劇評講座

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 未分類

SPAC 秋→春のシーズン2023-2024の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数15作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選3作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
小田透さん【パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス】(『伊豆の踊子』)

■優秀賞■
寺尾眞紀さん(『伊豆の踊子』)
吉野良祐さん【オクタヴィアンの言葉は奪い去されて…】(『ばらの騎士』)

■入選■
小長谷建夫さん【ドタバタ喜劇の終わりは】(『ばらの騎士』)
寺尾眞紀さん【殺されたのは誰か】(『お艶の恋』)
原田陽菜さん【お艶の抗いと命のエネルギー】(『お艶の恋』)

■SPAC文芸部・大澤真幸の選評■
選評

作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2023-2024
伊豆の踊子』(台本・演出:多田淳之介 作:川端康成 映像監修:本広克行)
お艶の恋』(演出:石神夏希 原作:谷崎潤一郎『お艶殺し』
ばらの騎士』(演出:宮城聰、寺内亜矢子 作:フーゴー・フォン・ホーフマンスタール 音楽:根本卓也)

秋→春のシーズン2023-2024■選評■SPAC文芸部 大澤真幸

カテゴリー: 未分類

2023年「秋から春のシーズン」、SPACでは『伊豆の踊子』『お艶の恋』『ばらの騎士』の公演を行いました。これら3作品に対して、全部で15本の劇評を送っていただきました。熱心に鑑賞した上で、劇評を書き、応募してくださったすべての皆さんに、まずはお礼を申し上げます。
応募いただいた劇評をずっと読んできましたが、平均的なレベルが上がってきているのを感じます。かつては素朴な感想を記しただけのものが何本もありましたが、今では、ほとんどの応募作が、批評的な意識をもって作品を分析し、解釈できています。
ここでは、最優秀作と優秀作に関して、評価のポイントをかんたんに書いておきます。
まず小田透さんによる『伊豆の踊子』の劇評。これが最優秀作品です。多田淳之介さんの演出のいくつもの工夫を非常に繊細に分析し、その意味を的確に、そして豊かに解釈している点がすばらしい。冒頭の「『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台」という要約が、作品の雰囲気をよく言い当てています。伊豆の林道の映像を背景にした俳優たちの旅姿が、YouTuberの自撮り映像を連想させるなどという指摘はなるほどと思わせますし、弁士風の解説者と俳優の身体の反応が、宮城聰の「二人一役」と少し似ているといった指摘などもおもしろい。大音量のダンスミュージックには、ブレヒト的な異化作用をもっているという解釈なども、検討に値するものだと思いました。
二つある優秀作のうちのひとつは、寺尾眞紀さんの、やはり『伊豆の踊子』を論じた作品。寺尾さんの劇評は、芝居に描かれていることから、背後にある社会的現実を読み取っているところに特徴があります。この芝居は、主人公である学生と踊子の間のごく淡い恋の話ですが、この恋は、エリートの帝大生と下層の踊子たちとの間の階級格差が背景にしていて、そのことが、たとえば「上」の旅館と「下」の木賃宿等々のかたちで芝居の至る所に現れている。寺尾さんはこのことを正確に見抜き、踊子のありそうな将来――踊子自身はまだ自覚していない将来――を密かに想いながら哀しみを感じている。冷静な分析に基づく感情移入に私は好感をもちました。
もうひとつの優秀作は、吉野良祐さんによる『ばらの騎士』の劇評。これは、オクタヴィオンの「言葉ってすごいね」という台詞を端緒におきながら、言葉、とりわけ愛の言葉について考えた、非常に知的な批評になっています。元帥夫人との一夜を思いながら、言葉の力を讃嘆していたオクタヴィオンが、最後にゾフィーと結ばれたときには、一言も発しない。この最後の場面では愛の言葉はどこにもないのか、というとそうではない。オクタヴィオンが発すべき愛の言葉は、周囲の多数の他者たちの身体に分散され、空間化されたかたちで現れているのだという、吉野さんの鮮やかな解釈に感心いたしました。

January 18, 2025

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■最優秀賞■【伊豆の踊子】小田透さん

カテゴリー: 未分類

パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス

これはきっと『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台。川端康成の原作は裏切ってはいない。英語化されてもいない。それでも、わたしたちが無意識的に期待してしまいがちなステレオタイプはズラされている。学生の一人称の物語を補完するように、旅芸人の物語が対位法的に組み込まれる。いまの伊豆の映像が大写しになる。現代的なポップミュージックやダンスミュージックが騒々しいまでの大音量で鳴り響く。滑らかに連続したシーンが、断続的に、急激に、転換する。にもかかわらず、ここには不思議な納得感と説得力がある。つねに予期せぬ驚きがある。演出家の多田淳之介はわたしたちに痛快な不意打ちを食らわせてくれる。ただし、不安にまでは至らない、安全な範囲内で。

主人公である学生はいかにもそれらしい格好。学帽に袴に黒の外套。下駄に、肩掛けにしたメッセンジャーバック。しかし、彼が出会う旅芸人一座は、着物を1990年代原宿の美学で再構成したかのような、原色系のグランジ風。メイクも、歌舞伎の隈取をギャルメイクで脱構築したような、エキゾチックな日本風。そのくせ、宿の女将たちや宿泊客たちは、コミカルな昭和風。異なる時代様式が混在している。純日本的というよりも、エスニックな視点から再創造された、愉しくフェイクな日本性。

