劇評講座

2008年8月19日

『かもめ・・・プレイ』(エンリケ・ディアス演出、チェーホフ原作)

演じることができない、ついにはトレープレフさえも
西川泰功

俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける。
 これが『かもめ…プレイ』から得た私の演出上の認識である。この方法が舞台上で切実な効果、観客への力能を発揮するためにはトレープレフとトリゴーリン、ニーナとアルカージナというそれぞれ二方向に伸びた座標軸を思い浮かべなくてはならない。それはエンリケ・ディアスの言うように「時間」についての座標軸だ。若さと老いの座標軸だ。
 演出を分析する前に、戯曲上での若さと老いを区別することにする(以下の下線部分は演出に関わる)。というのも、それを前提にしないと、演出の意味するところが明らかにできないからである。
 若さの座標軸上の高度には、トレープレフのデカダン染みた劇中劇がある。それは彼の作家への憧憬と嫉妬を抱え、真っ裸のニーナを含み(そのことでニーナの女優への子供っぽい陶酔がトレープレフの作家への偏屈な憧れと重なる)、名誉を真摯に希求する。そこにはトレープレフとニーナの陽光に支えられたような若々しい恋愛関係の率直さも内包されている。あるいは新しい芸術への衝動も。
 他方、老いの座標軸には、アルカージナの若さへの執着、それでいて彼女は息子つまり若者の真情の告白たる演劇を理解しようとはしない、そのふてぶてしさ、そうした「大人っぽさ」に厚顔無恥にすがりつくことができる傍若無人な態度がある。だからアルカージナのような“大人”は自分の幼稚性に堂々と浸ることもできる。トリゴーリンがニーナに横恋慕を抱いたのを察すると我を忘れて彼の足首にまとわりついて離れない。あるいはトリゴーリンのつまみ食い的なニーナへの恋も“大人”の領分だ。彼の小説の構想通りにニーナを破滅に追い込む、そのことをはじめから予感していたからこそ魅惑的であったように彼は恋をするのだ。ソーリンの生への執着も“大人”であるからこそだ。
 そうしたソーリンの態度に真っ当にも死を突きつけるドクトルは“大人たち”の中で唯一トレープレフの劇中劇を認める。またマーシャはトレープレフへの恋心を胸に秘めて、その叶わぬ思いに葛藤しながら、喪服に身を包んでいる。ここで問題は死に関わる。トレープレフに同情するドクトルは“大人”ではないし(かといってもちろん若くない)、恋心に邁進できないマーシャは若くない(かといって“大人”ではない)。この二人は若さと老いの座標軸から離れたところにいる、死を自覚する者として。
 あの老いの座標軸上に居座っている“大人たち”は死を自覚できないのだ。どこまでも老いの座標軸が伸びて、生の続きを延長させる、と思い込んでいる、あるいは思い込まないと生きていられない。「思い込まないと生きていられない」、これが“大人”だ。思い込みに居直ってどっぷりとそこに浸かり反省を避ける。見たくないものは見ない。反対に、真摯な若者は何でも見ようとする。貪欲に生へ向かう。本来的に死とは無縁である(最終的にトレープレフが自殺するからといって、彼が死に憑かれていたとは限らない)。その偏狭な態度は“大人”には耐え難い。“大人”も若者も、凹凸という字の関係のように、いびつには違いない。
 若者と“大人”、それからそのどちらにもありうる死を自覚する者をそれぞれ示した。これで演出について書きはじめることができる。
