劇評講座

2012年1月20日

『オイディプス』(小野寺修二演出、ソポクレス作)

カテゴリー: オイディプス

■準入選■

小野寺修二「オイディプス」について

仲田あゆみ


例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」は、古典絵画として余りにも有名だ。モナリザは初めコローなどの画家によって捧げられてきた主にオマージュの対象だったが、現代では多様な変容を遂げるに至った。マルセル・デュシャンによって髭を付けられ、アンディ・ウォーホルによって複製され、その後も多くの作家によってコラージュされ加工され、日々新たなモナリザが生み出されている。モナリザは、最早美しくも謎めいた女性の肖像画であるだけでなく、作家にとっては切り貼り自由でアレンジ自在な恰好のモチーフとなっている。数多くの、言わば亞流のモナリザが一堂に会す展覧会が企画される事さえある。

それと同じような事が「オイディプス」にも言えるだろう。ギリシャ時代より現代まで数え切れぬ程演じられ、様々な媒体に影響を及ぼして来た演目であるが故に、それら無数の「オイディプス」や他のギリシャ悲劇、その派生作品と同じ舞台に上がる事にもなる。小野寺修二が「オイディプス」を演目として選択することは、挑戦である。台詞を必要としないパントマイムの出身である彼が敢えて「オイディプス」と云う台詞劇を選ぶのだから、尚更のことである様に思われる。実際、小野寺の手によるこの舞台には多くの試みがなされている。以下では紙幅の都合により、その一部について述べたい。


小野寺の「オイディプス」には観客の意表を突く表現によって演じられる場面が多々ある。その一つは、特に映像においてはよくされる表現だが、登場人物の心理描写である。オイディプスが、かつて三叉路で口論の末に殺害した人物が先王ライオスかも知れないと疑う場面では、舞台上でオイディプスの心理が具現し展開する。過去が思い起こされる度に三叉路が舞台に出現し、問題の出来事が再現される。オイディプスは幾度もライオスと対峙する、或いは対峙させられる。オイディプスが自身の記憶の中にある三叉路に紛れ込むくだりは時に唐突だが、同時に観客も心象風景に巻き込まれる事になり、効果を上げている。それによりかえって、不吉な預言を裏付ける出来事が次々と明らかになっていく過程における登場人物の混乱や葛藤を体験する事になっている。

一つの役を三人が次々に演じ、かつ、それぞれが個々のキャラクターを主張する演出もある。オイディプスの妻イオカステは、イオカステの二人の侍女も加わり三人で演じられる。三人が一連の台詞を口々に述べる。イオカステに話かけようとする伝令が、三人のイオカステのうち誰に話したら良いのかと迷う場面もある。観客は演出の効果としてごく自然に受け入れていた約束事との間で不意に生じたユーモアに笑う。オイディプスを演じる三人もまた、常に三人が同じ場所にいるわけではなく、一人のオイディプスが喋っている間に、別のオイディプスが別の場所で何かしていたりする。演劇独自の面白い表現である。


小野寺はオイディプスの運命を余り隠さない。「オイディプス」と云うギリシャ悲劇を知らない観客に対しても物語の輪郭が判るように、時にははっきりとオイディプスの素性や運命を説明する場面を劇中に設けている。

興味深い事に、観客は二重の視点で以て観劇する。私たちはオイディプスに共感することで、神託に翻弄されるオイディプスの視点に近づく。それと共に、劇中のオイディプスが未だはっきりとは知らないうちから、オイディプスの意志に反して神託の通りに全ての物事が運んでいる事を知り、結末を期待してもいる。それは観客がオイディプスの宿命を預言する神々の視点にも近づき、その世界を受け入れる事をも意味しているのではないか。

ギリシャ悲劇が観客を招き入れようとしている世界は神々の世界である。「人間の手によっては変えようのない宿命が存在する」と、悲劇「オイディプス」は我々に伝える。しかも、神々が下す宿命は、本質的にはオイディプスの過誤によりもたらされたのではなく、理不尽極まりない。オイディプスは努力によってそれを避けようとしたにも関わらず、どうしても避けられない。神々は終始一貫して彼を救おうとはしない。神々の僕たる預言者もまた、オイディプスに如何なる未来が待ち構えているのかを知りながら非協力的だ。観客が舞台に関与できないように、誰も彼を救う事は出来ない。神々は一体何故オイディプスを悲惨な運命に陥れるのか、それは判らない。究極的に世界は不可知である。人間の目から見れば計り知れないと結論するしかない。

現代において「オイディプス」が演じられる事にどの様な意義があるのか。小野寺は饒舌にも観劇の意味を劇中で語っている。福田恆存の『人間・この劇的なるもの』からの引用である。以下では部分的に要約しながら記す。