臆面もなく差し挟まれる、まったくステルスしていない「観光演劇」。川端が晩年を過ごした鎌倉の自宅を模したという軒先のような舞台、の壁面の横長の大スクリーン、に大写しになる伊豆の風景、は半実写的な背景として機能する、がところどころで劇の流れをストップさせる、観光プロモーションとして。たとえば、山道をゆく道中のシーンで、地理的な脈絡はあるとしても、物語的な必然性はない観光案内が始まる。まったくあざとく、あざとさしかないにもかかわらず、不思議なことに、余計なものが混入したという感じがしない。

それはおそらく、多田の演出が最初から、疑似的なヴァーチャル体験の共有に狙いを定めているからだろう。やや解像度の低い伊豆の山道や林道をバックに、客席のほうを向いて足踏みする俳優たちの姿は、YouTuber的な自撮り映像を思わせる。1990年代から2000年代初頭にかけて隆盛を極めたノベルゲームのようでもある。舞台がそもそもスクリーンであり、観客はその視聴者にしてプレイヤーなのだ。わたしたちは舞台に登場する予期せぬものに驚かされつつ、それらを「そういうもの」として受け入れてしまう。

にもかかわらず、わたしたちは、与えられたコンテンツの受動的な消費者になるわけでもない。劇冒頭に置かれた前口上は、すべてが作り話であることを自意識的に宣言する。『伊豆の踊子』それ自体が、旅の一座によるひとつの演目のように、物語内物語のように見えてくる。そして、作品外的なメタコメンタリーや作品内の字の文を朗読するナレーターは、軒先のような舞台に上がることはないだろう。作品内の会話文を演じる俳優たちとは別の次元があることが、視覚的にも空間的にも明示される。パフォーマンスの重層性が、物語の虚構性を担保し続ける。

しかしながら、舞台上の複数の位相はつねにつながっている。弁士的な解説者が字の文を読み上げる。すると、SPAC芸術総監督の宮城聰の二人一役の手法を髣髴とさせるように、学生や踊子が読み上げられた言葉に身体的に応える。踊子や学生はセリフを口にすることはない。しかし、過剰なまでの親密さをただよわせつつも、直接的な接触に至ることはすくないふたりの静かな身体の暖かな距離感が、川端の散文のやわらかなてざわりを具現化させる。朗読される文体と、視覚化された登場人物の関係性から、川端の抒情性を二重に味わうという、贅沢な体験。

けれども、それ以上のものがある。多田の舞台は、主人公たる学生がみずからの孤児根性を克服し、いい人だと言われたことに感動する自己憐憫的な物語以上のものになっている。自己憐憫性は、「幼いことであった」と若かりし頃を振り返る後年の川端本人の言葉を呟く弁士的ナレーターによって相対化されるだろう。川端が描かなかった物語の裏面が、旅芸人たちの悩みや苦しみ、叫びや抗議として前景化されるだろう。

その顕在化を担ったのは旅芸人の女性陣。その際たる瞬間はパフォーマンス後半部におかれたラップ。「旅芸人お断り」というローカルな立て看板に、旅芸人はリリックで応酬する。ノリのいい音楽が、腹に響くほどにビート感の強い問答無用の大音量でディスコのように響き渡る。伊豆の観光映像が流れていたスクリーンに、アグレッシブな社会批判の言葉が洪水のようにあふれ出す。

ただし、そのようなプロテストが、あくまでもポップなコンテンツとしてパッケージ化されているところに、多田の演出のとっつきやすさとお行儀の良さがある。旅芸人を見下す社会に抗議する旅芸人のラップは、パフォーマンス内パフォーマンスであるからこそ許された反抗であるようにも見えてしまう。男たちに翻弄される女たちを、健気にも、荒んだ感じにも演じ切ることは、問題の所在が社会構造にあるのか、悪辣な男ども個人にあるのかを、曖昧にしてしまう。子どもを亡くした旅芸人の体調不良は、現代に蔓延するネオリベ的な自己責任論からすれば、自業自得のように見えてしまう。俳優としての経験を積みながら旅芸人に身をやつした男も、身分違いの恋を自ら諦める踊子の諦念的な態度も、センチメンタルな共感は誘うかもしれないが、そこに社会革命を誘発するような起爆性はないだろう。多田のアダプテーションは、川端の物語を社会性に開いておきながら、そこを共感的な回路に閉鎖してしまうきらいがある。

そのほうが口当たりのよい「観光演劇」にはなる。悲恋のように描かれた学生と踊子が、悲劇のように描かれた旅芸人夫婦が、エピローグ部分で、仲睦まじいカップルとして、新たに子を身ごもった夫婦として、21世紀の現代において自撮りを愉しむ観光客になっているのは、ハッピーエンディングではある。反抗的なリリックを炸裂させていた旅芸人と、男どもに翻弄されていたその友達が、屈託なく観光している。病床に臥せっていた老人も、偏見をあからさまにしていた女将も、クイア的なパフォーマーも、幸福を謳歌している。みんながしあわせな観光ユートピア。

しかし、それがフェイクにすぎないことに、気づかされないわけにはいかない。わたしたちは「観光客」というカテゴリーに加わることでしか、新自由主義的で資本主義的なこの世界ではそれなりに裕福な消費者になることによってしか、仮初で束の間の幸福を謳歌できないのではないか。だとしたら、このような「観光客」の回路にそもそも参入することができない人々は、どうなるのだろう。

とはいえ、これだけは言っておくべきだろう。多田はエンターテイメント性を演出するために、やかましいほどの音量でダンスミュージックを流すけれど、それはおそらく、娯楽性のためだけではなく、ブレヒト的な異化作用のためでもあったのではないかという点。1990年代的なものから伝統的なものまで、2010年代20年代的なものまで、さまざまな時代の様式が節操なく召喚されるこの舞台は、きっと、ノスタルジーでも未来志向でもなく、いまここで生起しているヴァーチャルでありながらも生々しいパフォーマンスと批判的な関係を切り結ぶための意図的に導入された断絶ではなかったかという点。このギリギリの批判性を見逃す者は、多田淳之介の演出の誤解者であるはずだ。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■優秀賞■【伊豆の踊子】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

