座る椅子無きあとのオフィーリアとデモクラシーの行方
~『大人と子供によるハムレットマシーン』劇評
高原幸子
「きのうわたしは自殺するのをやめました」。
悲劇の中断は歴史の中断に重なり、オフィーリアの心臓であった胸の時計は埋葬される。自己のほとんどを形成しているが自己を囚人にするマイホームを破壊し、自己自身も破壊する行為は、肉体の時を刻むことも止め、歴史から脱却する。
第二場「女のヨーロッパ」は、パイプ椅子と女たちそれぞれが格闘し、一人乱舞し、通過するハムレットと接することで、座るためだった椅子を倒し、失ってしまう。もしデモクラシーを発言があってもなくても、誰もがその場に座ることのできる椅子として喩えることができるのなら、自らその椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアに託された欲望と主体の布置と可能性は、「大人の責任」という主体性の裏側がうっすらと顕わになる契機ともなるだろう。
共産主義体制下の知識人の苦悩をシェイクスピアの「ハムレット」に重ね合わせ、「ハムレット」を欲望/戦争機械として脱劇化するハイナー・ミューラーのテクストは、大人と子供ならほぼ〈子供〉に属する市民参加の教育劇として生まれ変わっていた。だからこそテクストのメタファーの増殖として構成された劇というよりもむしろ、テクスト内在的な骨格を有する歴史的唯物論の立場としてこの劇を読むことができるだろう。
始まりは子どもたちの教室での資本主義と共産主義についての授業である。「今の日本をどのようにしたらよいのか」、と子どもたちなりにデモクラティックに考えてみる。自由で個性を尊重するが格差・不平等を生む資本主義と、平等だが自由は抑圧される共産主義体制。ほぼ多勢が資本主義に傾くなか、一人が平等の大切さを説き共産主義を唱え、一人はどちらにも傾けない苦悩を抱えたハムレットとなる。しかし第一場「家族のアルバム」において、教室での結論は覆され、ハムレットは権力者の息子として〈子ども窃盗団〉なるものに拉致され、資本主義は崩壊したと告げられる。
第四場「ブダのペスト グリーンランドをめぐる闘い」では、アメリカ合衆国初の有色人大統領オバマが〈子ども盗賊団〉に捕まる場面において、ミシェル・オバマやヒラリー・クリントン、シュワルツネッガーを匂わすターミネーターまでも登場してコミカルに描かれる。テロリストと名づけられる〈子ども窃盗団〉の要求は、ディズニーランドとハワイと核兵器である。日本にも同時並行的に流入されたアメリカ消費文化と、世界の防衛覇権を持つアメリカの要となる核が、皮肉にもポストキャピタリズムの象徴となっている。
一転した第三場「スケルツォ」はミニマムなコントラバスの響きと韓国打楽器が舞台上を打ちながら踊りまわるなか、前方隅の大きな木製の脚立装置でハムレットとオフィーリアが無言で交わしあう、魅入られる場面が繰り広げられる。歴史が中断され、男であることを降りるハムレットと自己破壊をして往来に出たオフィーリアは、もう近づこうにも近づけない距離を保ち、振り向いたり振り返ったり、柱の影に隠れたり、手を差し出したり、縦横無尽に舞台上を動き回る韓国打楽器奏者が刻む鼓動が静謐な情熱を高める。音の響きに表現の基底を委ねた、全体を通じて最も美しい演出である。
第五場「激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑を身にまとって/幾千年世紀」では、深海に一人車椅子に座るというオフィーリアのモノローグのテクストに続き、ホメロスの「オデュッセイア」における甘美な歌声によって船乗りたちを誘惑するセイレーンの逸話が視覚化される。マシーンとして機械化/機能化され、「啓蒙の主体」の道具となった船乗りたちは、欲望を抑圧し「主体性」の自己保存に加担するが、最後には生の終わりを迎える。職業的専門人(知識人)を暗示するこのような〈大人〉の主体性は、女・子どもが居るゆえに成立しているにもかかわらず、それらを巧妙に排除し、自己保存に至る。
既に座る椅子を放棄せざるを得ないオフィーリアと自らが〈主体性〉に至りきれないハムレットとのモノローグの往信のような詩的テクストは、「移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念」というヴァルター・ベンヤミンの進歩主義ではない過去の解放を表わすがごとく、2008年の現在に過去が一瞬のあいだ現れるかたちをとっている。やや難と思われる点を述べるとすると、子どももしくは市民という表現者たちと観客とが地続きであることが強調されるために、ポピュリズムに加担した喜劇的様相を呈したところだと思われる。しかしそれ自体が既にデモクラシーの闘争のなかにあるのかもしれない。
観覧日:12月14日(日)