、ガイガーカウンターに連動した毒ガス発生装置を入れ、そこに猫を閉じ込めておく。観察者にはブラックボックスのなかで起きていることは見えない。観察者にとっては、箱を空けるまで、猫は同時に生きていて、死んでいる。いわば二つの可能性が重ね合わさった存在として、そこにいる。

『室内』では、家の外にいる人々は、家のなかの家族の娘が一人、川で溺死したことを知っている。だが、室内の家族にとっては、娘はまだ生きている。だからそこでは、ふだんとなんら変わらない穏やかな暮らしが営まれている。それでも、そこに死の影が全くないわけではない。家族も、もしかしたら全く気づいていないわけではないのかも知れない。部屋のなかを見ている人々にも、家族の心のなかで何が起きているのかは分からない。そして、死んだ娘に何が起きたのかは、誰にも分からない。見えるものと見えないものとが重層的に重なり合っていき、自分に何が見えているのか、次第によく分からなくなっていく。あるいは、そこにある分からなさと、それでも見えていること、気づいていながらも見つめられていなかったことを受け入れざるを得なくなっていく。見るほどに奇妙な戯曲。

クロード・レジはこの作品を1985年にも上演しているが、これを取り上げるのは約30年ぶりだった。レジが同じ作品を二度取り上げるのは珍しいが、これについてはずっと再演を夢見ていたという。だが、この作品には少なくとも10人近い俳優が必要になる。ここ十数年、レジが演出してきたのは一人芝居か、多くてもせいぜい4, 5人程度の作品ばかりだった。レジの演出についてきてくれる俳優を、それだけの数そろえるのは難しかったと聞く。レジは2010年に『海の讃歌』を楕円堂で上演したあと、この『室内』のクリエーションを提案してくれた。今回の『室内』楽日の晩には、「本当にすばらしい出会いだった。日本の俳優たち、宮城さんが育てた俳優たちと出会って、多くのものを学ぶことができた。みんな、非常によく「聞く」ことを知っていた」と語ってくれた。

昨年のアヴィニョン演劇祭ではSPACが宮城演出『マハーバーラタ』と『室内』の二作品を上演した。巨大な野外空間での祝祭音楽劇と沈黙の室内劇と、極めて対照的な二作品だったが、実は「言葉と動きの分離」という共通項がある。『マハーバーラタ』では一人の語り手の語りに合わせて多くの俳優たちが動き、『室内』では、声の聞こえない室内の家族の様子を、庭にいる人々が語っていく。当然そこには、時としてずれが生じる。目に見える動きと、語られる言葉とは、必ずしも一致しない。そこで起きていることは、目に見えていることでもなければ、そこで語られていることでもない。見えるものの向こう側にあるものを見て、言葉の向こう側にあるものを聴くこと。『室内』では、さらに「沈黙」という要素がある。言葉の、動きの、不在を聴くこと。

家族役の俳優の一人が、こんな話をしていた。ときどき、家族の別の一人と、動きのタイミングが合わなくなるときがある。でも、今回は言葉にしてしまうと何かが失われそうで、言葉にするのはやめた。相手の動きをよく見て、まわりで起きていることをよく聴きながら、自分が動いてみれば、いつも同じタイミングにはならなくても、納得のいく動きにはなるという。

今回の『室内』再演で、3年かかって、作品がようやく一つの生き物になったような気がした。楕円堂を包む秋の虫の音が、生き物としての時間を感じさせてくれた。レジは「もう60年以上やってきて、演劇をやめたいと思ったこともあるが、おかげでまだつづけていきたいと思った。自分が前進していると思えたからだ。前進が止まったら、そのときは死ぬときだ」と語ってくれた。またここで出会えることがあるような気がしてならない。


2015年10月9日

『室内』韓国・光州公演レポート(3)

Filed under: 『室内』2015

『室内』と光州アジア芸術劇場オープニング・フェスティバル

SPAC文芸部 横山義志

この9月、SPACの作品『室内』が光州(クァンジュ)のアジア芸術劇場で上演された。ここで『室内』が上演されたことの意味を、少し記録にとどめておきたい。韓国の国家的プロジェクトとして生まれた劇場のこけら落としを祝うこのフェスティバルは、アジア演劇史に残る事件となるかも知れない。

【アジア芸術劇場オープニング・フェスティバル】

【フェスティバルのプログラム】

このオープニング・フェスティバル自体、いわば、いまだ編まれたことのない「アジア演劇史」を、これから新たに編んでいこうとする試みだった。私たちは西洋に「演劇史」というものがあることを知っている。だが、アジアの演劇の全容を見渡す試みは、いまだ十分になされているとはいえない。この劇場は「アジアのハブ劇場」となることを期待してこのように命名された。そして隣接するアーカイブ&リサーチセンターでは、アジア全体のパフォーミングアーツをアーカイブ化するという途方もない計画が進行している。

