劇評講座

2026年3月3日

SPAC秋→春のシーズン2024-2025 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 未分類

SPAC 秋→春のシーズン2024-2025の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数7作品、最優秀賞1作品、優秀賞1作品、入選1作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
山上隼人さん【劇場と月の距離】(『象』)

■優秀賞■
小迫茉凜さん【観られたい、見られたくない、その葛藤のはざまで】(『象』)

■入選■
河村恵理さん【「メナム河の日本人」を観て】(『メナム河の日本人』)

■SPAC文芸部・大岡淳の選評■
選評

作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2024-2025
イナバとナバホの白兎』(構成・演出:宮城聰 台本:久保田梓美 & 出演者一同による共同創作
音楽:棚川寛子)
』(演出:EMMA〔旧・豊永純子〕作:別役実)
メナム河の日本人』(演出:今井朋彦 作:遠藤周作)

秋→春のシーズン2024-2025■選評■SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 未分類,2024

SPAC秋→春のシーズン2024-2025は、特に『象』評が多く集まりました。『象』は、詩的なセリフと、寓話的な物語と、被爆という生々しい題材とが、不可思議に調和した故・別役実さんの初期代表戯曲を、EMMAさんの演出とSPAC俳優陣の技量によって現代に甦らせた公演でした。その謎めいた内容が、解読し解釈し批評する欲望を、大いに刺激してくれたのかもしれません。

その『象』評は、いずれもチャレンジングな内容で読み応えがありましたが、とりわけ、「月」と「太陽」というイメージの対比によって読み解いたユニークさを評価して、山上隼人さんを最優秀に選出しました。また、「観られたい、見られたくない」という矛盾の連鎖として上演を読み解いた鮮やかさを評価して、小迫茉凜さんを優秀に選出しました。

ただ一つ気になったのは、これは今回頂戴した『象』評の全体に言えることなのですが、ケロイドを背負った「病人」の「観られたい」欲望とはいったい何なのか、もうひとつ掘り下げが足りないという印象を受けました。「病人」が嫌悪するのは、政治集会の中で被爆者の代表のように扱われ、戦争の被害者という役割をあてがわれ、憐憫や同情によって承認されてしまうこと、すなわち、戦後民主主義的なヒューマニズムの餌食になることであり(この背景には、1960年の安保闘争の敗北に際して、別役さんたちの世代が抱いた議会政治への幻滅があります)、そのような“良心的”な人々の欺瞞的な態度より、「病人」は、かつて街角で自分のケロイドに触れようと近づいてきた少女の、直接的であり衝動的であり、無垢とも残酷とも言える好奇心を歓迎するわけです。原爆によって、偶然にも背負わされてしまった傷痕をあえてセンセーショナルな見世物に転換して、人々の下世話な好奇心を満たそうとする「病人」の態度は、マゾヒスティックで倒錯していますが、自分の不運を呪い〈不自由〉に苦しみ続けるのではなく、自分の不運をあたかも運命的なドラマであるかのように仕立て直して、人々の視線の前にその身をさらす〈自由〉に賭けている、と解釈できます。これは、ジャン=ポール・サルトルが主張した、実存的な〈自由〉そのものであると言えましょう。改めて私はこの戯曲を、カミュやベケットに連なる不条理演劇というよりも、サルトルに連なる実存主義演劇と位置づけるべきではないかと感じました。ともあれ、この病人の倒錯した心理をどう説明するかが、劇評を書く上での肝であることは間違いありません。

同じシーズンの『メナム河の日本人』評からは、心理学的な視点で読み解いて下さった河村恵理さんのオリジナリティを評価し、入選といたしました。ただ、これは戯曲の分析に終始している点が惜しかったです。次回はぜひ、演技や演出といった上演の質感にまで踏み込んでいただきたいと思います。また、残念ながら入賞は逃したものの、上演をめぐる親子の会話を書きとめて下さった、のびた父さんの劇評は、楽しく読みました。

批評の書き方に「正解」があるわけではありませんが、自分なりに洗練させることはできると思います。みなさん、ぜひまた劇評に挑戦して下さい。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■最優秀賞■【象】山上隼人さん

