劇評講座

2026年3月3日

SPAC秋→春のシーズン2024-2025 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 未分類

SPAC 秋→春のシーズン2024-2025の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数7作品、最優秀賞1作品、優秀賞1作品、入選1作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
山上隼人さん【劇場と月の距離】(『象』)

■優秀賞■
小迫茉凜さん【観られたい、見られたくない、その葛藤のはざまで】(『象』)

■入選■
河村恵理さん【「メナム河の日本人」を観て】(『メナム河の日本人』)

■SPAC文芸部・大岡淳の選評■
選評

作品一覧
SPAC 秋→春のシーズン2024-2025
イナバとナバホの白兎』(構成・演出:宮城聰 台本:久保田梓美 & 出演者一同による共同創作
音楽:棚川寛子)
』(演出:EMMA〔旧・豊永純子〕作:別役実)
メナム河の日本人』(演出:今井朋彦 作:遠藤周作)

秋→春のシーズン2024-2025■選評■SPAC文芸部 大岡淳

カテゴリー: 未分類,2024

SPAC秋→春のシーズン2024-2025は、特に『象』評が多く集まりました。『象』は、詩的なセリフと、寓話的な物語と、被爆という生々しい題材とが、不可思議に調和した故・別役実さんの初期代表戯曲を、EMMAさんの演出とSPAC俳優陣の技量によって現代に甦らせた公演でした。その謎めいた内容が、解読し解釈し批評する欲望を、大いに刺激してくれたのかもしれません。

その『象』評は、いずれもチャレンジングな内容で読み応えがありましたが、とりわけ、「月」と「太陽」というイメージの対比によって読み解いたユニークさを評価して、山上隼人さんを最優秀に選出しました。また、「観られたい、見られたくない」という矛盾の連鎖として上演を読み解いた鮮やかさを評価して、小迫茉凜さんを優秀に選出しました。

ただ一つ気になったのは、これは今回頂戴した『象』評の全体に言えることなのですが、ケロイドを背負った「病人」の「観られたい」欲望とはいったい何なのか、もうひとつ掘り下げが足りないという印象を受けました。「病人」が嫌悪するのは、政治集会の中で被爆者の代表のように扱われ、戦争の被害者という役割をあてがわれ、憐憫や同情によって承認されてしまうこと、すなわち、戦後民主主義的なヒューマニズムの餌食になることであり(この背景には、1960年の安保闘争の敗北に際して、別役さんたちの世代が抱いた議会政治への幻滅があります)、そのような“良心的”な人々の欺瞞的な態度より、「病人」は、かつて街角で自分のケロイドに触れようと近づいてきた少女の、直接的であり衝動的であり、無垢とも残酷とも言える好奇心を歓迎するわけです。原爆によって、偶然にも背負わされてしまった傷痕をあえてセンセーショナルな見世物に転換して、人々の下世話な好奇心を満たそうとする「病人」の態度は、マゾヒスティックで倒錯していますが、自分の不運を呪い〈不自由〉に苦しみ続けるのではなく、自分の不運をあたかも運命的なドラマであるかのように仕立て直して、人々の視線の前にその身をさらす〈自由〉に賭けている、と解釈できます。これは、ジャン=ポール・サルトルが主張した、実存的な〈自由〉そのものであると言えましょう。改めて私はこの戯曲を、カミュやベケットに連なる不条理演劇というよりも、サルトルに連なる実存主義演劇と位置づけるべきではないかと感じました。ともあれ、この病人の倒錯した心理をどう説明するかが、劇評を書く上での肝であることは間違いありません。

同じシーズンの『メナム河の日本人』評からは、心理学的な視点で読み解いて下さった河村恵理さんのオリジナリティを評価し、入選といたしました。ただ、これは戯曲の分析に終始している点が惜しかったです。次回はぜひ、演技や演出といった上演の質感にまで踏み込んでいただきたいと思います。また、残念ながら入賞は逃したものの、上演をめぐる親子の会話を書きとめて下さった、のびた父さんの劇評は、楽しく読みました。

批評の書き方に「正解」があるわけではありませんが、自分なりに洗練させることはできると思います。みなさん、ぜひまた劇評に挑戦して下さい。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■最優秀賞■【象】山上隼人さん