冒頭、出演者全員が横並び一列になって『伊豆序説』を色とりどりの声で語ってゆく。それぞれの声は公平に響く。物語と登場人物をいったんひとつの塊にしてから、等分に切り分けて並べたようだ。旅が始まると、運命は別れ境遇は異なっていく。けれど終盤でもう一度、この「それぞれの公平な重さ」を大音量で突きつけられることになる。
数えで二十歳の学生である主人公は、一人旅の孤独を抱えながらも先々で下にも置かぬ扱いを受ける。茶店では、学生だけが暖かい火の近くに通される。雨に降られ濡れるのは、旅芸人一座の女性の方が辛かっただろうに。険しい坂を一番乗りに登れるのは、彼が若く軽装だからだ。踊り子の背負う太鼓が想像より重いことに驚くが、自分の荷が軽いことには思い至らない。彼が善良で繊細な心の持ち主であることは疑いようがないので、原作のこれら小さな鈍感さは、ちくちくと棘のように気になっていた。
舞台は大きな段差で上下に分断されている。「上」の旅館の明るく広々とした学生の居室と、「下」の片隅の木賃宿で身を寄せ合う旅芸人たちの冷たく固い寝床は、別世界だ。
踊り子は、自らの境遇を僻むこともなく学生にあれこれと尽くす。学生は踊り子の見かけを裏切る無邪気さに「子どもなんだ」と安堵する。実は学生自身の世間との関わり方も、少々子どもっぽい。小説は一般に「恋物語」と呼ばれるが、二人の関係は恋未満に見える。原作の最後の不器用で曖昧な決着のつけ方、ぐずぐずとした情けなさは、映画の二枚目俳優の凛々しさとは正反対だが、その不完全さが物語の真の魅力と感じる。
多田淳之介版『伊豆の踊り子』は、小説とも映画とも異なる解釈と方法で物語を終わらせている。それは、まだ十九歳だった「私」が、心の底で望んでいた本来の結末のように見えた。
小説(および映画のいくつか)には、大きな棘もある。
客の中には、踊り子を金銭で買える性的対象として見る者もいる。「生娘」という呼び方、これは当人の関わらぬところで貼られる危険なレッテルだ。一座は、薫の若さと容姿を商売上利用しつつ、その身は守りたいというジレンマに苦しんでいる。兄、栄吉の「妹だけはこの境遇から救いたい」という思いは切実だ。対して学生は踊り子の精神年齢に安心して、一座が連れている子犬でも可愛がるような快さを覚えている。薫の身を案じて悪夢にうなされるが、彼女を救いたいというより自分を癒すイメージを失いたくないのであって、好色な視線を向ける客の男たちと全く反対側にいる、とも言い切れない。原作では髪型や装いが踊り子を大人びて蠱惑的に見せており、それが「私」を、そして男たちを惹きつける。今日の旅芸人一座のいでたちは、時代を跨いだ歌舞伎者めいた派手さが楽しい。不思議な統一感はあるが個性はバラバラだ。薫の衣装もその踊りも媚びたアイドル風ではなく、それが彼女を守っていた。
緊張して要領を得ない返事をしたり、お茶をこぼしたりする様子から、薫は幼さ拙さが目立つ少女、とミスリードされがちだ。しかし彼女は明らかに学生より目端が利いており、好奇心が強く、物語を聴くことに飢えて情熱を見せる。無垢=知性が低い、であるはずはないが、そうであれば御し易い。男たちが生娘=無垢のイメージにこだわるのは、それが理由だろう。舞台の薫は、無垢であっても利発で活発な少女だった。学生も、五目並べで彼女に楽勝できないことを呑気に「不思議」などと考えるべきではないのだ。
もうひとつの大きな棘は、病床で明日をも知れない酌婦のお清。踊り子の最悪の近い将来になり得たかもしれない、合わせ鏡のような少女は『伊豆の踊り子』の原作には登場しない。いくつかの映画の脚色で加えられた、別の川端作品『温泉宿』の登場人物だ。芸人たちは血の通った人間で、その旅は牧歌的に見えても一歩間違えば危ういものだ。お清の死の挿話は、それを思い出させる。彼らは伊豆の自然のように「観光客の視界を美しく流れてゆく風景」ではない。
