劇評講座

2025年5月26日

ふじのくに⇄せかい演劇祭2024■選評■SPAC文芸部 横山義志

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「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」「ふじのくに野外芸術フェスタ2024」劇評コンクールには計12作品の応募がありました。内訳は『白狐伝』4、『かもめ』4、『楢山節考』3、『かちかち山の台所』1でした。

私は、劇評を以下のような基準で評価しています。
1)(粗筋ではなく)上演がきちんと記述されているか
2)(とりわけ今その作品を上演する意味について)明確な視点が提示されているか
3)その劇評を読まなければ気づかなかったような発見があるか

最優秀賞や優秀賞に選ばれた作品は、自分が見たはずの舞台でも、新たな視点から、驚きをもって思い出させてくれるものでした。
2)については、題名がつけられている劇評のほうが、焦点が定まっていて、印象深いものになる傾向があるように思いました。

今回、最優秀賞に選ばれた廣川真菜美さんの『トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ』は、この作品を今上演することの意味を、とても納得のいく形で解釈されています。廣川さんによれば「かもめの剥製を見て、その存在を思い出せないトリゴーリン」は、「求められている自分」に適合しようとして「自身から湧き上がる」ものを見失っている私たち自身の姿なのです。

優秀賞に選ばれた夏越象栄さんの『白狐伝』評も、臨場感をもって俳優の演技や舞台美術、衣裳などを描写しつつ、ちょっとした細部に目を凝らしながら、「境界線」を越えて異質な存在に歩み寄り、痛みを覚悟しながらも「真心」を交わすことの可能性について、スリリングで心を動かされる分析をされています。

もう一本の優秀賞、寺尾眞紀さんの『かちかち山の台所』評は、今回この作品について応募があった唯一の劇評でした。山道を2時間近く移動しながら見る作品なので、客観的に分析するのが難しかったのではと思います。そのなかで寺尾さんは、ご自身で山道を歩いた身体感覚を鮮やかに描写しつつ、それが「今まで主流とされていた側「じゃない方」の声を聴く」ための方法でもあったことを看破されています。

みなさんの劇評のおかげで、今年も新茶の季節に上演できた作品一つ一つをもう一度じっくりと味わうことができるのがとてもうれしいです。たいていのことは家にいながらでも体験できる世の中になりましたが、みなさんの文章を読むと、その時、その場だけで起きたことに、体ごと向き合ってくださったのを感じます。みなさんの体験をおすそわけしてくださり、本当にありがとうございました。またみなさんの劇評を拝読できるのを心待ちにしております!

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■最優秀賞■【かもめ】廣川真菜美さん

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トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ

オスターマイアー演出のシャドウビューネ版『かもめ』は「今、なぜ、この作品を上演するのか」という問いに⾒事に応えた作品だった。
これまで⽇本でも多数『かもめ』を⾒てきたが、今回の『かもめ』が決定的に違ったのが、作品の焦点をトリゴーリンに当てていたことだ。なぜトレープレフでもなく、ニーナでもなく、トリゴーリンなのか。それはトリゴーリンに焦点を当てることこそが、「今、なぜこの作品を上演するのか」という問いの答えだからだ。
作品はドイツで作られているので、「令和」を当てはめることは憚られるが、上演された国の、時代の切り取りとして敢えて「令和」を使わせてもらうと、令和は⼀億総SNS時代とも称される時代だ。多くの者がSNSで⾃らの意⾒や気持ちを述べ、他者の意⾒や気持ちを⾒ている。時には「⾒ている」を通り越して「監視している」時代である。
時代の潮流に乗り⼈気作家になったとしても、スキャンダルで⼀瞬にして⾜元を掬われる時代だ。持ち上げるときは天⾼く持ち上げ、叩くときは粉々になるまで叩ききる。それ故、名声を得たものは常に「求められている⾃分」であり続けなくてはならない。
名声を得ていなくても、社会で抹殺されないためには「求められている⾃分」を常に表現していなくてはならない。そんな時代だ。
そんな時代に『かもめ』を上演するならば、なにになったらいいかわからないトレープレフでもなく、なりたいもののために犠牲を払うニーナでもなく、「求められている作品」と「本当にやりたい作品」との乖離に悩むトリゴーリンが適切なのである。社会の中に適合し、名声も得て、パートナーがいて、他者から⾒たら憧れられるような存在にも関わらず、時代の要請に応えるばかりになり、作家の原点である、⾃⾝から湧き上がる「書きたいもの」を書けずにいる。「⾃分」を後回しにし、⾃分の本能に従順でいられない。常に理性が働き、正しくあろうともがいている。「なりたいもの」に⽬を輝かせるニーナに思いを寄せるシーンも、このトリゴーリンの描き⽅であるならば、若い⼥性に⽬移りしたと捉えられがちなところを、トリゴーリンのキャラクターを描き切るシーンに瑞々しく⽣まれ変わるのだ。
「時代」というふわふわしたよくわからないものに適合しようともがき、悩む姿は間違いなく今を⽣きる私たちそのものである。
だからこそ、時に観客を「今、ここにあるもの」としている演出がとても効果的なのだ。
観客にサッカーボールを⾶ばしてみたり、観客を実際にモデルにして模写してみたり、様々な⼿段を使って、演者たちから観客に視線がいく。私たち観客は⾒ている側から急に舞台上に乗せられる。物語の中に⼊り込む。この効果は実に巧みで、現代の、常に誰かに⾒られている状況を表出させているのだ。
そして、その⾒られ⽅は⼀⽅向ではなく四⽅⼋⽅からなのであり、その点で囲み舞台であることは⾮常に合理的な配置である。
また、劇場の形に縛られず、⼤胆に本来の舞台⾯に客席を配置し、空間を狭めていることも作品の濃密さとマッチし、独特の息苦しさを感じさせ、⼀⽅で⾼い天井から照らされる照明は広⼤な⼤地を思わせる。⼼情と場所の表現が空間⼀つで⾒事に表現されていた。
場所、という点では殆どをビーチチェアのみで表現していたことも作品の強度とテーマ性、俳優の⾒事な演技を際⽴たせるための素晴らしいアイディアだった。ビーチチェアから受けるバカンスの印象は、「とどまれなさ」につながり、全体として作品のテイストを明るくしていた。
舞台装置からトリゴーリンに焦点を当てた点に話を戻そう。
トリゴーリンは撃たれたかもめを⽬撃したところからニーナと親しくなる。そして剥製になったかもめを⾒せられたトリゴーリンは、このかもめの存在を思い出せず、その時にはニーナとの関係は解消している。
そう、死んだかもめが剥製になるまでの期間は、トリゴーリンとニーナが恋愛関係であった期間だ。トリゴーリンが「求められている⾃分」から逸脱し、本能に従おうとしたうたかたの2年である。しかし、本来の⾃分を取り戻そうとしたトリゴーリンは、その試みに失敗し「求められている⾃分」に戻ってしまったのだ。だからこそトリゴーリンには、かもめからはじまり、かもめで終わった時間はもはや亡きものなのである。思い出したくても思い出せない、尊くも儚い、幻の時間だった。かもめの剥製を⾒て、その存在を思い出せないトリゴーリンで終幕するこの『かもめ』はまさに、社会の正しさに絡め取られたトリゴーリンの哀愁をもって締めくくられるのだ。
そして、これこそがオスターマイアーから現代のアーティストに対する警鐘なのではないだろうか。時代や評価という他者の⽬にさらされ続けた結果、本当に作りたいものから逸脱し、本質を⾒失った作品ばかりが登場していないだろうかというオスターマイアーからの問いでもあるのではないだろうか。
『かもめ』にはたくさんのすれ違う愛が登場したが、このオスターマイアーからの愛ある問いがすれ違いにならないことを切に願う、そんな作品であった。

