劇評講座

2024年8月19日

SPAC秋→春のシーズン2022-2023 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 2022

SPAC 秋→春のシーズン2022-2023の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数35作品、最優秀賞1作品、優秀賞3作品、入選6作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
柚木康裕さん【□△○の界(さかい)に。】(『弱法師』)

■優秀賞■
小田透さん【心ならずも目撃者となったわたしたち観客の戸惑い】(『リチャード二世』)
鈴林まりさん【ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって】(『ペール・ギュント』)
山上隼人さん【仮面を付けていない仮面劇】(『人形の家』)

■入選■
小田透さん【複数的な演出原理の説明なき同居】(『弱法師』)
小田透さん【美的カタルシスか、批判的挑発か】(『ペール・ギュント』)
小田透さん【チープでポップなシリアス、あるいは全員の温度差】(『SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校』)
丞卿司郎さん【『ドールハウス崩壊の奇蹟』】(『人形の家』)
はやしちひろさん(『ペール・ギュント』)
美音子さん【よろ星—―弱く激しい光りに灼かれて】(『弱法師』)

■SPAC文芸部・大岡淳の選評■
選評

作品一覧
弱法師』(演出:石神夏希 作:三島由紀夫 [『近代能楽集』より])
みつばち共和国』(作・演出:セリーヌ・シェフェール 日本語台本:能祖將夫)

SPAC 秋→春のシーズン2022-2023
ペール・ギュント』(演出:宮城聰 作:ヘンリック・イプセン 翻訳:毛利三彌 音楽:棚川寛子)
SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校』(演出:ジャン・ランベール=ヴィルド 翻訳・通訳・ドラマツルギー:平野暁人 アーティスティック・コラボレーター:ロレンゾ・マラゲラ 音楽:棚川寛子)
リチャード二世』(演出:寺内亜矢子 作:ウィリアム・シェイクスピア 訳:小田島雄志 舞台美術デザイン:深沢襟 衣裳デザイン:清千草 照明デザイン:花輪有紀)
人形の家』(演出:宮城聰 作:ヘンリック・イプセン 訳:毛利三彌 [論創社版])

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■最優秀賞■【弱法師】柚木康裕さん

カテゴリー: 2022

□△○の界(さかい)に。

宮城聰SPAC芸術総監督は以前に「芸術とは自分が孤独と戦った傷跡だ」と語ったことがある。SPAC新作『弱法師』は演出した石神夏希の傷跡とまでは言わないが、三島との格闘の軌跡だったのは間違いない。演出を依頼された時に「なぜわたしが」と感じたことはうそではなかろう。その戸惑いから始まった創作は謡曲などのオリジンと「近代能楽集」を行き来しながら磨かれていったはずだ。オリジン「弱法師」には救いがあったが、三島「弱法師」には救いがない。しかし、石神は俊徳(三島)の魂をどう救済するべきかという問いを立てた。格闘の軌跡として戯曲を二度繰り返すという驚くべき演出で我々を刮目させ、ひとまずの答えを差し出した。ただ創作過程でもうひとつの問いに気づいたのだと思われる。それは魂を救済したのは「誰か」である。

これらの問いを考察する前に触れておかなければいけないことがある。それは野村善文の手掛けた舞台美術である。必要最低限の舞台セットはシンプルそのもので、乳白色を基調にしたソリッドな空間を立ち上がらせていた。能舞台のような正方形をした高さ60cmほどの演台。その上部天井に設置された壁を意味する幅60cmほどの円柱がぶら下がる。そして演台には中央に脚立と両側に椅子2脚ずつ、扇風機、マイクスタンド。2mほどの高さがある脚立の存在感が際立つ。現代アートのインスタレーションのような空間は、さながらスタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号室内のような雰囲気を醸している。

このミニマルな空間は、3つのパートで構成されていることに気づく。正方形の舞台。その上に脚立。そして円形の天井。これは幾何学的に見れば□△◯で表される。この三界は何を示すのか。たとえばキリスト教的に捉えれば地獄、煉獄、天国。あるいは仏教的ならば、地獄、俗世、浄土ということになろうか。上演終盤に正方形の舞台上で展開される爆撃による地獄絵図。あるいは窓の向こうに現れる極楽浄土からもその見立ては外れていないだろう。また□△○はそれぞれの内角の和が360°、180°、360°を示す。これは象徴的だ。地獄と浄土は姿は違えどそれぞれの調和のとれた円環の内にある。それにくらべて俗世を示す△(180°)の界(さかい)は秤のようにバランスが求められている。反転した事物を対極におくことによって辛うじてバランスを取る俗世。そこに配置される6人の人物。前後半での俊徳と桜間の反転。高安夫妻と川島夫妻の服装が補色になっているのもその表れだろう。青と黄色、赤と緑は円相環でみると正反対(180°)の位置にあり、お互いを補い合う関係だ。ただ興味深いのはその関係が夫同士妻同士ではなく、高安と川島夫人、高安夫人と川島のように男女の関係が示されている。これはどういうことだろうか。

さきほど「誰が」魂を救うのかという問いに気づいたと述べたが、そのためにもこの戯曲での男と女の関係を再考してみるべきだろう。その際に注目したい人物がいる。それは川島夫人だ。この舞台でひときわ目立つ赤できめたハイヒールとスタイリッシュなワンピースは母というよりは、女であることを強調しているように思われる。それは中西星羅をキャスティングしたことで一層効果的であったし、後半の山本実幸が演じた淡然たる桜間とは際立って対照的だった。そこはかとない色気を漂わせた川島夫人は、終盤に対話が物別れに終わり別室に促され、部屋を最後に出ていくといきに、桜間に小声で囁く。(これは後半の演出で強調されている。前半は俊徳にも聞こえるような演出だった)

「あの子は危険ですよ。大へんに危険です。あの子の持っている毒にお気をつけにならなくちゃいけませんよ」という夫人に桜間は「それはどういう?」と聞き返す。夫人はそれを受けて、「どうって・・・それは申上げられません。私の経験から申上げただけですよ」と言葉を残し去る。経験とはどのような経験だろうか。毒とは何か。夫(男)たちが部屋を出たあとに聞こえない声でこの台詞は発せられる。女から女へ。夕方で暗くなる部屋に残される俊徳と級子。男と女。この「性」を感じさせる台詞はこの戯曲の裏面にたゆたうもうひとつの主題ではないのか。俊徳(三島)の魂を救うのは誰か。菩薩か、母か、それとも女か。

舞台を去る時に俊徳を引いて退場する姿からも、その役割が桜間級子なのは間違いない。その時に彼女は果たして誰か。菩薩か、母か、それとも女か。それははっきりとは示されない。しかし、彼女が俊徳と触れることがゆるされる存在であることも確かだ。舞台の始まりを思い出そう。熊のぬいぐるみを抱いて登場する俊徳。桜間扮する八木光太郎は熊を表す帽子や靴などを身につけている。つまり俊徳は最初から桜間を触れていた/抱いていたとも見なせるのである。幕が降りる時にぽつねんと熊のぬいぐるみが残されていたのは、救いを象徴していたのだろう。なぜなら俊徳はひとまず桜間級子をはっきりと得たのだから。ただ筆者にはその時に彼女が菩薩か、母か、それとも女なのか判別できない。いや、あるいは判別する必要もないのだろう。石神の格闘の軌跡はミラーボールのような多面球となり、私たちが放つ裸の魂の輝きを乱反射する。今はその光の眩しさの中にただただ佇むだけでよいのかもしれない。

[ 観劇日 ]
2022年9月9日(金) 18:30「SCOT Summer Season 2022」創造交流館
2022年9月17日(土) 15:30 静岡県舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【リチャード二世】小田透さん