病床を見舞った薫に、お清は力なく微笑むが耐えきれず一瞬泣き顔になるのが痛々しい。が、その後お清は布団から抜け出し、本物の笑顔になって足取り軽く舞台を去る。彼女の命が尽きて苦しみのないあの世に行った、と受け取れるが、同時に、理不尽な役柄を脱ぎ捨てて、文字通り次のステージに向かったようにも見える。実際、観客は違うステージの「お清ちゃん」に何度も出会うのだ。
お清を看取ってくれるのが、お咲さん。枕元での、このままじゃ許さないよと言わんばかりの厳しい表情があってこそ、後半の爆発的な明るさと弾け方が活きる。お咲は、お清と同じく『温泉宿』の登場人物のひとりであり、「生まれながらの酌婦」と烙印を押された存在だ。この烙印は、踊り子が「無垢で御し易い生娘」と見られるのと同じ理由でフェアでない。だから、新しい「お咲さん」の造形には必然性がある。Born This Wayの立ち位置は、独立していて観客に愛されても媚びへつらいは無しということだ。旅芸人を蔑むヘイトを跳ね返し、リベンジを果たす破壊力があった。原作で道中、疲れ渇いた旅の一行が泉を見つけた時、女の後は汚いから、と不浄な彼女らは「清潔な」学生が真っ先に飲むまで待たされる。誰が優先されるべきか。ここでもお咲さんが一刀両断に解決してくれた。
栄吉は、役者を諦め芸人として生きる運命に甘んじているが、一高生と対等に話せる知性を備えている。「土地の人は(誠実な観客として物足りなく)おもしろくない」と悲しむ彼に、二階から心付けを投げる学生の無神経さは残酷だ。地面に落ちたお捻りを栄吉が屈んで拾うとき、彼には学生には見えない「上下」が見えている。永吉の悔しさは棘のひとつだったが、劇場の観客は一座の芸に終始歓声と拍手を送っていた。舞台+観客の再現が、今は遠くにいる彼に声援を届けたようだった。
物語に脇役はあるが、現実の世界に「その他の人々」はいない。見過ごされる人たち、見落とされる出来事は「存在しなかった人」「起こらなかった出来事」では、決してない。
百合子は原作では影が薄い。彼女は一座でひとり血縁がなく「孤児根性」に悩む学生より孤独な境遇だったかもしれない上に、人見知りだ。その百合子のラップは、一番といってよいサプライズだった。まさかの登場から最高潮の盛り上がりまで、舞台と客席を結びつける気持ちの良い強引さがあった。彼女に見合った舞台が派手過ぎるほど派手に用意されていたことに、自分も救われるような気持ちで喝采した人は少なくないと思う。
デフォルメされたショー的演出の中から、リアルが溢れ出たと感じたのが、栄吉と千代子の赤ん坊の四十九日の場。一座は皆、この小さな家族の死を常に気に病んでいた。小説には「私」と一行が別れた後の事は描かれていないが、舞台上で、法要はきちんと行われた。手を合わせた千代子が泣き崩れた瞬間、悲しみが本物になり感情が決壊するきっかけになって、泣けてしまい困った。千代子は早産の後ずっと具合が悪く、皆が遊んでいる時も傍でそっと横になっていたのだった。ショーの振り切れた明るさとの、控えめで遠慮がちな対比だった。
川端康成は、『伊豆の踊り子』の人気への戸惑いや映画化にあたっての思いを書き残している。映画の美化された部分や実際の顛末が正直に語られていて、誠実さに驚く。
「私」と踊り子、旅芸人一座との結びつきは、心の底からの強いものだった。けれどそれは一瞬だった。一座は故郷の大島で学生の訪れを待つ便りを寄こしたが、再会は実現しない。旅をしていても一座の社会は閉ざされていて、旅の間、学生は彼らにとっての「窓」だった。旅は終わり、窓は二度と開くことはなかったのだ。
果たせなかった全てを叶えたような多幸感に満ちたラストでは、あの子も、あの人も、笑っている。夢なのかもしれない。それでも、ひとりひとりの面影を探し見つけるたびに、たまらなく嬉しかった。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■優秀賞■【ばらの騎士】吉野良祐さん

