大根、または絶対と相対の間(はざま)
=鈴木忠志演出「別冊谷崎潤一郎」論
柳生 正名
文豪谷崎が大正期に書き上げた戯曲「お國と五平」と小説「或る調書の一節」を二部構成で演出した本作。前段は武家の後家、お國が夫の仇を求めての旅の道中、という原作の設定だ。鈴木演出は、このテキスト自体を執筆中の作家役(蔦森皓祐)を舞台に配す。幕開け、今書き上げたト書きを自ら読み上げ、物語が秋の那須野原に始まることが示される。
もっとも観客の眼前に広がるのは、お國がその供の若党、五平と「痴人の愛」さながら暮らす密室の光景。このような視覚と聴覚情報の「ずれ」によって観客の内に生じるダブルイメージこそ、この演出の眼目となる。
そこに、追っ手を恐れ逃げ回っているはずの仇、友之丞が現れる。お國を慕う余り、彼はその夫を闇討ちにしたばかりか、出奔後のお國の後をずっとつけて来た、というのだ。そして、自分のごとき意気地なしには闇討ちやストーカー行為でしか思いを遂げる途はなく、忠義の衣の裏で不倫を働く五平らに自分を裁く権利はない、と被虐的(マゾヒスティック)な詭弁を展開する。その出で立ちは本来、世を忍ぶ虚無僧姿であるはずが、ダボシャツにアタッシュケースの押売り風。他人の家庭に上がり込み、次第に要求を増長させる不条理な闖入者さながらだ。
このシチュエーションは一九六六年、鈴木が初演の演出を手掛けた別役実作「マッチ売りの少女」とどこか重なる。戦後の混乱を脱し、高度成長期を迎えた当時、善良な市民が抱く本源的な恐怖の様相を不条理劇のスタイルで描いたこの作品。それと相通じる世界像を谷崎のテキストに感じ取ったことが、鈴木をして本作の演出に向かわせたのではないか。
他方、「(ビンラディン、米大統領ブッシュの)二人の立っている基盤は…殺人者友之丞と同伴者五平をまきこんだ報復者お國の論理的立場に似ていなくもない」と初演時に記した鈴木の意図は明白である。五平に弱者の論理をぶつける友之丞の姿が、ここでは超大国へのゲリラ攻撃を扇動するテロリストのアジ演説に重なる。
そもそも谷崎自身に、この戯曲で儒教的徳目と大正期の個人主義的価値観との相克を時代劇の姿を借りて描く、という意図があったろう。テキストが内包するこのダブルイメージ構造を拡張し、さらに戦後から現代に至る重層的な世界像まで重ねる作業を鈴木は行う。
かくして、時間、空間両面で複雑に積み上がった世界を舞台空間に破綻なく押し込むことは容易ではない。それを可能にしたのは、スズキ・メソッドで訓練された俳優陣の見せた、重層する時空を現在形で担いうる発声・身体性の確固さ、にほかならない。
今回、冒頭に続き、テキストと演出内容のズレが極大化する場面―友之丞の強弁の前に、ついには自らを卑怯者と認めた末、この仇を背後から刺す五平。それを目の当たりにしたお國は、作家役が読み上げるト書き「泣き崩れる」の指示に反し、腹底から笑いを搾り出すシーンがそれだ。死の直前、友之丞は五平に、かつて自分とお國が関係を持った事実を告げる。ト書きは、仇討ちは果たしながらも、秘めた過去を愛人に知られたお國の困惑と絶望を示す。しかし、舞台の高野綾(お國役)はその絶望すら地の底から響くがごとく深き声で笑い飛ばす。それによって、二人の男が演じてきた善/悪の相対性、重層化した世界のズレも突き抜け、その存在は「絶対的悪」にまで上り詰める。今や、自らを卑怯者と認めた五平は絶対者の高みに立つお國に対し、友之丞と同様、被虐的(マゾヒスティック)な愛を捧げるほかない。
なぜなら、二人の男はお國を通じ絶対的なものを垣間見てしまったからだ。絶対的悪は相対的な善/悪の対立を超越する点で、神と異なるところがない。このような絶対を覗き見た者の内に生じるドラマが後段「或る調書の一節」である。女性二人を殺した、その主人公に罪への後悔はない。ただ、日ごろ虐待している妻には自らの罪を打ち明け、妻が涙ながらに真人間に戻るよう諭す様に、宗教的法悦に似た感情を抱く。泣き濡れた妻の目の中に何かしら絶対的な存在の影を見、自分さえも相対的悪にすぎないと知ることが、男に自らの救いの可能性を直感させる。
加藤雅治は、持ち前の集中力で、この男が持つ、絶対的なるものへの思いの揺るぎなさを演じた。その確固たる身体が発する一気呵成の台詞は、悪人往生を説きつつ、自らの論に陶然とする宗教者の姿さえ彷彿とさせる。それに釣り込まれ、当初は尋問口調で検事の台詞を語っていた作家も次第に男の側に自らの心情を移す中、舞台は山場を迎える。
男の告白が一段と熱を帯び、作家が絶対的なものの「大いさ」に取り込まれんとする瞬間。唐突に(原作にない)百姓役が登場、手に持った大根と白菜のいずれを選ぶか尋ねる。我に返った作家は相対世界に自らを引き戻す。
考えるに、芸術家の在りようは絶対的なものと一体化することであってはならない。それは宗教家か思想家の役割だ。芸術家は友之丞や五平、殺人犯と同様、絶対的なものを垣間見つつ、あくまで相対世界―人間の実存の悲しさが悲しさとして留まり、また、重層的なズレを内包しつつ、解釈の多義性を免れない―この此岸に執すべき存在なのだろう。
先に鈴木演出「サド公爵夫人」を論じた際、舞台上に配された野菜と、ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」で登場人物がかじる大根との通底性を考えた。この「別冊谷崎」でも、大根が芸術家を芸術家としてつなぎとめる頸木(くびき)となる。そこに、自らの演劇体験の始原にまで遡り、相対の側にとどまろうとする、一芸術家の本願を見届けた―といっては、いささか牽強付会だろうか。(了)
=11月7日観劇