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024 劇評コンクール 審査結果

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SPAC 秋→春のシーズン2023-2024の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数15作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選3作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
小田透さん【パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス】(『伊豆の踊子』)

■優秀賞■
寺尾眞紀さん(『伊豆の踊子』)
吉野良祐さん【オクタヴィアンの言葉は奪い去されて…】(『ばらの騎士』)

■入選■
小長谷建夫さん【ドタバタ喜劇の終わりは】(『ばらの騎士』)
寺尾眞紀さん【殺されたのは誰か】(『お艶の恋』)
原田陽菜さん【お艶の抗いと命のエネルギー】(『お艶の恋』)

■SPAC文芸部・大澤真幸の選評■
選評

作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2023-2024
伊豆の踊子』(台本・演出:多田淳之介 作:川端康成 映像監修:本広克行)
お艶の恋』(演出:石神夏希 原作:谷崎潤一郎『お艶殺し』
ばらの騎士』(演出:宮城聰、寺内亜矢子 作:フーゴー・フォン・ホーフマンスタール 音楽:根本卓也)

秋→春のシーズン2023-2024■選評■SPAC文芸部 大澤真幸

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2023年「秋から春のシーズン」、SPACでは『伊豆の踊子』『お艶の恋』『ばらの騎士』の公演を行いました。これら3作品に対して、全部で15本の劇評を送っていただきました。熱心に鑑賞した上で、劇評を書き、応募してくださったすべての皆さんに、まずはお礼を申し上げます。
応募いただいた劇評をずっと読んできましたが、平均的なレベルが上がってきているのを感じます。かつては素朴な感想を記しただけのものが何本もありましたが、今では、ほとんどの応募作が、批評的な意識をもって作品を分析し、解釈できています。
ここでは、最優秀作と優秀作に関して、評価のポイントをかんたんに書いておきます。
まず小田透さんによる『伊豆の踊子』の劇評。これが最優秀作品です。多田淳之介さんの演出のいくつもの工夫を非常に繊細に分析し、その意味を的確に、そして豊かに解釈している点がすばらしい。冒頭の「『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台」という要約が、作品の雰囲気をよく言い当てています。伊豆の林道の映像を背景にした俳優たちの旅姿が、YouTuberの自撮り映像を連想させるなどという指摘はなるほどと思わせますし、弁士風の解説者と俳優の身体の反応が、宮城聰の「二人一役」と少し似ているといった指摘などもおもしろい。大音量のダンスミュージックには、ブレヒト的な異化作用をもっているという解釈なども、検討に値するものだと思いました。
二つある優秀作のうちのひとつは、寺尾眞紀さんの、やはり『伊豆の踊子』を論じた作品。寺尾さんの劇評は、芝居に描かれていることから、背後にある社会的現実を読み取っているところに特徴があります。この芝居は、主人公である学生と踊子の間のごく淡い恋の話ですが、この恋は、エリートの帝大生と下層の踊子たちとの間の階級格差が背景にしていて、そのことが、たとえば「上」の旅館と「下」の木賃宿等々のかたちで芝居の至る所に現れている。寺尾さんはこのことを正確に見抜き、踊子のありそうな将来――踊子自身はまだ自覚していない将来――を密かに想いながら哀しみを感じている。冷静な分析に基づく感情移入に私は好感をもちました。
もうひとつの優秀作は、吉野良祐さんによる『ばらの騎士』の劇評。これは、オクタヴィオンの「言葉ってすごいね」という台詞を端緒におきながら、言葉、とりわけ愛の言葉について考えた、非常に知的な批評になっています。元帥夫人との一夜を思いながら、言葉の力を讃嘆していたオクタヴィオンが、最後にゾフィーと結ばれたときには、一言も発しない。この最後の場面では愛の言葉はどこにもないのか、というとそうではない。オクタヴィオンが発すべき愛の言葉は、周囲の多数の他者たちの身体に分散され、空間化されたかたちで現れているのだという、吉野さんの鮮やかな解釈に感心いたしました。