カテゴリー: 2022

心ならずも目撃者となったわたしたち観客の戸惑い

黒い大きな格子に妖しげな光が投じられている。舞台奥から観客席に向かって少し傾いで、どことなく威圧的に、どこどなく不気味にそびえている格子は牢獄を思わせるかもしれない。舞台の両袖は大きく開けているが、そのような広がりは解放感をもたらさない。黒一色の空間の空虚さが際立つばかりである。舞台中央には、棺にも机にも台座にもみえる可変的な黒い長方形の物体が横たわっている。気がつくと、入場してきていた俳優たちがその後ろの、格子の足元の椅子に腰かけている。寺内亜矢子の演出によるシェイクスピア『リチャード二世』は、虚ろな黒さのなかから始まっていく。

寺内の『リチャード二世』は、わたしたちに、君主の戸惑いに戸惑う廷臣の気まずさを見せつける。しかし、共感を促すようなかたちではなく。というのも、そのような感情移入が発生しそうな場面転換の瞬間で、毎回、狙いすましたように、演出が介入してくるからだ。舞台上の出来事にたいして芽生え始めた共感が無理やりに断ち切られる。悲劇に耽溺することを許されないわたしたちは、なぜこうなってしまったのかと、思考を走らせ続けることを強いられる。

登場人物の多いかなり込み入った史劇を、その歴史性や複雑性をいたずらに簡略化することなく、しかし、それでいてわかりやすくとっつきやすいものにすることが、演出家のプランの根底をなしていたようだ。それはおそらく、寺内が、県立の劇団であるSPACの使命と真摯に向き合うことから導かれたものではなかっただろうか。中高生が鑑賞しても愉しめる舞台にすること、しかし、中高生におもねるのではなく、懐の深い古典のポテンシャルを引き出すこと。

舞台がつねにリアルとつながっていることを、わたしたちはたえず意識させられる。虚構と現実を橋渡しするかのような存在——劇中人物とも観客代表とも言い難い、共感を促しつつも断ち切る境界線上の存在――がいる。「この劇の案内人」(永井健二)は劇が始まる前に、登場人物をひとりひとり壇上にあげて紹介するだろう。すると紹介された側も、虚構の役柄を演じる生身の存在であることを告白するように、おどけたように、「〇〇役を務めます」と軽口を叩く。彼はト書きを読み上げて場面転換を促すとともに、幕が終わるごとにそのあらすじをまとめ、次の幕の予告を行う。だからわたしたちは、物語の筋を追うことにとらわれすぎることなく、舞台上で生起する言葉と身体の饗宴を満喫することができるものの、同時に、その虚構性を忘れることができない。

複数のスタイルの共存が異化作用を強化する。キャスティングには、ジェンダーと年齢の面で、意図的な偏りがあったが、それは対立関係を視覚化するための演出的工夫でもあったようだ。既得権益側のリチャード二世サイドは男性で年長より、簒奪者たるボリングブルック側は女性で年少より。タイトルロールのリチャード二世を演じる阿部一徳は、圧倒的な安定度を誇る揺るぎない身体を基盤にして、気まぐれなところからメランコリックなところまで、虚無的な不気味さから突然の感情的な暴発まで、言語的な超絶技巧の演技を軽々と繰り広げ続けていた一方で、もうひとりの主役であるヘンリー・ボリングブルックを演じる本多麻紀は、身体的強度と語りの密度を呼応させるように、怒れる若者の軽率さや勇敢さから、強いられた威厳やいかんともしがたい困惑まで、可変的で柔軟な力強さと繊細さで表出することに成功していた。 しかし、両サイドとも、意図的にニヒルであったり、不思議な踊りであったりと、意誇張された不自然な所作を、力業で自然に提示していた。社会の様々な階層、王家から貴族から民衆までが、異なる演技スタイルによって、的確に演じ分けられていた。

『リチャード二世』は家系の物語だ。臣下としての衷心と、血縁ゆえの僻目とが、本劇のクライマックスをかたちづくることになる。超法規的な、恣意的でしかない、不公平な赦しの可能性が上演される。オーマール(ながいさやこ)は、リチャード二世への忠誠心から、あくまで彼に殉じようとするが、父ヨーク公(木内琴子)は、中立派として、我が子の陰謀を罰しようとする。しかし、ヨーク公爵夫人(片岡佐知子)は、血のつながりを押し通すことで、我が子の赦しを新王ボリングブルックに願い出るだろう。ヨーク公、ヨーク公爵夫人、息子オーマールは、歌舞伎的な、いかにもわざとらしい愁嘆場を演じることになるが、それはいわば、歴史的特殊性のなかで表出する肉親的普遍性が、日本的な表現様式に落とし込まれた瞬間にほかならなかった。そのような様式的交雑性こそ、宮城聰率いる劇団SPACの強みである。この赦しのシーン——そこには「この劇の案内人」までもが口三味線で加わっていた——には、日本的としか言いようのない情緒的なカタルシスがあった。

ただ、寺内亜矢子の演出は、宮城的なものを引きずりすぎたのではないかという気もする。心ならずも王位についたボリングブルックを祝福する音楽がマシンガンやミサイルの音であり、幕切れのかたちながらの和解が分裂の表象にほかならないというアイロニーは、宮城による『ハムレット』を想起させずにはおかない。シティー・ポップ的な軽快な音楽と、舞台上の重苦しさのコントラストも、宮城のアングラ演劇の演出でお馴染みのレパートリーを思い出させる。

しかし、ボリングブルックの独り言めいた希望——リチャード二世の死——を叶えてしまう存在を、フードを被ったロングコートの複数的な存在に転化するという現代的な翻案——そこで彼らと彼女らの声は混ざり合い、匿名的な世論と化すだろう——は、宮城ならば試みなかったかもしれない冒険であり、現代性を強く押し出した演出でもあった。 権力者にたいする忖度は、誰か一人の問題ではない。集団的な問題にほかならない。そして、忖度された側が、忖度されることで、本当に幸福になるかは、決して定かではない。誰もが相手のためによかれと思ってなした行為が、誰のためにもなっていなかったことを、わたしたちは目の当たりにさせられる。利他的な滅私奉公が、環境的な居心地の悪さに転化したことを、わたしたちは強制的に見せつけられる。

虚構の舞台を安全な距離から愉しんでいたはずのわたしたちは、そこで、突如として、現実における戦争の問題を真正面から引き受けることを余儀なくされるだろう。鳴り響く戦禍の音は、虚構の音などではない。舞台はたんなる虚構ではない。ありえるかもしれない可能性であり、ありうべきではない可能性である。アクチュアルなものに転化された史劇がわたしたちに問いかける。これをどうするのか、どうしたいのか、どうすべきなか、と。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【ペール・ギュント】鈴林まりさん

カテゴリー: 未分類,2022

ソールヴェイが軽やかに目覚めるとき――『ペール・ギュント』の女性像をめぐって

1.夢を見ている

少年(池田真紀子)が舞台前面にぺたんと座って、すごろく遊びをしている。純白の袴をはき、新聞紙の兜をかぶった病弱そうな少年。背後には、ちょうど人間をコマにするとぴったりな、巨大なすごろくを模した八百屋舞台が組んである。
音楽が奏でられ、人形のようにソリッドなたたずまいのペール・ギュント(武石守正)が「振り出し」のマスに現れる。少年は活き活きと指揮をとる。ペールの一代記は、この少年がプレイするゲームの道程として私たちの前ではじまる。

登場人物らのテンポよい動き、場面ごとに鮮やかなカラーを打ち出して芝居に寄り添う生演奏は、10年ぶりの再々演となる今回も健在だ。本公演では配役変更が複数なされ、過去上演ですでにおなじみの場面を新鮮な角度から見せてくれる。
以下ではジェンダーバランスの変化に着目して、劇中後半から3つの場面を取り上げたい。