 真摯な若さは真剣さを突き詰めた先で滑稽になる。だからそうした若さの演技が「遊び」に見えたとしても、それは遊びではない。「遊び」と見えるのは単に観客の遊びであって俳優の遊びではない。それはあくまで真剣な演技なのだから、それを「遊び」と認識するのは観客なのだ。そこで俳優は演じることを避けはしない。潜水服のヘルメットをかぶりその上からドライヤーを突きつけて真面目な顔で未遂に終わることが自明な自殺をする、あるいは服の背中にモップを四本も差し込んで決闘を挑む(本当に自殺する気があったのか?闘う気があったのか?と問うことはこの演出ではあまり意味がないように思われる。というのも若さの真剣さとはそういうものだから。)、またカリフラワーをかもめと言い張る、このような類いの演出は真摯な若さの滑稽さを助長するためにある。真摯な若さの滑稽さを“大人”の遊びと区別しなければ、この作品を豊かに読み解くことができないだろう。
 “大人”の遊びは演じることを避ける。戯ける、嘲る、気取るの類いだ。それは真剣さを回避し、対象へ迂回して向かう。アルカージナは息子の真摯な演劇を豪快に笑って見せねばならない、背中にモップを立て両手に椅子をグローブのようにつけたトレープレフに決闘を申し込まれたトリゴーリンは可愛らしい水色の小さな扇風機で対応せねばならない、カリフラワーのかもめに対抗するように“大人”はタイプライターや別の野菜をかもめと言い張らなければならない、このような遊びは“大人”の身振りである。それらは若さ、取り繕った若さではなく抑えようもなく湧き出る真情としての若さの率直さを回避する。それは演じることを避けることでもある。なぜなら戯れることは演技の本領ではなく、創造の源泉と結びついた演技とは、自己憐憫に近づく寸でのところで思いとどまる、若さの率直さを否定しきれない大人の分別の葛藤だからである。
 冒頭に書いたこの作品の演出上の私の直観、俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける、における、遊ぶこと、とは“大人”の身振りである。つまり、遊ぶことに“大人”が、演じることに若さが対応する。だから、この劇の主題は、“大人”の遊びへ向かわざるを得ない時間の神秘である。この皮肉な神秘である。だからこそ、終幕のトレープレフの自殺が、その演出上の卓越な効果でもって、力能を発揮するのだ。
 トレープレフとの再会で、ニーナは二年前のトレープレフの芝居の台詞を語るのだが、そこでの台詞はすでにあの真っ裸の若い真情ではなくなっている。二年という時間があの若さを想い出にしてしまった。このことはトレープレフを自殺させるには充分だった。彼はトマトをくわえ、素の頭にドライヤーを突きつける。しかし、見物はこの後の演出である。トマトを床に置き、それに銃口が向くような形でドライヤーを横に置くと、足でトマトを潰す。この秀逸なアイディアが、トレープレフさえも時間によって押しやられるように“大人”の遊びへ流れ込まなければならなかったのだ、とその演出上の明確な意図を開示する。自殺を演じるのではなく、足でトマトを潰すという演技を避ける遊び、“大人”の遊びによって、あまりにも苦いクライマックスを演出している。ここで方法上の遊びが、この劇の主題(真摯な若さはことごとく“大人”の遊びへ流れ入る!)に、これ以上ないというほど一体化し、観る者に肉迫する。
 このとき音楽が劇場全体を包み、受苦的に意味(劇の主題)と一致するやいなや、時間とは何か、老いるとは何か、若さはどこへ行くのか、という問いが頭のなかで泳いでいたとしても、そしてその問いの先に、死がぽっかりと穴を空けている、と全くの空白を予感したとしても、あながち私の幻覚とは言えないのではあるまいか。若さと老いという時間のいびつな仕掛けから身をひいて、死を自覚する者の方へ、劇場的アイロニーが誘導したわけだ。