January 18, 2025

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■最優秀賞■【伊豆の踊子】小田透さん

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パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス

これはきっと『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台。川端康成の原作は裏切ってはいない。英語化されてもいない。それでも、わたしたちが無意識的に期待してしまいがちなステレオタイプはズラされている。学生の一人称の物語を補完するように、旅芸人の物語が対位法的に組み込まれる。いまの伊豆の映像が大写しになる。現代的なポップミュージックやダンスミュージックが騒々しいまでの大音量で鳴り響く。滑らかに連続したシーンが、断続的に、急激に、転換する。にもかかわらず、ここには不思議な納得感と説得力がある。つねに予期せぬ驚きがある。演出家の多田淳之介はわたしたちに痛快な不意打ちを食らわせてくれる。ただし、不安にまでは至らない、安全な範囲内で。

主人公である学生はいかにもそれらしい格好。学帽に袴に黒の外套。下駄に、肩掛けにしたメッセンジャーバック。しかし、彼が出会う旅芸人一座は、着物を1990年代原宿の美学で再構成したかのような、原色系のグランジ風。メイクも、歌舞伎の隈取をギャルメイクで脱構築したような、エキゾチックな日本風。そのくせ、宿の女将たちや宿泊客たちは、コミカルな昭和風。異なる時代様式が混在している。純日本的というよりも、エスニックな視点から再創造された、愉しくフェイクな日本性。

臆面もなく差し挟まれる、まったくステルスしていない「観光演劇」。川端が晩年を過ごした鎌倉の自宅を模したという軒先のような舞台、の壁面の横長の大スクリーン、に大写しになる伊豆の風景、は半実写的な背景として機能する、がところどころで劇の流れをストップさせる、観光プロモーションとして。たとえば、山道をゆく道中のシーンで、地理的な脈絡はあるとしても、物語的な必然性はない観光案内が始まる。まったくあざとく、あざとさしかないにもかかわらず、不思議なことに、余計なものが混入したという感じがしない。

それはおそらく、多田の演出が最初から、疑似的なヴァーチャル体験の共有に狙いを定めているからだろう。やや解像度の低い伊豆の山道や林道をバックに、客席のほうを向いて足踏みする俳優たちの姿は、YouTuber的な自撮り映像を思わせる。1990年代から2000年代初頭にかけて隆盛を極めたノベルゲームのようでもある。舞台がそもそもスクリーンであり、観客はその視聴者にしてプレイヤーなのだ。わたしたちは舞台に登場する予期せぬものに驚かされつつ、それらを「そういうもの」として受け入れてしまう。

にもかかわらず、わたしたちは、与えられたコンテンツの受動的な消費者になるわけでもない。劇冒頭に置かれた前口上は、すべてが作り話であることを自意識的に宣言する。『伊豆の踊子』それ自体が、旅の一座によるひとつの演目のように、物語内物語のように見えてくる。そして、作品外的なメタコメンタリーや作品内の字の文を朗読するナレーターは、軒先のような舞台に上がることはないだろう。作品内の会話文を演じる俳優たちとは別の次元があることが、視覚的にも空間的にも明示される。パフォーマンスの重層性が、物語の虚構性を担保し続ける。

しかしながら、舞台上の複数の位相はつねにつながっている。弁士的な解説者が字の文を読み上げる。すると、SPAC芸術総監督の宮城聰の二人一役の手法を髣髴とさせるように、学生や踊子が読み上げられた言葉に身体的に応える。踊子や学生はセリフを口にすることはない。しかし、過剰なまでの親密さをただよわせつつも、直接的な接触に至ることはすくないふたりの静かな身体の暖かな距離感が、川端の散文のやわらかなてざわりを具現化させる。朗読される文体と、視覚化された登場人物の関係性から、川端の抒情性を二重に味わうという、贅沢な体験。

けれども、それ以上のものがある。多田の舞台は、主人公たる学生がみずからの孤児根性を克服し、いい人だと言われたことに感動する自己憐憫的な物語以上のものになっている。自己憐憫性は、「幼いことであった」と若かりし頃を振り返る後年の川端本人の言葉を呟く弁士的ナレーターによって相対化されるだろう。川端が描かなかった物語の裏面が、旅芸人たちの悩みや苦しみ、叫びや抗議として前景化されるだろう。

その顕在化を担ったのは旅芸人の女性陣。その際たる瞬間はパフォーマンス後半部におかれたラップ。「旅芸人お断り」というローカルな立て看板に、旅芸人はリリックで応酬する。ノリのいい音楽が、腹に響くほどにビート感の強い問答無用の大音量でディスコのように響き渡る。伊豆の観光映像が流れていたスクリーンに、アグレッシブな社会批判の言葉が洪水のようにあふれ出す。

