■準入選■
孤独な“観客” ――「彼方へ 海の讃歌」を観劇して
渡辺美帆子
あんな拍手の音を聞いたのははじめてだった。たった一人の俳優、ジャン=カンタン・シャトランは観客の鳴り止まぬ拍手に応え、何度も舞台上に呼び戻され、まっすぐ正面を見つめた。
演劇を観ているとき、人は孤独だ。劇場が笑いに満ちても、涙に満ちても、一体になることはない。客席に座る一人一人は別々のことを感じ、別々の人生を参照している。しかし、今までに「彼方へ 海の讃歌」を観たときほど、その孤独さを強く感じたことはなかった。それは舞台に立つたった一人の男、その男自身もまた、孤独な“観客”だからであろう。
舞台はうす暗く、俳優の姿は闇の中で浮かび上がるようだ。俳優はただ正面を見つめている。そこから一歩も動かずに正面を見つめている。
俳優が見ているのは海だ。詩人が見つめている海だ。詩人は海の感覚に飲み込まれ、そこを行きかう船や船乗り、船乗りに略奪され凌辱された女に思いを馳せる。詩人はその全てになりたいと願う。しかし、詩人はただ波止場に立つことしかできない。海やそこにいる人々の血になりたいと願う。しかし、詩人はそうなることはできない。「ああどうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!」。そこにあるものがたとえ残忍さであったとしても、それを感じたい。いやむしろ「血なまぐさく、凶暴で、嫌悪され、恐れられ、崇められる」ものがいい。「海の生活の陰鬱でサディスティックな情欲が俺からほとばしる」。詩人はサディステッィクに、マゾヒスティックに叫ぶ。ときに言葉になる前の摩擦音で、ときに大声で、ときに絞り出すような声で、震える唇で、それを叫ぶ。俳優は動かない。しかし、その息遣いや表情で痛いほどの感情が伝わってくる。私は仏語がわからないが、だからこそむしろその音やリズムが彼の切望を伝えてくる。
「切望でいっぱいのおれの人生の窮屈さ」と詩人は自らの状態を語る。彼の目線の先には世界がある。しかし、彼はそれを見つめることしかできない。海に、船に、人々に、同化することはできない。ただ正面を見つめ、そこに入っていかれない自分の体を思うことしかできない。俳優は一歩も動かないことで、どんどん存在感を増していく。時間が経過することがとても効果的に使われている。俳優のゆっくりした喋り方も、観客の時間感覚を日常から引き離す。俳優が舞台上で一人きり、届かない世界を思うにつれ、観客も自分が一人きりであることに自覚的になっていく。
観るということは窮屈なことだ。どんなに感情が動かされても、そこに参加することはできないし、影響を与えることはできない。客席の最前列に座ると、芝居の途中に舞台上に侵入したいという気持ちになることがある。小劇場の客席最前列と、舞台の上に物理的な距離はほとんどない。しかし、観客は舞台上に入ってはいけない。まれにそれが許されるのは、演出が観客を舞台の上に連れてこいと命じたときのみである。観客が無断で舞台に上がってしまうと、芝居は止まってしまう。観客は舞台上で起こる様々なドラマを見つめる。しかし、観客は客席という狭い場所から動くことは許されていない。観客は舞台から隔てられているのだ。どんなに感動したところで、観客が見ているものは、観客の頭の中の妄想にすぎない。一人一人の頭の中の世界は決して誰とも共有されることはない。詩人が自らの体の窮屈さを嘆くのと同様、観客も自らが一人きりで、誰とも同化され得ない存在であることを理解している。
「彼方 海の讃歌」は鏡のような作品だ。そこには他者がいない。対話も事件もない。詩人が語る他者、対話、事件は、詩人の言葉の中にしかいない。それらは詩人の頭の中で激しく描写されるが、現実にはどこにも存在しない。そしてそれを詩人自身が深く自覚している。それはこの作品が一人芝居であることや、モノローグであることにも由来するが、それだけではなく、詩人の世界観にも由来する。レジは詩人について、パンフレットに「フェルナンド・ペソアの人生には、旅も性生活も、実際には起こらなかった。だが精神のなかで彼は大波に乗り、性の境界を自由に行き来しながら、サド・マゾヒズムの限界を超越した」と書いている。実際の現実にくらべ、精神はなんと自由なことだろう。観客の精神もまた自由だ。
本作品は観客の想像力を広げさす。俳優の動きはなく、照明は薄暗く、音響も最小限しか用いられていない。観客の集中力を保とうとする為の仕掛けは全く行われていない。しかし、観客の集中力を保とうとする為の演出は、観客をアジテートし、観客の想像力を奪うことにも繋がる。本作品で、観客の想像力は自由に広がっていく。しかし、観客は自分の集中力が切れることと戦わなくてはいけない。例えばお腹が鳴ったり、隣の人がもぞもぞ動いたり、色々な現実が集中力を途切れさそうとする。その葛藤は、詩人の葛藤と同じ葛藤である。想像力は自由だが、現実はそれを妨げようとする。観客の中で起こった想像力の自由さと、現実がそれを妨げようとする葛藤は、詩人の言葉の葛藤そのものだ。
カーテンコールで他の観客の拍手を聞いて、私はとても安心したような気持ちになった。2時間の孤独な観劇を終え、現実の他者である他の観客の存在が、やっと傍に帰ってきてくれたように思えた。そして、他の観客も私同様に本作品を称えていることが奇妙に素晴らしいことに思えたのだった。