カテゴリー: 未分類

劇場と月の距離
「私は、いわば、お月様です。お空に、まんまるの・・・・・・」。こうした印象的なセリフから始まる劇が2024年12月の4日間、SPACにより静岡芸術劇場で上演された。作品は、別役実の初期の代表作とされる『象』。冒頭のセリフを象徴するかのように、演出のEMMAは、月をイメージさせる絵を舞台上方に掲げ、シーンによって光で照らした。劇中にも「月」が登場するが、我々と月との距離はどのくらいなのだろうか――。
物語が展開するのは病院の一室。ここのベッドに病人(阿部一徳)が横たわっている。病人は被爆者で背中にケロイドがあり、かつてはそれを披露して人々から喝采を浴びていた。そのため、また「あの街」へ行き、再びケロイドを見せて注目されたいという願望を抱いている。一方、病室を訪れる男(牧山祐大)は病人の甥で、同じく被爆者だが、「情熱的に生きたい」という病人とは対照的に「静かに死んでしまいたい」と思っている。
つまり、病人は「見られる存在」として生きていきたいと願っている。動物園の象もまた「見せ物」であり、ケロイドと象の皮膚の質感が似ているように捉えられることから、これがタイトルの所以となっているのだろう。
月も同様だ。「月見」という言葉があるように、我々が月を認識するのは概ね「見る」ときだろう。しかも、遠くから眺めることしかできない。また、月のゴツゴツした表面もケロイドと似た印象を受ける。舞台上方の月は、「病人の背中」を表しているのだろう。
月を照らしているのが太陽であるように、病人の背中を照らしているのもまた「太陽」である。原爆が投下された際、「小さな太陽が落ちてきた」と形容された。病人の背中にあるケロイドは原爆によって被ったものであり、太陽と月と同様、切り離せない関係にある。この劇で描かれる「月が太陽の光によって輝く」という状況は、皮肉を超えてもはや「不条理」であると言える。
ただし病人は、単にケロイドを見せびらかしたいわけではない。原水爆禁止大会でケロイドを披露した際、効果的なポーズまで考えて演壇に立ったが、拍手が無かったことに不満を持っている。そればかりか、「見物人」はケロイドではなく、「俺の眼をのぞきこもうとした」ことに憤りを感じている。また、再び観衆の前に立ち、自らカミソリで体を傷付けて血まみれとなり、「皆さん、私は一生懸命やってきました」「私は、この十年間、苦しい生活に耐えぬいて、一生懸命がんばりました」と表明することも計画している。
つまり病人は、ケロイドを見せ物としたいのではなく、「ケロイドがあっても頑張って生きてきた人」として見てほしいのだ。そして、褒めてもらったり、ねぎらってもらったり、称賛されたりしたいのだろう。そうすることで自らのアイデンティティーを保てると考えているのではないか。それに対して、見物人はケロイドを直視できない。そこには恐らく「ケロイドができてしまったかわいそうな人」という意識が働き、目を背けてしまうのだろう。病人と見物人との間には、当事者とそうでない者という明確な立場の違いがあり、その意識の乖離は劇場と月ほども遠い。
このテーマを考える上で重要になるのが、男が病人に話す「赤い月」のエピソードだ。男は「僕が夕方、戸を開けると、いつも正面に大きな赤い月があるんです。そして、遠くの方から、小さな男が走ってくる・・・・・・。アカイツキ、アカイツキ、アカイツキ、アカイツキって叫びながら、走ってくるんです。(中略)その男は一生懸命なんです。一生懸命走ってくるんですよ」と説明するが、月が赤くなるのはどういう状況なのだろうか?
まず思い付くのは皆既月食だ。皆既月食とは、地球が太陽と月の間に入り、地球から見える月面が、地球によって太陽が完全に隠された部分に入る現象を言う。この時、太陽光のうち青い光は散乱してしまうため、赤い光のみが届き、月が赤く見えるそうだ。この状況を踏まえると、月(ケロイド)と太陽(原爆)の間に地球が存在している。地球は我々の存在する地点であり、この劇で言えば原水爆禁止大会の「見物人」を指しているのではないか。被爆の当事者ではない見物人(我々)は、月(被害者)を見るとき、後ろにある太陽(加害者)のことも意識しなければならない。逆もまた同様である。その存在を忘れそうになったとき、小さな男が一生懸命に赤い月の存在を知らせにやってくるのだろう。
この劇が上演された2024年は、奇しくも日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞した。その一方で、経済産業省は12月17日、新たな「エネルギー基本計画」の原案を公表し、原発を「最大限活用する」方針を明記した。経済を活性化させるため、やむを得ない面もあるが、東日本大震災の直後では考えられなかった判断だろう。原発事故の当事者ではなかったとしても、月と太陽の存在を忘れてはならない。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■優秀賞■【象】小迫茉凜さん

カテゴリー: 未分類

観られたい、見られたくない、その葛藤のはざまで
「放っておいていただきたいのです。そうして、むしろこの世に私が居る、ということなど忘れていただきたいのです。」
『象』の冒頭で男はそう語る。けれど、その男が立っているのは舞台の上である。この劇場の観客たちはじっと彼のことを見つめ、その言葉通りに忘れようとなんて思わない。見てほしくないのだと語る彼は、最初からそんな矛盾のもとにある。
それに対し、病人は頑なに「あの街」へ戻りたがり、またケロイドを見せ、誰かに殺され、そして皆にそれを悔やまれることを望み続けている。特別でありたいと望む彼は舞台の上へ姿を現し、じっと私たちの方を見つめ横たわっている。拍手を求める彼を私たちは静かに見つめ続ける。彼が覗き込むなと言うその眼をじっと覗き込み、観られたがる彼の内の苦しみを読み取ろうとする。彼もまた、私たちをそんな矛盾の中へ誘い込む。

