劇評講座

2011年11月14日

『WHY WHY』(ピーター・ブルック演出)

カテゴリー: WHY WHY

■準入選■

「演劇人」の常識 〜ピーター・ブルックによる演劇リサーチ『WHY WHY』

柴田隆子

演出のピーター・ブルックは、裸舞台を横切る人間とそれを見つめる人間がいれば演劇行為は成立するという、非常にミニマムな形で「演劇」を定義したので有名だが、今回の公演は、ほぼその定義に近いものである。椅子やドア枠などごくわずかな小道具だけで、イリュージョンを作り出すような舞台装置は一切なく、ミリアム・ゴールドシュミットの語る「言葉」、それを支えるフランチェスコ・アニェッロの「音楽」、そして彼らの身体の「動き」からなる。これといった筋はなく、「舞台」は観客の想像力の中で引用の織物を紐解き、記憶と紡ぎ合わせて新たに織り上げる、『WHY WHY』はそんな演劇体験の場であった。

2010年にピーター・ブルックとマリー=エレーヌ・エティエンヌによって書かれた本作は、アルトー、ゴードン・クレイグ、シャルル・デュラン、メイエルホリド、世阿弥、シェイクスピアのテクストからなる、まさに「演劇」の舞台であった。「私は誰?」という俳優の問いに始まり、「芸術は何のために」と問う場面で終わるこの上演には、終始「演劇」をめぐる問いがある。なぜこの舞台は上演されているのか、なぜそれを観るのか、なぜ演じるのか、なんのための劇場なのか、なんのために演劇はあるのか、私とは誰で、どうして今私はここにいるのか。古今東西の演劇人らの言葉は、それらの問いを考えるための媒介にすぎず、その答えは観客が自ら考えなければならない。つまり、この作品は舞台を支える「演劇」のコンベンションを理解し、これらの問いを自らの問いとして受け止めることができる観客を必要とするのだ。

舞台上の「演劇的行為」は自明に「演劇」にはなりえない。そこには演劇を「演劇」たらしめるコンベンションが存在する。それは日常的な振る舞いの延長線上にある日常のコードであるときもあるし、その作品が所属する文化圏の慣習や、その演劇形式が独自にもつ決まり事だったりする。観客が想像力を羽ばたかせるには、土台となる世界観や枠組が必要であり、今回はそれが、ロイアル・シェイクスピア・カンパニーと国際演劇研究センターに長年関わってきたブルックにとっては当然のことだが、西洋を中心とした演劇理論であった。テクストで引用とその構造を確認したい気持ちに駆られるが、それはあくまでテクストベースの「意味」に過ぎず、舞台上で上演されるパフォーマンスは、観客の持つ演劇体験と呼応して、「問い」にさらに広がりを持たせていく。

演劇は書物とは異なり、辞書で調べたり引用を確認することはできない。むしろ語られる言葉のもつ多義性を、音や響きに身振りなどを加味して想像力で膨らませるところにその醍醐味がある。「死を忘れるな(Memento mori)」「芸術の女神(Muse)」「亡霊(Geist)」の含意は、単にこれらを「死」「芸術」「知」の表象と置き換えて理解すれば事足りるというわけではない。前提となる西洋的知の枠組があり、それに呼応あるいは対抗する形での「演劇」の「言葉」なのだ。それに「言葉」は上演の一部にしか過ぎない。『リア王』や『ハムレット』の有名な場面は、かつてブルックが演出した場面が記憶の中で重なり、耳慣れぬ言葉の後「スターリン万歳」で言い過ぎたといわんばかりに口元を押さえるミリアムの演技は、ひょっとしてこれはメイエルホリドの「弁明」なのかと想像はどんどん膨らむ。「マリオネット」はクレイグだろうが、「蝋人形」が燃えるのはひょっとしたらタデウシ・カントールだろうか、「おやつの時間(Brotzeit)」は・・・。舞台をそっちのけで自身の演劇的記憶に沈殿していく。フランチェスコの音楽は時にそれを助長し、時に舞台に引き戻してくれる。

知的ゲームのようでとても楽しく、座していながら演劇体験に参加している気分も十分味わえる。しかし、ここで発せられている「演劇人」の言葉は、問いは、そのような知的好奇心のためにあるのではない。ここでは俳優と観客との丁々発止があるべきで、「演劇人」としてのそれぞれを見つめる場が期待されていたはずなのだ。しかし、残念ながら舞台と客席の溝は、少なくとも私にとっては深く感じられ、他者としてそのことを認識できたのは別な意味で収穫ではあったものの、ブルックやゴールドシュミットら向こう側の「演劇人」との差異を大きく感じざるを得なかった。

「演劇」の意義を問い直すこと、それは、今、日本においてなお一層必要なのは間違いない。その意味でこの上演の「問い」は非常にタイムリーであった。しかし今回の舞台はあまりにも西洋の「知」がベースになっており、ドイツ語上演ということもあって、それがどれほど観客に理解されたのかは疑問である。問いを共有する前提として、世阿弥すら取り込んでいる西洋の演劇的知にアクセスできない観客は、そこから排除されてしまう。そして日本の一般的観客の多くは、演劇的知をこうした西洋的文脈では少なくとも捉えていない。

その意味でこの舞台は特権的な「演劇人」のための舞台であったといえる。急遽決まった上演であり、SPACに集う優秀な「演劇人」には有用な舞台だったのだと思う。だが、今日の状況において本当に必要なのは、このような西洋演劇的知のコンベンションによらず、「一般」とよばれる観客の「生」に響く「演劇」ではないだろうか。今こそ演劇の本当の力が試されていい時である。今回の『WHY WHY』での問いに対し、これを観た「演劇人」がなんらかの演劇的行動をすることで初めて、この舞台の真価が問われることになるだろう。

2011年6月18日 静岡芸術劇場 観劇