カテゴリー: 未分類

劇場と月の距離
「私は、いわば、お月様です。お空に、まんまるの・・・・・・」。こうした印象的なセリフから始まる劇が2024年12月の4日間、SPACにより静岡芸術劇場で上演された。作品は、別役実の初期の代表作とされる『象』。冒頭のセリフを象徴するかのように、演出のEMMAは、月をイメージさせる絵を舞台上方に掲げ、シーンによって光で照らした。劇中にも「月」が登場するが、我々と月との距離はどのくらいなのだろうか――。
物語が展開するのは病院の一室。ここのベッドに病人(阿部一徳)が横たわっている。病人は被爆者で背中にケロイドがあり、かつてはそれを披露して人々から喝采を浴びていた。そのため、また「あの街」へ行き、再びケロイドを見せて注目されたいという願望を抱いている。一方、病室を訪れる男(牧山祐大)は病人の甥で、同じく被爆者だが、「情熱的に生きたい」という病人とは対照的に「静かに死んでしまいたい」と思っている。
つまり、病人は「見られる存在」として生きていきたいと願っている。動物園の象もまた「見せ物」であり、ケロイドと象の皮膚の質感が似ているように捉えられることから、これがタイトルの所以となっているのだろう。
月も同様だ。「月見」という言葉があるように、我々が月を認識するのは概ね「見る」ときだろう。しかも、遠くから眺めることしかできない。また、月のゴツゴツした表面もケロイドと似た印象を受ける。舞台上方の月は、「病人の背中」を表しているのだろう。
月を照らしているのが太陽であるように、病人の背中を照らしているのもまた「太陽」である。原爆が投下された際、「小さな太陽が落ちてきた」と形容された。病人の背中にあるケロイドは原爆によって被ったものであり、太陽と月と同様、切り離せない関係にある。この劇で描かれる「月が太陽の光によって輝く」という状況は、皮肉を超えてもはや「不条理」であると言える。
ただし病人は、単にケロイドを見せびらかしたいわけではない。原水爆禁止大会でケロイドを披露した際、効果的なポーズまで考えて演壇に立ったが、拍手が無かったことに不満を持っている。そればかりか、「見物人」はケロイドではなく、「俺の眼をのぞきこもうとした」ことに憤りを感じている。また、再び観衆の前に立ち、自らカミソリで体を傷付けて血まみれとなり、「皆さん、私は一生懸命やってきました」「私は、この十年間、苦しい生活に耐えぬいて、一生懸命がんばりました」と表明することも計画している。
つまり病人は、ケロイドを見せ物としたいのではなく、「ケロイドがあっても頑張って生きてきた人」として見てほしいのだ。そして、褒めてもらったり、ねぎらってもらったり、称賛されたりしたいのだろう。そうすることで自らのアイデンティティーを保てると考えているのではないか。それに対して、見物人はケロイドを直視できない。そこには恐らく「ケロイドができてしまったかわいそうな人」という意識が働き、目を背けてしまうのだろう。病人と見物人との間には、当事者とそうでない者という明確な立場の違いがあり、その意識の乖離は劇場と月ほども遠い。
このテーマを考える上で重要になるのが、男が病人に話す「赤い月」のエピソードだ。男は「僕が夕方、戸を開けると、いつも正面に大きな赤い月があるんです。そして、遠くの方から、小さな男が走ってくる・・・・・・。アカイツキ、アカイツキ、アカイツキ、アカイツキって叫びながら、走ってくるんです。(中略)その男は一生懸命なんです。一生懸命走ってくるんですよ」と説明するが、月が赤くなるのはどういう状況なのだろうか?
まず思い付くのは皆既月食だ。皆既月食とは、地球が太陽と月の間に入り、地球から見える月面が、地球によって太陽が完全に隠された部分に入る現象を言う。この時、太陽光のうち青い光は散乱してしまうため、赤い光のみが届き、月が赤く見えるそうだ。この状況を踏まえると、月(ケロイド)と太陽(原爆)の間に地球が存在している。地球は我々の存在する地点であり、この劇で言えば原水爆禁止大会の「見物人」を指しているのではないか。被爆の当事者ではない見物人(我々)は、月(被害者)を見るとき、後ろにある太陽(加害者)のことも意識しなければならない。逆もまた同様である。その存在を忘れそうになったとき、小さな男が一生懸命に赤い月の存在を知らせにやってくるのだろう。
この劇が上演された2024年は、奇しくも日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞した。その一方で、経済産業省は12月17日、新たな「エネルギー基本計画」の原案を公表し、原発を「最大限活用する」方針を明記した。経済を活性化させるため、やむを得ない面もあるが、東日本大震災の直後では考えられなかった判断だろう。原発事故の当事者ではなかったとしても、月と太陽の存在を忘れてはならない。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■優秀賞■【象】小迫茉凜さん