この作品は、2024年9月に富山県南砺市利賀村においても上演されている。SCOT Summer Seasonの課題作として利賀村の創造交流館において上演された同作では、観客と役者の距離は静岡芸術劇場での上演よりも近かった。観客の座席の位置は役者以上に大きく高くなることはなく、観客はいわば人の視座をもって作品と直面することになった。
しかし静岡芸術劇場での上演では、舞台の広い奥行きや観客席の多さから、後方に行けば行くほど役者との距離は遠くなり、彼らを見下ろすような形になる。いわば、舞台上部に煌々と輝く月の視座に近づくのだ。私は今回の装置の変化によって、自分が劇中の人々を「見ている」という実感を強く持った。
見られたがらない男も、観られたがる病人も、ともに同じ人間であり、私はそれを等しく見つめていた。二人はそれぞれ相反する欲望を抱えているように見えたが、今こうして思い返してみると、むしろ二人は同じ呪いにかかっていたのかもしれない。それは「被爆者」というレッテルだ。
男は自分が「被爆者」であるために特別扱いをされることを嫌悪していた。何でもない普通の人とおなじようにありたがっていたのだと思う。冒頭から自分は健康であると主張し続けていた彼は終盤でいよいよ入院に至る。
この彼の台詞の中で特に印象的なのは、病人のケロイドに触れたがった女の子をめぐるエピソードだ。男は一度、女の子は生きていると病人に話す。しかし入院した後で、「あれはウソだったんです」と病人に打ち明ける。彼の言葉を信じるのであれば、被爆者という自己からも女の子の死からも目を背けてきた彼がそれを認めるに至ったという物語を受け取ることができる。しかし彼はその先において、「ジタバタするのはやめましょう」と話し、病院の中で死んだように過ごすことを受け入れる。彼のこの姿は、ようやく見つめた被爆者としての自己に対する諦めのようにも思われる。
それに対して病人は原水爆禁止大会の際のエピソードを持ち出し、見物人たちが彼の眼を覗き込もうとするのだと語る。彼が話す滑稽な話もひょうきんな踊りも笑いの対象とはなり得ず、彼はただその眼を覗き込まれる。それは男がそうであるのと同じように、彼もまた「被爆者」として見つめられていることの証だろう。
しかし病人が男と異なるのは、諦めに至らなかったということだ。彼はあの街へ戻り、ケロイドを観せることを望みもがき続ける。諦めを抱えた男は、そんな姿を見ていられなくなって彼を止めようとする。二人が取っ組み合う終盤のシーンには、諦めきれないという思い、諦めたくないという思い──観られたい、見られたくない、そんな葛藤が表れているように思える。
病人はその瞬間に命を落とす。しかし男は、リヤカーに乗った男の死体を見送り、あの街への近道を叫ぶ。呪われた身体から解放された彼があの街に辿り着くことを願う姿は、諦めたはずの望みを彼に託しているように見える。男は本当に諦めていたのだろうか。否、むしろ諦めざるを得なかったのかもしれない。
観られたい、見られたくない、そんな相反する思いが舞台の上でぶつかり合うことにより、私たち観客も矛盾の中で苦しむことになる。私たちは「放っておいていただきたいのです」と語る男から目をそらすことができない。ケロイドを披露する病人の眼を覗き込んでしまう。しかしその矛盾こそが、私たちの胸に彼らの苦しみを焼き付ける。
この作品を安易に過去の遺産、あるいは作り話とすることはできないだろう。不条理演劇だからこそ際立てられた反戦のメッセージは、戦争の蔓延する現代に強く響き渡っている。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■入選■【メナム河の日本人】河村恵理さん

カテゴリー: 未分類

「メナム河の日本人」を観て
この舞台の始め、川にもがきながら(少なくともそう私には写った)沈んでいく山田長政というシーンがあったために、何かの理由で彼は道半ばにして、亡くなっていったのであろうということが一瞬で想像できた。そして、どのような経緯で川に沈むことになったのか(実際の死因ではないが)ということが、進んでいく物語で明らかになっていく。ところで臨床心理学(私が専門にしているところ)では、「川」の表現(例えば描いていただく描画)の中に、相手の無意識の動きや流れをこちら(心理士)が理解するのにも使われている。これは、無意識の動きが「川」という表現で意識的に現れると見立てられているのである。であるから、この演劇のタイトルが「〇〇河」となっていることことから、その川が実際にあったか、なかったとかそういうことよりも、そして内容は日本人、駿府出身の山田長政という人をフォーカスしてさえいても、実は人間にまつわる無意識の流れのようなものが表現されているのではないかとも期待していた。そして私はこの最初のシーンから、いかに人は無意識に飲み込まれるのであろうか、ということを表現する舞台でもあるのではないかと感じた。これを常日頃のくせで読み取り、このことについて書いてみようと思う。
劇中には、長政の他、道半ばで人生が終わっていく人たちがよく出てくる。王になれなかった王の弟、息子を王にしたかった王宮の母親、クンサワット侍従長の愛を勝ちとりたかった侍女、異国の地に自国を作りたがった長政、布教しようとして殉教したペトロ岐部、自国を作るということに賛同し、焼き討ちにあった日本人町の人たちなどである。その中でも、王の弟や、幼い王子は、人の形をした人形であったために、自らの意思はなく、操り人形であったことが表されている。であるから、この二人は別にすることにして、他の方達は、自分の理想を追い求めた末に、その生を早めてしまったのではないかと考えられた。物事は不完全であるからこそ、完全にさせたいという気持ちはよくわかる。例えば、プラモデルやブロック遊びをしていて、それらを完成させたいと思うことは、よくわかる。そして、未完なものを抱えるということは何かがいつも頭に残っていて何かすっきりとした感じや、やりきった感じがしない、というものもわかる。不完全を完全にしたいということは人間の性であるかもしれない。しかし、ここで作られているのは、プラモデルやブロックではなく、「国つくり」という多大な人々が関わり、それらの人生を抱えていくということである。「つくる」といってもそこには、見えない関係性や権力といったものが渦を巻き、全体や歴史的結果も見えにくいという大掛かりな「つくり」の場である。そのような場で、各々は自らの理想を完全にすることを求め、そして行動し(行動力があることは良いこととして捉えられることもあるが)、何か踏み込んではならない禁足地、倫理的な境へも立ち入ったそんなことではなかったかと考える。行動の原動力というものは、大なり小なり自らの感情が動くところである。そして持続性があり、強い信念に伴う行動とも思えるようなものの背景には、単なる感情ではなく、情動という比較的強い原始的な情がその根底に横たわっている。それらに伴われて、実は知らぬうちに人間はある行動へとつき動かされている。その自らを突き動かす情動とはなんであるか、認識することは重要である。なぜなら、これを認識することで、自分の状態がわかり、他者と自分との境界を知ることにもなるからだ。長政は自らの情動について省みることをあまりしなかったように思える。それで自分と他人との境界がわからなくなっていったのであろう。アユタヤ王朝という他国に自国をつくろうとしたということにもそれは表されている。それでも、長政を突き動かしたその情動とは何であったのか。それは正月に日本の酒を用意する姿、ペトロ岐部が日本に帰るという時に揺り動かされた長政の姿に現れていると思われる。それは母国への憧れである。しかしかの地では駕籠かきとしてしか認められなかった。この不完全な自分を完全に高めたく、これを別の土地で現実しようとしたのだ。しかしそれは、他の人が大事にする禁足地にも触れることになっていった。そのために、長政の死を早めることにもなったのだと思われる。劇中では、自己の不完全さを抱えていたのは、モレホンやスリヨタイ姫ではなかったか。モレホンは己の不完全さに苦しみ、完全であることの神父をやめた。スリヨタイ姫は口がきけないという身体的な不完全さをもつ。この不完全さは、観者から見ていて、そのもどかしさには堪え難いと思われたが、自身を短命からは守るということはしたように思える。
劇中には「仮面と本心」「事実と真実」「義と利」「法と情」「眼に見えるものと見えないもの」といった2つの対立物についてのセリフが飛び交っていた。セリフ、つまり意識上に明確に示されなくとも、私はこの舞台の根底に流れるものとして「完全と不完全」ということをあげたい。バベルの塔が崩れ去らないように、イカロスが落下しないように、あるいは無意識の川に飲み込まれず、沈まぬように、不完全さを保っていくこと、この教訓がこの舞台からじわじわと流れていると感じられた。

2025年5月26日

ふじのくに⇄せかい演劇祭2024■選評■SPAC文芸部 横山義志

カテゴリー: 未分類

「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」「ふじのくに野外芸術フェスタ2024」劇評コンクールには計12作品の応募がありました。内訳は『白狐伝』4、『かもめ』4、『楢山節考』3、『かちかち山の台所』1でした。

私は、劇評を以下のような基準で評価しています。
1)(粗筋ではなく)上演がきちんと記述されているか
2)(とりわけ今その作品を上演する意味について)明確な視点が提示されているか
3)その劇評を読まなければ気づかなかったような発見があるか

最優秀賞や優秀賞に選ばれた作品は、自分が見たはずの舞台でも、新たな視点から、驚きをもって思い出させてくれるものでした。
2)については、題名がつけられている劇評のほうが、焦点が定まっていて、印象深いものになる傾向があるように思いました。

今回、最優秀賞に選ばれた廣川真菜美さんの『トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ』は、この作品を今上演することの意味を、とても納得のいく形で解釈されています。廣川さんによれば「かもめの剥製を見て、その存在を思い出せないトリゴーリン」は、「求められている自分」に適合しようとして「自身から湧き上がる」ものを見失っている私たち自身の姿なのです。

優秀賞に選ばれた夏越象栄さんの『白狐伝』評も、臨場感をもって俳優の演技や舞台美術、衣裳などを描写しつつ、ちょっとした細部に目を凝らしながら、「境界線」を越えて異質な存在に歩み寄り、痛みを覚悟しながらも「真心」を交わすことの可能性について、スリリングで心を動かされる分析をされています。

もう一本の優秀賞、寺尾眞紀さんの『かちかち山の台所』評は、今回この作品について応募があった唯一の劇評でした。山道を2時間近く移動しながら見る作品なので、客観的に分析するのが難しかったのではと思います。そのなかで寺尾さんは、ご自身で山道を歩いた身体感覚を鮮やかに描写しつつ、それが「今まで主流とされていた側「じゃない方」の声を聴く」ための方法でもあったことを看破されています。

みなさんの劇評のおかげで、今年も新茶の季節に上演できた作品一つ一つをもう一度じっくりと味わうことができるのがとてもうれしいです。たいていのことは家にいながらでも体験できる世の中になりましたが、みなさんの文章を読むと、その時、その場だけで起きたことに、体ごと向き合ってくださったのを感じます。みなさんの体験をおすそわけしてくださり、本当にありがとうございました。またみなさんの劇評を拝読できるのを心待ちにしております!

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2024■最優秀賞■【かもめ】廣川真菜美さん

カテゴリー: 未分類

トリゴーリンこそ令和の「かもめ」だ

オスターマイアー演出のシャドウビューネ版『かもめ』は「今、なぜ、この作品を上演するのか」という問いに⾒事に応えた作品だった。
これまで⽇本でも多数『かもめ』を⾒てきたが、今回の『かもめ』が決定的に違ったのが、作品の焦点をトリゴーリンに当てていたことだ。なぜトレープレフでもなく、ニーナでもなく、トリゴーリンなのか。それはトリゴーリンに焦点を当てることこそが、「今、なぜこの作品を上演するのか」という問いの答えだからだ。
作品はドイツで作られているので、「令和」を当てはめることは憚られるが、上演された国の、時代の切り取りとして敢えて「令和」を使わせてもらうと、令和は⼀億総SNS時代とも称される時代だ。多くの者がSNSで⾃らの意⾒や気持ちを述べ、他者の意⾒や気持ちを⾒ている。時には「⾒ている」を通り越して「監視している」時代である。
時代の潮流に乗り⼈気作家になったとしても、スキャンダルで⼀瞬にして⾜元を掬われる時代だ。持ち上げるときは天⾼く持ち上げ、叩くときは粉々になるまで叩ききる。それ故、名声を得たものは常に「求められている⾃分」であり続けなくてはならない。
名声を得ていなくても、社会で抹殺されないためには「求められている⾃分」を常に表現していなくてはならない。そんな時代だ。
そんな時代に『かもめ』を上演するならば、なにになったらいいかわからないトレープレフでもなく、なりたいもののために犠牲を払うニーナでもなく、「求められている作品」と「本当にやりたい作品」との乖離に悩むトリゴーリンが適切なのである。社会の中に適合し、名声も得て、パートナーがいて、他者から⾒たら憧れられるような存在にも関わらず、時代の要請に応えるばかりになり、作家の原点である、⾃⾝から湧き上がる「書きたいもの」を書けずにいる。「⾃分」を後回しにし、⾃分の本能に従順でいられない。常に理性が働き、正しくあろうともがいている。「なりたいもの」に⽬を輝かせるニーナに思いを寄せるシーンも、このトリゴーリンの描き⽅であるならば、若い⼥性に⽬移りしたと捉えられがちなところを、トリゴーリンのキャラクターを描き切るシーンに瑞々しく⽣まれ変わるのだ。
「時代」というふわふわしたよくわからないものに適合しようともがき、悩む姿は間違いなく今を⽣きる私たちそのものである。
だからこそ、時に観客を「今、ここにあるもの」としている演出がとても効果的なのだ。
観客にサッカーボールを⾶ばしてみたり、観客を実際にモデルにして模写してみたり、様々な⼿段を使って、演者たちから観客に視線がいく。私たち観客は⾒ている側から急に舞台上に乗せられる。物語の中に⼊り込む。この効果は実に巧みで、現代の、常に誰かに⾒られている状況を表出させているのだ。
そして、その⾒られ⽅は⼀⽅向ではなく四⽅⼋⽅からなのであり、その点で囲み舞台であることは⾮常に合理的な配置である。
また、劇場の形に縛られず、⼤胆に本来の舞台⾯に客席を配置し、空間を狭めていることも作品の濃密さとマッチし、独特の息苦しさを感じさせ、⼀⽅で⾼い天井から照らされる照明は広⼤な⼤地を思わせる。⼼情と場所の表現が空間⼀つで⾒事に表現されていた。
場所、という点では殆どをビーチチェアのみで表現していたことも作品の強度とテーマ性、俳優の⾒事な演技を際⽴たせるための素晴らしいアイディアだった。ビーチチェアから受けるバカンスの印象は、「とどまれなさ」につながり、全体として作品のテイストを明るくしていた。
舞台装置からトリゴーリンに焦点を当てた点に話を戻そう。
トリゴーリンは撃たれたかもめを⽬撃したところからニーナと親しくなる。そして剥製になったかもめを⾒せられたトリゴーリンは、このかもめの存在を思い出せず、その時にはニーナとの関係は解消している。
そう、死んだかもめが剥製になるまでの期間は、トリゴーリンとニーナが恋愛関係であった期間だ。トリゴーリンが「求められている⾃分」から逸脱し、本能に従おうとしたうたかたの2年である。しかし、本来の⾃分を取り戻そうとしたトリゴーリンは、その試みに失敗し「求められている⾃分」に戻ってしまったのだ。だからこそトリゴーリンには、かもめからはじまり、かもめで終わった時間はもはや亡きものなのである。思い出したくても思い出せない、尊くも儚い、幻の時間だった。かもめの剥製を⾒て、その存在を思い出せないトリゴーリンで終幕するこの『かもめ』はまさに、社会の正しさに絡め取られたトリゴーリンの哀愁をもって締めくくられるのだ。
そして、これこそがオスターマイアーから現代のアーティストに対する警鐘なのではないだろうか。時代や評価という他者の⽬にさらされ続けた結果、本当に作りたいものから逸脱し、本質を⾒失った作品ばかりが登場していないだろうかというオスターマイアーからの問いでもあるのではないだろうか。
『かもめ』にはたくさんのすれ違う愛が登場したが、このオスターマイアーからの愛ある問いがすれ違いにならないことを切に願う、そんな作品であった。

