2015年4月27日

【ふたりの女】ゆれる、影法師、のこと。(飴屋法水)

 いつだったか、たいへんな事に気がついたのです。
 それは動物図鑑をめくってる時のことでした。
 動物図鑑には、当たり前ですが、地球上に住んでいるとされる、実際には、ほとんど出会う事も見かける事も無い、たくさんの動物たちが、たいていは、カラーのイラストなどで描かれています。
 ライオン、シマウマ、クマ、アザラシ、それから、ラクダ、ムササビ、ヤマアラシ…やがて、オポッサムだの、ミミナガバンディクートだの、動物園でもテレビ番組でも見た事も無い動物たちが、やはりイラストで描かれています。
 それが、どんな動物か、どんな種であるかがわかるように、見た目の姿が描かれています。それを見て思うのです、へえ、これがミミナガバンディクートか、たしかに耳が長いねえ、などと。 Read the rest of this entry »


2015年4月16日

【メフィストと呼ばれた男】メフィスト―ドイツ的心情と悪魔―(高橋順一)

 クラウス・マンの小説『メフィスト』の主人公ヘンドリック・ヘーフゲン(今回上演するトム・ラノワの翻案ではクルト・ケプラー)のモデルは、ナチス時代にプロイセン国立劇場の監督を務めた俳優グスタフ・グリュントゲンスである。1981年に制作されたイシュトヴァーン・サボー監督の映画「メフィスト」はこの小説を原作としており、当たり役であったメフィストを演じるヘーフゲン=グリュントゲンスの鬼気迫る様相が印象的であった。 Read the rest of this entry »


2015年2月22日

【ハムレット】時代と自己を映す/疑う鏡としてのハムレット —ク・ナウカ旗揚げ公演からSPAC公演へ—  (エグリントンみか)

Filed under: 2015

※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を
 希望される方には、観劇後にお読みになる事をお勧めいたします。

 演劇とは「自然に対して掲げられた鏡」とするデンマーク王子の台詞通り、個々の舞台は、それを生み落とした時代を反映し、批評すると同時に、「鏡」を作る者、見る者に、「お前は誰だ?」という根源的な問いを突きつけてくる。芝居についての言及が顕著に多いメタシアター『ハムレット』が、4世紀以上も飽くことなく上演されてきたのは、言語に囚われ、この世という舞台を演じざるを得ない演劇的存在としての人間を、「時代の縮図」である役者たちが舞台上で際立たせることにより、「だんまり役」に甘んじる観客たちの不安と懐疑を掻き立てるからではなかろうか。 Read the rest of this entry »


2015年1月15日

【グスコーブドリの伝記】空想科学としての『グスコーブドリの伝記』(石黒 耀)

Filed under: 2015

 温暖化阻止が合い言葉になっている昨今からすると嘘のような話ですが、宮沢賢治が生きた時代は、地球がまだマウンダー小氷期と呼ばれる寒冷期の余韻を引きずっていた時期でした。賢治が生まれた岩手県のような高緯度地帯は、特にその影響が強く、しばしば冷害に襲われましたが、低緯度地帯は気温が上がって農業生産が回復していました。そのため、世界的には農産物価格が下がり始めたのに対し、たびたび冷夏に襲われた東北地方の農家は、生産量が上がらない、穫れても価格が安い、という二重苦に苦しめられたのです。 Read the rest of this entry »


2014年12月3日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

Filed under: 2014

 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。 Read the rest of this entry »


2014年4月27日

【アヴィニョン演劇祭の60年】アヴィニョン演劇祭の歴史と再出発(藤井慎太郎)

 南仏で毎年7月に開かれているアヴィニョン演劇祭は今年、7月4日から27日にかけて第68回が開催される。その起源となったのは、1947年9月4日〜10日にジャン・ヴィラールの手によって開催された「アヴィニョン芸術週間」である。それが、1200万ユーロ(2013年の数字、1ユーロ=140円として16億8000万円)の予算をもとに、フランスはもちろん世界各地から35から40作品が招聘され、全部で300回ほど上演され、のべ12〜14万人の有料入場者数を数える、ヨーロッパはもちろん世界でも最大級の舞台芸術祭となるに至った。これは、同時に開催され、1000を超える上演団体(演劇、ダンス、サーカス、大道芸…)が勝手連的に結集するアヴィニョン・オフとは完全に別個のフェスティバルである(「オフ」はエジンバラ・フェスティバルでいえば「フリンジ」にあたり、「オフ」と区別するときには演劇祭は「イン」と呼ばれる)。だが、両者の盛り上がりは共鳴し合って、7月のアヴィニョンは、南仏の容赦ない日差しのもと、ミストラルと呼ばれる強風にときに見舞われながら、街全体が演劇都市に変身する。 Read the rest of this entry »


【タカセの夢】身ひとつで向きあう(石井達朗)