カテゴリー: 未分類

観られたい、見られたくない、その葛藤のはざまで
「放っておいていただきたいのです。そうして、むしろこの世に私が居る、ということなど忘れていただきたいのです。」
『象』の冒頭で男はそう語る。けれど、その男が立っているのは舞台の上である。この劇場の観客たちはじっと彼のことを見つめ、その言葉通りに忘れようとなんて思わない。見てほしくないのだと語る彼は、最初からそんな矛盾のもとにある。
それに対し、病人は頑なに「あの街」へ戻りたがり、またケロイドを見せ、誰かに殺され、そして皆にそれを悔やまれることを望み続けている。特別でありたいと望む彼は舞台の上へ姿を現し、じっと私たちの方を見つめ横たわっている。拍手を求める彼を私たちは静かに見つめ続ける。彼が覗き込むなと言うその眼をじっと覗き込み、観られたがる彼の内の苦しみを読み取ろうとする。彼もまた、私たちをそんな矛盾の中へ誘い込む。

この作品は、2024年9月に富山県南砺市利賀村においても上演されている。SCOT Summer Seasonの課題作として利賀村の創造交流館において上演された同作では、観客と役者の距離は静岡芸術劇場での上演よりも近かった。観客の座席の位置は役者以上に大きく高くなることはなく、観客はいわば人の視座をもって作品と直面することになった。
しかし静岡芸術劇場での上演では、舞台の広い奥行きや観客席の多さから、後方に行けば行くほど役者との距離は遠くなり、彼らを見下ろすような形になる。いわば、舞台上部に煌々と輝く月の視座に近づくのだ。私は今回の装置の変化によって、自分が劇中の人々を「見ている」という実感を強く持った。
見られたがらない男も、観られたがる病人も、ともに同じ人間であり、私はそれを等しく見つめていた。二人はそれぞれ相反する欲望を抱えているように見えたが、今こうして思い返してみると、むしろ二人は同じ呪いにかかっていたのかもしれない。それは「被爆者」というレッテルだ。
男は自分が「被爆者」であるために特別扱いをされることを嫌悪していた。何でもない普通の人とおなじようにありたがっていたのだと思う。冒頭から自分は健康であると主張し続けていた彼は終盤でいよいよ入院に至る。
この彼の台詞の中で特に印象的なのは、病人のケロイドに触れたがった女の子をめぐるエピソードだ。男は一度、女の子は生きていると病人に話す。しかし入院した後で、「あれはウソだったんです」と病人に打ち明ける。彼の言葉を信じるのであれば、被爆者という自己からも女の子の死からも目を背けてきた彼がそれを認めるに至ったという物語を受け取ることができる。しかし彼はその先において、「ジタバタするのはやめましょう」と話し、病院の中で死んだように過ごすことを受け入れる。彼のこの姿は、ようやく見つめた被爆者としての自己に対する諦めのようにも思われる。
それに対して病人は原水爆禁止大会の際のエピソードを持ち出し、見物人たちが彼の眼を覗き込もうとするのだと語る。彼が話す滑稽な話もひょうきんな踊りも笑いの対象とはなり得ず、彼はただその眼を覗き込まれる。それは男がそうであるのと同じように、彼もまた「被爆者」として見つめられていることの証だろう。
しかし病人が男と異なるのは、諦めに至らなかったということだ。彼はあの街へ戻り、ケロイドを観せることを望みもがき続ける。諦めを抱えた男は、そんな姿を見ていられなくなって彼を止めようとする。二人が取っ組み合う終盤のシーンには、諦めきれないという思い、諦めたくないという思い──観られたい、見られたくない、そんな葛藤が表れているように思える。
病人はその瞬間に命を落とす。しかし男は、リヤカーに乗った男の死体を見送り、あの街への近道を叫ぶ。呪われた身体から解放された彼があの街に辿り着くことを願う姿は、諦めたはずの望みを彼に託しているように見える。男は本当に諦めていたのだろうか。否、むしろ諦めざるを得なかったのかもしれない。
観られたい、見られたくない、そんな相反する思いが舞台の上でぶつかり合うことにより、私たち観客も矛盾の中で苦しむことになる。私たちは「放っておいていただきたいのです」と語る男から目をそらすことができない。ケロイドを披露する病人の眼を覗き込んでしまう。しかしその矛盾こそが、私たちの胸に彼らの苦しみを焼き付ける。
この作品を安易に過去の遺産、あるいは作り話とすることはできないだろう。不条理演劇だからこそ際立てられた反戦のメッセージは、戦争の蔓延する現代に強く響き渡っている。

