ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって
1.夢を見ている
少年(池田真紀子)が舞台前面にぺたんと座って、すごろく遊びをしている。純白の袴をはき、新聞紙の兜をかぶった病弱そうな少年。背後には、ちょうど人間をコマにするとぴったりな、巨大なすごろくを模した八百屋舞台が組んである。
音楽が奏でられ、人形のようにソリッドなたたずまいのペール・ギュント(武石守正)が「振り出し」のマスに現れる。少年は活き活きと指揮をとる。ペールの一代記は、この少年がプレイするゲームの道程として私たちの前ではじまる。
登場人物らのテンポよい動き、場面ごとに鮮やかなカラーを打ち出して芝居に寄り添う生演奏は、10年ぶりの再々演となる今回も健在だ。本公演では配役変更が複数なされ、過去上演ですでにおなじみの場面を新鮮な角度から見せてくれる。
以下ではジェンダーバランスの変化に着目して、劇中後半から3つの場面を取り上げたい。
2.国際会議への女性進出
トロルの国への婿入りに挫折、恋人ソールヴェイとの同棲に邪魔が入って逃亡、母親の死。ペールは劇中前半、二十歳でこれらを経験した。三十年後、中年のペールは海外で有力者に仲間入りしている。
船上の国際会議にイギリス人・フランス人・ドイツ人・スウェーデン人の代表が集う。従来は男性俳優だけで演じられた場面だが、今回は二名、女性の俳優が配された。イギリス人のマスター・コットン(舘野百代)とその通訳(鈴木真理子)である。
衣裳や直線的な身のこなしを見る限り、造形は男役のそれである。ただ筆者はそこに、女性が権力者の役を担い、男性陣と堂々と肩を並べる光景を二重写しに見ないではいられなかった。
カリカチュアに徹する他の権力者と通訳らに対し、コットンとその通訳は仕事に集中していた。重大な判断に必要な落ち着きと緊張感を持って訳す者と聞き取って考える者。二人の息はぴったりである。そこには仕事ができて度量の大きな女性たちの、たとえばアンゲラ・メルケル的な風情があふれていた。
3.働く泥棒少年たち
ペールはその後、平原で馬と宝石と衣裳を拾う。それらを皇帝から盗んだ泥棒を、今回はお揃いのキャスケットをかぶった少年二人組のていで大内智美・石井萠水が担う。ちょこまかした動きは愛らしいが、これも彼ら(彼女ら)にとって生きるための仕事である。
4.ボタン作りの母性
老年のペールが故郷で出会うボタン作り(佐藤ゆず)は、死者の魂を一緒くたに溶かして再生させる存在。女性が演じるボタン作りの低く枯れた声色とぼさぼさの髪、ゴチゴチした動きは山姥や魔女を連想させた。
母性はその根源において、死と生の両面性をもっている(……)産み育てる肯定的な面と、す べてを呑み込んで死に到らしめる否定的な面をもつのである。人間の母親も内的にはこのよう な傾向をもつものである[*1]
死をもたらす負の力は、しばしば実母とは別の、継母や魔女に託して語られてきた。おとぎ話への解釈に倣うなら、ボタン作りは、ペールの生を願い特別な人間になる必要ないと言ったあの優しい母親オーセの半身だと理解できる。
一方、先に見た2つの場面からは、名誉男性として成熟することで地位を築いた女性、ボーイッシュに振る舞って自己を確立する女性――男性性を強化して生きる女性像の描写を感じ取ることができた。
5.おはようソールヴェイ
毛利三彌の指摘にあるように[*2]、『ペール・ギュント』を今日上演するさい大きな課題は、ペールの放蕩の末、大詰でソールヴェイが彼を存在ごと承認する場面だ。これは男性から女性に対するご都合主義的な願望の発露ではないか? この疑念は避けがたい。
あなたの罪じゃない。あなたはずっと私の夢の中にいた。
ソールヴェイからペールに向けられるはずの台詞。2010年・2012年の初演・再演でこの台詞は、すごろく遊びをしてきた少年によって語られた。実は劇中、この少年とソールヴェイは同一の俳優が演じているから、両方が語った台詞だと受け取れるのだ。少年が具体的に何を象徴するのかは分からない。少なくとも「両性具有の存在が“人間として”ペールを承認した」風景を描くことにより、件の疑念に応答していることはたしかだろう。
今回は違った。少年は台詞を言うと白い衣裳を脱いだ。中から出てきたのは、紫色の着物に袴をはいて、長い黒髪がつややかなソールヴェイだった。少年に身をやつしてサナギの中で待っていたかのように出てくるのだ。
ソールヴェイ(池田真紀子)は自分がペールを生んだと語り、父親は皆なのだと周囲や客席を指差す。ペールが人形のようになると、すごろくの「振り出し」へ導く。細長く錫杖のようにも見える杖を手から離すと、小さな花束を持たせた。
平和への祈りというよりも、男の子が花を愛してよいのだと伝えるように見えた。
ソールヴェイは女性の姿で、男の期待からも女の期待からも身軽にそこに立っているように感じられた。
原作戯曲に描かれる、存在承認する母、金持ちのバカ娘、執念深い女、踊り子たち、裏切る女に加え、男性に肩を並べる生き方、ボーイッシュな自意識、いいとこ取りだけで終わらない母性の深淵が、他の人物によってすでに生きられている。この場面のソールヴェイはそれらを表現する要請から解放され、別の可能性へ進むことを許されている。
蝶がサナギの姿で過ごす時間を、能動的とも受動的とも定義できない。待っていた数十年、成虫に向けてソールヴェイの内側で何か起きていたことだけがたしかだ。
*1:河合隼雄『昔話の深層――ユング心理学とグリム童話』(1994年2月、講談社)
*2:毛利三彌「ペール・ギュントはエヴリマンか」『劇場文化 ペール・ギュント』(2022年10月、SPAC)
参考文献
國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(2017年4月、医学書院)
河野慎太郎『戦う姫、働く少女』(2017年7月、堀之内出版)