劇評講座

2011年12月26日

『ガラスの動物園』(ダニエル・ジャンヌトー演出、テネシー・ウィリアムズ作)

カテゴリー: ガラスの動物園

■依頼劇評■

手品の種に仕込まれた思い出

野中広樹(演劇評論)

テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』は、冒頭でトムが客席に向かって話しかけるように「思い出の劇」である。1944年にシカゴで試演され、翌年、ニューヨークで初演された。

原曲では、1930年代、アメリカ中西部にあるミズーリ州セントルイスの路地裏が舞台だが、ダニエル・ジャンヌトー演出においては、時代性と地域性が注意深く取り除かれている。おそらく普遍的なドラマとして『ガラスの動物園』を上演したいという意図によるものだろう。そして、時代と場所が特定できない分だけ、個人的な「思い出」であることが突出している。

劇が始まると、まずはじめにトムを演じる役者(阿部一徳)の年齢が、従来の上演と較べてずいぶん高いことに気づくだろう。トムはローラ(布施安寿香)の弟という設定であり、場面によっては姉弟として演じるところも出てくるため、弟あるいは同年代に見える役者が扮することが多い。ローラの年齢は「高校をやめてから6年」という台詞から推定すると23か24歳なので、今回の舞台では、時間がいたずらをして、トムとローラは親子のようにも見える。しかし、この不自然さは、『ガラスの動物園』の劇全体がトムの「思い出」のなかの出来事であることを際立たせる効果にもつながっていく。

もうひとつ、舞台が透明な紗幕で二重に蔽われているのも大きな特色である。しかも、かつてウィングフィールド家が4人で住んでいたにしては、ずいぶん広くて、がらんとした空間だ。だが、これも「思い出」の空間を創りだすのにひと役買っている。そこにはトムの「思い出」を甦らせるための必要最小限の装置しか置かれていない。ある場面では、テーブルと蓄音機、またある場面では、大きなボンボリのような照明と縦長の鏡と蓄音機が置かれているだけだ。そこからは大きな不在が見えてくる。言うまでもなく、芝居が始まるまえに、この家を出ていった父親の不在である。

もう一度、冒頭に戻ろう。

はじめにトムが客席に向かって話しかけるとき、漆黒の闇に包まれた舞台上にスポットライトが当たり、トムは白い点のように浮かびあがる。「この劇は思い出です。思い出の劇なので、ほの暗い明かりに包まれ、センチメンタルで、現実味がありません」このときトムは二重の紗幕の外側にいる。時間の流れからして、紗幕の外は「現在」だろう。

そして、二重の紗幕に囲まれたいちばん内側の空間は、トムの「思い出」の世界である。そこでは、ローラはまだ20代前半で、母親のアマンダ(鈴木陽代)も若い。その世界に行き着くには、ずいぶん時間をさかのぼる必要があるため、薄暗くてぼんやりしている。

トムの意識は常にローラに向かっているせいか、母親のアマンダが話しているときは目を凝らす必要があるほど見えにくいのに、ローラの場面になると、にわかに舞台が明るくなる。そこでは、母親は主として声の記憶にすぎないが、ローラは具体的なイメージを伴って出現する。そこからも『ガラスの動物園』はローラについての思い出の劇であることが見てとれる。

内側の紗幕と外側の紗幕に挟まれた細長い部分には、上手寄りの舞台前面に、ローラが大切にしていた「ガラスの動物園」が設置されている。ここだけはローラの聖域で、だれも踏み込むことはできない特別な空間だ。ただし、2度だけ例外がある。

ひとつは、毎晩の外出をめぐってトムとアマンダがはげしく口論する場面。母親に悪態をついたトムは、怒りにまかせ、勢いあまって内側の紗幕を飛び出し、ローラの「ガラスの動物園」をうっかり踏みつけてしまう。ガラスが脆くも割れる音がする。この瞬間、わたしは思わず息を呑んで縮みあがった。すでに取り返しのつかない出来事が起きてしまったことをあざやかに知らされる。すばらしい演出だ。

