演劇祭レポート(前後編)はこちら:<前編><後編>
5月4日、16時30分より駿府城公園内フェスティバルgardenで行なった「広場トーク」。
今年はゲストに哲学者の國分功一郎さんとメゾソプラノ歌手の清水華澄さん、司会に劇作家の石神夏希さんをお迎えし、SPAC芸術総監督の宮城聰とのトークを開催しました。
「ふじのくに⇄せかい演劇祭」や「ストレンジシード静岡」にお越しくださった方はもちろん、たまたま通りかかった方にも演劇・芸術・文化のおもしろさに触れていただけるように…と、例年、フェスティバルgardenの開放的な環境のもと開催している本企画。今回は特にお天気にも恵まれ、公園の景色の美しさはトークの中でもたびたび話題になったほど!
気持ちのよい青空と駿府城公園の木々の緑に囲まれて、約150人のお客様にご参加いただきました。
トークでは、今年2021年の演劇祭にあたり宮城が掲げた「サプリメントとしての肉体」というテーマを、ゲストとともに改めて見つめていきます。
宮城:2021年(の演劇祭)は「何がなんでも生でやろう」って肌感覚で思ってたんですが、その後で「なんでここまで僕らは〈生〉を欲してるんだろう、〈生〉に飢えたんだろう」って考えてみたんです。
もしかしたら人間というのは、生身の肉体と向き合っている時に、計測できないくらい微量なんだけれど、人間が生きていく上でどうしても必要な“微量栄養素”みたいなものを摂取しているのかもしれない。実は僕らは、その計測できないわずかな栄養素のおかげで人間らしく生きていたのかもしれない。
こんな宮城の導入からはじまり、この1年の体験やその中で考えたこと・感じたことを交えながら、各登壇者にお話しいただきました。
國分:オンラインミーティングでは、みんなと集まっても終わった後で喋る時間がないから、なかなか仲良くならない。そういう細かな欠落ってたくさん言えるんですけど、なぜ身体を持った人間が対面しないといけないのか、その理由はなんなのか、微量栄養素の本質はなんなのかって、まだ解明されてないと思うんですよ。
アナログを懐かしむボヤキじゃなくて、多分みんな、なんとなく感じている。
僕は哲学をやっているから、そこに言葉を与えていかなきゃいけないと思うんです。
宮城さんのお話は、それをまさしく実践しよう、という。
清水:音楽って、ネットでもテレビでも、ダウンロードしても聴けるし、身近にあるものなんですけど、なんで演奏会に足を運ぶんだろうって思ったんです。
私、去年8月にコロナ禍において半年ぶりくらいに本番があったんですね。半年間、人と対面で話をすることもほとんどなく、人の前で歌うことも半年ぶりだった。で、自分も音楽を聴くし、自分も演奏する、となった時に「あ、これだ!」となった。音ってもちろん鼓膜で受けるんですけど、肌でも絶対に感じている。私は確かにいつも「音を浴びにいく」と思っているんです。こんな当たり前のことをどうして忘れてしまったんだろう?もしかしたら気づけてなかったのかな?と、その1日でいろんな思いが巡ったんです。
生で「浴びる」こと、対面することの大切さ、
一方で、オンラインだからこそ敷居が下がったこと…
それぞれに例は尽きませんが、「どちらも真実」であるとして
「“いや、結局対面ですよ”っていうのもやっぱりおかしいと思うし、“対面なんて”というのもおかしい」「一時的な答えの決定を避けなくてはいけない、その両方を考えなくてはいけないのが今の状態」
と語る國分さん。
「(感染症対策を講じつつ、すべての作品を野外上演とした)この演劇祭も、そんな中で探った開催形式なのかもしれない、過渡期なのかもしれない」
と司会の石神さん。
「人間の生身のエネルギーが届く限界」の例として古代ギリシアの大劇場を挙げながら、その対比として「東京ドームでローリング・ストーンズを観たときに…」と語る宮城の話から、話題は、大規模化していく客席で受け取るものは〈生〉なのか、という方向に広がっていきます。
音響設備などの技術を通していても〈生〉のエネルギーが届いて感動しているように感じていたが、そこには私たちが析出できていない “何か” が欠けているのではないか。そこでリアルだといえるのは、周囲で一緒に盛り上がっているお客さんのエネルギーなのではないか。規模が大きくなっていくときに起きる変化とは。「対面」ということを考えるならば、大規模なものに背を向けることになるのかもしれない……
ライヴやスポーツ観戦にもよく行かれるという清水さんがご自身の経験を振り返って率直な疑問を投げかけると、哲学の捉え方での例えや引用を交えつつも華麗なほど分かりやすくお話を展開していく國分さん。清水さんが絶妙なタイミングで質問やツッコミ(?)を挟んでくださることで、いっそう親しみやすく、トークのドライヴ感が増していくようでした。
終盤、石神さんの問いかけから國分さんに、イタリアの哲学者ジョルジオ・アガンベンがコロナ禍の中で表明した言葉を紹介していただきました。
アガンベンは、「アンティゴネから現代に至るまで、人間の文明というものは死者に対する敬意を葬儀という形で行なってきたのであって、それを無くしたら人間は野蛮な存在へと再び堕する」といった発言で、炎上騒ぎを起こしたんですよね。コロナ禍で葬儀を行うことが難しい現状についての彼の発言に完全に同意はできないにしても、何の疑問も持たずにこの状況易々と受け入れるのだとしたら、私たちは何かを失うことになるかもしれない。ただ、そこで失われるものが何なのかはまだ十分に解明されてないんだけれども…
という國分さんのお話。
あわせてSPACの『アンティゴネ』をご観劇くださった皆様には、王の命令に反して兄の埋葬を決意するアンティゴネの物語に、いっそう考えさせられるものがあったかもしれません。
そしてトークは締め括りへ。
冒頭で清水さんが仰った「音を浴びにいく」という表現をこのトークを聞きながら実感するかのような、登壇者の皆さんの言葉とエネルギーをたっぷりと「浴びた」約1時間でした。
昨年の演劇祭の中止と「くものうえ↑↓せかい演劇祭」の実施を経て、「サプリメントとしての肉体」というテーマを見つめながら開催した今回の演劇祭。各作品・各企画を通して、皆様にはこのテーマをどのように受け止めていただけたでしょうか。
私たちスタッフも、たくさんのお客様のエネルギーを受けて「サプリメント」をいただいたゴールデンウィークでした。ご来場くださった皆様、改めまして、ありがとうございました!