2025年5月17日

SPAC秋→春のシーズン2023-2024 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 未分類

SPAC 秋→春のシーズン2023-2024の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数15作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選3作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
小田透さん【パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス】(『伊豆の踊子』)

■優秀賞■
寺尾眞紀さん(『伊豆の踊子』)
吉野良祐さん【オクタヴィアンの言葉は奪い去されて…】(『ばらの騎士』)

■入選■
小長谷建夫さん【ドタバタ喜劇の終わりは】(『ばらの騎士』)
寺尾眞紀さん【殺されたのは誰か】(『お艶の恋』)
原田陽菜さん【お艶の抗いと命のエネルギー】(『お艶の恋』)

■SPAC文芸部・大澤真幸の選評■
選評

作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2023-2024
伊豆の踊子』(台本・演出:多田淳之介 作:川端康成 映像監修:本広克行)
お艶の恋』(演出:石神夏希 原作:谷崎潤一郎『お艶殺し』
ばらの騎士』(演出:宮城聰、寺内亜矢子 作:フーゴー・フォン・ホーフマンスタール 音楽:根本卓也)

秋→春のシーズン2023-2024■選評■SPAC文芸部 大澤真幸

カテゴリー: 未分類

2023年「秋から春のシーズン」、SPACでは『伊豆の踊子』『お艶の恋』『ばらの騎士』の公演を行いました。これら3作品に対して、全部で15本の劇評を送っていただきました。熱心に鑑賞した上で、劇評を書き、応募してくださったすべての皆さんに、まずはお礼を申し上げます。
応募いただいた劇評をずっと読んできましたが、平均的なレベルが上がってきているのを感じます。かつては素朴な感想を記しただけのものが何本もありましたが、今では、ほとんどの応募作が、批評的な意識をもって作品を分析し、解釈できています。
ここでは、最優秀作と優秀作に関して、評価のポイントをかんたんに書いておきます。
まず小田透さんによる『伊豆の踊子』の劇評。これが最優秀作品です。多田淳之介さんの演出のいくつもの工夫を非常に繊細に分析し、その意味を的確に、そして豊かに解釈している点がすばらしい。冒頭の「『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台」という要約が、作品の雰囲気をよく言い当てています。伊豆の林道の映像を背景にした俳優たちの旅姿が、YouTuberの自撮り映像を連想させるなどという指摘はなるほどと思わせますし、弁士風の解説者と俳優の身体の反応が、宮城聰の「二人一役」と少し似ているといった指摘などもおもしろい。大音量のダンスミュージックには、ブレヒト的な異化作用をもっているという解釈なども、検討に値するものだと思いました。
二つある優秀作のうちのひとつは、寺尾眞紀さんの、やはり『伊豆の踊子』を論じた作品。寺尾さんの劇評は、芝居に描かれていることから、背後にある社会的現実を読み取っているところに特徴があります。この芝居は、主人公である学生と踊子の間のごく淡い恋の話ですが、この恋は、エリートの帝大生と下層の踊子たちとの間の階級格差が背景にしていて、そのことが、たとえば「上」の旅館と「下」の木賃宿等々のかたちで芝居の至る所に現れている。寺尾さんはこのことを正確に見抜き、踊子のありそうな将来――踊子自身はまだ自覚していない将来――を密かに想いながら哀しみを感じている。冷静な分析に基づく感情移入に私は好感をもちました。
もうひとつの優秀作は、吉野良祐さんによる『ばらの騎士』の劇評。これは、オクタヴィオンの「言葉ってすごいね」という台詞を端緒におきながら、言葉、とりわけ愛の言葉について考えた、非常に知的な批評になっています。元帥夫人との一夜を思いながら、言葉の力を讃嘆していたオクタヴィオンが、最後にゾフィーと結ばれたときには、一言も発しない。この最後の場面では愛の言葉はどこにもないのか、というとそうではない。オクタヴィオンが発すべき愛の言葉は、周囲の多数の他者たちの身体に分散され、空間化されたかたちで現れているのだという、吉野さんの鮮やかな解釈に感心いたしました。

January 18, 2025

SPAC秋→春のシーズン2023-2024■最優秀賞■【伊豆の踊子】小田透さん

カテゴリー: 未分類

パッケージ化された批判性、または「観光演劇」のアンビヴァレンス

これはきっと『The Dancing Girl of Izu』と呼ばれるべき舞台。川端康成の原作は裏切ってはいない。英語化されてもいない。それでも、わたしたちが無意識的に期待してしまいがちなステレオタイプはズラされている。学生の一人称の物語を補完するように、旅芸人の物語が対位法的に組み込まれる。いまの伊豆の映像が大写しになる。現代的なポップミュージックやダンスミュージックが騒々しいまでの大音量で鳴り響く。滑らかに連続したシーンが、断続的に、急激に、転換する。にもかかわらず、ここには不思議な納得感と説得力がある。つねに予期せぬ驚きがある。演出家の多田淳之介はわたしたちに痛快な不意打ちを食らわせてくれる。ただし、不安にまでは至らない、安全な範囲内で。

主人公である学生はいかにもそれらしい格好。学帽に袴に黒の外套。下駄に、肩掛けにしたメッセンジャーバック。しかし、彼が出会う旅芸人一座は、着物を1990年代原宿の美学で再構成したかのような、原色系のグランジ風。メイクも、歌舞伎の隈取をギャルメイクで脱構築したような、エキゾチックな日本風。そのくせ、宿の女将たちや宿泊客たちは、コミカルな昭和風。異なる時代様式が混在している。純日本的というよりも、エスニックな視点から再創造された、愉しくフェイクな日本性。

臆面もなく差し挟まれる、まったくステルスしていない「観光演劇」。川端が晩年を過ごした鎌倉の自宅を模したという軒先のような舞台、の壁面の横長の大スクリーン、に大写しになる伊豆の風景、は半実写的な背景として機能する、がところどころで劇の流れをストップさせる、観光プロモーションとして。たとえば、山道をゆく道中のシーンで、地理的な脈絡はあるとしても、物語的な必然性はない観光案内が始まる。まったくあざとく、あざとさしかないにもかかわらず、不思議なことに、余計なものが混入したという感じがしない。

それはおそらく、多田の演出が最初から、疑似的なヴァーチャル体験の共有に狙いを定めているからだろう。やや解像度の低い伊豆の山道や林道をバックに、客席のほうを向いて足踏みする俳優たちの姿は、YouTuber的な自撮り映像を思わせる。1990年代から2000年代初頭にかけて隆盛を極めたノベルゲームのようでもある。舞台がそもそもスクリーンであり、観客はその視聴者にしてプレイヤーなのだ。わたしたちは舞台に登場する予期せぬものに驚かされつつ、それらを「そういうもの」として受け入れてしまう。