カテゴリー: 2023

オクタヴィアンの言葉は奪い去られて…

「言葉ってすごいね」
元帥夫人との甘美な一夜を思い起こしながら、オクタヴィアンはそう呟く。人妻との快楽に身を投じた年端も行かないこの青年は、明け方、「君と僕」という表現に幾ばくかの哲学的な考察を与えようとする。ひとまわりは年上だろう夫人の前で、何とか背伸びをしようとする青年に対して、夫人は、「君」と「僕」の間にある「と」に全てが込められているのよ、と余裕たっぷりに優しく応えてみせる――
SPAC版《ばらの騎士》は、ホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスによるオペラ《ばらの騎士》を原作とし、そのリブレットに最大限のリスペクトを寄せつつも、ところどころに独自のアレンジが加えられる。このシーンも、オペラ版であれば、愉悦的な音楽を伴うオクタヴィアンの自己満足的なモノローグに対して、元帥夫人が「あなたは私の坊や、あなたは私の宝物よ!Du bist mein Bub, du bist mein Schatz!」とけむに巻くのだが、SPAC版では物音ひとつしない静寂に包まれたダイアローグとなり、オクタヴィアンの「言葉ってすごいね」へと収斂する。劇の冒頭部分で示されたこのリブレットの何気ないアレンジこそ、SPAC版《ばらの騎士》のマニフェストに他ならない。
オペラにも造詣が深い宮城氏が、《ばらの騎士》というオペラ史上の金字塔をあえて演劇作品へとアダプテーションすることで、劇中の様々な言葉が“顕わに”なっていった。とりわけ、オペラでは重唱として作曲され、ともすればシュトラウスの多声的で色彩的な音楽に言葉が溺れてしまいかねない1幕後半部および3幕終末部分において、その効果は絶大であった。元帥夫人とゾフィーという、2人の対照的な女性の葛藤が、「言葉でしか生み出せない壮大さ」(宮城氏のプログラムノートによる)へと昇華された。
これだけでもアダプテーションの成果として目覚しいものであるが、さらに驚くべきは、言葉に重きを置くにも関わらず、《ばらの騎士》というオペラの持つ音楽的な遊戯性がむしろ際立っているという点だ。例えば1幕、元帥夫人の執事が発する「ソロリ」「ギー」といったオノマトペは、言葉の音楽性を意識させる原始的な仕掛けとして機能する。2幕、オペラ版においてオックスが皮肉たっぷりにdie Fräuleinと連呼する部分は、「こっこっこっここの人は!」と独特な節回しによってオマージュされる。3幕、オペラでは合唱団が一斉にDer Skandalと歌う部分は、舞台の上手・下手にしつらえられた音楽ブースから発せられる「スキャンダル」という言葉のミニマルミュージック的重なりへと作り変えられる。こうした、いわば“言葉による音楽的遊戯”が全編にわたって様々な形で埋め込まれているのである。
これらの言葉の遊戯が成り立つのは、根本氏の担当する音楽が、オペラ版の音楽を一切使わないという禁欲的なルールのもとで創作されたということも大きい。強固な和声感とライトモティーフの網目によって構築されたシュトラウスの音楽とは対照的に、根本氏は、メトロノームや打楽器、そして人間の声といったプリミティヴな音を組み合せながら、半ば即興的にシーンを彩ってゆく。フライヤーに記された「練馬のシュトラウス」という氏のキャッチコピーは、ある意味、肩透かしというわけだが、それは紛れもなく、根本氏が宮城氏の台本と対峙した結果であろう。宮城氏が、ホフマンスタールの言葉を“顕わに”するプロセスは、シュトラウスの音楽を消し去ることと決して同義ではない。むしろ、その音楽性を、言葉によってアナロジカルに置き換えてゆくクリエイティブな作業であった。根本氏はそのことを理解したうえで、言葉が有する音楽的な磁場を、原初的な音や民族色の強い音楽(例えば地元静岡のノーエ節も登場する)によって巧みに組み上げていったのだ。
オクタヴィアンがふと呟く「言葉ってすごいね」が、全編を通じて通奏低音として機能しているのは、音楽にまで転化しうる言葉のポテンシャルに、劇団一丸となって徹底的なアプローチを試みたことによるだろう。しかし一方で、当のオクタヴィアンが、最も言葉を“奪われた”登場人物であることにも注意したい。1幕、オックスが女装したオクタヴィアンに言い寄るシーン。2幕、銀のばらをオクタヴィアンがゾフィーに献呈するシーン。3幕、元帥夫人とゾフィーの2人を前にオクタヴィアンが逡巡するシーン。オペラでは、これらの場面の重唱に、オクタヴィアンの内面を語る歌詞が様々に与えられているのだが、SPAC版ではそれらが大幅にそぎ落とされているのだ。元帥夫人とゾフィーの言葉が次々と“顕わに”なるのに対して、主人公ともいえるオクタヴィアンの内面がなかなか見えてこないのは不公平だ、といささか不満に思っていたのだが、それは、最後のシーンに対するあまりに見事な伏線であった。
ゾフィーと結ばれたオクタヴィアンが彼女に語る愛の言葉。それは、オクタヴィアン自身からは発せられない。上手・下手に控える十数名の劇団員たち(それまでは舞台上で何らかのキャラクターを演じていた役者たち)が、断片的な愛の言葉をミニマルミュージックのように投げかけてゆく。舞台上のゾフィーとオクタヴィアンは手を繋いで互いを見つめあっているのに、オクタヴィアンが発すべき愛の言葉は、まったく別の多数の身体によって空間化される。冒頭で「言葉ってすごいね」と呟いたオクタヴィアンから、まさにその言葉が奪い去られ、最後には愛の言葉すら自ら語れなくなる。この皮肉な仕掛けが、言葉というものに徹底的に肉薄しようとしたSPAC版《ばらの騎士》の帰結だったのだ。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【ばらの騎士】小長谷建夫さん