ただし、そのようなプロテストが、あくまでもポップなコンテンツとしてパッケージ化されているところに、多田の演出のとっつきやすさとお行儀の良さがある。旅芸人を見下す社会に抗議する旅芸人のラップは、パフォーマンス内パフォーマンスであるからこそ許された反抗であるようにも見えてしまう。男たちに翻弄される女たちを、健気にも、荒んだ感じにも演じ切ることは、問題の所在が社会構造にあるのか、悪辣な男ども個人にあるのかを、曖昧にしてしまう。子どもを亡くした旅芸人の体調不良は、現代に蔓延するネオリベ的な自己責任論からすれば、自業自得のように見えてしまう。俳優としての経験を積みながら旅芸人に身をやつした男も、身分違いの恋を自ら諦める踊子の諦念的な態度も、センチメンタルな共感は誘うかもしれないが、そこに社会革命を誘発するような起爆性はないだろう。多田のアダプテーションは、川端の物語を社会性に開いておきながら、そこを共感的な回路に閉鎖してしまうきらいがある。

そのほうが口当たりのよい「観光演劇」にはなる。悲恋のように描かれた学生と踊子が、悲劇のように描かれた旅芸人夫婦が、エピローグ部分で、仲睦まじいカップルとして、新たに子を身ごもった夫婦として、21世紀の現代において自撮りを愉しむ観光客になっているのは、ハッピーエンディングではある。反抗的なリリックを炸裂させていた旅芸人と、男どもに翻弄されていたその友達が、屈託なく観光している。病床に臥せっていた老人も、偏見をあからさまにしていた女将も、クイア的なパフォーマーも、幸福を謳歌している。みんながしあわせな観光ユートピア。

しかし、それがフェイクにすぎないことに、気づかされないわけにはいかない。わたしたちは「観光客」というカテゴリーに加わることでしか、新自由主義的で資本主義的なこの世界ではそれなりに裕福な消費者になることによってしか、仮初で束の間の幸福を謳歌できないのではないか。だとしたら、このような「観光客」の回路にそもそも参入することができない人々は、どうなるのだろう。

とはいえ、これだけは言っておくべきだろう。多田はエンターテイメント性を演出するために、やかましいほどの音量でダンスミュージックを流すけれど、それはおそらく、娯楽性のためだけではなく、ブレヒト的な異化作用のためでもあったのではないかという点。1990年代的なものから伝統的なものまで、2010年代20年代的なものまで、さまざまな時代の様式が節操なく召喚されるこの舞台は、きっと、ノスタルジーでも未来志向でもなく、いまここで生起しているヴァーチャルでありながらも生々しいパフォーマンスと批判的な関係を切り結ぶための意図的に導入された断絶ではなかったかという点。このギリギリの批判性を見逃す者は、多田淳之介の演出の誤解者であるはずだ。

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■入選■【お艶の恋】原田陽菜さん

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お艶の抗いと命のエネルギー

明治時代から昭和にかけて活躍した文豪である谷崎潤一郎( 1886-1965 が 1915年にかいた『お艶殺し』を原作とし、谷崎の小説では語りえないお艶からの視点を丁寧に浮かび上がらせた石神夏希演出の『お艶の恋』が静岡芸術劇場で上演された。
江戸時代の日本から、人々の魂の乗った船が南米のある熱帯雨林に流れ着く。彼らは鸚鵡 阿部一徳の声で目を覚まし、鸚鵡が語り手となって『お艶の恋』を演じるという劇中劇の形式をとっている。 舞台は江戸、裕福な商人の娘であるお艶(葉山陽代)とそこの使用人である新助(たきいみき、のちに阿部)は身分違いの禁断の恋に落ち、事情を知る清次(大内米治を頼って駆け落ちする。しかし、お艶に気があった清次は二人を騙す。最終的にお艶は徳兵衛(大道無門優也)のもとで芸者となり、新助は 新助を殺そうとする清次の子分である三太(大内)を反対に殺し、清次の妻(大内 までも殺してしまう。 新助は 友人である 金蔵のもとに 潜伏しながらお艶を探し、遂にはお艶と再会する。 お艶は売れっ子の芸者になっていたが、新助への愛は堅 かった。そして、数日間二人はお艶の家で過ごす。しかし、ある日 お艶は徳兵衛と共に 芹沢 bable という旗本から金を騙し取るために向島へ向かい、 その 迎えを新助に頼 んだ。新助が迎えに行くと徳兵衛は重傷を負っており、それを利用し二人は徳兵衛を殺してしまう。お艶は自由の身となり、その後に言い寄ってきた清次 をも殺し て彼の金を盗み、 二人の堕落は加速する。 それから 芸者の仕事に力を入れ 、外泊が増えたお艶に新助は嫉妬する。 そして、 新助は お艶に好きな人ができたことを知ってしまう。その相手は芹沢であった。 狂った新助は、愛するお艶までも殺してしまう。 最後にお艶は「まるであたしたちは芝居のようだ。」と寂しげに言う。
谷崎の 書く美しい原文を 最大限に 生かすために、 ト書きまでも俳優の口によって語られるという 特殊な形式をと っており、俳優によるそれらの モノローグが 魅力 的であった。 俳優 が台詞に色 をつけすぎず、 かといって退屈 になるよう な平坦さ はなく、 流れを意識したこれらの語りは 聞いていて耳なじみが良く、心地のよさを感じた。登場人物同士の対話も原文をそのまま台詞として語られること が 多く、 谷崎の 小説を生かした 世界観が立ち上がってくる のを感じた。 また、新助 を演じる俳優が たきいから 鸚鵡として 語り手の役割を果たしていた 阿部へ と 変わっていったのも印象的であった。たきいの羽織っていたマントが阿部へと渡ったことで俳優の変更を観客に視覚的に伝えており、この変更の際の 俳優のやり取り が コミカル であり、それ に ふと笑顔がこぼれた。
新助が人を殺すときの奇妙な陽気さは マジック・リアリズムを想起させ、 果てゆく命の儚さと 命と命 のやり取りの持つエネルギー の大きさという両極的な二つを同時に体感させる演出は 私たちに衝撃を与えた。 陽気さを表現するために 南米風の明るい音楽や派手な照明効果 を利用していること に加えて、 俳優による ダンスやマラカスなども取り入れ、 視覚的にも聴覚的にも私たちに 命の ぶつかり合うことの 力強さを実感させた。
この舞台では、お艶に 焦点があてられることが多かった。谷崎の物語の中では都合よく描かれ 、翻弄され ていたお艶 だが、この舞台では主体的で、人間味があって一貫性のある女としてのお艶 が 浮かび上が ってき ていた。 谷崎の 持つ 世界 観 の立ち上げと同時に 、 物語という枠から飛び出そうとする お艶を 丁寧に 描き出し てい た。また、 途中から新助役がたきいから 阿部へと変わったが、 これは かつて語り手であり、ある意味 お艶の生きる世界の創造者である 阿部 とそれに抗う お艶の直接的な対決を示しているのではないか。 最終的にお艶は新助によって殺されてしまう。 つまり、物語の創造者とその中 で生きる 人間との対決は創造者の勝利で 終わったということである。 お艶は 最初と最後に 「まるであたしたちは芝居のようだ」と つぶやく 。 原作では一度しかこの台詞は用いられていない ため、 二度この台詞を言うことは、 『お艶の恋』でのお艶としての 物語への 精一杯の 抵抗だったのではないか 。一回目の台詞は、 劇的な駆け落ちに対しての台詞であり 、二回目の台詞は どうあがいても物語 という運命 からは逃れられないという寂しげな現実を表すと考えた。
話の筋 としてだけではなく、 文学、 文章としての『お艶殺し』の 美しさを最大限に生かしながらも 、エネルギッシュでパワフルなお艶を 魅力的に描き出した。 『お艶の恋』 は 私たちに新たな谷崎作品への見方を与える 面白いものであった。

2025年2月7日

SPAC劇評コンクール

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2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【ペール・ギュント】鈴林まりさん

カテゴリー: 未分類,2022

ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって

1.夢を見ている

少年(池田真紀子)が舞台前面にぺたんと座って、すごろく遊びをしている。純白の袴をはき、新聞紙の兜をかぶった病弱そうな少年。背後には、ちょうど人間をコマにするとぴったりな、巨大なすごろくを模した八百屋舞台が組んである。
音楽が奏でられ、人形のようにソリッドなたたずまいのペール・ギュント(武石守正)が「振り出し」のマスに現れる。少年は活き活きと指揮をとる。ペールの一代記は、この少年がプレイするゲームの道程として私たちの前ではじまる。

登場人物らのテンポよい動き、場面ごとに鮮やかなカラーを打ち出して芝居に寄り添う生演奏は、10年ぶりの再々演となる今回も健在だ。本公演では配役変更が複数なされ、過去上演ですでにおなじみの場面を新鮮な角度から見せてくれる。
以下ではジェンダーバランスの変化に着目して、劇中後半から3つの場面を取り上げたい。

2.国際会議への女性進出

トロルの国への婿入りに挫折、恋人ソールヴェイとの同棲に邪魔が入って逃亡、母親の死。ペールは劇中前半、二十歳でこれらを経験した。三十年後、中年のペールは海外で有力者に仲間入りしている。
船上の国際会議にイギリス人・フランス人・ドイツ人・スウェーデン人の代表が集う。従来は男性俳優だけで演じられた場面だが、今回は二名、女性の俳優が配された。イギリス人のマスター・コットン(舘野百代)とその通訳(鈴木真理子)である。
衣裳や直線的な身のこなしを見る限り、造形は男役のそれである。ただ筆者はそこに、女性が権力者の役を担い、男性陣と堂々と肩を並べる光景を二重写しに見ないではいられなかった。
カリカチュアに徹する他の権力者と通訳らに対し、コットンとその通訳は仕事に集中していた。重大な判断に必要な落ち着きと緊張感を持って訳す者と聞き取って考える者。二人の息はぴったりである。そこには仕事ができて度量の大きな女性たちの、たとえばアンゲラ・メルケル的な風情があふれていた。

3.働く泥棒少年たち

ペールはその後、平原で馬と宝石と衣裳を拾う。それらを皇帝から盗んだ泥棒を、今回はお揃いのキャスケットをかぶった少年二人組のていで大内智美・石井萠水が担う。ちょこまかした動きは愛らしいが、これも彼ら(彼女ら)にとって生きるための仕事である。

4.ボタン作りの母性

老年のペールが故郷で出会うボタン作り(佐藤ゆず)は、死者の魂を一緒くたに溶かして再生させる存在。女性が演じるボタン作りの低く枯れた声色とぼさぼさの髪、ゴチゴチした動きは山姥や魔女を連想させた。

母性はその根源において、死と生の両面性をもっている(……)産み育てる肯定的な面と、す べてを呑み込んで死に到らしめる否定的な面をもつのである。人間の母親も内的にはこのよう な傾向をもつものである[*1]

死をもたらす負の力は、しばしば実母とは別の、継母や魔女に託して語られてきた。おとぎ話への解釈に倣うなら、ボタン作りは、ペールの生を願い特別な人間になる必要ないと言ったあの優しい母親オーセの半身だと理解できる。
一方、先に見た2つの場面からは、名誉男性として成熟することで地位を築いた女性、ボーイッシュに振る舞って自己を確立する女性――男性性を強化して生きる女性像の描写を感じ取ることができた。

5.おはようソールヴェイ

毛利三彌の指摘にあるように[*2]、『ペール・ギュント』を今日上演するさい大きな課題は、ペールの放蕩の末、大詰でソールヴェイが彼を存在ごと承認する場面だ。これは男性から女性に対するご都合主義的な願望の発露ではないか? この疑念は避けがたい。

あなたの罪じゃない。あなたはずっと私の夢の中にいた。

ソールヴェイからペールに向けられるはずの台詞。2010年・2012年の初演・再演でこの台詞は、すごろく遊びをしてきた少年によって語られた。実は劇中、この少年とソールヴェイは同一の俳優が演じているから、両方が語った台詞だと受け取れるのだ。少年が具体的に何を象徴するのかは分からない。少なくとも「両性具有の存在が“人間として”ペールを承認した」風景を描くことにより、件の疑念に応答していることはたしかだろう。

今回は違った。少年は台詞を言うと白い衣裳を脱いだ。中から出てきたのは、紫色の着物に袴をはいて、長い黒髪がつややかなソールヴェイだった。少年に身をやつしてサナギの中で待っていたかのように出てくるのだ。
ソールヴェイ(池田真紀子)は自分がペールを生んだと語り、父親は皆なのだと周囲や客席を指差す。ペールが人形のようになると、すごろくの「振り出し」へ導く。細長く錫杖のようにも見える杖を手から離すと、小さな花束を持たせた。
平和への祈りというよりも、男の子が花を愛してよいのだと伝えるように見えた。

ソールヴェイは女性の姿で、男の期待からも女の期待からも身軽にそこに立っているように感じられた。
原作戯曲に描かれる、存在承認する母、金持ちのバカ娘、執念深い女、踊り子たち、裏切る女に加え、男性に肩を並べる生き方、ボーイッシュな自意識、いいとこ取りだけで終わらない母性の深淵が、他の人物によってすでに生きられている。この場面のソールヴェイはそれらを表現する要請から解放され、別の可能性へ進むことを許されている。

蝶がサナギの姿で過ごす時間を、能動的とも受動的とも定義できない。待っていた数十年、成虫に向けてソールヴェイの内側で何か起きていたことだけがたしかだ。

*1:河合隼雄『昔話の深層――ユング心理学とグリム童話』(1994年2月、講談社)
*2:毛利三彌「ペール・ギュントはエヴリマンか」『劇場文化 ペール・ギュント』(2022年10月、SPAC)

参考文献

國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(2017年4月、医学書院)
河野慎太郎『戦う姫、働く少女』(2017年7月、堀之内出版)

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【人形の家】山上隼人さん

カテゴリー: 未分類,2022

仮面を付けていない仮面劇

SPACが静岡芸術劇場で上演した『人形の家』(ヘンリック・イプセン作、毛利三彌訳、宮城聰演出)は、140年以上前に書かれた作品にもかかわらず、全く古臭さが感じられない仕上がりだった。1879年にノルウェーの劇作家によって発表されたこの作品の舞台設定を、宮城は昭和10年(1935年)の日本に置き換えた。発表当時より56年進んだ設定だが、現在から見れば88年前の出来事となる。それでも、当時の時代背景に違和感を抱くことなく共感できたのは、この作品が持つ、現代にも通ずる普遍的なテーマを表出させることに成功していたからだろう。
物語は、こうだ。ノーラ(たきいみき)とヘルメル(bable)は仲睦まじい夫婦で、結婚して8年が経つ。ヘルメルは弁護士だが、年明けから銀行の役員に就くことが決まり、前途は明るい。ただ、良いことばかりではなく、ヘルメルは過去に大病し、その時はノーラが金を用立てて救った。しかし、女性がまだ借金できなかった時代、ノーラは父親のサインを偽造し、ヘルメルと同じ銀行に勤める弁護士のクログスタ(加藤幸夫)から金を借りたのだった。違法行為に気付いたクログスタは、ノーラを脅迫。ヘルメルも知るところとなり、ノーラは夫と子供を捨て、家を出ていく。
12月24日のクリスマス・イブが第一幕で、クリスマスを第二幕、その翌日を第三幕とする三幕構成。ノルウェーで誕生したこの世界的名作に、宮城は能の様式を採り入れて演出した。まず、第一幕の冒頭。照明によって下手の床面に光の筋がつくられ、その上をノーラが「すり足」で歩いてくる。まるで、光の橋掛かりを渡る能楽師のようだ。部屋の広さは能舞台と同じ三間四方で、背景に鏡板、下手前方には目付柱まである。クリスマスらしく、松の代わりに樅の木を配置したのも面白い。
ノーラは、能の最たる特徴である能面こそ付けていないが、仮想の面を付けている。「良妻」としての面だ。三間四方のこの部屋で、この劇のシテとして、夫にとっての可愛い妻を演じる。ヘルメルに対して愛くるしい笑顔を振り撒き、時には甘えてみたりして、ヘルメルが妻に求めているツボを心得ているかのようだ。今で言う「あざとかわいい」女性のようにも感じられる。また、この部屋には二つの扉があり、下手側が玄関に、上手側はヘルメルの書斎につながっており、その他の登場人物もここを行き交う。久しぶりに再開した友人のリンデ(葉山陽代)や、ヘルメルの親友であるランク(武石守正)も訪れるが、彼らに対しても愛嬌たっぷりに接し、外部の者に対しても良き妻であり続ける。
一方、ヘルメルはどうか。真面目な性格で仕事熱心、借金が大嫌いな堅実派で、決まった時間に郵便受けを毎日チェックする几帳面さも持ち合わせている。クログスタのことを「偽善者で仮面をかぶっている」として毛嫌いするが、彼もまた「立派な夫」という仮面を付けて演じている。そのためか、世間の目を非常に気にするところがあり、ノーラがクログスタに脅迫され、彼が銀行で良い職に就けるようヘルメルにお願いした際は「妻の言いなりになった俺は、銀行中の笑いものになる」として一蹴する。妻のことは愛しているようだが、外見に偏重した愛し方であり、ノーラが舞踏会のダンスで喝采を浴びた時は、自らも一緒にお辞儀をして回り、「美しい妻を手に入れた自分」をアピールするしたたかさも備えている。
つまり、ノーラとヘルメルは、互いに仮想の仮面を付けて夫婦を演じている。本来の言葉の使い方とは異なるが、これもある意味では「仮面夫婦」と言えるのかもしれない。これはこれでバランスの取れた夫婦の形だったのだろうが、クログスタの手紙を通じて、ノーラが違法行為を犯して借金した事実をヘルメルが知り、この関係は崩壊する。ヘルメルが「立派な夫」の仮面を脱いだのだ。妻を「犯罪者」と罵り、「俺の幸せはメチャクチャになった」とわめき散らし、挙げ句の果てには彼女の父親の悪口まで言う。今なら間違いなく「モラハラ」と言われる行為だ。その後、すぐに別の手紙が届き、クログスタがリンデの説得を受け借用証書を返送してきたことに安堵し、平静さを取り戻すが、後の祭り。ヘルメルの「素顔」を知ったノーラは、「良妻」の仮面を脱いでしまう。
これは、ノーラがヘルメルに「冷めた」瞬間であり、自我に「覚めた」瞬間でもある。ノーラは家を出ていくことを決意するが、その理由として「無知なために違法行為を犯してしまった。自分には教育が必要だ」という思いを抱いたことが挙げられる。自立して学ぶため、夫と子供を捨てて家を出ていくという決断は、発表当時、新しい女性像として迎え入れられたことだろう。また、夫の本当の姿を知り、愛情が冷めたために夫の下を去るという行為は、発表当時よりもむしろ、コミュニケーションが希薄になり、「モラハラ」という言葉が定着した現在の方がリアリティーを持って受け入れられるのではないか。そして、そのリアルさに磨きを掛けたのは「8年間、真面目な会話をしたことがなかった」夫婦が互いに仮想の仮面を付けていることを想起させる演出が効果的だったからだろう。
一方、かつて恋人同士だったリンデとクログスタは復縁する。かつてリンデと別れた時のことを思い出し、クログスタが「足元の地面が崩れ落ちていくみたいだった」と語るが、ノーラとヘルメルが別れる際には、本当にそうした状況が起こる。子供(森山冬子=ヘレーネとの二役)が一部の床板を外してしまったために、床の上を歩くと板が滑って、足元がぐらつくのだ。ヘルメルはノーラに対し、部屋中を動き回り、家から出ていかないよう足を踏ん張って必死に説得するが、その姿が、妻に愛想を尽かされた夫の哀れさや滑稽さをにじみ出させる。一方で、子供は時折ローラースケートで現れ、床の上を滑って無邪気に遊んでおり、必死に踏ん張るヘルメルの悲哀を増幅させた。
また、子供を使った演出で効果的だったのが積み木遊びだ。ノーラとヘルメルが別れることになる第3幕の前までは赤と白の積み木が交互に積まれていたが、第3幕が始まると子供がその積み木を崩してしまう。赤が女性で、白は男性だろうか。新たに積まれた積み木は、赤と白の順がバラバラで、むしろそれらが合わさることなく、それぞれ独立しているようにも見える。まるで男と女が別れることを示唆しているかのようだが、結局、ノーラとヘルメルはその通り決別することになってしまう。床板を外したことやローラースケートで遊んでいたことも含め、子供のやることの方が大人を上回っており、仮面を付けることよりも、純粋で、清らかな、素顔のままでいることの方が勝っていると感じられた。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【ペール・ギュント】小田透さん

カテゴリー: 未分類,2022

美的カタルシスか、批判的挑発か

双六が舞台を支配している。サイコロの目がマスにあしらわれた、舞台奥が高くなるように傾斜した、とてつもなく巨大な双六盤が、舞台中央を覆うように、少し斜めに置かれている。後景には、それと鏡合わせになる双六盤が、奥にわずかに傾いで、上辺が右下がりになっているせいでどこか不安定に、アンバランスに、屹立している。芝居が始まる前、後景に投影されている画像の上部には、「日本人海外発展双六」と、右から左に記されている。大日本帝国の海外進出を題材に取った、実在の双六らしい。双六盤の手前に照らし出された前景では、軍国少年とその妹が、入れ替わりで双六で遊んでいる。一人遊びにのめりこんでいくのは、少年のほう。折り紙の兜をかぶり、紺色の半纏を羽織った彼の手に握られているのは、軍人をかたどった駒、ゼロ戦のような航空機。ときにひどく咳込む、病弱なのかもしれない彼に、妹の声は届かない。男の身勝手さが招きよせる歴史的悲劇が、きわめて象徴的なかたちで提示された後、劇が突如として始まる。

明治から昭和にいたる大日本帝国の帝国主義的な拡張政策(の瓦解)のなか、自らのアイデンティティを見出そうとして迷走する日本男児の物語に読み替えられた宮城聰の『ペール・ギュント』は、日本近代史を幾度となく参照するが、それらはすべてどこか戯画的な誇張を含んでいる。鹿鳴館時代を思わせる1幕のトロル王の宮廷シーンの付け鼻、人形の衣装のようなドレスをまとった者たちのダンス。欧州諸国と物別れし、別々の道を行こうというペールの通告が日本の国際連盟脱退を想起させる2幕冒頭の入退場はコミカルな影のシルエットで演じられるし、西欧代表団の話す西洋語はもっともらしいでたらめな代物であり、それが正確な日本語に通訳されると、ますます茶番めいてくる。満州国の旗をはためかせながら中国風とも韓国風ともいえない衣装をまとった踊り子たちに囲まれて、ペールが中国風の装いで皇帝を気取る2幕半ばは、大日本帝国の植民地的野心が明白なかたちで暴かれるところだが、衣装にしても小道具にしてもどこかフェイクめいており、意図された安っぽさがある。サイレンがうなり、白煙が上がり、空襲の被害にあったかのように、壁からも床からも双六のマス目が剥がれ落ち、いたるところに穴が開いて荒廃した2幕後半の敗戦のシーンは、痛切ではあるが、「うちてしやまん」と筆書きされた日の丸を腰にまきつけて物乞いのようにペールにすがるトロル王は、どこかコミカルでもある。日本近代を大真面目に受け取って大真面目に批判するというよりも、あえて茶化すことで、そのいかがわしさやうたがわしさが逆説的に強調されていた。