「オイディプス」が演じられる事は、「全体感の獲得をうながすものにほかな」らない、と彼は言う。「路傍の花」が私たちに季節を知らせる様に、オイディプスは神々の世界の存在を知らせる。私たちはオイディプスによって導かれ、「全体」を、即ち世界の神秘を体験しようとするのだ。「それは自己と対象とのあいだに、あるいは自己のうちにある自己の情念とそれを否定してくる外界とのあいだに、調和と均衡とを保とうとする試みである。いってみれば、違和感の消滅にほかならぬ。」神々の手を離れようともがき葛藤するも、自ら運命の扉を次々と開き、必然の破滅へと向う。人間の自由意志で行っているように見える物事ですら、ことごとく神々の手中にある事を証明する。それこそ「個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである」……。

小野寺による「オイディプス」が成功したと言えるならば、少なくとも観客は、人間には計り知れない神々の存在する不可知の世界において生き、そして破滅の道を辿るオイディプスの悲劇を経験し得た筈である。

『ガラスの動物園』(ダニエル・ジャンヌトー演出、テネシー・ウィリアムズ作)

カテゴリー: ガラスの動物園

■準入選■

ジャンヌトーさんの「ガラスの動物園」

渡邊 敏

「欲望という名の電車」という映画を見たのは、高校生の時のこと。偶然テレビで見た白黒映画は、繊細さと暴力的なものがいっしょになった映画で、主人公のブランチが哀れでならなかった。そのとき、テネシー・ウィリアムズという人の名前は、荒々しさと、猥雑さ、美しさといっしょに私の中に記憶された。

二週間ほど前、長い間忘れていた彼の世界に久しぶりにひたった。「ガラスの動物園」のリーディング・カフェ。そうそう、この感じ、と体が思い出していた。台詞を声に出して読んだだけなのに、頭の中がぐるぐるし出し、終わった時には作品を「見た」ような満足感があった。不思議。それから、舞台も見に行ってしまった。10月29日、土曜日。

薄暗かった舞台に灯りがつくと、白い四角があった。紗、のようなうすもので囲われた空間。床も綿布のようなものが厚く敷き詰められ、裸足で歩いたら気持ち良さそうだ。
ああ、これは「テネシー・ウィリアムズの」ガラスの動物園じゃないんだ、と思う。
ミニマルで美しい舞台装置にはアメリカ南部の匂いはないし、ローラは色味のないメーク、衣装で、透明に近い雰囲気で、ひっそりとしゃべり、息をし、歩く。弟のトムは「多感な青年」ではなく、人生を知り尽くしたような中年男が語り手のトムと若かりし日のトムの両方を演じている。

母親の解釈も、ずいぶん違っていた。ちょっと時代遅れで、見栄っ張りだけれど、娘を愛している、ごく普通の母親を想像していたのだけれど、ジャンヌトーさん演出のアマンダは病的で支配的、神経衰弱ぎりぎりのようだった。ローラを問い詰めたり、トムにコーヒーの飲み方までとやかく言ったりするところでは、この家の不幸の根源はこの母親なんじゃないかと思える。「お客様」をお迎えする日の、踊り子みたいな黄色の衣装は、痛ましくて笑えない。「ガラスの動物」って、この家族3人全員のことだったのだろうか。じゃあ、あの真綿の床はクッション材?

こんな時代だから、ローラがタイプ学校をやめたことがバレて母親になじられるシーンは、重くて、身につまされた。人並みの生活を送れない娘に「この先どうするの」と問い詰めるのを聞いていると、ひきこもり、ニート、という言葉が浮かぶ。ローラが学校に行くふりをして、一日中歩き回り、植物園や映画館で時間潰しをしていた、と打ち明けるところでは、リストラされたことを家族に打ち明けられずにいるサラリーマンを連想した。今の日本だからこそ、そういうテーマの作品、と思う人もいるかもしれない。

このお芝居の圧巻は、暗闇の中、蝋燭のあかりで、ローラがジムとダンスし、キスし、一瞬のロマンスを味わった後、夢破れるシーン。リーディング・カフェで読んだときから、どんな風に演じられるのか期待していた。私が思っていたより、ずっと抑えた演技で、ローラの顔は、静かで、でも、内にぽっかり穴があいたようだった。

こうして戯曲や舞台にふれてみて、想像力というものの楽しさ、すごさを感じた。ジャンヌトーさんの舞台は、私の想像とはちがう世界を見せてくれて、あの白い空間は、トムの回想の空間であり、ローラが安らいでいた純白の繭のようでもあり、世間から隔絶した家族の空間でもあり・・・。その中に、トムだけは靴をはいて入り込んでいて、あれ、と思う。ベールのような幕は、「お客様」が現れてドラマが起こる兆しに、はたはたとはためき始め、ドラマが起きると、もう乱れたままだった。

終演後、ジャンヌトーさんは「芸術は安心させるものではなく、人の心を揺るがすもの」と語っていた。始めから終わりまでひりひりする舞台。でも、痛さも心地いい。
ローラはあの後どうなったんだろう、と想像しながら、帰りのバスに揺られた。遠くの町の灯りが、舞台に置かれていたガラスの動物みたいに輝いていた。普通の人々がねがう「人並み」の幸せが訪れなかったとしても、まだいくつもの美しいドラマが彼女には訪れたにちがいない、と思った。

観劇日 2011年10月29日