ブログ

2014年7月28日

【アヴィニョン・レポート】 L’Humanité紙に『室内』記事

ル・モンド、リベラシオンに引き続き、ユマニテ紙に掲載された『室内』公演の記事をSPACの会会員の片山幹生さまが翻訳してくださいました!
ありがとうございます!

※元文はこちら(仏語)
※ル・モンド掲載記事はこちら
※リベラシオン掲載記事はこちら

***
アヴィニョン:レジによる暗闇のレッスンの恍惚
アヴィニョン演劇祭 ジャン=ピエール・レオナルディーニ
『ユマニテ』紙 2014年7月17日(木)

[写真キャプション]クロード・レジはもはや取り戻すことのできないものを提示する。水死した若い娘。意識のない小さな身体を女たちが見守る。(撮影:三浦興一)

メーテルリンクの『室内』を、日本語で上演する。このフランス人演出家は、言葉では伝えられない領域のなかで、常により遠くの地点に向かって進んで行く。この希有な時間は音楽によってかき乱されることはない。そこで人が耳にするのは、喪失と哀悼を伝えるために丁寧にコントロールされた人間の声だけだ。

(アヴィニョン特派員)クロード・レジは、横山義志の日本語訳によるモーリス・メーテルリンクの『室内』の翻案を上演する。静岡で初演されたこの舞台は、すでにこの五月にウィーン(オーストリア)とブリュッセルでも上演された。さらに秋の芸術祭のプログラムとして、9/9から9/27までパリの日本文化会館(Maison de la culture du Japon)でも上演されることが決まっている。

 レジがやってくるのを、私たちは静かに待っていた。騒がしさとは無縁の事件が起こるに違いない。熱狂からは避難して、モンファヴェの多目的ホールで私たちは、レジを待っていた。レジはこの機能的で没個性的なホールを瞑想のための空間に変容させた。2009年に、ジャン=カンタン・シャトランとともにフェルナンド・ペソアの『彼方へ 海の讃歌』をレジが世に送り出したのも、この同じ場所だった。

〈奇妙な言語がわれわれの耳元で鳴り響く〉
 メーテルリンク (1862-1949)は、レジにとって、精神的な面における兄とも言える存在である。レジは1985年に[パリ郊外の]サン=ドゥニのジェラール・フィリップ劇場で『室内』を上演し、それからそのちょうど十二年後に[同じメーテルリンク作の一幕劇、]『タンタジルの死』を上演した。今回上演される『室内』では、言葉の楽譜に空白が目立つ。表現は切り詰められ、暗示的になっている。この新しいバージョンで、レジはほとんど沈黙といっていいような地点に到達した。

 その静けさのなかで、かすかに聞き取ることができる声がある。その声が話すのは、われわれの耳には奇妙に聞こえる言語、まったく別の世界からやってきた言語だ。それはどんな世界なのだろうか? おそらく潜在的な喪失を抱える世界だ。その世界は真っ白な砂地の広がりのなかにある。その砂地の上を、静かにゆっくりと人々が行き来する。その人々の姿は、あたかも音楽的な秩序に合わせて変容するかのような照明(レミ・ゴドフロワ)の奥に映し出される、華麗な書体で書かれた文字のようだ。この舞台では音楽は使用されていない。人の声が奏でる音楽だけがある。不安はこのためさらに増幅される。

 精妙にコントロールされた声は、取り返しのつかない悲劇があったことを告げる。若い娘が水死した。その様子は、オフィーリアの最期を思わせる。舞台の中央では、子供がひとり眠っていて、女たちがそれを見守っている。大きな永遠の眠りと小さな一時的な死の対比。詩人の直感は、無意識のうちに思い描かれたある種の精緻な儀式の進行にしたがって、われわれの目の前で具現化される。観客のわれわれは、芝居の外側から、息を飲んでその様子をうかがい見る。部屋の室内の様子を注意深く見守る彼ら、室内の様子を描き出す彼らの存在に、われわれはほとんど心奪われている。その家のなかでは、こどもが横たわり、眠っている。若くして死んでしまった娘を弔う行列が徐々に近づいている気配がする。

〈そして漆黒の闇は光を放ち始め、光に包まれる〉
 精神分析用語から取られた「悲哀の仕事」という表現は、その使い勝手のよさゆえに、あらゆる機会で用いられるようになったため、陳腐な紋切り型になってしまった(「レジリエンス(精神的回復力)」も同様だ)。しかし暴力的なイメージの傲慢さのなかでもまだ隠喩が機能していたときには、悲哀の仕事は、われわれの目(かつては「魂の窓」と呼ばれたこともあった)の前で、適切なかたちで遂行される。クロード・レジは、観念的な瞑想の演劇を抑制した行為のなかで作ってきたが、これほど遠くの地点に到達したことはこれまでなかったのではないだろうか。

 密やかな知覚の測量士としてのレジの技量は、今やその最高点に達し、その芸術は昇華され、リンボ(古聖所)のすぐ側にまで行き着いた。レジの作品を通して、われわれは死を味わうことができるとまで言えば言いすぎかも知れないが、彼の作品は、死をかいま見せ、感知させ、その匂いを嗅がせてくれる。レジの作品で問題となっているのは、バロック的な表象である「空しさ」ではない。このバロック的表象には、予兆と去ってしまった存在への悲嘆が詰め込まれている。レジの作品はそうではない。われわれは1時間45分のあいだ、中間状態、物事の本質について思索するための時間領域のなかにいた。メーテルリンクが「暗闇の海」と呼ぶ世界が目の前に広がる。

 われわれはこれほど深い暗闇と出会ったことはなかった(ピエール・スーラージュ(1919-)の絵画にはこれに匹敵する闇が存在するかもしれない)。この暗闇は光り輝き始める。そして灰色のあらゆるスペクトルがすみずみまで探索された後で、この暗闇は光に包まれ、われわれはそのなかに人影を見分けることができるようになる。人影は、絵画のように縁取りされた舞台の長い長方形のなかから、ゆっくりと現れ出る(舞台美術はサラディン・カティール。彼は大岡舞とともに衣装も担当している)。

 レジの深遠な構想は、彼の持つ絶対的な統治権のもと、『室内』という作品のなかで実現され、明らかになった。薄暗い明るさが意味を照らし出し、そこから彼の構想が明らかになる。レジが宗教的な領域において超越性を求めているのかどうか私は知らない。しかし彼にとって重要なことは、それぞれの人間が背後に抱えるあらゆることがらについての終焉を共有することではないだろうか。そして感覚的で具体的な経験を通して、死がわれわれにとって身近なものになったとき、この共有は行われるのである。

訳:片山幹生(SPACの会 会員)

***

◎『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら