二つの殺人事件の物語である。
化けた狸も人として数えるなら、だけれど。本物の藪の中から「藪の中」が始まる。川の向こう、彼岸から魂も語りだす。
坂道や階段、足元がぬかるむ場合もあり、トレッキングシューズや長靴を推奨、なるべく両手の空いた出立ちで、2時間近く歩くので水分補給必須、雨天時は雨ガッパ着用で傘NG、……こんなに注文の多い演劇も珍しい。だが逆に「演劇」という途方もなく準備と手間暇のかかる代物を、観客がフカフカした椅子にもたれて(時には眠気に襲われたりもしながら)漫然と眺めているのは随分と不平等だということにあらためて気づく。この劇は、不平等のシーソーに木の葉やら小石やらをのせてバランスをとる試みだ。カチカチ山の上で観客は、汗をかき自分の脚で物語を辿らなければならない。転ばないよう注意するのも自己責任だ。考えてみれば当たり前のことなのだが、「雨が降った時の身の守り方」さえマニュアルを読まねばならないほど、生き物としての力が衰えているのが情けない。
実際に何が起こったのか。その答も観客が自分で見つけなければならない。注意深く目を凝らして歩く。道端に縁石の上に、化けた狸の通った痕跡を見つける。捧げ物か、それとも落とし物か。そして事件の生々しい証拠らしきものまで。伸び過ぎた筍に見とれているうちに、さりげなく置かれたそれらを見逃してしまう人もいるだろう。反対に、目に入る全ての物が怪しく疑心暗鬼になって、民家の玄関先で遊ぶ親子に尻尾が生えていないか目をこすってしまうかもしれない。あの家の植木鉢の並べ方はどうも普通じゃない。捨てられた古タイヤに生える雑草の具合も、なんだか不自然じゃないか?山のひんやりした空気が里山のそれと混じる境界線のあたりから、どうしたって小さな不協和音が生まれてくる。「婆汁殺人事件」と「報復泥舟事件」はその歪みから始まったのだろう。それを和音に変えるために、オーボエ奏者は唐突に林の中に立ち、鶯の声に一心に合わせる。観客も一瞬、自分が山と調和できたような幸せな錯覚を覚える。
人に化けた狸や兎、あの世から語りかけてくるお婆さんの言葉は、イヤホンを通じて観客に届く。ザーという微かな雑音も混じる小さな装置は、周りの竹林や鳥の声、花々の色に比べて悲しいほど不恰好なのが残念だ。ただし、そんなぎこちない異物を通じてしか彼らの声を聴きとれないほど退化してしまったのは、人間たち自身の責任である。
彼らは、突然現れる。その姿を見つけた時の喜びは期待以上だった。さっき通り過ぎたアレ、アノ人、どこか妖しい……気のせいか……と振り返った第一印象が当たった時の嬉しさ。それはつまり演劇の仕組が成功したということなのだが、観客にとっては、向こうの世界と繋がれたという喜びだ。俳優を媒体、ミディアムとして「向こう側」と繋ぐ、という手法は石神夏希氏の演出作品に一貫していると感じる。
もうひとつ一貫しているのは、今まで主流とされていた側「じゃない方」の声を聴くことだ。
カチカチ山から聴こえてくる声は、少々やさぐれているけれど意外と常識的で言い分にもいちいち頷ける、唯の悪者とはけっして呼べない狸。正義の味方というには狡猾で計算高さが鼻につくけれど、見かけは可愛い兎。兎は婆汁の作り方にも詳しくて、迂闊に信用するのは危険だ。お婆さんの語りからは、お爺さんとの関係に微妙なズレが生じていた事実も発覚する。神社の前で振る舞われた「お婆さんの粟餅」は、柔らかくきめ細かく手がかかった仕上がりだ。「粟餅作っとけ!」と重労働の餅つきを簡単なことのように頼まれて、言い返せなかったお婆さんの繰り言はあの世でも続く。実は世界のどの地域でも力仕事は女性が担当することが多い、という話を思い出した。
そして、そもそもの発端の当事者であるお爺さんは……登場しない。今まで一番大きな音量だった声をミュートにして、不明瞭で微かだった声のボリュームを上げている。
狸の犯行動機が予想と違ったことも新鮮だった。人間の勝手でダブルスタンダードな倫理に対する、山の哲学である。この犯人は「殺人」を「救済」や「大地との同化」と捉えている節もあり、報復を担当した兎の解決策の方が暴力的にも見えてくる。
時折り山の精霊たちが悪戯を仕掛けてくる。羊歯の飛行機が飛んでくる。茂みから飛び出したり、茶畑を駆け降りたりする俳優たちの身軽さは、確かに何かが憑いているようで見惚れた。鈴木清順監督の映画『陽炎座』の狸囃子を追って彷徨うシーンに紛れ込んでしまったようで、最後に一座が踊る姿が登り道の先に見えてきた時には、本物の陽炎座に辿り着いた嬉しさが込み上げて来た。
その終点で、観客にご褒美が振る舞われる。青々したえんどう豆のおにぎりと熱々の鶏汁、綺麗な水色の冷たいお茶。山の景色を眺めながらしみじみ美味しくいただいた。が、丁寧によそってもらったお椀を覗いた時、ほんの一瞬何かが頭をよぎったのは間違いない。