【アーカイブ&リサーチセンター】

【アーカイブ&リサーチセンター、日本演劇に関する展示ブース】

極めて野心的な試みだが、これらがソウルから多少距離のある光州の地で行われていることこそが、このプロジェクトにある種の正当性を与えているともいえるかも知れない。まずは、光州という場所について、多少話しておく必要がある。

光州は韓国南西部に位置し、三国時代には百済に属していた。ソウルからは高速鉄道で約2時間、高速バスで約4時間。現在の「光州広域市」の人口は約150万人で、韓国の都市としては第6位。日本では、現代美術の祭典「光州ビエンナーレ」と「光州事件」で知られているのではないか。1980年、軍事政権による戒厳令に反発して民主化を求める20万人以上の市民が蜂起し、武装して軍を市外まで押しやり、全羅南道道庁前広場に5万人の市民が集まって市民大会を開き、直接民主主義による自治が試みられた。しかし2万5千の兵力が投入され、最後まで道庁に立てこもった人々など150人以上の市民が殺害され、3,000人以上が負傷して、市民による抵抗は10日程で幕を閉じることになった。アジア芸術劇場は、その旧道庁前広場の跡地に建設されている。

民主化を市民の力で勝ち取ってきた韓国の現代史を象徴するこの場所に、アジア芸術劇場を含む「アジア文化殿堂」をつくる「アジア文化中心都市構想」を選挙公約として掲げたのは、二代前の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領だった。日本以上に首都ソウルへの集中が激しく、地域間対立も激しかった韓国で、盧武鉉は地方分散化と地域対立の解消を掲げていた。そして2002年の民主党予備選挙において、新千年民主党最大の地盤の一つ光州で、大方の予想を覆して盧武鉉が主流派候補を破り、大統領選挙進出への大きな足がかりを得た。

ところがこの文化殿堂の建設計画は迷走を重ね、李明博(イ・ミョンバク)政権では一端凍結されるに至る。すでに着工され、かなりの投資がなされていたこともあり建設の再開が決まったが、更に政権は現在の朴槿恵(パク・クネ)に移り、盧武鉉時代の公約が13年越しにようやく実現されることになった。アジア文化中心都市事業の総予算は約5000億円といわれる。東京新国立競技場の旧建設案と比べても、倍以上の予算規模である。

アジア芸術劇場の開場準備は約3年前から進められ、初代の芸術監督にはベルギー出身のフリー・レイセンが就任した。ヨーロッパを代表する舞台芸術祭の一つ「クンステン・フェスティバル・デザール」をブリュッセルで立ち上げた人物で、アジアの舞台芸術の現状にも詳しかった。だが、間もなくフリーは辞任してウィーン芸術週間に移り、フェスティバル・ボム(ソウル)の創立者であるキム・ソンヒが後を継いで、劇場の立ち上げを進めることになった。ソンヒは「アジアの同時代性」をオープニング・フェスティバルのテーマとして掲げることを決めた。この「アジア芸術劇場」を、伝統芸能ではなく、アジアの同時代的な舞台芸術のための劇場にする、という強固な意思表示をここに見るべきだろう。

【(左から)キム・ソンヒさん(光州アジア芸術劇場芸術監督)、ベルトラン・クリルさん(アトリエ・コンタンポラン制作)、クロード・レジさん】

オープニング・フェスティバルと今シーズンのアジア芸術劇場のプログラムは、大きく分けて、アジアのアーティストによる作品と、「我らの師たち」と呼ばれる、アジア以外の重要なアーティストたちの作品からなっている。

オープニング・フェスティバルのプログラム(英語)
http://asianartstheatre.kr/board/AatList2?BN_BU_KEYNO=BU_0000000135&MN_KEYNO=MN_0000000344

フェスティバルの演目は全部で33演目あったが、クロード・レジ(フランス)演出でSPACの俳優が出演する『室内』は、唯一この両者が重なる作品だったといえるだろう。前者では、日本でも比較的知られた名前を挙げるとすれば、まず蔡明亮(ツァイ・ミンリャン、台湾)、アピチャートポン・ウィーラセータクン(タイ)、アッバス・キアロスタミ(イラン)といったアジア映画界の巨匠による作品が招聘されている(映像作品も含む)。日本からは岡田利規、坂口恭平、川口隆夫、山下残、足立正生の作品が参加。マーク・テー(マレーシア)、ホー・ツーニェン(シンガポール)といった若手の注目株に混じって、中国からはなんと文革期に初演された革命京劇の代表作『紅灯記』が招聘されていたりもする。後者では、アジアの同時代的な舞台芸術の参照項となりうるような、それ以外の地域(ヨーロッパ、アフリカ、北米、南米)の重要な演出家を招いている。例えば、フェスティバルではロメオ・カステルッチ(イタリア)、ティム・エッチェルズ(イギリス)、ブレット・ベイリー(南アフリカ)、コンスタンティン・ボゴモロフ(ロシア)、シーズンではロバート・ウィルソン(アメリカ合衆国)、クリストフ・マルターラー(ドイツ)、ウィリアム・ケントリッジ(南アフリカ)など。この部分のプログラムにはフリー・レイセンも関わっていたらしい。