(2008.6.7観劇)

2008年8月14日

『若き俳優への手紙』(オリヴィエ・ピィ作・演出)

カテゴリー: 若き俳優への手紙

道徳劇は蘇るのか?――オリヴィエ・ピィ演出『若き俳優への手紙』

                             北村 紗衣

 オデオン座の芸術監督であるオリヴィエ・ピィ作・演出『若き俳優への手紙』は、2008年Shizuoka春の芸術祭の締めくくりとして、6/28(土)及び29(日)に野外劇場「有度」で上演された。
『若き俳優への手紙』は演劇そのものを主題とする二人芝居で、もともとはコンセルヴァトワールで演劇を学ぶ学生に向けて書かれたものである。プロローグではジョン・アーノルド演じる男性の詩人が登場し、舞台を志す若者に真の「反抗」を教えると宣言する。彼は舞台上で化粧をし、かつらをかぶり、女物のローブをまとって老いたる悲劇の女神に変身し、一種の劇中劇を始める。女神が言葉(parole)の芸術を称えていると、「コミュニケーション担当大臣」や「豚」などという名札を下げた演劇の敵たちがやって来て攻撃を仕掛ける。彼らは重みのある言葉ではなく無味乾燥で効率的な伝達(communication)のみで全ては事足りると主張して女神を嘲う。一方、味方となる「真の観客」も登場して女神を励ますが、この敵及び味方の役柄は全てサミュエル・シュランが演じている。激しい議論の果てに劇中劇は終わり、エピローグでは女神は化粧を落として再び男の姿に戻る。そこにシュラン扮する若者がやって来て、先程まで自分の友がここで言葉の芸術を称えていたと語り、演劇の力を肯定する台詞を口にする。これによって女神の努力が無駄ではなく、演劇という言葉の芸術が若者によって受け継がれ、生き続けることが暗示される。
 劇中劇という入れ子構造を採用し、演劇論を主題としている点で『若き俳優への手紙』は典型的なメタシアターの作品である。しかしながら「メタシアター」といういかにも近代演劇らしい言葉とはうらはらに、この芝居は驚くほど古風な印象を与える。
 この芝居の「古めかしさ」は、抽象概念を擬人化して舞台に出すという中世カトリックの道徳劇(morality play)を思わせるスタイルに起因している。中世の道徳劇の多くは、「人間」(Man)や「万人」(Everyman)というような全人類を象徴する名を持つ主人公が、「悪徳」(Vice)の誘惑で道を踏み外しそうになり、それを「美徳」(Virtue)や「善行」(Good Deeds)などが救済しようと努めるという筋書きになっている。抽象概念は全て擬人化された役柄として舞台に登場し、善悪の葛藤はそうした登場人物同士の争いとして表現される。こうした道徳劇は大衆の教育を目的として中世ヨーロッパで広く上演されていた。
 『若き俳優への手紙』はこうした道徳劇の方式を忠実に踏襲している。主人公である悲劇の女神は演劇の擬人化だ。一方、敵たちは演劇の力を封じようと企む「悪徳」の擬人化だと言える。『若き俳優への手紙』においては「言葉の受肉」という表現がしばしば用いられるが、悲劇の女神とその敵たちは、まさに抽象概念が肉をまとった存在、「言葉が受肉した」存在として舞台に登場する。
 『若き俳優への手紙』は、アレゴリーとしての人物が登場するという点のみならず、若き観客を演劇の「美徳」へ教え導く教育的役割を担っているという点においても中世の道徳劇に近い。男性の俳優が女装して女神を演じるという一見現代のドラァグの文化に通じるような演出も、中世劇においては男が女装して女を演じることもあったという経緯を考えれば一種の「先祖返り」である。言葉の受肉がテーマであることも含めて、この作品は伝統的なキリスト教、さらに言えばカトリックの哲学を忠実に踏襲している。
 しかしながら、「言葉の受肉」を論じる際に、演劇に敵対する「悪徳」をも擬人化して舞台に上げることは果たして賢明なのだろうか。女神は演劇における言葉の受肉の重要性を切々と訴え、薄っぺらな「コミュニケーション」においては言葉が受肉しえないと語る。しかしながら皮肉なことに、彼女をあざ笑う演劇の敵たちは既に肉体を獲得して舞台に姿を見せてしまっている。言ってみれば、この芝居においては受肉しえないはずの敵たちが受肉して舞台に上がり、言葉の領域を侵犯しているのである。得られぬはずの肉体を得てしまった演劇の敵たちは、不遜な肉体で老いたる女神を愚弄する。女神の意志は若き俳優によって引き継がれるものの、肉をまとった「悪徳」たちはあまりにも強力に見える。
 現代の観客は、おそらく中世ヨーロッパの観客に比べると抽象的な事柄を擬人化することには慣れていない。抽象を抽象のまま考えることに比較的慣れている現代の観客に対しては、演劇に敵対する悪徳を徹底的に「受肉」し得ない存在として提示したほうが効果的だったのではないだろうか。『若き俳優への手紙』は中世の道徳劇を現代に再生させる意欲的な試みであるように思えるが、悪徳に肉体を与えてしまったがゆえにかえって焦点がぼやけてしまったように思われる。薄っぺらな言葉が横行する現代社会において道徳劇が敵として必要としているのは、昔ながらの方法で擬人化された悪徳ではなく、実体がなく軽薄な影にすぎないがゆえによりいっそう不気味な悪徳なのではないだろうか。

(観劇日:6/28)

2008年8月5日

『かもめ・・・プレイ』(エンリケ・ディアス演出、チェーホフ原作)

   『かもめ』の演劇論

                  奥原佳津夫

 モスクワ芸術座やマールイ劇場の『かもめ』を正統な上演と呼ぶならば、このブラジルのカンパニーによる上演もまた正統なものと云いうるのではないか。戯曲『かもめ』は、広く知られるようにスタニスラフスキーによる近代リアリズム演劇の出発点であると同時に、作者チェーホフの演劇論、芸術論にほかならないのだから。
 この作品は、戯曲を上演するのではなく、演出者(エンリケ・ディアス)と俳優たちが戯曲と向き合う様を上演として提示することによって成立している。“playing the play”とは「ホモ・ルーデンス」の概念を思い出させるような懐かしい響きだが、その意味では、戯曲を見事に遊びたおして見せた。
 冒頭、女優の一人が「失敗した戯曲を上演するにはどうしたらいいのか?」「舞台上で時間を表現するにはどうしたらいいのか?」と問いかける所から始まるとおり、彼らが戯曲と対峙するその切り口は明確である。