テネシー・ウィリアムズは、現実においても、この劇のように姉を置き去りにしたことを一生悔やみつづけた。そして、その悔恨の情が『ガラスの動物園』を書いたいちばんの動機だったのだろう。そのことは、これに続くもうひとつの例外を見れば、劇作家がこの戯曲に込めた想いが理解できる。

それは、トムが友人のジム(牧山祐大)を招いて連れてくる場面である。友人のジムは、劇のはじめのほうでローラが母親に打ち明けたように、高校時代に憧れていたたったひとりの同級生だ。『ペンザンスの海賊』で美声を聞かせ、弁論大会では優勝し、ローラが肋膜炎(プルーローシス)で休んだあとには病名を聞きちがえて、ずっと「ブルー・ローズ」と呼びつづけた男性である。

この場面が始まるまえに、演出のジャンヌトーは、舞台を二重に蔽っていた外側の紗幕をゆっくりと取り払った。思い出がそっと開かれてゆく。そして、剥きだしにされた内側の紗幕も、どこからか吹いてきたかすかな風を受けて、まるで生きているように静かに揺れはじめる。この空間が、トムの「思い出」そのものであるならば、これから起きる出来事を思い出すことが、トムを深い部分で動揺させずにはおかないのだろう。

そのうちに夏の雨が降りはじめ、さらに紗幕の揺れが大きくなる。すると、唐突に照明が消える。トムが督促を受けていた電気代を船員になる組合費にまわしたため、未払いで止められたのだ。しかたなく、数本のロウソクに火をともして、ジムは内気なローラのいる居間へと話しにいく。そこは内側の紗幕を越えたところにあるローラの聖域である。

ロウソクの小さな光による魔法だろうか、いつも引きこもりがちなローラは、珍しくジムと高校時代の思い出話に興じる。ローラはいちばんお気に入りのユニコーンを紹介し、光にかざして魅力を語る。そのうち、盛りあがったふたりは、路地の向こうにあるダンスホールから聞こえてくる音楽に合わせてダンスをはじめる。足元に置いた本物のロウソクの炎がゆらゆらと揺らめき、ジムに手を取られて踊りながらくるくるまわるローラをほんのりと映しだす。なんという幻想的な場面だろう。しかし、途中で「ガラスの動物園」にぶつかり、中断してしまうのだ。そして、ローラは角のとれてしまったユニコーンのいる「ガラスの動物園」に、ひとりで取り残されてしまう。

ブルー・ローズという「不可能」を意味する薔薇の名前、ユニコーンという空想上の動物、華奢なガラスの動物たち、そしてロウソクの炎――あまりに美しく儚い思い出によって、ローラの人生最高の瞬間を彩ってみせる。これこそが『ガラスの動物園』で劇作家が実現させたかったことに他ならない。ジャンヌトーはこれらすべてをトムの「思い出」の世界に作りだし、ロウソクの炎が作りだした魔法の空間で、ローラを初恋の相手であるジムとエレガントに踊らせてみせた。

トムははじめに「手品の種はポケットに仕込んであります」と語った。つづけて「僕は、感じのいいまやかしに見せた本物をお目にかけます」と述べた。最後の場面までたどりついたとき、私たちはこれまで見てきたのが、劇作家に実際に起きた出来事であることを知る。

テネシー・ウィリアムズの本名はトマス・ラニアー・ウィリアムズ、すなわち愛称はトム、ローラのモデルになった姉の名前は、ブルー・ローズならぬローズである。これは劇作家自身による姉ローズの思い出であり、実現してほしいと願った夢だったのだ。

■執筆者紹介

野中広樹(のなか・ひろき)

演劇評論。1962年生まれ。学習院大学文学部卒業。出版社勤務の後、演劇評論。「テアトロ」「東京人」「レプリーク」などに寄稿多数。