2.国際会議への女性進出

トロルの国への婿入りに挫折、恋人ソールヴェイとの同棲に邪魔が入って逃亡、母親の死。ペールは劇中前半、二十歳でこれらを経験した。三十年後、中年のペールは海外で有力者に仲間入りしている。
船上の国際会議にイギリス人・フランス人・ドイツ人・スウェーデン人の代表が集う。従来は男性俳優だけで演じられた場面だが、今回は二名、女性の俳優が配された。イギリス人のマスター・コットン(舘野百代)とその通訳(鈴木真理子)である。
衣裳や直線的な身のこなしを見る限り、造形は男役のそれである。ただ筆者はそこに、女性が権力者の役を担い、男性陣と堂々と肩を並べる光景を二重写しに見ないではいられなかった。
カリカチュアに徹する他の権力者と通訳らに対し、コットンとその通訳は仕事に集中していた。重大な判断に必要な落ち着きと緊張感を持って訳す者と聞き取って考える者。二人の息はぴったりである。そこには仕事ができて度量の大きな女性たちの、たとえばアンゲラ・メルケル的な風情があふれていた。

3.働く泥棒少年たち

ペールはその後、平原で馬と宝石と衣裳を拾う。それらを皇帝から盗んだ泥棒を、今回はお揃いのキャスケットをかぶった少年二人組のていで大内智美・石井萠水が担う。ちょこまかした動きは愛らしいが、これも彼ら(彼女ら)にとって生きるための仕事である。

4.ボタン作りの母性

老年のペールが故郷で出会うボタン作り(佐藤ゆず)は、死者の魂を一緒くたに溶かして再生させる存在。女性が演じるボタン作りの低く枯れた声色とぼさぼさの髪、ゴチゴチした動きは山姥や魔女を連想させた。

母性はその根源において、死と生の両面性をもっている(……)産み育てる肯定的な面と、す べてを呑み込んで死に到らしめる否定的な面をもつのである。人間の母親も内的にはこのよう な傾向をもつものである[*1]

死をもたらす負の力は、しばしば実母とは別の、継母や魔女に託して語られてきた。おとぎ話への解釈に倣うなら、ボタン作りは、ペールの生を願い特別な人間になる必要ないと言ったあの優しい母親オーセの半身だと理解できる。
一方、先に見た2つの場面からは、名誉男性として成熟することで地位を築いた女性、ボーイッシュに振る舞って自己を確立する女性――男性性を強化して生きる女性像の描写を感じ取ることができた。

5.おはようソールヴェイ

毛利三彌の指摘にあるように[*2]、『ペール・ギュント』を今日上演するさい大きな課題は、ペールの放蕩の末、大詰でソールヴェイが彼を存在ごと承認する場面だ。これは男性から女性に対するご都合主義的な願望の発露ではないか? この疑念は避けがたい。

あなたの罪じゃない。あなたはずっと私の夢の中にいた。

ソールヴェイからペールに向けられるはずの台詞。2010年・2012年の初演・再演でこの台詞は、すごろく遊びをしてきた少年によって語られた。実は劇中、この少年とソールヴェイは同一の俳優が演じているから、両方が語った台詞だと受け取れるのだ。少年が具体的に何を象徴するのかは分からない。少なくとも「両性具有の存在が“人間として”ペールを承認した」風景を描くことにより、件の疑念に応答していることはたしかだろう。

今回は違った。少年は台詞を言うと白い衣裳を脱いだ。中から出てきたのは、紫色の着物に袴をはいて、長い黒髪がつややかなソールヴェイだった。少年に身をやつしてサナギの中で待っていたかのように出てくるのだ。
ソールヴェイ(池田真紀子)は自分がペールを生んだと語り、父親は皆なのだと周囲や客席を指差す。ペールが人形のようになると、すごろくの「振り出し」へ導く。細長く錫杖のようにも見える杖を手から離すと、小さな花束を持たせた。
平和への祈りというよりも、男の子が花を愛してよいのだと伝えるように見えた。

ソールヴェイは女性の姿で、男の期待からも女の期待からも身軽にそこに立っているように感じられた。
原作戯曲に描かれる、存在承認する母、金持ちのバカ娘、執念深い女、踊り子たち、裏切る女に加え、男性に肩を並べる生き方、ボーイッシュな自意識、いいとこ取りだけで終わらない母性の深淵が、他の人物によってすでに生きられている。この場面のソールヴェイはそれらを表現する要請から解放され、別の可能性へ進むことを許されている。

蝶がサナギの姿で過ごす時間を、能動的とも受動的とも定義できない。待っていた数十年、成虫に向けてソールヴェイの内側で何か起きていたことだけがたしかだ。

*1:河合隼雄『昔話の深層――ユング心理学とグリム童話』(1994年2月、講談社)
*2:毛利三彌「ペール・ギュントはエヴリマンか」『劇場文化 ペール・ギュント』(2022年10月、SPAC)

参考文献

國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(2017年4月、医学書院)
河野慎太郎『戦う姫、働く少女』(2017年7月、堀之内出版)