このプログラムから浮かび上がってくるのは、様々な抵抗運動の系譜である。ラヤ・マーティン(フィリピン)が描く、ダム建設によって破壊される村を軍から守ろうとしていた男の死をめぐる物語は、マーク・テーやホー・ツーニェンが描く、マラヤ共産党の失われた歴史へと結びつき、それが、一方では中国共産党政権の正当性を示す革命京劇と呼応し、他方ではドキュメンタリー映画監督趙亮(チャオ・リャン、中国)が描く、経済発展から取り残された人々が生きる壮絶な日常の物語にもこだましていく。この系譜を描くことが、今でも北朝鮮と戦争状態にある国において、いかに困難なことかは想像に難くない。そしてこの系譜はさらに、ブレット・ベイリーが描くアフリカの植民地支配の歴史や、今なおつづくコンゴ紛争に見られるコロニアルな搾取の構造、そしてボゴモロフが描くロシアの強権政治とホモフォビアの問題ともつながっていく。もちろん、これらの全ては、20数年前にこの旧道庁前広場で起きた出来事を呼び覚まさずにはおかない。

このような政治的抵抗と並んで、いわば美学的抵抗ともいうべき系譜も焦点化されている。このフェスティバルの開幕演目として上演された蔡明亮の『玄奘』は、極度に切り詰められ、遅延された動きによって、今日のアジアが生きている狂騒的な時間の流れに抵抗する試みだった。同様の抵抗の身ぶりは、アピチャートポン・ウィーラセータクン、アッバス・キアロスタミ、蘇文琪(スー・ウェンチー、台湾)らにも見られた。クロード・レジは今回の『室内』再演にあたって、こう語っている。「静けさの力と遅さの力に(この二つが結びついたものに)耳を傾け、それを目撃していただきたいと思っています。この二つは、騒音の渇望と速度への執着に向かう今日の嗜好に逆行するものです。」レジもアピチャートポン・ウィーラセータクンの作品を高く評価しているようで、今回のフェスティバルで見られなかったことを悔やんでいた。

フェスティバル期間中、光州には二百人以上の「インターナショナルゲスト」がアジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸など世界各地から集まり、ソウルや釜山など国内の若い観客や演劇人が週末ごとに押し寄せていた。韓国の観客にとっては、ソウルで華々しく劇場のシーズンが幕を開けるなか、光州に来ること自体が、ある種の抵抗の身ぶりだったのかも知れない。『室内』はフェスティバルのクロージング演目として、四回上演された。『室内』は極度の静けさを必要とするため、演目が集中するアジア芸術劇場ではなく、CGIセンターという映画スタジオに仮設の客席を組んで上演されたが、その分、客席がきしむ音には悩まされ、レジさんも観客が音を立てるのを怖れていたようだ。だが、光州の観客は非常に集中して見てくれて、かなり質の高い沈黙をつくることができた。この作品を観たスリランカ出身のダンサーは「太田省吾の『水の駅』を思い出した」と語っていた。ここに、グローバリゼーションのもう一つのあり方を見出してみてもよいのかも知れない。

【CGIセンター】

光州でフリー・レイセンがクロード・レジを迎え入れたとき、「クロードが日本と出会ったのは必然だった」と語っていた。『室内』フランス公演のあとに、あるフランスの批評家が劇評で同じ表現を使い、レジを「日本の最も偉大な演出家」と呼んでいたのを思い出す(ちょっと失礼な話でもあるが)。私がレジの作品を日本に紹介したいと思ったのも、その精神性と形式の双方に、ヨーロッパよりもむしろアジアでこそ真摯に受容されうるものがあるように感じていたからだった。キム・ソンヒは招聘前にウィーン芸術週間、アヴィニョン演劇祭と二度『室内』を見に来てくれたが、やはりそこに「アジア的なもの」、これからのアジアの舞台芸術に必要なものを見出したから、招聘してくれたのだと思う。

三年目の『室内』は、見違えるほど俳優たちの体のなかにしみこんでいた。「室内」にいる家族を見つめるマリーが「夢のなかの家族みたい」と口に出すと、家族が急にこちら側に目を向けてくる。光州では、自分が見ていたはずの夢から、突然見つめかえされたかのようで、一瞬背筋が凍るようだった。メーテルリンクが、そしてレジが見た夢が、やがて日本の俳優たちが見る夢となり、今この光州でアジアの夢となって、未来からまなざしを返してきたのかも知れない。

(韓国の文化政策を研究なさっていて、『室内』の韓国語字幕操作を担当してくださったExplat理事長の植松侑子さんから、多くのご教示をいただきました。植松さん、ありがとうございました!)

