ブログ

2014年5月24日

不定期連載 クロード・レジがやってきた(6) ~『室内』関連ブログ~

『室内』ヨーロッパツアー静岡稽古最終日(遅くなってすみません・・・)
SPAC文芸部 横山義志

『室内』組はウィーンでの公演を終え、今日がブリュッセル公演の千秋楽。あいだに演劇祭等々あってすっかりアップが遅くなってしまいましたが、以下、ヨーロッパ公演前の静岡での稽古最終日に書いたレポートです。

***

静岡での『室内』稽古最終日。なんだか作品がすっかり変わっていて驚いた。レジは「はじめてドビュッシーの音楽が聞こえた」と言っていた。この作品は「沈黙の、緩慢なオペラ」なのだという。たしかに、台詞が、というか声の全体が、音楽として聞こえるようになっている。

もう一つ驚いたのはカーテンコール。にこやかに、手までつないで、お辞儀をしている。レジが「ひびきくん、もっと笑顔を見せてよ」なんて言ったりする。これは自分にとってはけっこう驚天動地の出来事だった。パリで見たレジ作品の多くでは、芝居が終わっても、俳優はちょっと目もとに笑みを浮かべるくらいで、お辞儀すらしない場合が多かった。どうしたのだろう。

とにかく、今回レジはご機嫌だった。私は最初と最後の稽古しか行かなかったが、終始なごやかだったようだ。それに元気だった。もうすぐ九二歳になるとはとても思えない(会うたびに忘れてしまう)。血色もよく、稽古場でもじっくり一人一人の俳優を眺めていて、通しが終わるとそれぞれに明確な指示を出す。たぶん、何か見えてきたんだろう。一年を経ることで、去年は見えなかった何かが。

去年はどうしても、みんな見たことがあるレジの作品を思い出しながら、「それらしく」やろうと必死だったのではないか。私も、どうしても過去の作品と比べて、「レジらしい」「らしくない」という基準で何かを評価しようとしてしまっていた。たぶんレジ自身も最初のうちは、自分がかつて見つけたものを、どうやってこの人たちと一緒に見つけることができるだろうか、と思いながらやっていた部分があるのではなかろうか。でも、できたものは何にも似ていなかった。昨年の稽古場では、これが果たして成功作なのか失敗作なのか、正直よく分からなかった。

本番をやってはじめて生まれる信頼関係というのもあるんだろう。演劇では、お客さんに見せてはじめて、作品が作品として成立する。どんなに「うまく」できても、お客さんに何かが伝わらなければ何の意味もない。去年はきっと、みんなレジがどこを指さしているのか、一生懸命見極めようとしていた。だが、俳優はお客さんに伝わったのを感じた瞬間から、演出家の指の先よりももっと遠くが見えるようになる。今回の稽古では、俳優たちがレジ自身の目を見つめられるようになったのではなかろうか。そして、その奥にあるものにも目を向けられるようになったのではなかろうか。レジにとっても、きっと俳優の一人一人の顔が、そしてその奥にあるものが、よく見えるようになってきたのだろう。

それにしても、ここまで俳優を見るのが好きな演出家が他にいるだろうか。『室内』の稽古では、よく「うしろの俳優とかぶらないように」という指示が出ていた。これは「自分から見て」という意味らしい。たしかに、楕円堂の半楕円形の客席からは、「どこから見ても」かぶらないように、というのはけっこうむずかしい。さらに、俳優に「どこに向かって演技してるんだ!」と声をかけることもあったという。これは「自分に向けてやってくれ」という意味らしい・・・。レジは百数十回目の公演だろうと、必ず自分の作品を真ん中の席で見ている。そして、いつでも目を見開いて、誰よりも夢中で見ている。こんな演出家もなかなかいない。

レジの稽古は、時間は短くても、終わるとどっと疲れる、と俳優たちは言う。それはきっと、「完成品をパッケージ化して市場に出す」というような発想がみじんもないからだろう。だから、今日やってよかったことが、明日もいいとは限らない。「客観性」という発想がもつ欺瞞に対して、これほど敏感な人もいない。「人が見たらこう思うだろう」という、いい加減な推測にもとづいて物を作ることの欺瞞。未来に期待して、自分を安心させることもしない。とにかく、自分が、今、ここで、面白くなければ意味がないのだ。俳優は、台詞のなかで一瞬気が途切れると、すぐに指摘されるという。「芝居をするな」ともよく言う。自分が自分にとって本物でありつづけること。それ以外に「本物」を見せることの根拠はありえない、という強烈な確信がある。