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■優秀賞■【人形の家】山上隼人さん

カテゴリー: 未分類,2022

仮面を付けていない仮面劇

SPACが静岡芸術劇場で上演した『人形の家』(ヘンリック・イプセン作、毛利三彌訳、宮城聰演出)は、140年以上前に書かれた作品にもかかわらず、全く古臭さが感じられない仕上がりだった。1879年にノルウェーの劇作家によって発表されたこの作品の舞台設定を、宮城は昭和10年(1935年)の日本に置き換えた。発表当時より56年進んだ設定だが、現在から見れば88年前の出来事となる。それでも、当時の時代背景に違和感を抱くことなく共感できたのは、この作品が持つ、現代にも通ずる普遍的なテーマを表出させることに成功していたからだろう。
物語は、こうだ。ノーラ(たきいみき)とヘルメル(bable)は仲睦まじい夫婦で、結婚して8年が経つ。ヘルメルは弁護士だが、年明けから銀行の役員に就くことが決まり、前途は明るい。ただ、良いことばかりではなく、ヘルメルは過去に大病し、その時はノーラが金を用立てて救った。しかし、女性がまだ借金できなかった時代、ノーラは父親のサインを偽造し、ヘルメルと同じ銀行に勤める弁護士のクログスタ(加藤幸夫)から金を借りたのだった。違法行為に気付いたクログスタは、ノーラを脅迫。ヘルメルも知るところとなり、ノーラは夫と子供を捨て、家を出ていく。
12月24日のクリスマス・イブが第一幕で、クリスマスを第二幕、その翌日を第三幕とする三幕構成。ノルウェーで誕生したこの世界的名作に、宮城は能の様式を採り入れて演出した。まず、第一幕の冒頭。照明によって下手の床面に光の筋がつくられ、その上をノーラが「すり足」で歩いてくる。まるで、光の橋掛かりを渡る能楽師のようだ。部屋の広さは能舞台と同じ三間四方で、背景に鏡板、下手前方には目付柱まである。クリスマスらしく、松の代わりに樅の木を配置したのも面白い。
ノーラは、能の最たる特徴である能面こそ付けていないが、仮想の面を付けている。「良妻」としての面だ。三間四方のこの部屋で、この劇のシテとして、夫にとっての可愛い妻を演じる。ヘルメルに対して愛くるしい笑顔を振り撒き、時には甘えてみたりして、ヘルメルが妻に求めているツボを心得ているかのようだ。今で言う「あざとかわいい」女性のようにも感じられる。また、この部屋には二つの扉があり、下手側が玄関に、上手側はヘルメルの書斎につながっており、その他の登場人物もここを行き交う。久しぶりに再開した友人のリンデ(葉山陽代)や、ヘルメルの親友であるランク(武石守正)も訪れるが、彼らに対しても愛嬌たっぷりに接し、外部の者に対しても良き妻であり続ける。
一方、ヘルメルはどうか。真面目な性格で仕事熱心、借金が大嫌いな堅実派で、決まった時間に郵便受けを毎日チェックする几帳面さも持ち合わせている。クログスタのことを「偽善者で仮面をかぶっている」として毛嫌いするが、彼もまた「立派な夫」という仮面を付けて演じている。そのためか、世間の目を非常に気にするところがあり、ノーラがクログスタに脅迫され、彼が銀行で良い職に就けるようヘルメルにお願いした際は「妻の言いなりになった俺は、銀行中の笑いものになる」として一蹴する。妻のことは愛しているようだが、外見に偏重した愛し方であり、ノーラが舞踏会のダンスで喝采を浴びた時は、自らも一緒にお辞儀をして回り、「美しい妻を手に入れた自分」をアピールするしたたかさも備えている。
つまり、ノーラとヘルメルは、互いに仮想の仮面を付けて夫婦を演じている。本来の言葉の使い方とは異なるが、これもある意味では「仮面夫婦」と言えるのかもしれない。これはこれでバランスの取れた夫婦の形だったのだろうが、クログスタの手紙を通じて、ノーラが違法行為を犯して借金した事実をヘルメルが知り、この関係は崩壊する。ヘルメルが「立派な夫」の仮面を脱いだのだ。妻を「犯罪者」と罵り、「俺の幸せはメチャクチャになった」とわめき散らし、挙げ句の果てには彼女の父親の悪口まで言う。今なら間違いなく「モラハラ」と言われる行為だ。その後、すぐに別の手紙が届き、クログスタがリンデの説得を受け借用証書を返送してきたことに安堵し、平静さを取り戻すが、後の祭り。ヘルメルの「素顔」を知ったノーラは、「良妻」の仮面を脱いでしまう。
これは、ノーラがヘルメルに「冷めた」瞬間であり、自我に「覚めた」瞬間でもある。ノーラは家を出ていくことを決意するが、その理由として「無知なために違法行為を犯してしまった。自分には教育が必要だ」という思いを抱いたことが挙げられる。自立して学ぶため、夫と子供を捨てて家を出ていくという決断は、発表当時、新しい女性像として迎え入れられたことだろう。また、夫の本当の姿を知り、愛情が冷めたために夫の下を去るという行為は、発表当時よりもむしろ、コミュニケーションが希薄になり、「モラハラ」という言葉が定着した現在の方がリアリティーを持って受け入れられるのではないか。そして、そのリアルさに磨きを掛けたのは「8年間、真面目な会話をしたことがなかった」夫婦が互いに仮想の仮面を付けていることを想起させる演出が効果的だったからだろう。
一方、かつて恋人同士だったリンデとクログスタは復縁する。かつてリンデと別れた時のことを思い出し、クログスタが「足元の地面が崩れ落ちていくみたいだった」と語るが、ノーラとヘルメルが別れる際には、本当にそうした状況が起こる。子供(森山冬子=ヘレーネとの二役)が一部の床板を外してしまったために、床の上を歩くと板が滑って、足元がぐらつくのだ。ヘルメルはノーラに対し、部屋中を動き回り、家から出ていかないよう足を踏ん張って必死に説得するが、その姿が、妻に愛想を尽かされた夫の哀れさや滑稽さをにじみ出させる。一方で、子供は時折ローラースケートで現れ、床の上を滑って無邪気に遊んでおり、必死に踏ん張るヘルメルの悲哀を増幅させた。
また、子供を使った演出で効果的だったのが積み木遊びだ。ノーラとヘルメルが別れることになる第3幕の前までは赤と白の積み木が交互に積まれていたが、第3幕が始まると子供がその積み木を崩してしまう。赤が女性で、白は男性だろうか。新たに積まれた積み木は、赤と白の順がバラバラで、むしろそれらが合わさることなく、それぞれ独立しているようにも見える。まるで男と女が別れることを示唆しているかのようだが、結局、ノーラとヘルメルはその通り決別することになってしまう。床板を外したことやローラースケートで遊んでいたことも含め、子供のやることの方が大人を上回っており、仮面を付けることよりも、純粋で、清らかな、素顔のままでいることの方が勝っていると感じられた。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【弱法師】小田透さん

カテゴリー: 2022

複数的な演出原理の説明なき同居

「扇風機もございませんし」とは言うが、扇風機はある。「喧嘩の場所じゃございませんのですから、ここは」とは言うが、段々になった観客席に四方から取り囲まれた正方形の白い床の舞台はまるでリングのようではないか。石神夏希の演出による三島由紀夫の「弱法師」は、言葉のうえでは三島に忠実でありながら、演劇としては三島を裏切るかのように、語られる言葉と舞台の出来事のズレを際立たせるような空間のなかで始まる。

腰ほどの高さに持ち上げられた舞台の床の中央にそびえる白い脚立。対角線になるコーナーふたつに横並びに置かれた、背もたれのある簡素な二脚ずつの木の椅子。また別のコーナーに置かれたマイクスタンドは観客席のほうを向いている。舞台の頭上に浮かぶ白い環には、四角に切り取られた開口部が一か所だけある。幾何学的なところと無機的なところが混在する舞台は、能舞台のような様式的に切り詰められた空白の豊饒さでもなければ、表面的にはリアリズムを踏まえている三島のト書きがほのめかすような戦後社会の混沌たる豊饒さでもなく、SF的な仮想世界の欠乏を想起させる。時代や場所を特定できるような細部は注意深く取り除かれている。過去のようで未来でもあり、近いようで遠くもある。現実のようで、現実感がない。

「弱法師」の前半は、盲目の戦災孤児である高貴なる美青年の俊徳をめぐって、養父母の川島夫妻と実父母の高安夫妻が、家庭裁判所の調停委員である桜間級子を仲裁人として互いの言い分をぶつけ合う二対二の舌戦だが、そこからせりあがってくるのは、俊徳の傍若無人なわがままに翻弄される両夫妻の悲喜劇的な姿である。当然ながら調停は不調に終わる。夕日の差しこむ部屋に残った俊徳と級子の噛み合わない一対一の対決が「弱法師」の後半をかたちづくるが、そこで明かされるのは、俊徳の身勝手と思われたものが、じつは戦争のトラウマの顕れであり、彼は空襲に焼かれる世界を見えない目でいつもずっと見ていたのだった。だが、俊徳の魂の叫びが級子に届くことはない。ふたりの精神的な距離は近づくが、それは共感的な理解が深まるからではなく、一方通行な思いが貫かれるからであり、ふたりとも互いに譲歩しない。三島はほとんど何の救いも与えることなく劇を閉じる。「どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という退行的に無邪気に幼い俊徳のつぶやきは、甘やかな退廃と陶酔だけを後に残す。いかにも三島由紀夫にふさわしいかたちで。

石神の演出は、そのような三島特有のデカダンスの脱構築をねらっていたのだろうか。養父母の川島夫妻(中西星羅、大道無門優也)は赤のドレスに青のスーツ、実父母の高安夫妻(布施安寿香、大内米治)は黄のワンピースとニットカーディガンに緑の半袖開襟シャツにチノパン。両夫妻の経済階級的な格差は一目瞭然だが、下から上まで一色のグラデーションに包まれた姿は、ひとりひとり眺めればリアリズム的にありえそうな感じもするのに、4人揃うとモダニズム的に意図された不自然さが際立つ。両夫妻の演技もまた、自然主義的な感情の表出であるように見えながら、同時に、きわめて様式化された演技であり、それはもしかすると、プロレス的な(筋書のある)即興のマイクパフォーマンスであり、(八百長的な)迫真の肉弾戦であったと言ってよいかもしれない。「僕はひょっとすると、もう星になっているのかもしれないんです」と嘯く俊徳に合いの手を入れるように「星ですとも、お前は」と声を合わせて叫び、親を虫けら扱いする俊徳の言うがままにて床に這いつくばる4人の姿は、あまりにも見事に振りつけられているので、笑うべきなのか涙すべきなのか、大いに戸惑わされる。

