劇評講座

2010年7月22日

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)

カテゴリー: 彼方へ 海の讃歌

■準入選■

孤独な“観客”  ――「彼方へ 海の讃歌」を観劇して

渡辺美帆子

あんな拍手の音を聞いたのははじめてだった。たった一人の俳優、ジャン=カンタン・シャトランは観客の鳴り止まぬ拍手に応え、何度も舞台上に呼び戻され、まっすぐ正面を見つめた。

演劇を観ているとき、人は孤独だ。劇場が笑いに満ちても、涙に満ちても、一体になることはない。客席に座る一人一人は別々のことを感じ、別々の人生を参照している。しかし、今までに「彼方へ 海の讃歌」を観たときほど、その孤独さを強く感じたことはなかった。それは舞台に立つたった一人の男、その男自身もまた、孤独な“観客”だからであろう。

舞台はうす暗く、俳優の姿は闇の中で浮かび上がるようだ。俳優はただ正面を見つめている。そこから一歩も動かずに正面を見つめている。

俳優が見ているのは海だ。詩人が見つめている海だ。詩人は海の感覚に飲み込まれ、そこを行きかう船や船乗り、船乗りに略奪され凌辱された女に思いを馳せる。詩人はその全てになりたいと願う。しかし、詩人はただ波止場に立つことしかできない。海やそこにいる人々の血になりたいと願う。しかし、詩人はそうなることはできない。「ああどうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!」。そこにあるものがたとえ残忍さであったとしても、それを感じたい。いやむしろ「血なまぐさく、凶暴で、嫌悪され、恐れられ、崇められる」ものがいい。「海の生活の陰鬱でサディスティックな情欲が俺からほとばしる」。詩人はサディステッィクに、マゾヒスティックに叫ぶ。ときに言葉になる前の摩擦音で、ときに大声で、ときに絞り出すような声で、震える唇で、それを叫ぶ。俳優は動かない。しかし、その息遣いや表情で痛いほどの感情が伝わってくる。私は仏語がわからないが、だからこそむしろその音やリズムが彼の切望を伝えてくる。

「切望でいっぱいのおれの人生の窮屈さ」と詩人は自らの状態を語る。彼の目線の先には世界がある。しかし、彼はそれを見つめることしかできない。海に、船に、人々に、同化することはできない。ただ正面を見つめ、そこに入っていかれない自分の体を思うことしかできない。俳優は一歩も動かないことで、どんどん存在感を増していく。時間が経過することがとても効果的に使われている。俳優のゆっくりした喋り方も、観客の時間感覚を日常から引き離す。俳優が舞台上で一人きり、届かない世界を思うにつれ、観客も自分が一人きりであることに自覚的になっていく。

観るということは窮屈なことだ。どんなに感情が動かされても、そこに参加することはできないし、影響を与えることはできない。客席の最前列に座ると、芝居の途中に舞台上に侵入したいという気持ちになることがある。小劇場の客席最前列と、舞台の上に物理的な距離はほとんどない。しかし、観客は舞台上に入ってはいけない。まれにそれが許されるのは、演出が観客を舞台の上に連れてこいと命じたときのみである。観客が無断で舞台に上がってしまうと、芝居は止まってしまう。観客は舞台上で起こる様々なドラマを見つめる。しかし、観客は客席という狭い場所から動くことは許されていない。観客は舞台から隔てられているのだ。どんなに感動したところで、観客が見ているものは、観客の頭の中の妄想にすぎない。一人一人の頭の中の世界は決して誰とも共有されることはない。詩人が自らの体の窮屈さを嘆くのと同様、観客も自らが一人きりで、誰とも同化され得ない存在であることを理解している。

「彼方 海の讃歌」は鏡のような作品だ。そこには他者がいない。対話も事件もない。詩人が語る他者、対話、事件は、詩人の言葉の中にしかいない。それらは詩人の頭の中で激しく描写されるが、現実にはどこにも存在しない。そしてそれを詩人自身が深く自覚している。それはこの作品が一人芝居であることや、モノローグであることにも由来するが、それだけではなく、詩人の世界観にも由来する。レジは詩人について、パンフレットに「フェルナンド・ペソアの人生には、旅も性生活も、実際には起こらなかった。だが精神のなかで彼は大波に乗り、性の境界を自由に行き来しながら、サド・マゾヒズムの限界を超越した」と書いている。実際の現実にくらべ、精神はなんと自由なことだろう。観客の精神もまた自由だ。

