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2020年4月24日

『ワジディ・ムアワッドによる日記の朗読』コロナウィルスの時代のワジディ・ムアワッド 

藤井慎太郎
(日本語字幕翻訳)

Journal de confinement_SPAC
 
 SPACでは『頼むから静かに死んでくれ』『火傷するほど独り』がこれまでに上演され、お馴染みとなっているムアワッド。本当なら今年は『空を飛べたなら』が上演される予定であった。1968年にレバノンに生まれ、内戦を逃れて家族とともにフランス、ついでカナダに亡命したムアワッドだが、モントリオールのカナダ国立演劇学校に入学したことが人生の転機となる。俳優・劇作家・演出家として世界的な成功を収めた彼は、2016年からフランス国立コリーヌ劇場の劇場監督を務めている。ムアワッド個人の人気もさることながら、すぐれたアーティストと刺激的な作品が並ぶプログラムによって、コリーヌ劇場は大勢の観客、特に若い観客が詰めかける活気に満ちた劇場となった。

 『空を飛べたなら』は、ムアワッドの人生をいい意味でも悪い意味でも狂わせることになったレバノン内戦——『頼むから静かに死んでくれ』をはじめ、ムアワッド作品の多くはレバノン内戦の(非)人間性をめぐるものである——の原因といってよい、パレスティナ問題を取り上げたもので現代のイスラエルにおけるユダヤ人とパレスティナ人の間の禁じられた愛を描きつつ、予想もつかない劇的な結末が観客を驚かせ、感動させる4時間の大作だった。テクストはムアワッドがフランス語で書いたものだが、劇中ではフランス語がまったく用いられない代わりに、ヘブライ語、アラビア語、英語、ドイツ語の複数言語が話される点でも、大きな野心に導かれた作品であった。

 だが、コロナウィルスの感染拡大に伴って、フランスや日本も含め、世界各国で外出が制限され、来日公演もふじのくに⇄せかい演劇祭開催もかなわなくなったのだった。世界のおよそすべての国で国境が閉ざされ、ウィルスとの闘いはしばしば戦争になぞらえられている。国家、組織、個人が「壁」をつくって「うちに立てこもる」ことを余儀なくされている今こそ、ユダヤ人とパレスティナ人の間にある心理的そして物理的な壁、演劇における言語という壁を主題とする『空を飛べたなら』の上演は、日本にいる私たちにも大きな意味を持ったはずだった。ほんとうに惜しまれることだ。

 だが、その代わりに、今回、ふじのくに⇄せかい演劇祭に代わる「くものうえ⇅せかい演劇祭」の一環として、ムアワッドによる『隔離日記 第18日』の公開が可能になった。日本よりも早く事態が深刻化したフランスでは、3月13日から100人以上の集会が禁止され、ムアワッドが率いるコリーヌ劇場もその翌日から閉鎖された。3月17日からはフランス全土で外出が禁止され、現在に至っている(日本の「自粛」とは異なり、罰則を伴う「禁止」である)。劇場での活動を完全に中断せざるを得なくなったとき、ほかの多くのヨーロッパの劇場と同じように、ラ・コリーヌもその活動をウェブ上に移行させた。日記のかたちを借りて、封鎖と隔離の下の生と芸術、演劇についてムアワッドはテクストをしたため、それを自らが朗読したものを劇場ウェブサイトにおいて3月16日から毎日公開して、現在に至るまで続けている(週末を除く)。

 ここに日本語字幕を添えて公開される『隔離日記 第18日』は『空を飛べたなら』とは対照的な、15分足らずの短い映像であり(劇場ウェブサイトで公開されているのは音声のみ)、登場するのはムアワッド一人で、過剰な演技も演出も削ぎ落とされたもので、逆にその単純さと素朴さが観客を惹きつける(だが、『火傷するほど独り』で見せてくれた通り、ムアワッドはすぐれた役者であり、これは朗読である以上に演劇なのである)。彼の思考は、コロナウィルスがもたらす「死」を出発点として(フランスではすでに2万人を超える人命が失われた)、ベルイマンやタルコフスキーの映画、ジャコテの詩、ギリシア悲劇に登場するイフィゲネイアなどにふれながら、災いを鎮めるための生贄という「犠牲」へと向かい、「死」が蔓延するなかで「生」「誕生」を口にすることの重要性へと至る。

 だがムアワッドは、最後に私たちに問いかける。まさに今日生まれくる子どもから、20年後に「人間は変わらなかった?」「人間の半分以上が封鎖されて、根本から変わらないなんてある?」と尋ねられたとして、そのときいかにして「結局、何も変わらなかった/封鎖が解かれたときはちょっと大変だったけど/その後も恐かったし/でも続けたんだ、前と同じように」と答えられようか、と。

 日本にいる私たちは、9年前にも同じことを思わなかっただろうか? 東日本大震災、津波、原発事故のカタストロフィを経験したとき(フランスにおける犠牲者の数は震災のそれに匹敵するか、それ以上のものだ)、「復興」とは震災以前に戻ることではない、新しい人間と社会のあり方を発明しなければならないと、私たちは思ってはいなかったか? だが、私たちは震災の日に生まれきた子たちに、今、何と答えられようか? 

「結局、何も変わらなかった[・・・・・・]続けたんだ、前と同じように」 

 ムアワッドが放った言葉は、フランスからは遠く離れた私たちを不意打ちする。仏語圏スイスの詩人フィリップ・ジャコテがケシの花の色について紡いだ言葉がムアワッドの心をとらえたように、詩人の言葉はそこから離れたところで心を打つ。いや、直接の有用性や標的から離れているからこそ、心を打つ。それは、「言葉にわずかでも残っている価値」、言葉の芸術としての演劇の力のひとつなのだ。

【筆者プロフィール】
藤井慎太郎 FUJII Shintaro
早稲田大学文学学術院教授。フランス語圏・日本を中心に舞台芸術の美学と制度を研究する。主な著作にLa Scène contemporaine japonaise(共同責任編集)、『ポストドラマ時代の創造力』(監修)、『芸術と環境 劇場制度・国際交流・文化政策』(共編著)、『演劇学のキーワーズ』(共編著)など。

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くものうえ⇅せかい演劇祭2020
https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

◆『ワジディ・ムアワッドによる日記の朗読』
4月25日(土)13:00配信開始予定
*5月6日(水・休)22:00終了予定
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