 十数年前に過ぎ去った20世紀を思い返してみる。こと芸術の領域に焦点を当ててみると、過去数世紀ぶんの蓄積が引っくりがえりそうな、大胆な改革と革新の嵐が吹き荒れた。20世紀初頭のロシアアヴァンギャルド、イタリア未来派、ダダイズム、シュルレアリスムの華々しい幕開け。音楽では12音技法や電子音楽が古典派・ロマン派の流れとは訣別した世界を切り拓く。ダンスではイサドラ・ダンカンが身体を拘束するコスチュームを脱ぎ捨て裸足で緩やかに踊り始め、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ)が古典バレエとは異なる強烈なイメージを舞台に召喚する。またドイツの表現(主義)舞踊が、感情や状況を等身大以上に表わす動きで、後に日本で暗黒舞踏が誕生するひとつのきっかけを与えている。そのあとに続く、不条理演劇、アンチロマン、アングラ、ハプニング、ポスト・モダンダンス、ミニマルアート、コンセプチュアルアート…などの用語を思い浮かべるだけでも、気持ちのいいほどに破壊と創造が謳歌された世紀であった。 Read the rest of this entry »


【マネキンに恋して】&【Jerk】際から際へ思考を揺さぶる:対立項を並べるジゼル・ヴィエンヌの分野超境的芸術(岩城京子)

 欧州の舞台芸術界で、近年、よく聞くことばに「分野超境的(インターディシプリン)」あるいは「分野複合的(マルチディシプリン)」というものがある。日本の舞台芸術界ではまだ耳慣れないことばだが、要するにこれは、演劇、ダンス、音楽、映像、建築、彫刻、ヴィジュアル・アートなど、多種多様な表現形式を越境的/複合的に採用する芸術表現のことである。主な作家に、ロメオ・カステルッチ(1960-、イタリア)、ティム・エッチェルス(1962-、英国)、ブレット・ベイリー(1967-、南アフリカ)、フィリップ・ケーヌ(1970-、フランス)、マルクス・オェルン(1972-、スウェーデン)、ファブリス・ミュルジア(1982-、ベルギー)などが挙げられる。私見では、これは時代に要請されて生まれた芸術表現であるように思う。つまり複数の断片化された物語が、つねにオンライン/オフラインといった異なる位相で同時進行する、多層的な「現代都市社会」を過不足なく表出するためには、かつてのような単線的、時系列的、分野限定的な演劇表現ではなにかが決定的に不足し、その欠落感への応答として、こうした複合的な表現形式が必然的に生まれてきたのだ。そして静岡で今回『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズー』(2013年初演)と『Jerk』(2008年初演)を上演する作家ジゼル・ヴィエンヌ(1976ー、オーストリア/フランス)は、この分野越境的な舞台作家たちのなかでも、際立って異質な表現方法を選択する作家だ。 Read the rest of this entry »


2014年4月26日

【ピーター・ブルック映像3作品】ピーター・ブルックについて(河合祥一郎)

 ピーター・ブルックがシェイクスピア記念劇場(現ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー[RSC])の演出家として招かれたのは弱冠21歳のときだ。その若さに驚く。1946年のことである。
 オックスフォード大学在学中、仲間を俳優にして映画を撮っていたブルックは、当初は演劇でもフレーミングという概念を用いており、観客はプロセニアムアーチの向こうにある虚構の世界を覗きこむと考えていた。当時としては、それが常識的な考え方だったのであり、スタニスラフスキーの言う「第四の壁」によって観客席と舞台空間が区切られ、幕があくと観客の目を驚かせるような装置が舞台を飾っているというスタイルの公演が続いていたのだ。当初ブルックもそれを当然視していたが、やがて全否定するようになる。すなわち、役者は観客と空間を共有しなければならず、過剰な舞台装置はむしろ観客の想像力を制限するので、「なにもない空間」こそがよいのだという発想にたどりつくのである。 Read the rest of this entry »


クソ社会で見る一瞬の夢〜天野天街版『真夜中の弥次さん喜多さん』に寄せて〜(宮台真司)

※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を希望される方には、観劇後にお読みになる事をお勧めいたします。

ITOプロジェクト(関西在住人形劇界有志連合)が上演した『平太郎化物日記』を下北沢で観劇したのが2004年夏。それが天野天街氏の演出する芝居の初体験だった。一見すると物語の本筋と関係ない遊戯性の過剰が眩暈を醸し出す。それが迷宮感として語られる。他方、あまり語られないが、構造的かつ伝統的な構成がもたらす批評性の的確さに鳥肌が立った。

以降、天野天街氏の芝居を全て観た。どの芝居でも、恣意的な遊戯性の過剰は、ループに代表される時間軸上の混乱を必ずバックボーン(背骨)としていた。だから最終的には恣意性や過剰さが必然的だったことに納得せざるを得なくなる。しかもこの時間軸上の混乱が、戦間期前期のモダニズムを構造的に反復するものであることで、明確な批評性に結びつく。 Read the rest of this entry »