本作品は観客の想像力を広げさす。俳優の動きはなく、照明は薄暗く、音響も最小限しか用いられていない。観客の集中力を保とうとする為の仕掛けは全く行われていない。しかし、観客の集中力を保とうとする為の演出は、観客をアジテートし、観客の想像力を奪うことにも繋がる。本作品で、観客の想像力は自由に広がっていく。しかし、観客は自分の集中力が切れることと戦わなくてはいけない。例えばお腹が鳴ったり、隣の人がもぞもぞ動いたり、色々な現実が集中力を途切れさそうとする。その葛藤は、詩人の葛藤と同じ葛藤である。想像力は自由だが、現実はそれを妨げようとする。観客の中で起こった想像力の自由さと、現実がそれを妨げようとする葛藤は、詩人の言葉の葛藤そのものだ。

カーテンコールで他の観客の拍手を聞いて、私はとても安心したような気持ちになった。2時間の孤独な観劇を終え、現実の他者である他の観客の存在が、やっと傍に帰ってきてくれたように思えた。そして、他の観客も私同様に本作品を称えていることが奇妙に素晴らしいことに思えたのだった。

『4.48』(スン・シャンチー振付)

カテゴリー: 4.48

■準入選■

あの時何を思って生きていただろう・・・・

杉山早也佳

彼らの演技・演出の合間、合間そんなことを思った。
(6/6)4・48という作品に私は出会った。作品内容も、タイトルも知ることなく・・・
彼ら(カンパニー・シャンチー・ムーブ)のオープニング(プロローグ?)を観て、ああ、そこは私の居た場所だ、もう帰りたくない場所だ。それと同時に綺麗だと思った。
“美しい”とは違う、漢字のままの“綺麗”という表現が適切に感じた。
そして私の今までの人生、いや正確には人生の半分は綺麗だったのではないか?と自分に問う事ができた。
(今私、だったと過去形を使った??)そう4・48は私の人生の半分だった。

作品中の描写(絵画・音・起こり来る衝動)は精神を侵すそのものであり連想する空想・妄想・ビジョンは、まさしく頭の中の映像そのものである。サラ・ケインの残したものからも得たのだろうが、そう感じられたのはスン・シャンチー氏の表現力の素晴らしさ、そしてカンパニーの表現力の凄さと感じた。

そんな事がどうして言えるのか、わたしはこの歳までの半分、人生の半分をサラと同じような感覚・感情で生きていたから。生きていたなどおこがましく流れていたに近い。
精神科医はまとめて私たちのことを鬱と呼んでいる。しかしその中身は幅広い。
しかし、この作品を観て感じ、過去形を使ったことによって今私の人生は大きく動いた。
・・・ 私は、汚く・暗く・いやらしい世界に身を投じている・・・であったのが、その先を、観て見たいと思えた。その先を彼らに演じて見せて欲しいと・・・。
私はこの作品に出会い、私の観念であった汚く・暗く・いやらしい世界を綺麗だと思えたのである。
感謝の気持ちでいっぱいになった。心からありがとうと申し上げたい。
サラ・ケインは28歳でこの世を去ったと資料でわかる。この歳で亡くなり、作品を表現される事があるからこそ、彼女の死の意味や、あり方を考えなくてはと思った。
私が偶然にも彼女と同じ28歳であること、同じ感情を抱いていたこと、今日この作品を感じられたこと。・・・きっと人生に偶然など無い。だからこれからの人生をどう生きることで、カンパニー・シャンチー・ムーブに感謝の意を伝えられるのか?
それは、わたしたち観る側・感じ、受け取る側としての傲慢な感情かもしれない。
人の心は絶対に理解できることなんてない。しかし知りたいし知ってもらいたい!
人間は、そんなわがままな感情を持つ生き物である。100%作品を理解するなんてありえないが今日、私が作品を感じ心からカンパニーに“ありがとう”と思ったのは事実である。
そして、サラ・ケインにもスン・シャンチー氏の心をかきたててくれてありがとうと・・・