にもかかわらず、わたしたちは、与えられたコンテンツの受動的な消費者になるわけでもない。劇冒頭に置かれた前口上は、すべてが作り話であることを自意識的に宣言する。『伊豆の踊子』それ自体が、旅の一座によるひとつの演目のように、物語内物語のように見えてくる。そして、作品外的なメタコメンタリーや作品内の字の文を朗読するナレーターは、軒先のような舞台に上がることはないだろう。作品内の会話文を演じる俳優たちとは別の次元があることが、視覚的にも空間的にも明示される。パフォーマンスの重層性が、物語の虚構性を担保し続ける。

しかしながら、舞台上の複数の位相はつねにつながっている。弁士的な解説者が字の文を読み上げる。すると、SPAC芸術総監督の宮城聰の二人一役の手法を髣髴とさせるように、学生や踊子が読み上げられた言葉に身体的に応える。踊子や学生はセリフを口にすることはない。しかし、過剰なまでの親密さをただよわせつつも、直接的な接触に至ることはすくないふたりの静かな身体の暖かな距離感が、川端の散文のやわらかなてざわりを具現化させる。朗読される文体と、視覚化された登場人物の関係性から、川端の抒情性を二重に味わうという、贅沢な体験。

けれども、それ以上のものがある。多田の舞台は、主人公たる学生がみずからの孤児根性を克服し、いい人だと言われたことに感動する自己憐憫的な物語以上のものになっている。自己憐憫性は、「幼いことであった」と若かりし頃を振り返る後年の川端本人の言葉を呟く弁士的ナレーターによって相対化されるだろう。川端が描かなかった物語の裏面が、旅芸人たちの悩みや苦しみ、叫びや抗議として前景化されるだろう。

その顕在化を担ったのは旅芸人の女性陣。その際たる瞬間はパフォーマンス後半部におかれたラップ。「旅芸人お断り」というローカルな立て看板に、旅芸人はリリックで応酬する。ノリのいい音楽が、腹に響くほどにビート感の強い問答無用の大音量でディスコのように響き渡る。伊豆の観光映像が流れていたスクリーンに、アグレッシブな社会批判の言葉が洪水のようにあふれ出す。

ただし、そのようなプロテストが、あくまでもポップなコンテンツとしてパッケージ化されているところに、多田の演出のとっつきやすさとお行儀の良さがある。旅芸人を見下す社会に抗議する旅芸人のラップは、パフォーマンス内パフォーマンスであるからこそ許された反抗であるようにも見えてしまう。男たちに翻弄される女たちを、健気にも、荒んだ感じにも演じ切ることは、問題の所在が社会構造にあるのか、悪辣な男ども個人にあるのかを、曖昧にしてしまう。子どもを亡くした旅芸人の体調不良は、現代に蔓延するネオリベ的な自己責任論からすれば、自業自得のように見えてしまう。俳優としての経験を積みながら旅芸人に身をやつした男も、身分違いの恋を自ら諦める踊子の諦念的な態度も、センチメンタルな共感は誘うかもしれないが、そこに社会革命を誘発するような起爆性はないだろう。多田のアダプテーションは、川端の物語を社会性に開いておきながら、そこを共感的な回路に閉鎖してしまうきらいがある。

そのほうが口当たりのよい「観光演劇」にはなる。悲恋のように描かれた学生と踊子が、悲劇のように描かれた旅芸人夫婦が、エピローグ部分で、仲睦まじいカップルとして、新たに子を身ごもった夫婦として、21世紀の現代において自撮りを愉しむ観光客になっているのは、ハッピーエンディングではある。反抗的なリリックを炸裂させていた旅芸人と、男どもに翻弄されていたその友達が、屈託なく観光している。病床に臥せっていた老人も、偏見をあからさまにしていた女将も、クイア的なパフォーマーも、幸福を謳歌している。みんながしあわせな観光ユートピア。

しかし、それがフェイクにすぎないことに、気づかされないわけにはいかない。わたしたちは「観光客」というカテゴリーに加わることでしか、新自由主義的で資本主義的なこの世界ではそれなりに裕福な消費者になることによってしか、仮初で束の間の幸福を謳歌できないのではないか。だとしたら、このような「観光客」の回路にそもそも参入することができない人々は、どうなるのだろう。

とはいえ、これだけは言っておくべきだろう。多田はエンターテイメント性を演出するために、やかましいほどの音量でダンスミュージックを流すけれど、それはおそらく、娯楽性のためだけではなく、ブレヒト的な異化作用のためでもあったのではないかという点。1990年代的なものから伝統的なものまで、2010年代20年代的なものまで、さまざまな時代の様式が節操なく召喚されるこの舞台は、きっと、ノスタルジーでも未来志向でもなく、いまここで生起しているヴァーチャルでありながらも生々しいパフォーマンスと批判的な関係を切り結ぶための意図的に導入された断絶ではなかったかという点。このギリギリの批判性を見逃す者は、多田淳之介の演出の誤解者であるはずだ。