カテゴリー: 2023

ドタバタ喜劇の終わりは

―我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在はただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次もそのとおり。丁度崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごと崩れ去るように―
SPACの「ばらの騎士」を観劇しながら、突然中島敦の「悟浄出世」の中で、妖怪の吐いた言葉を思い出したのは、ホーフマンスタールによる本作が、人間にとって、抗いようのない時の流れをテーマに、あるいはテーマの一つにしていたからである。
尤も、芝居の中で時の流れは、もっぱら容色の衰えや人の心の移ろいとして登場してくるから、大河の深い底での妖怪の呟きと、元帥閣下の奥方の独り言とがイコールであるはずはない……はずではないが、人間を含めあらゆる生物が、いやあらゆる事象が、不思議な時の流れの中に存在していることを思えば、一体時とは何なのだと考えざるを得ない。
時を自由に行き来することができたなら、いや自在に扱うことができたなら、できないことは分かり切っているが、誰もが一度くらいは思いを凝らしたことではないだろうか。
いや時を自在に扱えるものがあった。芝居である。暗転によって、幕の開閉によって、あるいは小さな効果音一つによって、時を縮め、時を戻し、時を止めることもできる。
先を急ぎ過ぎたようだ。まずは宮城聰、寺内亜矢子演出の「ばらの騎士」をじっくりと鑑賞することとしよう。
幕開けは元帥奥方の寝室である。冒頭から、不倫の仲にある奥方と貴公子オクタヴィアンとの甘ったるく濃密な閨話が続く。
奥方への恋心に一途に燃えるオクタヴィアン。その若さと危うさ。それを楽しむ奥方の手練れたあしらい。奥方のふと漏らした言葉から、奥方の道ならぬ恋は一度だけではないことさえ覗える。それにしても、二人の恋は少々無防備すぎないか。観客はついついこの罪深い二人のことを心配までさせられるのだ。
不作法にも寝室まで闖入してくる奥方の親戚のオックス男爵に対し、女装してその場を誤魔化すオクタヴィアン。舞台は喜劇の様相を呈して進む。奥方から、オックス男爵の花嫁に結納代わりの銀のバラを手渡す役割を命ぜられたオクタヴィアンは、ファーニナル家に赴き、そこで花嫁のゾフィーと会い、一目で新たな恋に落ちる。その朝、奥方と不滅の愛と誓ったばかりというのに、この無節操ぶりだ。すべては時の流れのなせるわざ…。いや、まさに電光石火。時の介在さえ許せぬ人の心の移ろいの速さと言うべきか。
オックス男爵のファーニナル家における傍若無人ぶりから、第二のテーマと言うべき階級制度の残酷さ、滑稽さ、男女の不条理な関係などが赤裸々にされていく。オックス男爵は、成り上がり貴族の父親の弱味を突き、結納金と娘を手に入れようとする。そのあまりの傲慢、非礼ぶりに、娘のゾフィーは絶望してオクタヴィアンに助けを求める。
オクタヴィアンと男爵の決闘の後、場面は変わり、女装したオクタヴィアンが美人局まがいに男爵の下劣な正体を暴き、婚約は見事破談となる。最後に奥方が登場。恋人の座を娘に譲り若い二人は結ばれ大団円となる。
さて、このホーフマンスタールのよるオペラの台本は、作曲家リヒャルト・シュトラウスとの密なる協議によって出来上がったものという。確かに多くの登場者による会話の輻輳や、何度も繰り返されるセリフなどは、歌声や楽器の効果、二重唱や三重唱、リフレインの技法等の存在が前提になっているように思える。宮城監督はしかし、その音楽によって埋もれてしまった台本の会話の面白さや言葉が生み出す深みを引き出そうと、シュトラウスの音楽なしの芝居としたという。シュトラウスがなくとも、音楽は宮城演劇にとって欠くべからざるものであるから、観劇者は練馬のシュトラウスこと根本卓也の本芝居独自の音楽や歌に身を委ねることになる。
ではシュトラウスなきこの芝居の醍醐味とはなにか。
過剰なまで多種多様な人物が登場するが、一人として「正しい」ような人物は存在しない。
元帥夫人は一見、時に流される悲劇の人物のように見えるが、若き恋人との別れは、繰り返す火遊びの代償に過ぎない。オクタヴィアンこそは、元帥不在の中、人妻といい仲になって、なんの罪悪感も抱かない若造だ。オックス男爵、ファーニナル、その他の人物も、自分自身のことしか考えないエゴイスト達。
ゾフィーだってピュアではあるが、「私は夫の名誉も妻の立場も汚さないわ」と誓ったすぐ後、現実の婿の態度に豹変するという、我がまま娘。勿論彼女に同情しない観劇者は誰一人としていないが。
そんな癖の強い人物達をSPACの癖のある俳優たちがよりどぎつく演ずるのだから、舞台は当然ながら猥雑となる。素直に笑うには少々ゴテゴテしすぎかなと思っていると、最後はそれらが霧の消えるように晴れ、何か透明な、無常観のようなものに包まれていく。脚本の狙い、演出の妙であり力であろう。
オクタヴィアン演ずる山本実幸は、年上の恋人に坊やと呼ばれるような若さを、そしてそれゆえの未熟さ、危うさを全身から発散させて、観客をはらはらさせてくれた。
時の流れが自らを傷つけないように注意していたにも拘わらず、最後に寂寥感に捉われてしまう奥方。本多麻紀の奥方は舞台の思想そのものを体現したかのような存在感があった。
ゾフィー役の宮城嶋遥加は若くておきゃんで、わがままで、信仰深くて、無邪気に飛びはねる娘を演じて、一瞬にして舞台の中心に躍り出た。ゾフィーの純粋さ、それを演じた宮城嶋の存在があったから、この芝居が猥雑さに崩れ落ちて行く間際に浮上できたのは間違いない。
脇役含めこうした俳優たちの好演を支えたのは、やはり音楽だろう。舞台の脇で奏でられる音楽が、舞台で歌われた登場人物毎のテーマが、人物と人物、場面と場面を結び付け、あるいは切り離してくれた。
登場人物は誰もが欲望に駆られるエゴイスト達だが、欲望は人間の生命力と同じ謂いである。この芝居は階級社会で生き抜くための人間の卑俗と崇高、混濁と純粋、喜びと悲しみ、それらのやや危うげなバランスを鮮やかに見せてくれた。猥雑なドタバタこそが、人間のこころのはかなさ、人生の無常を際立たせたのだ。
さて、舞台には幕が引かれたが、物語が終わったわけではない。若い二人の行く末はどうなる。いかにも危なっかしい。元帥の奥方だって、これで火遊びを終えるとは思えない。オックス男爵が察した不倫の後始末だって不穏だ。
すべては次の物語に引き継がれていく。それらを悉く音もなく時が流していくのだ。我ら観劇者だって同様その流れの中にいる。あたかも砂時計のように流れ落ちる時の中に。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【お艶の恋】寺尾眞紀さん