サラが今何を感じているのか?空の彼方から彼女も綺麗と思ったのならば、わたしたちは救われる。

『王女メデイア』(宮城聰台本・演出、エウリピデス原作)

カテゴリー: 王女メデイア

■入選■

丹治佳代

暗くなりゆく有度の森を背景にし、細かい雨と異界から漂ってくるような霧に包まれ、6月26日上演の『王女メデイア』は野外公演ならではの非常に美しい舞台となった。宮城聰演出の『王女メデイア』は、明治時代の日本において、法律家の男たちによって催された宴席での余興として、つまり劇中劇として演じられる。男たちは登場人物の台詞を語り、朝鮮から連れてこられたと思われる女たちが、生きた人形として舞台上で無言のまま動き回る。

この『王女メデイア』は、ク・ナウカ活動時から宮城聰の代表作と言われ、インターネット上でも過去の上演について多くの劇評を読むことができる。そこで、本劇評においては、ロゴスと非ロゴス的なものとの対立、そして後者による前者への復讐…といった点は他の劇評に任せることにして、(他の劇評ではあまり論じられていないと思われる)本作品における「破滅と再生」という点に論を絞り、評を進めていきたい。

破滅と再生というのは、ギリシア悲劇を考える上で外すことのできないキーワードである。主人公オイディプスが、人間としての視力(=ものごとの仮象の姿しか見ることができない)を捨てることで神的な視力(=真理を見る力)を得ようとする姿を描いた『オイディプス王』など、ギリシア悲劇作品は、「現在のあり方としての破滅と、さらに高い次元の存在への再生」というテーマを含んだものが多い。エウリピデスの『王女メデイア』も例外でなく、子殺しを終えたメデイアが竜車に乗って上空へと去っていくというラストシーンにおいて、彼女が人間を超える存在となっていくことが示されている。

では、メデイアの再生を端的にあらわすこのシーンを完全にカットした宮城版『王女メデイア』において、「再生」は、そして再生の前提となる「破滅」は、一体どのように表されているだろうか?

まず、「再生」の前段階となる「破滅」について。私は、宮城版『メデイア』を観るまで、メデイアの破滅というのは子殺しを行なってしまうことだと思っていた。が、宮城演出により次のことに気づかされる。メデイアの破滅というのは劇が始まる前に生起しており、メデイアはすでに破滅を引き受けながら生きているのだ、と。つまり、メデイアにとっての破滅とは、劇の前から前提としてあること―「女であること」そして「(ギリシアにおいて)異国人であること」だ。このことを気づかせるのは、上演前の光景―観客が客席に案内される間ずっと、舞台上では女たちが頭に紙袋を被せられ、手には自分の写真を持ち、微動だにせず静止している―だ。この一見異様な光景は、主体性を奪われた女たちが、自らの遺影を手にし、静かに自らの弔いを行なっている様子を物語っているのではないか。つまり女たちは、上演が始まる前にすでに、自分自身を弔ってしまっているのだ。ここで弔われているのは、強固な男性原理・家父長制度のもとで女として生きる存在、また帝国主義のもと異国人として生きる存在だ。舞台上にあらわれる男たちの騒々しさに比べ、彼女たちの静かさは、その内に強靭な力を秘めているように思われる。

劇中劇としての『王女メデイア』はほぼ原作どおりに進められてゆくが、上演前に早々と自らの弔いを決行してしまった女たちにより、男たち―支配の側にある存在―の世界が徐々に侵食されてゆき、ついにラストシーンで、今までの力関係が一転する。語り手の支配下におかれた人形であった女たちが男たちに次々と襲いかかり、躊躇うことなく彼らを殺していくのだ。鈴を持ち、赤いスリップドレス姿になった美加理のたっぷりとした豊かな肉体が圧倒的に美しく、原始的で力強い母性を感じさせる。この「女たちによる男たちの殺害」というラストシーンこそ、竜車に乗って去っていくメデイア像の代わりに、宮城聰が本作品に与えた「再生」のシーンである。女たちに殺された男たちは床の上で丸くなるが、その姿は母親の胎内で誕生の日を待つ胎児のようだ。女たちは、男たちに復讐を行なったのではなく、再生させるため、新しく生きさせるために、彼らを殺したのだ。つまり本作品においては、すでに破滅を引き受けた存在がその手で、これから滅びることになる者たちに、再生の契機を与えている、と言えよう(男たちの行く末は、床に敷かれた日の丸―書物の差し込まれたオブジェが突き刺さり、血を流しているかのようだ―によって暗示されている)。こうして宮城版『王女メデイア』は私たちに、「今あるあり方から脱し、新しく生きるためには、まず一度滅びねばならない」というメッセージを投げかけ、幕を閉じる。