しかしながら、宮城演出の批判性の強度が最高度に達したのは、敗戦の風景が出現するひとつ前の難破のシーン、演出の戦略的な軽薄さが剥がれ落ち、シリアスさが不気味なまでに浮上するシーン、海に投げ出されたペールが、決して現実化されることのなかった思いを幻視するシーンである。生まれることがなかったさまざまな可能性が、対位法的に、不協和に、リズミックでもあれば調子外れでもあるような旋律をなぞって、叫び出す。舞台が妖しい青に染まり、コロス隊が双六の一の目のいたるところから、もぐら叩きのもぐらのように、あちらこちらで顔を突き出しては引っ込める。ぺールの心象風景の荒涼さや不毛さが浮き上がるこの場こそが、宮城演出の『ペール・ギュント』の突出点であったように思う。

ただ、そこで問い質されていたのは、ペールが犯した具体的な罪――それは数限りないだろう、日本近代が犯した罪が数限りないように――というより、もっとずっと内面的な、近代的自我のアイデンティティをめぐるものではなかっただろうか。こうして、あえて不真面目に、戯画めかしながら、日本近代史へのほのめかしをあちこちに盛り込んできた宮城の『ペール・ギュント』は、劇がほとんど終わりかけたところで、突如として象徴劇的なものにスイッチする。そして、そのような迂回路をとおして、宮城の近代批判が観客であるわたしたちを不意打ちする。

いつもどこかさびしげで、どこかよそよそしく、奇妙に神秘的だったソールヴェイが、最後の最後で突如として意志的存在に転化し、きわめて強い声で「あんたに罪なんかない」と叫ぶのは、そのような急展開の後のことである。「あなたはずっとわたしの夢のなかにいた」と甘やかに言うソールヴェイは、老ペールを受け入れ、赦す存在として立ち現れる。ご都合主義的に、男性原理的なものを女性原理的なものが包み込んでいくだけではない。「父親は誰だ」とペールが絶望的な叫びを返すと、彼女は無言のまま、舞台の袖を指さし、観客席のわたしたちを指さすだろう。『ペール・ギュント』が父の不在、父になることの拒否の物語であったことが突きつけられるこの瞬間、抑圧されてきた不在の父の責任が、突如として、わたしたちに差し向けられる。男性的な価値観と、近代の帝国主義と、日本の戦争犯罪に、わたしたちもまた不可避的に加担していた/いること、共犯者であった/あることが、脈絡なく、突きつけられる。劇に内と外が、内から外へとつなげられる。わたしたちは否応なく当事者として巻き込まれる。

しかし、そのような挑発的な巻き込みは不発に終わっていたのではないか。わたしたちを指さしたソールヴェイは、そのまま指をタクトのように用いて、音楽隊を率いて、劇を終わらせていく。それは、本劇においてほとんどつねに受動的であった彼女が自律的な行為能力を発揮した瞬間ではあった。冒頭の軍国少年につらなる存在である指揮者がソールヴェイだったことが明かされる瞬間でもあった。ジェンダー・ポリティクスを転覆させる批判的な問いかけが、そこには仕込まれていた。しかし、ソールヴェイは、彼女に付与された自律性を、自らの存在を主張するためでも、日本近代をわたしたちとともに問い質すためでもなく、ペールを赦すために行使する。

うなだれて立ち尽くす老いたペールの手に握られていた杖を彼女は優しく取り外し、花を握らせる。子の手を引くようにして、「振り出し」のマス目まで彼を導いていく。ソールヴェイの歌う子守歌に込められていたのは、ペールが初めからもう一度やり直す可能性だ。うつむいた彼に光が注がれたとき、そのような可能性を受け取った老人は再生し、若返り、ほのかに輝いたように見えた。まるでペールも、ペールが象徴する日本近代も、ともに赦され、やり直す可能性を与えられたかのように。しかし、そのときわたしたちもまた、たんなる傍観者に戻ることを赦されてしまっている。

「あなたはわたしの夢の中にいた」というソールヴェイの告白と相まって、『ペール・ギュント』全体がペールの夢落ちであったかのように思えてくる。近代をリプレイすることができるとしたら、わたしたちはきっと前よりもずっとうまくやれるだろう。しかし、歴史に「もしも」はない。なされたことはなされたことである。あったことはなかったことにはできない。宮城の『ペール・ギュント』は、日本近代史について重要な問いを投げかけながら、それを掘り下げて、批判的に問い直すことで未来を作り直すことよりも、ありえたかもしれない別の過去の可能性を夢見ることで、過酷な現実の歴史を仮想的な内面の領域にシフトさせ、最終的には、胎内回帰的な夢の甘美な空間に退行してしまっていたのではないか。だからわたしたちは、現代にまで通底する日本近代についての重大な問いが、美しいイマージュの中で霧散してしまっていたことに、何か腑に落ちない思いを抱かざるをえないのである。