カテゴリー: 2023

殺されたのは誰か

彼女たちは美しい怪物のようだ。谷崎潤一郎の描く女性は、春琴にしてもナオミにしても、男性の視線によって磨かれていく。完成した「作品」は、とても人工的だ。並外れた美と悪魔的な支配力、そんな鋳型に収まる人間の女は、本当にいるのだろうか。ファム・ファタル、と呼ばれる女性たちは、どこからか湧いてくる超自然の力に溢れて自由奔放だ。彼女らは、女をコントロールできないことに絶望した男に殺される。それは越境してしまった女性への罰だ。または立場を奪われた男の方がコントロールを放棄して、その存在を自ら失くす。ファム・ファタルに選べるのは、怪物になるか、殺されるか、だ。石神夏希氏の演出は、その身動きの取れない二者択一からお艶を解放した。
熱帯の河に浮かぶ小舟、生い茂る巨大な南国の植物。聞こえてくるのは甲高い鳥の鳴き声。原作を読んだ者には全く予想外の舞台装置で、まず先入観が粉微塵にされる。意味を持たないはずの鸚鵡の鳴き声は、少しづつ人間の発声に変わってゆき、雪の夜の江戸を語り始める。上演前の解説で、「物語の登場人物たちの魂が南米に流れ付き、彼の地の役者たちに上演される」という設定を演出家から聞いた。これを聞かなければ、冒頭かなり混乱していたとは思うが、何も知らずに思い切り混乱を楽しんでみたかったという思いも、少々残った。
小舟には役者たちが乗っている。出番が来るまで居眠りしている者もある。彼らは単に本日の芝居というルーティンをこなしているのであって、物語そのものには無関心なのかもしれない。この劇中劇の「他人事」感と、物語の展開の過剰な激しさが対照的だ。鸚鵡返しという言葉があるくらいだから、達者な語りの鸚鵡の「座長」も、果たしてどれだけこの悲劇を理解しているのか。役者たちも油断すると魔法が解けて鳥の姿に戻ってしまい、飛んでいってしまいそうだ。これから舞台で起こることを丸呑みで信じてはいけない、と小声で耳打ちされたような気がした。
しかも劇が始まるや否や、クライマックスのはずの「お艶殺し」はあっさり果たされてしまう。設定に理解が追いつかないまま、一番の見せ場は終わってしまった。
この辺りで、この舞台の楽しみ方に気づき初める。倒叙法とは少し違う。なぜなら「お艶殺しの場」は、これ見よがしに芝居がかって様式的なものだった。これは序の口ですよ、というメッセージである。なぜ劇中劇という複雑な構成なのか。現実と夢や妄想、登場人物たちは場面ごとにどの階層で生きているのか、それをパズルを解くように楽しめばよいのだろう。
原作の衣装の描写は、「緋鹿子の長襦袢」「紬のやたら縞」「黒繻子の襟」など、生地や色まで具体的で目に浮かぶようだ。眼前の舞台では、ラテン風の派手なフリルやマゼンタのレースが揺れている。漢字が音として発声され一度空中で響いてから、全く違った色と形になって目に映り脳に届く、という過程が繰り返される。聞こえている言葉と見ているものが違う、けれど起きている事象は本質的に同じなので、頭の中で辻褄を合わせるのが忙しい。アクロバティックな言葉の扱い方で、不思議な体験だ。
「座敷」「障子」「行燈」といった言葉の風情も、マラカスのリズムにのって歪に小舟の上に積まれていく。この「小舟」のみは、清次の営む船宿の小舟が、この地まで流れ着いたのだろう。お艶との行く末の転機となるその日に新助が乗りこんだ小舟は、不安定な運命の象徴だ。彼らがさらに危なっかしく船縁に立ってよろめく時、どうか落ちないように、と観客も思わず手を握りしめてしまう。
2022年に石神氏演出の『弱法師』を観た。生と死の結界としての場所、身体的な危うい不安定さ、言葉の描写を裏切る見た目、ループする時間が、非常に魅力的だった。その魅力と、ところどころで再会できて嬉しい。
一番緊迫するはずの「殺しの場」では、役者たちは楽しげに踊り出す。肝心のお艶は、ここぞという場面ほど人ごとのようにくつろいでいる風情だ。彼女は今、役者に憑依したお艶自身なのか、お艶役を出番待ちの南米の役者なのか、劇中劇の役を休憩中の俳優なのか、表情を読み取ろうとするけれど、うかがい知れない。「清純な乙女」の次の段階が、なぜ一足飛びに「汚れた娼婦」や「人殺しの毒婦」なのだろう。(でなければ、「忍耐強く献身的な母親」だが、「母」は性別を失っている)お艶は、妖婦やら毒婦やらの型から抜け出して、鬢付け油で固めた日本髪ときつく締めた帯を脱ぎ捨て、くつろいでいるのではないか。一方的に「愛される」か「汚される」しかなくて、どちらも嫌なら、後は役を降りてしまうしかない。江戸時代の芸者を生きるお艶が、気軽にシャワーで汗を流す開放感と爽快感は格別だった。
新助がお艶の美貌に劣らぬ美青年である、ということは原作でも繰り返し強調される。舞台上の新助も、お艶と二人、本当に「芝居のよう」だったが、彼を女性が演じる意味は表面的なものだけではないだろう。恋人たちの場は、物語において重要である。様式的な美しさを保ちながらも、凝視するのが憚られるような生々しさがあり、直接的な熱が感じられて、どぎまぎしてしまった。この高温はなんだろう。裸の俳優を見た時もそんな感情は湧かなかった。もし男女の俳優が演じていたら、微妙な距離感が生じたり、男女の強さの優劣の刷り込みのようなものが、その温度を下げてしまったかもしれない。ジェンダー問題をマニュアルのように芸術に当てはめることには、全く賛成しない。けれど、女性の演出家と女性の俳優が作り出す「きちんとわかった上での」高い温度というものが確かにあるのだな、とあらためて思った。
新助は、ひとり疑心暗鬼で不安げで、常に迷っている。悪役とはいえ、清助、三太、徳兵衛ら他の男性陣に迷いはない。恋人に求めるだけでなく自らの貞操を大切と考え、重要な局面ではパートナーの決断に従う新助は「封建的社会に生きる女性」にありがちな義務を担わされている。従来あるべき立ち位置が逆転したからこそ、『お艶殺し』は扇情的でドラマチックな「芝居じみた物語」となって、人々は熱狂して受け入れたのだろう。劇中劇で殺されたお艶は、芝居が終わると笑顔で素に戻る。彼女は生き延びたのだ。花形役者のはずの新助は、途中退場したあと、代役に取って代わられたまま消えてしまう。本当に殺されたのは新助だったのではないか。新助を女性が演じたことで、「女性性を超越した罰により舞台で殺された女」と「存在を消された男を演じた女」、二人の女性が殺されたことになる。
マジック・リアリズムに影響されたという石神氏の言葉を観劇後に聞いて、とても納得がいった。ガルシア・マルケスだからラテン・アメリカという説明が強引なこじつけに思えなかったのは、冒頭の殺しの場で『予告された殺人の……』というタイトルが自然と頭に浮かんでしまったからだ。表面的な設定の小道具ではなく、本質的にマジック・リアリズムの舞台だったと思う。
やはり『お艶の恋』より『お艶殺し』がふさわしい。ひといきれを感じられるような小さな劇場でも、ぜひ観てみたかった。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【お艶の恋】原田陽菜さん