また、本作品における「破滅と再生」を語る上で欠かすことができないのは、襤褸をまとい最初から最後まで舞台脇に座り込む乳母の存在である。彼女は、二千年以上『王女メデイア』を観続けてきた観客であり、現在本作品を観ている私たちであり、これからも『王女メデイア』を観続けていく存在だ。終幕時、イアソン役の男性にそっと上着をかける乳母の姿は、「私たち人間は、時代を問わず洋の東西を問わず、エウリピデスの生きた時代のずっと前から今に至るまで、常に再生を求め続けているのだ」ということを強烈に語っていた。
宮城版『王女メデイア』については、その演出において「男性と女性」「ロゴスとパトス」などといったわかりやすい説明図式を用いたことで、劇として幾分単純なものとなった、と論じられることもあるようだ。しかし本作品は、女たちによる男たちの殺害という強い劇的カタルシスの後に、人類が絶え間なく抱き続けてきた再生への切実な希求―それは絶望でも希望でもあるのだろう―を感じさせるという、非常に複雑で深い余韻を残すものであり、単純などといった言葉からは遠くかけ離れた作品であると言えるだろう。
(6月26日観劇)

『セキュリティー・オブ・ロンドン〜監視カメラの王国〜』(アントニー・シュラブサル演出、ゼナ・エドワーズ作・出演)

■入選■

「セキュリティー・オブ・ロンドン」~安全神話の崩壊の後で

柴田隆子

ロンドンの監視カメラの多さは有名である。監視カメラはプライバシーの観点から問題視されてきたが、昨今の犯罪増加と凶悪化を受けて、必要悪としての存在から安心のツールへと変化しつつある。しかしロンドンの犯罪認知件数はいまだ日本の倍以上あり、監視カメラに代表されるセキュリティー・システムでは全てを網羅することは不可能であり、高いコストに見合う安全性を保証しえないことは明らかだ。この作品はその現実を踏まえて、本当の「セキュリティ」とは何かを考えようというものだったといえる。

物語は短いショットでつながっているものの、監視カメラの映像を見たことのない筆者には、その「目線」なるものは意識できなかった。その代わりに見えてきたのは、「どこにでもいる」異なった価値観をもつ人たちのユートピア的つながりである。ゼナ・エドワーズが一人で老若男女4役を演じ分ける登場人物は、47歳パレスチナ出身の男性、16歳アフリカ系カリブ人の双子、82歳の戦争帰還兵の男性の4人である。世代の違いだけでも大きく感じられる日本にいると、人種や民族の違いからくる文化の違いは途方もなく大きなものに思われるが、登場人物たちはその隔たりを軽々と乗り越え、目の前にいるはずの人間とつながっていくように見える。むしろ物語で双子の兄の命を奪うのは、視覚情報のみで彼をその父親と間違えることができた見知らぬ者たちという設定になっている。ここで提示されているのは絶対的な他者と、知合うことのできる他者という二つの「他者」である。凡庸な見方ではあるが、絶対的な他者への防御の身振りとして、理解可能な他者とのつながりが示されているといえよう。