その一方で、俊徳と級子は、川島夫妻や高安夫妻とはまったく別の原理にもとづいて造形されていた。石神による演出の核心にあるのは、俊徳と級子をジェンダー的にスイッチした後で、元に戻すという手法だ。同じ戯曲を、主役ふたりを入れ替えて、2回連続上演するのである。前半の級子は男優(八木光太郎)が、俊徳は女優(山本実幸)が演じる。三島のト書きで「和服」のはずの級子は、赤いハイビスカス柄の黒いアロハシャツにショーツ、クマの着ぐるみのような灰色の帽子とレッグウォーマーをまとい、コミカルともシリアスともいえない撹乱的なトリックスターとして、四角いリングのような舞台の下をキャスター付きの肘掛け椅子で滑るように移動しながら、夫妻たちを宥めるというよりも、観客巻き込んで大いに煽り立てる。「仕立てのよい背広に黒メガネ、ステッキ」の俊徳は、ダブルスーツにサングラス。一見するとト書きに忠実だが、彼女は級子の分身にも見える灰色のクマのぬいぐるみをずっと抱えている。脚立の上から5人を見下ろす前半の俊徳の静の演技は、三島が意図したかもしれない自律的な分厚い記述——俊徳が視界を失った焼け野原で最後に見た世界の終りの風景=心象描写——を、最低限の身体的所作をまとわせた増幅的朗誦として現前させていた。

脚立から下りて自暴自棄にあばれる俊徳が級子に無理やり肉体的に組み伏せられた後、まるで戯曲に書かれているかのように自然にダカーポした2回戦の俊徳(八木光太郎)は、かなりテイストが異なる。脚立の上から裁き手よろしく見下ろす厳めしい級子(山本実幸)の下で、ツイードの上着にショーツ、ハイソックスにサングラスという、クラシカルではありながらどこかコスプレ的な、本物でありながらどうしようもなく偽物めいた俊徳は、烈しい肉体的な運動性の随伴物として言葉の音を反響させる。俊徳が最後に目にした世界の終わりを描写する「阿鼻叫喚」という単語は、強迫観念的に取り憑かれた肉体が舞台を周回しながらほとばしらせる体液であるかのように、オノマトペになるまで執拗に反復される。夕日は舞台をいまいちどほのかにノスタルジックに赤く染め上げるが、最後はふたたび人工的な白い光に照らし出されて、暗転する。

石神は三島の謎めいた幕切れにわかりやすい解釈を与えることを拒むために、いかにも三島らしいデカダンスな読解——凡人を無慈悲に翻弄する天才の男と、従順なようでいて彼を包み込んでしまうファム・ファタル——を退けるために、ふたつのバージョンを「ただ」並列させてみたのかもしれない。石神の演出には、戯曲を反復する理由をあえて正当化しないという無防備な勇敢さがあった。2回戦ではテクストが多少削られていたし、言葉の意味を解体してその音を受肉化するためにテクストにない反復を断行していた部分はあったとはいえ、話されるセリフの扱いはオリジナルに忠実だったはずだ。視覚化のためのト書きだけが、大胆に読み替えられていた。

複数的な演出原理を説明なしに同居させながら、ひとつの上演として破綻なくまとめあげていたところ、三島の美意識に寄り添いつつもそこから距離をとり、かといって、完全に相対化するのでもなければ完全に我有化するのでもなく、いわば自由間接話法的に、三島の声を模しながら同じ話を別の形で具現化してみせたところに、石神の独創的な手腕があったとは思う。きわめて挑発的で、省察や反芻を誘う舞台ではあったとは思う。しかしながら、わたしとしては、この統合されざる単なる複数性に、いまひとつ納得できない思いを抱いてもいる。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【ペール・ギュント】小田透さん

カテゴリー: 未分類,2022

美的カタルシスか、批判的挑発か

双六が舞台を支配している。サイコロの目がマスにあしらわれた、舞台奥が高くなるように傾斜した、とてつもなく巨大な双六盤が、舞台中央を覆うように、少し斜めに置かれている。後景には、それと鏡合わせになる双六盤が、奥にわずかに傾いで、上辺が右下がりになっているせいでどこか不安定に、アンバランスに、屹立している。芝居が始まる前、後景に投影されている画像の上部には、「日本人海外発展双六」と、右から左に記されている。大日本帝国の海外進出を題材に取った、実在の双六らしい。双六盤の手前に照らし出された前景では、軍国少年とその妹が、入れ替わりで双六で遊んでいる。一人遊びにのめりこんでいくのは、少年のほう。折り紙の兜をかぶり、紺色の半纏を羽織った彼の手に握られているのは、軍人をかたどった駒、ゼロ戦のような航空機。ときにひどく咳込む、病弱なのかもしれない彼に、妹の声は届かない。男の身勝手さが招きよせる歴史的悲劇が、きわめて象徴的なかたちで提示された後、劇が突如として始まる。

明治から昭和にいたる大日本帝国の帝国主義的な拡張政策(の瓦解)のなか、自らのアイデンティティを見出そうとして迷走する日本男児の物語に読み替えられた宮城聰の『ペール・ギュント』は、日本近代史を幾度となく参照するが、それらはすべてどこか戯画的な誇張を含んでいる。鹿鳴館時代を思わせる1幕のトロル王の宮廷シーンの付け鼻、人形の衣装のようなドレスをまとった者たちのダンス。欧州諸国と物別れし、別々の道を行こうというペールの通告が日本の国際連盟脱退を想起させる2幕冒頭の入退場はコミカルな影のシルエットで演じられるし、西欧代表団の話す西洋語はもっともらしいでたらめな代物であり、それが正確な日本語に通訳されると、ますます茶番めいてくる。満州国の旗をはためかせながら中国風とも韓国風ともいえない衣装をまとった踊り子たちに囲まれて、ペールが中国風の装いで皇帝を気取る2幕半ばは、大日本帝国の植民地的野心が明白なかたちで暴かれるところだが、衣装にしても小道具にしてもどこかフェイクめいており、意図された安っぽさがある。サイレンがうなり、白煙が上がり、空襲の被害にあったかのように、壁からも床からも双六のマス目が剥がれ落ち、いたるところに穴が開いて荒廃した2幕後半の敗戦のシーンは、痛切ではあるが、「うちてしやまん」と筆書きされた日の丸を腰にまきつけて物乞いのようにペールにすがるトロル王は、どこかコミカルでもある。日本近代を大真面目に受け取って大真面目に批判するというよりも、あえて茶化すことで、そのいかがわしさやうたがわしさが逆説的に強調されていた。

しかしながら、宮城演出の批判性の強度が最高度に達したのは、敗戦の風景が出現するひとつ前の難破のシーン、演出の戦略的な軽薄さが剥がれ落ち、シリアスさが不気味なまでに浮上するシーン、海に投げ出されたペールが、決して現実化されることのなかった思いを幻視するシーンである。生まれることがなかったさまざまな可能性が、対位法的に、不協和に、リズミックでもあれば調子外れでもあるような旋律をなぞって、叫び出す。舞台が妖しい青に染まり、コロス隊が双六の一の目のいたるところから、もぐら叩きのもぐらのように、あちらこちらで顔を突き出しては引っ込める。ぺールの心象風景の荒涼さや不毛さが浮き上がるこの場こそが、宮城演出の『ペール・ギュント』の突出点であったように思う。