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■入選■【メナム河の日本人】河村恵理さん

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「メナム河の日本人」を観て
この舞台の始め、川にもがきながら(少なくともそう私には写った)沈んでいく山田長政というシーンがあったために、何かの理由で彼は道半ばにして、亡くなっていったのであろうということが一瞬で想像できた。そして、どのような経緯で川に沈むことになったのか(実際の死因ではないが)ということが、進んでいく物語で明らかになっていく。ところで臨床心理学(私が専門にしているところ)では、「川」の表現(例えば描いていただく描画)の中に、相手の無意識の動きや流れをこちら(心理士)が理解するのにも使われている。これは、無意識の動きが「川」という表現で意識的に現れると見立てられているのである。であるから、この演劇のタイトルが「〇〇河」となっていることことから、その川が実際にあったか、なかったとかそういうことよりも、そして内容は日本人、駿府出身の山田長政という人をフォーカスしてさえいても、実は人間にまつわる無意識の流れのようなものが表現されているのではないかとも期待していた。そして私はこの最初のシーンから、いかに人は無意識に飲み込まれるのであろうか、ということを表現する舞台でもあるのではないかと感じた。これを常日頃のくせで読み取り、このことについて書いてみようと思う。
劇中には、長政の他、道半ばで人生が終わっていく人たちがよく出てくる。王になれなかった王の弟、息子を王にしたかった王宮の母親、クンサワット侍従長の愛を勝ちとりたかった侍女、異国の地に自国を作りたがった長政、布教しようとして殉教したペトロ岐部、自国を作るということに賛同し、焼き討ちにあった日本人町の人たちなどである。その中でも、王の弟や、幼い王子は、人の形をした人形であったために、自らの意思はなく、操り人形であったことが表されている。であるから、この二人は別にすることにして、他の方達は、自分の理想を追い求めた末に、その生を早めてしまったのではないかと考えられた。物事は不完全であるからこそ、完全にさせたいという気持ちはよくわかる。例えば、プラモデルやブロック遊びをしていて、それらを完成させたいと思うことは、よくわかる。そして、未完なものを抱えるということは何かがいつも頭に残っていて何かすっきりとした感じや、やりきった感じがしない、というものもわかる。不完全を完全にしたいということは人間の性であるかもしれない。しかし、ここで作られているのは、プラモデルやブロックではなく、「国つくり」という多大な人々が関わり、それらの人生を抱えていくということである。「つくる」といってもそこには、見えない関係性や権力といったものが渦を巻き、全体や歴史的結果も見えにくいという大掛かりな「つくり」の場である。そのような場で、各々は自らの理想を完全にすることを求め、そして行動し(行動力があることは良いこととして捉えられることもあるが)、何か踏み込んではならない禁足地、倫理的な境へも立ち入ったそんなことではなかったかと考える。行動の原動力というものは、大なり小なり自らの感情が動くところである。そして持続性があり、強い信念に伴う行動とも思えるようなものの背景には、単なる感情ではなく、情動という比較的強い原始的な情がその根底に横たわっている。それらに伴われて、実は知らぬうちに人間はある行動へとつき動かされている。その自らを突き動かす情動とはなんであるか、認識することは重要である。なぜなら、これを認識することで、自分の状態がわかり、他者と自分との境界を知ることにもなるからだ。長政は自らの情動について省みることをあまりしなかったように思える。それで自分と他人との境界がわからなくなっていったのであろう。アユタヤ王朝という他国に自国をつくろうとしたということにもそれは表されている。それでも、長政を突き動かしたその情動とは何であったのか。それは正月に日本の酒を用意する姿、ペトロ岐部が日本に帰るという時に揺り動かされた長政の姿に現れていると思われる。それは母国への憧れである。しかしかの地では駕籠かきとしてしか認められなかった。この不完全な自分を完全に高めたく、これを別の土地で現実しようとしたのだ。しかしそれは、他の人が大事にする禁足地にも触れることになっていった。そのために、長政の死を早めることにもなったのだと思われる。劇中では、自己の不完全さを抱えていたのは、モレホンやスリヨタイ姫ではなかったか。モレホンは己の不完全さに苦しみ、完全であることの神父をやめた。スリヨタイ姫は口がきけないという身体的な不完全さをもつ。この不完全さは、観者から見ていて、そのもどかしさには堪え難いと思われたが、自身を短命からは守るということはしたように思える。
劇中には「仮面と本心」「事実と真実」「義と利」「法と情」「眼に見えるものと見えないもの」といった2つの対立物についてのセリフが飛び交っていた。セリフ、つまり意識上に明確に示されなくとも、私はこの舞台の根底に流れるものとして「完全と不完全」ということをあげたい。バベルの塔が崩れ去らないように、イカロスが落下しないように、あるいは無意識の川に飲み込まれず、沈まぬように、不完全さを保っていくこと、この教訓がこの舞台からじわじわと流れていると感じられた。