劇評講座

2010年7月22日

『セキュリティー・オブ・ロンドン〜監視カメラの王国〜』(アントニー・シュラブサル演出、ゼナ・エドワーズ作・出演)

■入選■

「セキュリティー・オブ・ロンドン」~安全神話の崩壊の後で

柴田隆子

ロンドンの監視カメラの多さは有名である。監視カメラはプライバシーの観点から問題視されてきたが、昨今の犯罪増加と凶悪化を受けて、必要悪としての存在から安心のツールへと変化しつつある。しかしロンドンの犯罪認知件数はいまだ日本の倍以上あり、監視カメラに代表されるセキュリティー・システムでは全てを網羅することは不可能であり、高いコストに見合う安全性を保証しえないことは明らかだ。この作品はその現実を踏まえて、本当の「セキュリティ」とは何かを考えようというものだったといえる。

物語は短いショットでつながっているものの、監視カメラの映像を見たことのない筆者には、その「目線」なるものは意識できなかった。その代わりに見えてきたのは、「どこにでもいる」異なった価値観をもつ人たちのユートピア的つながりである。ゼナ・エドワーズが一人で老若男女4役を演じ分ける登場人物は、47歳パレスチナ出身の男性、16歳アフリカ系カリブ人の双子、82歳の戦争帰還兵の男性の4人である。世代の違いだけでも大きく感じられる日本にいると、人種や民族の違いからくる文化の違いは途方もなく大きなものに思われるが、登場人物たちはその隔たりを軽々と乗り越え、目の前にいるはずの人間とつながっていくように見える。むしろ物語で双子の兄の命を奪うのは、視覚情報のみで彼をその父親と間違えることができた見知らぬ者たちという設定になっている。ここで提示されているのは絶対的な他者と、知合うことのできる他者という二つの「他者」である。凡庸な見方ではあるが、絶対的な他者への防御の身振りとして、理解可能な他者とのつながりが示されているといえよう。

「他者」と「セキュリティ」の問題の一方で、この上演で目をひいたのは俳優の身体である。彼女はまるで透明な衣服を着るかのように、瞬時にペルソナを身に纏う。素顔のまま、だぼだぼしたスウェットスーツを着替えることなく、性別や年齢の異なる人物に変身する。それを可能にしているのはもちろん彼女がもつ表現能力の高さであるが、そもそも人種や民族、年齢やジェンダーといった階級秩序は、表現されたものの差異に依拠した存在なのである。腰のまがった歩き方や爪のおしゃれに気をつかう身振り、写真を見てナルシスティックに喜ぶ表情など、細かな身体所作に示された登場人物の個体性は、ロンドンとは異なる文化的背景をもつ日本の観客にとっても識別可能である。ロンドンに住んでいる住民など想像しがたいにもかかわらず、目の前で演じられている人物たちがあたかもそう振舞うだろうことを知っているかのように見えてしまうのは、我々の意識にある種の刷り込みがなされており、それがコードとなって一人の俳優の身体を、複数の登場人物にしているのである。これは衣装やメイク、あるいは仮面をつけて他の人物になりきる演技表現とは異なるものである。

さらにそれを特徴付けたのは、彼女の使い分ける声音と音楽、特に音楽がもつリズムである。残念ながら筆者が見た回はゼナの声は枯れていて絶好調とはいえなかったが、彼女の身体から発せられる音声、リズムにこの上演の成否がかかっていたといっていい。出身や所属する文化圏を示すのに彼女の歌う音楽が用いられる、それはブルースであったりラップであったり、詳しい出自はわからなくてもある文化領域を想起させる。ひょっとしたらこの想起されたイメージは、作者であり演者でもあるゼナの意図するところと違っていたのかもしれない。だが、話す声音の高低の差を感じ取るように、それほどよく耳にするわけではない音楽に対して、そのリズムや雰囲気の差を感じ取り、意味づけがなされたのである。

この公演に、「世代や出自の異なる見知らぬ他人同士だって、つながれることはあるよね」といったユートピア的な信頼の提言だけをみるわけにはいかない。そうした考え方は個人的には決して嫌いではないが、むしろここで示されているのは、世界大戦やパレスチナで多くの人が殺された後でも、あいかわらず人が人を殺すという事態が続いていて、監視カメラ王国と呼ばれるロンドンであっても、システムではそうした「犯罪」は抑止しきれないという前提である。その上で、人と人がつながることがどういう意味かを観客自身が考えなくてはいけないのだろう。殺された少年は父親と間違えられたわけだが、ゼナの早変わりを楽しむ我々の目はそうした誤解と無縁だろうか。舞台芸術を楽しむためにも、混沌とした現実を生き抜くためにも、ある種のカテゴリー化とそれを見分けるスキルが必要ではあるが、そのコードに無自覚になっていないだろうか。あまりにも見事に4人の登場人物を瞬時に演じ分ける俳優の姿に、物語が提示する内容よりもイメージの作り出す力の大きさと怖さを感じた。そう考えると、「セキュリティ」とはそうしたイメージの力を意識しつつ、「他者」とつながる可能性を求めることなのかもしれない。