ただ、そこで問い質されていたのは、ペールが犯した具体的な罪――それは数限りないだろう、日本近代が犯した罪が数限りないように――というより、もっとずっと内面的な、近代的自我のアイデンティティをめぐるものではなかっただろうか。こうして、あえて不真面目に、戯画めかしながら、日本近代史へのほのめかしをあちこちに盛り込んできた宮城の『ペール・ギュント』は、劇がほとんど終わりかけたところで、突如として象徴劇的なものにスイッチする。そして、そのような迂回路をとおして、宮城の近代批判が観客であるわたしたちを不意打ちする。

いつもどこかさびしげで、どこかよそよそしく、奇妙に神秘的だったソールヴェイが、最後の最後で突如として意志的存在に転化し、きわめて強い声で「あんたに罪なんかない」と叫ぶのは、そのような急展開の後のことである。「あなたはずっとわたしの夢のなかにいた」と甘やかに言うソールヴェイは、老ペールを受け入れ、赦す存在として立ち現れる。ご都合主義的に、男性原理的なものを女性原理的なものが包み込んでいくだけではない。「父親は誰だ」とペールが絶望的な叫びを返すと、彼女は無言のまま、舞台の袖を指さし、観客席のわたしたちを指さすだろう。『ペール・ギュント』が父の不在、父になることの拒否の物語であったことが突きつけられるこの瞬間、抑圧されてきた不在の父の責任が、突如として、わたしたちに差し向けられる。男性的な価値観と、近代の帝国主義と、日本の戦争犯罪に、わたしたちもまた不可避的に加担していた/いること、共犯者であった/あることが、脈絡なく、突きつけられる。劇に内と外が、内から外へとつなげられる。わたしたちは否応なく当事者として巻き込まれる。

しかし、そのような挑発的な巻き込みは不発に終わっていたのではないか。わたしたちを指さしたソールヴェイは、そのまま指をタクトのように用いて、音楽隊を率いて、劇を終わらせていく。それは、本劇においてほとんどつねに受動的であった彼女が自律的な行為能力を発揮した瞬間ではあった。冒頭の軍国少年につらなる存在である指揮者がソールヴェイだったことが明かされる瞬間でもあった。ジェンダー・ポリティクスを転覆させる批判的な問いかけが、そこには仕込まれていた。しかし、ソールヴェイは、彼女に付与された自律性を、自らの存在を主張するためでも、日本近代をわたしたちとともに問い質すためでもなく、ペールを赦すために行使する。

うなだれて立ち尽くす老いたペールの手に握られていた杖を彼女は優しく取り外し、花を握らせる。子の手を引くようにして、「振り出し」のマス目まで彼を導いていく。ソールヴェイの歌う子守歌に込められていたのは、ペールが初めからもう一度やり直す可能性だ。うつむいた彼に光が注がれたとき、そのような可能性を受け取った老人は再生し、若返り、ほのかに輝いたように見えた。まるでペールも、ペールが象徴する日本近代も、ともに赦され、やり直す可能性を与えられたかのように。しかし、そのときわたしたちもまた、たんなる傍観者に戻ることを赦されてしまっている。

「あなたはわたしの夢の中にいた」というソールヴェイの告白と相まって、『ペール・ギュント』全体がペールの夢落ちであったかのように思えてくる。近代をリプレイすることができるとしたら、わたしたちはきっと前よりもずっとうまくやれるだろう。しかし、歴史に「もしも」はない。なされたことはなされたことである。あったことはなかったことにはできない。宮城の『ペール・ギュント』は、日本近代史について重要な問いを投げかけながら、それを掘り下げて、批判的に問い直すことで未来を作り直すことよりも、ありえたかもしれない別の過去の可能性を夢見ることで、過酷な現実の歴史を仮想的な内面の領域にシフトさせ、最終的には、胎内回帰的な夢の甘美な空間に退行してしまっていたのではないか。だからわたしたちは、現代にまで通底する日本近代についての重大な問いが、美しいイマージュの中で霧散してしまっていたことに、何か腑に落ちない思いを抱かざるをえないのである。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【SPAC版 守銭奴 あるいは嘘の学校】小田透さん

カテゴリー: 未分類,2022

チープでポップなシリアス、あるいは全員の温度差

チープ・ポップ。
中央こそオープンスペースになっているけれど、上手も下手も、手前も奥も、ごちゃごちゃといろいろなものが置かれている。トイレ、キッチン、クローゼット、ガレージ、オフィスを模したかのようなオープンな空間が広がり、斜めに張り渡されたロープにはTシャツが旗のようにひらめき、縁日のような雰囲気を醸し出している。そのような装置のほとんどが、ガラクタで出来ている。いや、ゴミといったほうがふさわしいかもしれない。発色の良い、プラスチックのような柔らかい素材のカラフルさのおかげで、どこかポップで、どこかコンテンポラリーアートのようでもある。しかし、よく見れば、やはりゴミである。「守銭奴」を主人公とするドラマが、汚部屋、汚屋敷めいた空間のなかで始まる。痛烈な皮肉でなくて何であろう。
ジャン・ランベール=ヴィルドの演出するモリエールの『守銭奴、あるいは嘘の学校』は、17世紀フランスの古典作品としての歴史性を忠実に再現するのではなく、現代にも通底するアクチュアルさを前面に押し出していた。喜劇というジャンルを、軽やかに、お笑いに変換してみせていた。ミュージカル的なテイストもあった。すべてはコミカルであった。
かのように見えた。
ここではすべてがチャラさに移し替えられていた。アルパゴンの息子クレオン(永井健二)は盛った長髪のギャル男となり、その娘エリーズ(宮城嶋遥加)はゴテゴテとした装いの傲岸不遜なギャルとなる。どちらも街で見かけたら、思わず振り返り、二度見三度見するだろう。クレオンの思い人であるマリアンヌ(ながいさやこ)は落ち着いた感じの服装だが、マリアンヌでないときの彼女は、ラッパーのようなオーバーサイズのジャージをまとい、不審人物よろしくステージにたむろする。エリーズの恋人のヴァレール(大高浩一)は上下ツナギ姿だが、労働着というよりも、ファッションで着ている感がある。トリックスター的な存在である仲介役のフロズィーヌ(木内琴子)は女中的な普段着、ラ・フレッシュ(本多麻紀)は気取ったドレス。けれども、ふたりとも、そこはかとなくコスプレ的。誰もが唯一無二の演技だが、同時に、きわめてコントロールされた「タイプ」的な演技でもある。それぞれの装いにピタリと整合した、「いかにもそれらしい」演技。
けれども、それが演出家の求めたものだったのだろうか。
力演ではあった。好演ではあった。体当たり的な宮城嶋の演技はポップにはじけてはいたし、木内や本多の性格俳優的演技は巧みではあった。愚直な召使であるジャックを演じる吉植荘一郎、アルパゴンの下男のブランダヴォワーヌを演じる山崎皓司は、きっちりと脇を固め、猜疑心をめぐるこの劇に奥行きを与えてはいた。けれども、俳優のあいだに温度差はあったように思う。大高は自分の演じる役柄にたいしてクールな距離を保っていたし、永井はその距離を誠実に埋めようとするあまり、決して重なり合わない自分の資質と役柄の要求を逆説的に際立たせてしまっていた。そのようなズレがないわけではなかった。
そこかしこに微妙な上滑りがあった。
「翻訳・通訳・ドラマトルギー」の平野暁人が用いたのは、大岡淳がブレヒトの『三文オペラ』で創作したような、意図的に野卑な日本語だが、それをあえてここで使用する必然性があったのかどうか。2020年代的というよりも、1990年代的と言いたくなるようなヤンキー的な読み替えが、現代の日本の観客にどのように感じられるのかを、演出家がどこまで理解できていたのだろうか。そもそも、本当にラディカルに現代日本の文脈に移植しようというのなら、明治期の翻訳がそうしたように、キャラクターの名前を日本語化すべきであったし、「エキュ」のようなフランスの古い貨幣単位も円に置き換えるべきではなかったか。ノリのよい舞台ではあったものの、制作側や出演者たちの悪ノリという感想を抱いてしまう瞬間がないわけではなかった。しかも、どこか不徹底な、真面目さゆえの悪ノリ。 日本のお笑い的なテイストに流れすぎてしまったきらいがもある。面白く見られるものではあったけれども。
けれども、ジャンル的な代物と言っていい予定調和的ハッピーエンドの拒否こそが、演出家のねらいではなかったか。
演出家は原作に2つの大きな変更を加えていた。幕開けと幕切れ。舞台は、戯曲にはないシーンから始まる。アルパゴンがびくびく歩きながら登場する。彼は何度も何度も後ろを振り返る。そして、彼と向かい合って、まるで彼の鏡像であるかのように、何枚も何枚も紙幣を渡す謎めいた「?」とのパントマイムが続く。人の所作の猿真似というコメディの王道の手法。しかし、そこに鳴り響くのは、不吉なカラスの鳴き声。それと同じ不吉なカラスの鳴き声が、パイプオルガン的な荘厳な音楽と合唱によって増幅されて、原作にはない最後のシーンでも響きわたる。やっとのことで取り戻したアタッシェケースを開き、青白い光を発する札束の詰まった鞄を見つめるアルパゴンは、もはやホラーの主人公にほかならない。他者を餌食にして来た彼が、ここに至って、ハゲタカに襲われるかのようにみんなの餌食となる。文字通り身ぐるみを剥がされて、パンツ一丁で舞台に転がされることになる。
舞台は、暗闇のなかで妖しく照らし出される神秘的な存在として再登場した「?」(三島景太)によってミステリアスに終わる。わたしたちはどこか煙に巻かれたような気持ちになる。どこか落ち着かない。それはおそらく、「?」が最後に語りかけるアルパゴン(貴島豪)が、子どもたちからも、召使たちからも見放された存在だからだろう。物語的にという以上に、実存的な意味で、アルパゴンは剥き出しになっている。突如として出現した悲劇性、悲観的なパトスに、わたしたちは戦慄させられる。
喜劇が一瞬で悲劇に転化する。
古典戯曲が描きはしなかった近代的心理=真理を、現代的な演出において抉り出し、そこに、わたしたちの存在のままならない哀しみをただよわせること。貴島と三島の言葉と身体は、古典的な格調の高さと、現代的演出のポップさを、ギリギリのところで両立させつつ、喜劇と悲劇の本源的な通底性をも表出させていた。彼ら二人は、表面的なコミカルさの裏に、それと同じぐらいのシリアスさを注入し、『守銭奴』を特異でありながら普遍的である心理劇に変容させることに成功していたのだった。
それこそが、ランベール=ウィルドのチープでポップな演出のシリアスな核心ではなかっただろうかとわたしには思われるのである。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【人形の家】丞卿司郎さん

