劇評講座

2009年5月5日

『転校生』(飴屋法水演出、平田オリザ原作)

カテゴリー: 転校生

いま生きているということ
井出聖喜

舞台上の階段状に組まれた床面に椅子が縦四列、横五列に並べられている。それが教室であり、彼女ら(たぶんこの平成の世の日本の、どこでもいいどこかにいる女子高生)の「世界」だ。ところが、その床を作るのに「平台」や「箱馬」等の舞台道具が剥きだしで使用されており、また、舞台両袖には照明器具が(実際に舞台で使用されるとは言え)「無造作に」置かれ、客席から丸見えになっている。更に舞台奥の壁には脚立が片づけ忘れたかのように立てかけられている。これは要するに、舞台上に装置を建て込んで、擬似的な現実世界を作り上げるという演劇の一種基本的な約束事が排除されているということだ。

一方出演者達は本名のまま舞台に登場する。また、彼女らの着る服は同じクラス仲間という設定であるのにバラバラで、彼女らがふだん学校で着ている制服をそのまま使用しているようなのだ。

これらはいずれも、「演劇」ということの虚構性をかなう限り排除し、観客の前に剥き出しの「現実」を提示しようという演出意図の表れと見ることができよう。言を換えれば、この舞台におけるこうした手続きは、女子高生の「いま」を限りなく生々しく写し取ろうという演出のたくらみを保障するのにどうしても必要なものだったのだろう。

客席に入ると、117の時報が間断なく聞こえている。「16時23分40秒をお知らせします。……」これは開幕まで続き、終幕にも聞こえる。それは「時」が(変な言い方だが)瞬時も止まることなく消費され、潰えていくことを我々観客に明確に感じ取らせる。そして、何よりもあの、ただひたすら浪費される言葉とめまぐるしく動く表情としなやかな肉体を持つ少女たちの「いま」が刻々移ろい、消え去っていくことを痛切に感じ取らせる。

開幕前、客電が落ちると、舞台奥のスクリーンに「転校生」というタイトルが大きく映し出される。しばらくすると「校」の文字が消え、「転生」という語がスクリーンに残る。次に「転」の文字が消え、「生」だけが残る。作品の主題を暗示する秀逸な幕開きだ。

さて、開幕。舞台は一人の中年女性の転校生を迎えることになる18人の女子高生の、機関銃の乱射のような「同時多発的」会話によって進む。その様は本当にどこかの女子高校のある日のある時間を、その生々しい生の一瞬一瞬を切り取ってきたかのような臨場感を与える。そうして、その会話の幾分かはとるに足らない、あえて言えば記憶に止める価値すらないようなものだ。

しかし、だまされてはいけない。作家のたくらみは、ただ単にとりとめのない女子高生の会話を「テープ起こし」するように記録するなどというところにあるのではない。その会話のそちこちに忍び込ませた幾つかの言葉や話題は、たとえば平成日本の女子高生の日常と世界の深刻な危機的現実とが共時的につながっていることを炙り出しのように浮かび上がらせる。また、一知半解的に語られる「カフカ」、「変身」、「不条理」といった命題からは、彼女らの屈託ない日々の在りようの底にも「存在の不条理」という深淵がパックリ口を開けているのだという暗示もある。(舞台の終盤、一人の女子高生が飛び降り自殺をする。屈託なく振る舞っていた彼女の心の荒廃が垣間見える瞬間だが、その彼女の死後も何事もなかったように振る舞っている女子高生達の姿は、虫になったグレゴールが死んだ後、晴れ晴れとした表情でピクニックに出掛ける家族の姿と重なり合い、個の存在などものともしない「日常世界」の復元力のしたたかさを改めて私達に感じ取らせる。)

ところで、そうした女子高生の日常は、突然理由もなく現れた中年女性の転校生によってほんの少しざわめき立つことになる。彼女は自分がどこの高校から転校してきたのかわからない、「今日、目が覚めたらこの学校の生徒になっていた」と言う。こんなシュールな設定はとてもリアリズムとは言えないが、作家が欲していたのは、十代後半の女子高生の集団の中に、彼女らの日常を相対化し、彼女ら自身に自分たちの日常を意識化させ、客観視させる「視点」だったのだろう。そう考えれば、確かにこの女性はあらゆる点で女子高生と対照的に、対極的に存在する。たとえばそのゆっくりとした、抑揚のないしゃべりにおいて。その殆ど無表情とも言える態度において。

ただ、「相対化」だとか「客観視」といった言葉だけではこの中年転校生の役割を捕捉しきることはできない。それを読み解く鍵は、女子高生達の会話に出てくる「風の又三郎」にあるだろう。山あいの分教場に高田三郎と名乗る一人の少年が転校してくる。彼の侵入は、あたかも野面をなでる一陣の風のように土地の子供たちの変哲のない日常に小さなざわめきを、何かしらきらきら光るものをもたらす……。

この又三郎に相当するのが中年女性の転校生だ。彼女は、女子高生達との出会いの当初は当然の如くいぶかしげに、敬して遠ざけるといった風に遇される。しかし、いつの間にか自然に少女達は、その輪の中に彼女を招じ入れる。この劇の終幕近く、一人の女子生徒と中年女性との間に交わされる静かな会話は、一種透明な叙情を湛えている。

さて、終幕。舞台の最上段に18人の女子高生が並んで、「せーのっ」と元気いっぱいの声を上げつつジャンプする。117の時報に合わせて、何回も、何回も。彼女らは永遠にジャンプしているようでもある。その一方、その活力漲る声の響きもしなやかな肢体も、時の浸食によって少しずつ毀れていくようでもある。どちらだろうか? ──どちらでもいい。ただ我々が感じるのは、彼女らが「いま」生きているということ、その「生」に対する「痛切な」と言うしかないようないとおしさなのである。

(観劇日 3月20日)