今回、レジがご機嫌なのは、きっと違うものが見えたからだろう。自分が探していたのとは違うものが。最近のレジ作品は、やたらとソロ作品が多かった。十人以上出る作品を作るのは久々だろう。『室内』の稽古でも、はじめのころのダメ出しは、俳優個人のなかでの台詞回しやイメージに関するものだった。だが、今回はそれがほとんどなかった。とりわけ今日見て驚いたのは、そこに一つの共同体ができていたことだった。それぞれの俳優が生み出すものではなく、俳優と俳優とが関係をもつことで、はじめて生まれてくるもの。一人一人が、自分が作品のなかで占めている場所を見出し、他の一人一人の俳優との距離や関係を見つけ出して、そこから何かを生み出そうとしている。こういうタイプの作品は、もうずいぶんやってこなかったのではないか。あるいは、もしかするとレジにとってもほとんど初めてなのかも知れない。もちろん『室内』は三〇年以上前にフランスでもやっているのだが、そのときの舞台写真を見ると、やはりフランス的な、俳優個々人の力量で見せる舞台だったような気がする。

改めてレジの上演史を見直してみると、いわゆる「劇団」に対して演出したのは、一九九〇年にコメディ=フランセーズでサルトルの『出口なし』をやって以来、二十数年ぶりになるらしい。昨年の稽古では、稽古が進むほど、個人の芸に頼らない方向でテキストレジが進められていった。長台詞を分割し、複数の俳優に振っていく。それが今になって、ちょっとコロス的な効果を生むようになってきた。アヴィニョン演劇祭では同じ劇団が『マハーバーラタ』と『室内』を上演することになる。一見すると演劇の双極のような二作品だが、きっとそこには通底するものがある。

『室内』というのは不思議な作品だ。その不思議さにも、今日になってようやく実感できた部分がある。ふつう戯曲というものは、「死」というものがなるべくドラマティックになるように構築されている。だから、死んでしまう個人は、なるべく「かけがえのないもの」として描く。『室内』では、四人の子どものうちの一人が亡くなり、しかも家族は作品の最後までそれを知らない。もちろん、どんな一人だって、家族にとってかけがえのない一人なのは間違いないし、それが家族に悲痛をもたらすのも間違いない。だがメーテルリンクの作品では、この娘にも、その家族にも、名前すら与えられない。

レジは毎回のように「これは悲劇ではない」と繰り返し、メーテルリンクの『蟻の生活』をよく引き合いに出していた。ここで人々は、まるで蟻の巣を観察するように、家族たちを観察しているのだという。一人の人間は、人類全体にとっては、あるいは生物全体、地球全体にとっては、生命の連鎖のなかの一つの鎖に過ぎない。きっと誰かにとっては「かけがえのない一人」だが、その誰かだってやっぱり鎖の一つでしかない。そしてその一人も、その誰かも、いつかは死んでいく。

とはいえ、そんなことを知ったところで、自分にとっての「かけがえのない一人」をなくすことは、やっぱり悲劇ではある。とりわけヒトという、群れをなす動物にとっては。ヒトはアリと同様、同類の他者を必要とする動物である。自分が属する共同体を必要とする動物である。たとえ小さなものであっても。ここで気づかされるのは、悲劇として経験されるのはある個体が死を迎えることではなく、その個体と別の個体、あるいはそれが属していた共同体とのあいだにあった関係が決定的に失われることなのではないか、ということだ。つまり悲劇としての死とは、個人にとっての事件ではなく、関係にとっての、関係のなかでしか生きられない群れにとっての事件なのだ。

『室内』では、そのような動物の群れが、もう一つの群れを見つめている。ここには、きっと「登場人物」はいない。「老人」、「よそ者」などと、群れのなかでの位置が示されているだけだ。今日の稽古では、家族がなんだか本物の親子のように見えた。「音楽」が聞こえてきた、というのは、きっと「群れ」としての声が聞こえてきた、ということなんだろう。レジがご機嫌なのは、きっとアリが「群れ」として立ち上がってくるのが見えたからなのではないか。人間の命を見つめることは、必ずしも一人をじっと見つめることではない、ということに気づいたからではないか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*不定期連載 クロード・レジがやってきた バックナンバー
(1) [2013.3.14]
(2) 『室内』翻訳の話 [2013.4.9]
(3) 闇と沈黙 [2013.4.21]
(4) 遅れてきた巨匠 [2013.4.24]
(5) レジが再びやってきた [2013.4.14]

*『室内』ヨーロッパ・ツアーの詳細はこちら