「他者」と「セキュリティ」の問題の一方で、この上演で目をひいたのは俳優の身体である。彼女はまるで透明な衣服を着るかのように、瞬時にペルソナを身に纏う。素顔のまま、だぼだぼしたスウェットスーツを着替えることなく、性別や年齢の異なる人物に変身する。それを可能にしているのはもちろん彼女がもつ表現能力の高さであるが、そもそも人種や民族、年齢やジェンダーといった階級秩序は、表現されたものの差異に依拠した存在なのである。腰のまがった歩き方や爪のおしゃれに気をつかう身振り、写真を見てナルシスティックに喜ぶ表情など、細かな身体所作に示された登場人物の個体性は、ロンドンとは異なる文化的背景をもつ日本の観客にとっても識別可能である。ロンドンに住んでいる住民など想像しがたいにもかかわらず、目の前で演じられている人物たちがあたかもそう振舞うだろうことを知っているかのように見えてしまうのは、我々の意識にある種の刷り込みがなされており、それがコードとなって一人の俳優の身体を、複数の登場人物にしているのである。これは衣装やメイク、あるいは仮面をつけて他の人物になりきる演技表現とは異なるものである。

さらにそれを特徴付けたのは、彼女の使い分ける声音と音楽、特に音楽がもつリズムである。残念ながら筆者が見た回はゼナの声は枯れていて絶好調とはいえなかったが、彼女の身体から発せられる音声、リズムにこの上演の成否がかかっていたといっていい。出身や所属する文化圏を示すのに彼女の歌う音楽が用いられる、それはブルースであったりラップであったり、詳しい出自はわからなくてもある文化領域を想起させる。ひょっとしたらこの想起されたイメージは、作者であり演者でもあるゼナの意図するところと違っていたのかもしれない。だが、話す声音の高低の差を感じ取るように、それほどよく耳にするわけではない音楽に対して、そのリズムや雰囲気の差を感じ取り、意味づけがなされたのである。

この公演に、「世代や出自の異なる見知らぬ他人同士だって、つながれることはあるよね」といったユートピア的な信頼の提言だけをみるわけにはいかない。そうした考え方は個人的には決して嫌いではないが、むしろここで示されているのは、世界大戦やパレスチナで多くの人が殺された後でも、あいかわらず人が人を殺すという事態が続いていて、監視カメラ王国と呼ばれるロンドンであっても、システムではそうした「犯罪」は抑止しきれないという前提である。その上で、人と人がつながることがどういう意味かを観客自身が考えなくてはいけないのだろう。殺された少年は父親と間違えられたわけだが、ゼナの早変わりを楽しむ我々の目はそうした誤解と無縁だろうか。舞台芸術を楽しむためにも、混沌とした現実を生き抜くためにも、ある種のカテゴリー化とそれを見分けるスキルが必要ではあるが、そのコードに無自覚になっていないだろうか。あまりにも見事に4人の登場人物を瞬時に演じ分ける俳優の姿に、物語が提示する内容よりもイメージの作り出す力の大きさと怖さを感じた。そう考えると、「セキュリティ」とはそうしたイメージの力を意識しつつ、「他者」とつながる可能性を求めることなのかもしれない。

『彼方へ 海の讃歌』(クロード・レジ演出、フェルナンド・ペソア作)、『若き俳優への手紙』(宮城聰演出、オリヴィエ・ピィ作、平田オリザ日本語台本)

■入選■
「孤独な」言葉と観客
ー「彼方へ 海の讃歌」(クロード・レジ演出)、「若き俳優への手紙」(宮城聰演出)
(2010年6月12日静岡芸術劇場と舞台芸術公園楕円堂にて観劇)

坂原眞里

クロード・レジの舞台は暗い、とどこかで読んだことがあった。初めて観るその舞台は、暗い、確かに暗い。闇の中に、楕円堂の円蓋と梁が、そして舞台中央の演台の四隅に立つポールが暗灰紫色に浮かび上がる。どこか崇高な空間に身を置いているようでもあり、あるいは濃く滞る靄の中、埠頭とその後方のドームから成る夜明け前の光景を眺めているようでもある。

やがて、ただ一人の出演者ジャン=カンタン・シャトランが「埠頭に」立つ。そして、2時間余、両腕を大きく頭上に上げ脇に降ろす動き(その動線に電光が走り、劇場の闇を神話的次元へと引き上げる)と、頭をそらせるなどのわずかな動作を除いて、その場に同じ姿勢で立ち尽くす。大半は闇の中である。大柄とはわかるが、重く厚みのある体躯も穏やかな顔立ちも、上演が終わるまでその全容が観客の目に入ることはない。彼の背後上方に日本語字幕が出るが、それも私にはかすんで読めない。配られていた原詩の日本語訳を開演前に斜め読みしておいたので、その記憶に助けられつつ、幸い難解ではなかったフランス語を時に目を閉じて聞き入った。