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お艶の抗いと命のエネルギー

明治時代から昭和にかけて活躍した文豪である谷崎潤一郎( 1886-1965 が 1915年にかいた『お艶殺し』を原作とし、谷崎の小説では語りえないお艶からの視点を丁寧に浮かび上がらせた石神夏希演出の『お艶の恋』が静岡芸術劇場で上演された。
江戸時代の日本から、人々の魂の乗った船が南米のある熱帯雨林に流れ着く。彼らは鸚鵡 阿部一徳の声で目を覚まし、鸚鵡が語り手となって『お艶の恋』を演じるという劇中劇の形式をとっている。 舞台は江戸、裕福な商人の娘であるお艶(葉山陽代)とそこの使用人である新助(たきいみき、のちに阿部)は身分違いの禁断の恋に落ち、事情を知る清次(大内米治を頼って駆け落ちする。しかし、お艶に気があった清次は二人を騙す。最終的にお艶は徳兵衛(大道無門優也)のもとで芸者となり、新助は 新助を殺そうとする清次の子分である三太(大内)を反対に殺し、清次の妻(大内 までも殺してしまう。 新助は 友人である 金蔵のもとに 潜伏しながらお艶を探し、遂にはお艶と再会する。 お艶は売れっ子の芸者になっていたが、新助への愛は堅 かった。そして、数日間二人はお艶の家で過ごす。しかし、ある日 お艶は徳兵衛と共に 芹沢 bable という旗本から金を騙し取るために向島へ向かい、 その 迎えを新助に頼 んだ。新助が迎えに行くと徳兵衛は重傷を負っており、それを利用し二人は徳兵衛を殺してしまう。お艶は自由の身となり、その後に言い寄ってきた清次 をも殺し て彼の金を盗み、 二人の堕落は加速する。 それから 芸者の仕事に力を入れ 、外泊が増えたお艶に新助は嫉妬する。 そして、 新助は お艶に好きな人ができたことを知ってしまう。その相手は芹沢であった。 狂った新助は、愛するお艶までも殺してしまう。 最後にお艶は「まるであたしたちは芝居のようだ。」と寂しげに言う。
谷崎の 書く美しい原文を 最大限に 生かすために、 ト書きまでも俳優の口によって語られるという 特殊な形式をと っており、俳優によるそれらの モノローグが 魅力 的であった。 俳優 が台詞に色 をつけすぎず、 かといって退屈 になるよう な平坦さ はなく、 流れを意識したこれらの語りは 聞いていて耳なじみが良く、心地のよさを感じた。登場人物同士の対話も原文をそのまま台詞として語られること が 多く、 谷崎の 小説を生かした 世界観が立ち上がってくる のを感じた。 また、新助 を演じる俳優が たきいから 鸚鵡として 語り手の役割を果たしていた 阿部へ と 変わっていったのも印象的であった。たきいの羽織っていたマントが阿部へと渡ったことで俳優の変更を観客に視覚的に伝えており、この変更の際の 俳優のやり取り が コミカル であり、それ に ふと笑顔がこぼれた。
新助が人を殺すときの奇妙な陽気さは マジック・リアリズムを想起させ、 果てゆく命の儚さと 命と命 のやり取りの持つエネルギー の大きさという両極的な二つを同時に体感させる演出は 私たちに衝撃を与えた。 陽気さを表現するために 南米風の明るい音楽や派手な照明効果 を利用していること に加えて、 俳優による ダンスやマラカスなども取り入れ、 視覚的にも聴覚的にも私たちに 命の ぶつかり合うことの 力強さを実感させた。
この舞台では、お艶に 焦点があてられることが多かった。谷崎の物語の中では都合よく描かれ 、翻弄され ていたお艶 だが、この舞台では主体的で、人間味があって一貫性のある女としてのお艶 が 浮かび上が ってき ていた。 谷崎の 持つ 世界 観 の立ち上げと同時に 、 物語という枠から飛び出そうとする お艶を 丁寧に 描き出し てい た。また、 途中から新助役がたきいから 阿部へと変わったが、 これは かつて語り手であり、ある意味 お艶の生きる世界の創造者である 阿部 とそれに抗う お艶の直接的な対決を示しているのではないか。 最終的にお艶は新助によって殺されてしまう。 つまり、物語の創造者とその中 で生きる 人間との対決は創造者の勝利で 終わったということである。 お艶は 最初と最後に 「まるであたしたちは芝居のようだ」と つぶやく 。 原作では一度しかこの台詞は用いられていない ため、 二度この台詞を言うことは、 『お艶の恋』でのお艶としての 物語への 精一杯の 抵抗だったのではないか 。一回目の台詞は、 劇的な駆け落ちに対しての台詞であり 、二回目の台詞は どうあがいても物語 という運命 からは逃れられないという寂しげな現実を表すと考えた。
話の筋 としてだけではなく、 文学、 文章としての『お艶殺し』の 美しさを最大限に生かしながらも 、エネルギッシュでパワフルなお艶を 魅力的に描き出した。 『お艶の恋』 は 私たちに新たな谷崎作品への見方を与える 面白いものであった。