カテゴリー: 未分類,2022

『ドールハウス崩壊の奇蹟』

『人形の家』は女性の独立をテーマにした作品とよく云われる。
しかし著者のイプセンは女性を特化して描いたものではなく、普遍の人間の本質をテーマに描いたと語ったそうだ。

しかしSPAC版『ペールギュント』が男性原理の世界観で描かれた作品であるとすれば、SPAC版『人形の家』には男性と女性の価値観の違いからの衝突が見え隠れする。

『ペールギュント』が世界と精霊の住む冥界までを股にかけ飛び回る壮大な物語であるのに対し、『人形の家』は家庭の中の一室を主に展開する。
狭い家庭で三日間の間に、順風満帆だったはずの家庭像が崩れていく過程で、平凡な主婦であったはずのノーラの内面に変化が起きていく。

モボ、モガが闊歩する華やかな大正モダニズムの香りがまだ残る1935年の日本おそらく東京が物語の舞台。
『ペールギュント』が双六盤を模した舞台設定だったのに対し、ドールハウスを思わせる家具が描かれた床板の舞台設定を家庭の一室として、物語は展開する。
物語の進行に従い、部屋に敷き詰められた床板が、1枚ずつはがされていく。
そして最終的には家庭の土台自体が揺らいでいく様が描かれていく。

弁護士の妻、ノーラは一見、絵に描いたような幸せな生活を送っていた。
大病を克服した夫ヘルメルは、勤め先の証券銀行で栄転し、年明けから取締役へと昇進予定。
クリスマスパーティーの準備の最中、夫の昇進を目前に思わぬ来客が訪れる。
夫の元で再就職を旧友の未亡人リンデ夫人、不治の病を患う夫の友人ドクトル・ランクとのやり取りの中で、忘れかけていた過去の闇がよみがえる。
病に倒れた夫の療養費捻出のため、悪気なく行った借金の借用書の偽造が新たな火種になろうとしていたのだ。
借金している相手は夫の仇敵クログスタ、夫の昇進を妬みつつ、執拗にノーラにゆすりをかける。
思いもしなかった過去の詐欺行為の告発は、盤石だったはずの夫の地位をも揺るがしかねない事態へ。
そして三日の間、事態は大きく進展する。
ほんの短い間に理想の空間であったはずの家庭がもろくも崩れ去ろうとする瞬間、ノーラの求めた『奇蹟』とは…

終盤で浮き彫りにされるのは、夫ヘルメルの動揺と変貌だ。
華やかな装いと知性漂う絵に描いたような理想の夫像から一転し、妻よりも己の地位と名誉に固執し、世間体と体裁を気にする姿が描かれる。
この後、ノーラを失っただけでなく、敵だったクログスタと新たな家庭を持ったリンデ夫人をビジネスパートナーに仕事をする。
以前から憎み続け、妻を失う原因となった仇敵を養うこ破目になるのだ。
まして旧来からの友人であるドクトル・ランクもいない。
守ったはずの地位の中で、ノーラを失うだけでなく、かつてない孤独と屈辱、そして絶望を味わうことになる。
傍から、愚かな男と映るかもしれない。

しかし自分がヘルメルの立場であったら? という問いには誰もが困惑するだろう。
体裁を守るため、同じような行動をとるのではないだろうか。
地位や名誉にこだわるのは、愚かで悪と言い切れるだろうか?

子どものおもちゃと遊びはいわば価値観や興味の顕れだ。
男の子は武器、乗り物に興味を持ち、または大人の仕事を真似て遊ぶ。
刀や拳銃といった武器のおもちゃは古来に狩猟をしていた時代の感覚を呼び起こす。
古来から現代の仕事に至るまで、男性は家の外での活動が中心だったからだ。
それは劇中で登場するクリスマスプレゼントのサーベルにも表れている。
男性には家庭を守るため、常に外を意識することが求められてきたからだ。
自分が築いてきた名誉や地位は、同時に家族を守るための武器でもある。
ノーラの行為は法的に許しがたいとしても、感謝の心は間違いなくある。
しかし、それを認めることができないのは、今まで守ってきたノーラを始め家族の生活自体が揺らぎかねないからだ。

対して女の子はままごとなど家庭に特化した遊びをする。
タイトルとなっているドールハウスはいわば家庭の縮図であり、女の子の理想の未来の姿または憧れでもある。
男性の価値観が幼少期から外へ向いているのに対し、女性は内側へ向けられてきた。

終盤で描かれるのは、今まで聖域だったの家庭というドールハウスの崩壊だ。
舞台が進行し、ノーラの苦悩がひとつずつ重なる過程で、暗転の際、家具を描いた床板が一枚ずつはがされていく。
いつの間にかはがされた床板で足場が危うくなり、終盤では演者は自由に動くことすらおぼつかなくなっていく。