一人の男が埠頭に立って港を眺める。船の出入りが、旅への渇望を激しく掻き立てる。かつて船乗りたちが放恣の眼差しを注いだ場所を経巡りたい、海賊の蛮行をも味わってみたい…リスボンの孤独な勤め人だったらしい作者のペソアにも、フランスのロートレアモン伯爵やアルチュール・ランボーのような文学上の心の兄たちがいたのではなかったか。しかし、やがて直截な暴虐性を増すペソアの言葉は、「年古りたる大わだつみ」の威容それ自体に向けられるマルドロールの敬礼とも、読者を「非情の大河」くだりに連れ出すスウィングとも大きく異なっている。クロード・レジによる声の演出に関して言うなら、それは明らかに、フランスの演劇人アントナン・アルトー後の、声もまた舞台芸術表現における物理的要素ととらえ、その身体性を重視する流れに属しているが、ここでもまた、「海の讃歌」の声の演技は、アルトーが晩年に行った録音の声とは大きく異なる。聴く者に空間の変容さえ感じさせるアルトーの変幻する声(「神の裁きにけりをつけるため」)は、猥雑なイメージを含む悪夢をたわませ、反転させ、人間の解放を希求する。これに対して、レジが行ったのは、リバイアサンが呻き、嘆き、のたうち回るかのようなペソアの言葉を、つまり、近代文明も穏やかな幼年時代も馴致しえない人間性の闇のマグマを、ファドに憑依させたフランス語で擬態することであった。

「埠頭」の男は、歯間から絞り出すように息を吐く。身体の内奥の闇、肉の壁をこすり上げて噴出する声、叫びとなって突き出す顎。体液のように温かく、泥のように重い、荒れ狂う声。男の影は時に巨大な岩塊、時に後足で立ち上がり咆哮する獣にも見える。また時に、多数の身体が多数の声に乗ってうなるようにも思える。神話的位相が縮んで、生身の男の影が現れ、聴く者を怯えさせる鬱屈とした呻きを漏らすことがある。そんなとき、私は、頭の片隅に昔LPレコードで聴いた清明なフランス語の「酔いどれ船」を甦らせ、笑いの炸裂をも生むアルトーの異言に逃げ込もうとした。

つまり、レジの企てが人間性の負のマグマを現出させ、観客をしてそのおぞましさ、哀しさに立ち会わせることであったとしたら、それは完璧な成功だったのだ。そして、「海の讃歌」が、周到な演出と信じがたい強度を保つ声のパフォーマンスによって、驚嘆すべき希有な作品となっていたことは確かである。

オリヴィエ・ピィの「若き俳優への手紙」もまた、孤独な言葉の舞台であった。しかも、おそらく、人間性の負のマグマ以上に客席に届かせることの困難な、正しさを主張する言葉である。そのような言葉は、演じれば演じるほど胡散臭くなりかねない。それに、そもそも表題からして、一般観客は「手紙」の対象ではない。加えて、その主張は、「初めに、ことばがあった」キリスト教の、その「ことば」に奉仕すべき演劇の言葉の擁護である。それをいかにして日本の観客に届けるか、演出の宮城はこの困難を充分意識していたようだ。そして、能の形式を援用することで、ほぼ見事に難題をクリアした。公募による美術も演出の意図によく適っている。

橋がかりを思わせる朽ちかけた木橋のベンチに、長い白髪に異形の女が座っている。となると、たいていの日本人観客の場合、女の語るであろう言葉を聴く体勢にスイッチが入ってしまう。ここで、私たち観客はさながら諸国遍歴の僧となって、孤独な言葉に耳を傾けるのだ。

女が批判する演劇界の現状は戯画化されていて、彼女の訴えが粗雑に思えたり、「御ことば」の訳語で「手紙」の世界が一転狭くなるかの印象を受けたりするが、それはピィの原作の問題である。

ピィの企てと演出力は、静岡デビューの二作よりも、その翌年の三作の方によりよく現れていた。その内の一作「少女と悪魔と風車小屋」が、2011年春に宮城の演出で上演されるという。どうなるのか、今から楽しみだ。