劇評講座

2026年3月3日

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■入選■【メナム河の日本人】河村恵理さん

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「メナム河の日本人」を観て
この舞台の始め、川にもがきながら(少なくともそう私には写った)沈んでいく山田長政というシーンがあったために、何かの理由で彼は道半ばにして、亡くなっていったのであろうということが一瞬で想像できた。そして、どのような経緯で川に沈むことになったのか(実際の死因ではないが)ということが、進んでいく物語で明らかになっていく。ところで臨床心理学(私が専門にしているところ)では、「川」の表現(例えば描いていただく描画)の中に、相手の無意識の動きや流れをこちら(心理士)が理解するのにも使われている。これは、無意識の動きが「川」という表現で意識的に現れると見立てられているのである。であるから、この演劇のタイトルが「〇〇河」となっていることことから、その川が実際にあったか、なかったとかそういうことよりも、そして内容は日本人、駿府出身の山田長政という人をフォーカスしてさえいても、実は人間にまつわる無意識の流れのようなものが表現されているのではないかとも期待していた。そして私はこの最初のシーンから、いかに人は無意識に飲み込まれるのであろうか、ということを表現する舞台でもあるのではないかと感じた。これを常日頃のくせで読み取り、このことについて書いてみようと思う。
劇中には、長政の他、道半ばで人生が終わっていく人たちがよく出てくる。王になれなかった王の弟、息子を王にしたかった王宮の母親、クンサワット侍従長の愛を勝ちとりたかった侍女、異国の地に自国を作りたがった長政、布教しようとして殉教したペトロ岐部、自国を作るということに賛同し、焼き討ちにあった日本人町の人たちなどである。その中でも、王の弟や、幼い王子は、人の形をした人形であったために、自らの意思はなく、操り人形であったことが表されている。であるから、この二人は別にすることにして、他の方達は、自分の理想を追い求めた末に、その生を早めてしまったのではないかと考えられた。物事は不完全であるからこそ、完全にさせたいという気持ちはよくわかる。例えば、プラモデルやブロック遊びをしていて、それらを完成させたいと思うことは、よくわかる。そして、未完なものを抱えるということは何かがいつも頭に残っていて何かすっきりとした感じや、やりきった感じがしない、というものもわかる。不完全を完全にしたいということは人間の性であるかもしれない。しかし、ここで作られているのは、プラモデルやブロックではなく、「国つくり」という多大な人々が関わり、それらの人生を抱えていくということである。「つくる」といってもそこには、見えない関係性や権力といったものが渦を巻き、全体や歴史的結果も見えにくいという大掛かりな「つくり」の場である。そのような場で、各々は自らの理想を完全にすることを求め、そして行動し(行動力があることは良いこととして捉えられることもあるが)、何か踏み込んではならない禁足地、倫理的な境へも立ち入ったそんなことではなかったかと考える。行動の原動力というものは、大なり小なり自らの感情が動くところである。そして持続性があり、強い信念に伴う行動とも思えるようなものの背景には、単なる感情ではなく、情動という比較的強い原始的な情がその根底に横たわっている。それらに伴われて、実は知らぬうちに人間はある行動へとつき動かされている。その自らを突き動かす情動とはなんであるか、認識することは重要である。なぜなら、これを認識することで、自分の状態がわかり、他者と自分との境界を知ることにもなるからだ。長政は自らの情動について省みることをあまりしなかったように思える。それで自分と他人との境界がわからなくなっていったのであろう。アユタヤ王朝という他国に自国をつくろうとしたということにもそれは表されている。それでも、長政を突き動かしたその情動とは何であったのか。それは正月に日本の酒を用意する姿、ペトロ岐部が日本に帰るという時に揺り動かされた長政の姿に現れていると思われる。それは母国への憧れである。しかしかの地では駕籠かきとしてしか認められなかった。この不完全な自分を完全に高めたく、これを別の土地で現実しようとしたのだ。しかしそれは、他の人が大事にする禁足地にも触れることになっていった。そのために、長政の死を早めることにもなったのだと思われる。劇中では、自己の不完全さを抱えていたのは、モレホンやスリヨタイ姫ではなかったか。モレホンは己の不完全さに苦しみ、完全であることの神父をやめた。スリヨタイ姫は口がきけないという身体的な不完全さをもつ。この不完全さは、観者から見ていて、そのもどかしさには堪え難いと思われたが、自身を短命からは守るということはしたように思える。
劇中には「仮面と本心」「事実と真実」「義と利」「法と情」「眼に見えるものと見えないもの」といった2つの対立物についてのセリフが飛び交っていた。セリフ、つまり意識上に明確に示されなくとも、私はこの舞台の根底に流れるものとして「完全と不完全」ということをあげたい。バベルの塔が崩れ去らないように、イカロスが落下しないように、あるいは無意識の川に飲み込まれず、沈まぬように、不完全さを保っていくこと、この教訓がこの舞台からじわじわと流れていると感じられた。