 野外劇場にしつらえられた、真っ白な裸舞台。点々と置かれたガラス鉢の植物、無造作に転がる野菜、途中まき散らされる土——無機質なものと自然物とが絶妙に配置されたスタイリッシュな空間である。
 俳優たちは、何の区切りもなく、時に役を演じ、時に役へのアプローチを語る。それは、近代劇の稽古場を知る者なら覚えがあるプロセスであり、場面の前提条件を想像し、人物の内面を忖度するその過程は、スタニスラフスキー(システム)へのオマージュであるのかもしれない。
 とはいえ、演出者は近代劇への訣別を示していて、一つの役を一人の俳優が一貫して演じることはない。各場面は一旦エチュードに分解され、再構成された趣——そこから、ニーナの登場をを二人のトレープレフが出迎えたり、トリゴーリンの出発を三人のアルカージナが引き留めたり、という魅力的な場面が現出する。(この方法によって、トレープレフとトリゴーリン、ニーナとアルカージナの交換可能な同質性が浮き彫りにされた。)
 チェーホフのテクストも適宜パラフレーズされ、彼ら自身の言葉と地続きのものにされていたようだ。(そこには『かもめ』初演から現在に至る百年間、二十世紀という時間を想起させる事象への言及もちりばめられている。)確かな造形力を持ちながら畏まらない、南米の俳優たちの演技が生かされていた。

 初演当時、『かもめ』が画期的な作品であり、演劇史上の事件であったことを喚起すべく、第一幕の終りに、モスクワ芸術座初演時の様子が語られる。この上演でスタニスラフスキー演じるトリゴーリンに対してトレープレフを演じたのが、当時若手俳優であったメイエルホリドであることを知る我々は、「新しい形式が必要だ」と語るその台詞に歴史の皮肉を感じずにはいられない。
 極論すれば、二十世紀の演劇は、そして現代演劇のすべては、スタニスラフスキーとメイエルホリドの間に(あるいは、アルカージナとトレープレフの間に)、その位置を占めていると云える。(演出者は十九世紀的なものへの目配りも忘れず、劇中『椿姫』の台詞を引用してみせる。)
 近代劇の枠内に留まろうとするのでないかぎり(演劇という表現形式に自覚的であるかぎり)、トレープレフの失敗に終わる劇中劇がいかに重要な意味を持つかは容易に理解できよう。彼が自信過剰な田舎の青年にすぎないのか、新たな形式を模索する芸術家なのか、観客はこの劇中劇の成否で判断するのではないだろうか?月並みな手法で処理できる場面ではない筈だ。(この部分のチェーホフのテクスト自体、後のハイナー・ミュラーを思わせ、そこに語られる終末の情景同様、未来に向かって開かれたものと云えるかもしれない。)
 さて、本編自体が極めて前衛的なこの上演で、新しい形式の劇中劇はどのように処理されただろうか?メイキング映像をバックに、制作裏話を語るナレーションにかき消されながら、全裸のニーナが台詞を口にする——という、おそらくは苦肉の策で、演出者は何の形式も提示しないことを選んだ。新しい形式は、依然未知のものとして未来に託されている。

 あたかも稽古場でのように、ヘアドライヤーは銃に、カリフラワーはかもめに、ジャケットは人間にと、見立ての小道具を駆使して物語は進んでゆく。
 終幕を前に、ニーナを演じる女優が身を横たえたまま、両腕をゆっくりと羽ばたかせながら、モスクワに出たニーナの失墜を語る。その腕の動きにつれ、撒かれた土に大きく弧が描かれる。泥にまみれたかもめの鮮やかな表象であった。
 大詰、出演者一同は舞台後方の椅子に一列に居並びながら、私語を交わすなど舞台上のアクションには無関心のままである。一人取り残されたトレープレフは、ヘアドライヤーでの拳銃自殺をためらった末、舞台中央の泥の上に真っ赤なトマト一つを置くと、静かに踏みつぶした。
 我々は、(戯曲では一言触れられるだけの)孤独な芸術家の死に立ち会わされる。新たな形式を求める前衛芸術家は、孤独のうちに破滅するしかないのだろうか?彼は敗北したのだろうか?
 演出者の答えは違うと思う。このラストシーンは、無条件に美しかったのだ。真っ白は舞台、土のコントラスト、潰されるトマト——トレープレフの自死を、これほど美しく描いた上演を私はかつて知らない。この美こそ、自身新たな形式を模索する演劇芸術家である演出者の回答であり、矜持でもあろう。

 最後に——今回の野外劇場での上演は、自然の借景、何もない舞台、という劇中劇そのままの設定にこの作品を置き、トレープレフの新形式の劇が『かもめ』そのものを包摂するかのような入子構造の妙味で、この作品に興を添える好企画であった。

(於.舞台芸術公園 野外劇場「有度」 2008.6.7所見)