しかし、動きの中で姿勢を崩すのは、意外にも夫のヘルメルの方だ。
女性原理の価値観の象徴だったはずのドールハウスの崩壊は、むしろヘルメルの動揺と受けたダメージを表現している。
家庭という狭い世界のドールハウスの住人は、夫の方だったことを暗に示している。
むしろ、ノーラは、しっかりとした足取りで、崩壊したドールハウスの外へと歩んでいく。
重ねた苦悩の過程で、今まで過ごしていた家庭は夫が求めた幻想であることに気づいたかのようだ。
ノーラが求めていた奇蹟とは、ドールハウスの家庭が続くことではなく、変化であったことが終盤に分かる。

ヘルメルやクログスタの言動には『家族を養う』という意識が見え隠れする。
ヘルメルが終始一貫してこだわったのは、世間体であり、体裁だ。
また、リンデ夫人との再スタートで改心したクログスタが最初に気遣うのは、ノーラの家庭を破壊しかけたことへの罪悪感だ。
どちらにも家庭を守ることが第一であるという価値観が根底にある。

一方、ノーラやリンデ夫人、女性側の求めるのは夫婦間の『対話』であり、本当にお互いが理解し合うことのようだ。
世間体は関係なく、たとえどんな結果になろうと、話し合うことで理解したい。
一方は仮面の夫婦であっても見た目は完全な『家庭という場』、他方は夫婦間の『理解』、
お互いが求めていたもののズレが、すれ違いを生じていたことが終盤に分かる。
ノーラが切望した『奇蹟』とは、ドールハウスが本物の夫婦の住む家庭へと変貌することだったのかもしれない。

男性が家庭の外側へ女性が家庭の中へ価値観を持つようになったのは、それぞれの役割が由来していると云われる。
古来から夫は家庭を離れ、狩猟や漁で孤独な闘いを終えて家庭に帰還し、妻はその間、留守を預かる。
夫にとって家庭は闘いから解放された束の間の休息の場であり、焚火を見ながらぼんやり過ごす癒しを求める。
外へ出たら敵だらけの夫にとって、家庭は最後の砦であり、気の置けない癒しの空間である。無駄に気を使いたくない。
一方、留守宅を守り続けた妻は、不在の間に夫に相談できなかったことが山ほどあるし、その間に家庭起こったことも報告したい。
妻にとって家庭は自分が戦う戦場でもあり、夫には戦う自分を理解してほしい。
夫婦間のズレは、古来から家庭に求めるものの価値観の違いから起こり、続いているようだ。

『奇蹟』は今まで当たり前だと思っていた生活を崩壊させる。
どちらかがそれを受け入れることが必要になる。

SPAC秋→春のシーズン2022-2023■入選■【ペール・ギュント】はやしちひろさん

カテゴリー: 2022

SPAC版 『ペール・ギュント』は形にすることや、形にしたそのものに囚われてしまった罪悪感や後悔の澱を流してくれた。
ペール・ギュントは叫ぶ。特に欲望を、ドラマチックに放つ。それが続く。なぜこんなに叫ぶのか。強調表現を濫用すれば、観客には、どのフレーズどの場面が重要なのかがわからなくなる。しかし、ギュントには叫ばざるを得ない理由がある。叫ばれないものを否定し、自分を叫ぶこと(体現)によって自分をアピールしている。
ギュントはなぜ、自分が体現してきたものに、ここまでしがみついたのか。それは、「自分はペール・ギュント自身でなければならない」という強迫観念にも近い思考を抱いていたからである。共同体を追い出され、さらに母親まで失ったギュントは、自分の自己同一性を確認するための基盤を失った。残るものはバラバラの自己の断片らしきものだけである。人との関係の中で自分が連続して自分であることを確認できなくなったギュントには、神の意図を問い続け、神との関係性の中で自己を確認して生きるという選択もあったかもしれない。しかし、そうしなかった。彼が選んだのは、「ギュント」は別の存在とは明確に区別できるかけがえのない存在だということを、形あるもの(言葉、行動、成果など)によって証明することだった。自分というものは本来定まった形のないもの(くねくね)だが、彼はそれに抗い、確固たる自己像を作り上げようとした。
ギュントは「紛れもないこの自分」というものを構築することに注力し、それ以外から目を逸らした。「王になる」と宣言し続け、そのための行動を選択し続けたのは、彼が自分の欲求の実現こそが自分として生きたことの証になると考えたからだろう。
王にこそならなかったものの、彼は十分に欲望を実現した。けれども飽くことなく、求める人生を送り続けた。ペール・ギュントの乾きは、自分の口にした欲望を実現しても癒されない。「生きていれば希望はある」と繰り返していたのは、満たされない心を押し隠す虚勢のようにも聞こえた。
彼はどんなに所有していても、内心のところで不安定であった。彼は貧しい船員たちに、気前よく金を分け与えようとしたが、彼らに家族がいることを知って腹を立てる。彼も本当のところでは、富や名声ではなく、自分の存在を丸ごと迎え入れてくれる人間関係の中にあることに憧れていた。
そんな孤独感に薄々気づいているものの、形になるものにすがってしまうのがやはりギュントだ。船が難破して海上を漂流するギュントの前に「表出されなかったもの」たちが現れる。言葉にされなかったもの、歌われなかったもの、行われなかったもの…が次々に出てきて瀕死のギュントに怨嗟を向ける。ギュントは、そういった自分の別の可能性だったかもしれないものたちにとりあわず、ただそれまで自分が言葉にしてきたもの、行ってきたことだけにすがっていた。その様子は、海上で彼が小さな丸太だけに必死にかじりついて離すまいとしていた様子とおなじであった。
荒れ果てた場所で、ペール・ギュントは、ボタンづくりに出会う。彼は、他の者と一緒に溶かされることを拒絶し、自分がほかの誰にも代えがたい自分であることを証明するために奔走した。自分は何者でもなかったという現実は、強い苦痛と恐怖を彼に与える。何者かになろうとして足掻く様は、なんだか「寂しい近代人」のさもしい醜態を見ている気分だった。
このペール・ギュントの末期は、近代の個人を連想させるだけでなく、国家が欲望の実現によって国力を示そうとし、そうして滅んでいく様と重なった。特に、太平洋戦争末期の日本の姿に。「強い国」になることを目指し、それ以外の可能性を否定して、日本は戦争へと突っ走った。孤立を深め、敗走を重ね、弱っていく一方だったが降伏は選択出来ず、ついには一億玉砕が叫ばれた。何者でもないものであるよりは、地獄に落ちる方がよっぽどましだと考えたギュントと同じである。ギュントも日本も自分は結局何者でもなかったのだという深い絶望と孤独のうちに命を終えると思われた。ギュントとともに倒れたすごろく遊びをしていた瀕死の軍国少年は、大日本帝国の終焉を象徴していた。
ギュントはソールヴェイのもとで臨終の時を迎えた。それが彼の救いとなる。ソールヴェイは、「それはあなたの罪ではない」という言葉をギュントに送った。彼女は何者だったのだろう。有の根源にある無、無限定である。ソールヴェイは、「あなたは私の夢の中にずっといた」「あなたは私から生まれた」と言った。ソールヴェイのモデルは、例えば、国家以前にある故郷、自我以前のさまざまなものが混ざっている状態、ことば・行動になる前の状態など、万物の始原である。
彼女から生まれたものはあまねく、どこから生まれどこにいるかも忘れ、自立自存していると錯覚しながら、彼女を顧みずに生きていく。彼女はずっとあり続け、生まれたものが育って生きているのを眺める。そしてそれがまた自分に溶けていくときが来たのなら、それを迎え入れる。
ギュントは全てを悟った。何者でもなかったことは彼の恥でも、彼の存在の卑小であることを意味するものでもなかった。彼は孤独でもなかった。彼は全てを包括する彼女の一部だったのだから。
彼女を忘れ、形になるものにすがった罪は赦され、孤独も癒やされた。これで穏やかに「振り出し」に戻れる。