【アジア文化殿堂夜景(旧道庁と無等山の景観を守るために、建物のほとんどは地下に建設されている)】


2015年9月19日

『室内』韓国・光州公演レポート(2)

Filed under: 『室内』2015

『室内』光州レポート第2弾は、娘役の弓井茉那(ゆみい・まな)からです。

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『室内』韓国・光州公演のレポートを、娘役の弓井がお届けします。

今回私たちが上演する場所である、光州(クゥアンジュ)。聞き馴染みの無い方もいらっしゃると思いますが、ソウルよりもずっと南西に行ったところにあり、経済・文化の中心都市、そして近年では光州ビエンナーレが開催されるなど芸術の街でもあります。韓国に詳しい人から聞いたのですが、都市の大きさは日本でいうところの広島を想像してもらうと分かりやすいそうです。

この光州広域市に新しく、劇場を内包した文化拠点となるスペース、Asian Culture Center が私たちが到着する少し前に出来ました。
日本ではあまり見かけない規模のとても大きい施設です。土日には、美術作品や子どもたちのための遊べるスペースが登場します。
到着してすぐ『室内』の家族役の俳優、貴島豪さん、鈴木陽代さん、永井彩子さんと群衆の大庭裕介さんと見に行きました。この時はラッパのような拡声器の美術作品がたくさん置いてあって、みんなで体験してみました。光州はこの時期雨が少ない様で気持ちのいいお天気でした。

そのACC(Asian Culture Center)の中の新しく開館した劇場、 Asian Arts Theatre のOpening Festival にて『室内』の上演をします。
伝統芸術が豊かな韓国ですが、現代アートや現代演劇が生まれにくかった背景があるそうです。その中で2000年代に生まれたニューウェーブ・多元芸術(ダウォン芸術。既存の枠組みにはまらない新しいアート)が注目を集めるようになり、Asian Arts Theatreでも現代アートや現代演劇の先鋭的なラインナップが揃っています。
また、光州は1980年に「光州事件」が発生し、「民主と人権を象徴する街」でもあります。ACCが建てられた場所は、光州事件の舞台となった旧道庁があった場所とのこと。その歴史的背景に基づき、アジアのハブとなるような劇場が誕生し、そして歴史をテーマにした作品もいくつか上演されています。

フェスティバルの中心はこのACCですが、私たちの会場は少し離れた、CGIセンターです。バスに乗って行きます。

パペットアニメーションなどの撮影で使われている広々とした撮影スタジオに室内を作ってもらいました。
舞台の大きさは変わりませんが、空間自体の広さは今までで一番かもしれません。天井が高い。夕方になると、コオロギの鳴き声が聞こえたりします。

SPACメンバー、フランスのアトリエ・コンタンポランのメンバー、フェスティバルの現地スタッフさん、ボランティアさん、一丸となって緻密な調整作業が連日続いています。

光州の地の広い砂の上で、ここに在る人や物、ここにかつて在った人や物、これから在るかもしれない人や物たちに想いを馳せながら上演しています。

光州よりお届けしました。

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2015年9月18日

『室内』韓国・光州公演レポート(1)

Filed under: 『室内』2015

韓国の光州に新しくできたアジア芸術劇場の
オープニング・フェスティバルに招聘された『室内』。
いよいよ本日9月18日が、光州公演初日です。

17日のゲネプロ(本番と同様に行う通し稽古)前に、
出演の たきいみき からレポートが届きました。

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あにょはせよ。
こちら光州は朝夕は少し涼しく過ごしやすい気候です。
新しくできたアジア・カルチャー・センター/アジア芸術劇場の
柿落としとなるオープニング・フェスティバルに招聘いただきました。。。

が、

『室内』の上演会場は、そこから遠く離れた工業団地内にあるCGIセンター。

ここは実は撮影スタジオ。
ドラマやアニメーション等も作られています。
大スタジオに特設セットが組まれての公演です。
日韓仏のスタッフがタッグを組んでの、作業。

いよいよゲネプロ、
明日初日です。

タオルがかかっているのが、レジさんの指定席。

沈黙のなかに、光と影を融合させられるように。
静かに、勤めて参ります。


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