演じることができない、ついにはトレープレフさえも
西川泰功
俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける。
これが『かもめ…プレイ』から得た私の演出上の認識である。この方法が舞台上で切実な効果、観客への力能を発揮するためにはトレープレフとトリゴーリン、ニーナとアルカージナというそれぞれ二方向に伸びた座標軸を思い浮かべなくてはならない。それはエンリケ・ディアスの言うように「時間」についての座標軸だ。若さと老いの座標軸だ。
演出を分析する前に、戯曲上での若さと老いを区別することにする(以下の下線部分は演出に関わる)。というのも、それを前提にしないと、演出の意味するところが明らかにできないからである。
若さの座標軸上の高度には、トレープレフのデカダン染みた劇中劇がある。それは彼の作家への憧憬と嫉妬を抱え、真っ裸のニーナを含み(そのことでニーナの女優への子供っぽい陶酔がトレープレフの作家への偏屈な憧れと重なる)、名誉を真摯に希求する。そこにはトレープレフとニーナの陽光に支えられたような若々しい恋愛関係の率直さも内包されている。あるいは新しい芸術への衝動も。
他方、老いの座標軸には、アルカージナの若さへの執着、それでいて彼女は息子つまり若者の真情の告白たる演劇を理解しようとはしない、そのふてぶてしさ、そうした「大人っぽさ」に厚顔無恥にすがりつくことができる傍若無人な態度がある。だからアルカージナのような“大人”は自分の幼稚性に堂々と浸ることもできる。トリゴーリンがニーナに横恋慕を抱いたのを察すると我を忘れて彼の足首にまとわりついて離れない。あるいはトリゴーリンのつまみ食い的なニーナへの恋も“大人”の領分だ。彼の小説の構想通りにニーナを破滅に追い込む、そのことをはじめから予感していたからこそ魅惑的であったように彼は恋をするのだ。ソーリンの生への執着も“大人”であるからこそだ。
そうしたソーリンの態度に真っ当にも死を突きつけるドクトルは“大人たち”の中で唯一トレープレフの劇中劇を認める。またマーシャはトレープレフへの恋心を胸に秘めて、その叶わぬ思いに葛藤しながら、喪服に身を包んでいる。ここで問題は死に関わる。トレープレフに同情するドクトルは“大人”ではないし(かといってもちろん若くない)、恋心に邁進できないマーシャは若くない(かといって“大人”ではない)。この二人は若さと老いの座標軸から離れたところにいる、死を自覚する者として。
あの老いの座標軸上に居座っている“大人たち”は死を自覚できないのだ。どこまでも老いの座標軸が伸びて、生の続きを延長させる、と思い込んでいる、あるいは思い込まないと生きていられない。「思い込まないと生きていられない」、これが“大人”だ。思い込みに居直ってどっぷりとそこに浸かり反省を避ける。見たくないものは見ない。反対に、真摯な若者は何でも見ようとする。貪欲に生へ向かう。本来的に死とは無縁である(最終的にトレープレフが自殺するからといって、彼が死に憑かれていたとは限らない)。その偏狭な態度は“大人”には耐え難い。“大人”も若者も、凹凸という字の関係のように、いびつには違いない。
若者と“大人”、それからそのどちらにもありうる死を自覚する者をそれぞれ示した。これで演出について書きはじめることができる。
真摯な若さは真剣さを突き詰めた先で滑稽になる。だからそうした若さの演技が「遊び」に見えたとしても、それは遊びではない。「遊び」と見えるのは単に観客の遊びであって俳優の遊びではない。それはあくまで真剣な演技なのだから、それを「遊び」と認識するのは観客なのだ。そこで俳優は演じることを避けはしない。潜水服のヘルメットをかぶりその上からドライヤーを突きつけて真面目な顔で未遂に終わることが自明な自殺をする、あるいは服の背中にモップを四本も差し込んで決闘を挑む(本当に自殺する気があったのか?闘う気があったのか?と問うことはこの演出ではあまり意味がないように思われる。というのも若さの真剣さとはそういうものだから。)、またカリフラワーをかもめと言い張る、このような類いの演出は真摯な若さの滑稽さを助長するためにある。真摯な若さの滑稽さを“大人”の遊びと区別しなければ、この作品を豊かに読み解くことができないだろう。
“大人”の遊びは演じることを避ける。戯ける、嘲る、気取るの類いだ。それは真剣さを回避し、対象へ迂回して向かう。アルカージナは息子の真摯な演劇を豪快に笑って見せねばならない、背中にモップを立て両手に椅子をグローブのようにつけたトレープレフに決闘を申し込まれたトリゴーリンは可愛らしい水色の小さな扇風機で対応せねばならない、カリフラワーのかもめに対抗するように“大人”はタイプライターや別の野菜をかもめと言い張らなければならない、このような遊びは“大人”の身振りである。それらは若さ、取り繕った若さではなく抑えようもなく湧き出る真情としての若さの率直さを回避する。それは演じることを避けることでもある。なぜなら戯れることは演技の本領ではなく、創造の源泉と結びついた演技とは、自己憐憫に近づく寸でのところで思いとどまる、若さの率直さを否定しきれない大人の分別の葛藤だからである。
冒頭に書いたこの作品の演出上の私の直観、俳優は遊ぶことを通じて演じることを避ける、における、遊ぶこと、とは“大人”の身振りである。つまり、遊ぶことに“大人”が、演じることに若さが対応する。だから、この劇の主題は、“大人”の遊びへ向かわざるを得ない時間の神秘である。この皮肉な神秘である。だからこそ、終幕のトレープレフの自殺が、その演出上の卓越な効果でもって、力能を発揮するのだ。
トレープレフとの再会で、ニーナは二年前のトレープレフの芝居の台詞を語るのだが、そこでの台詞はすでにあの真っ裸の若い真情ではなくなっている。二年という時間があの若さを想い出にしてしまった。このことはトレープレフを自殺させるには充分だった。彼はトマトをくわえ、素の頭にドライヤーを突きつける。しかし、見物はこの後の演出である。トマトを床に置き、それに銃口が向くような形でドライヤーを横に置くと、足でトマトを潰す。この秀逸なアイディアが、トレープレフさえも時間によって押しやられるように“大人”の遊びへ流れ込まなければならなかったのだ、とその演出上の明確な意図を開示する。自殺を演じるのではなく、足でトマトを潰すという演技を避ける遊び、“大人”の遊びによって、あまりにも苦いクライマックスを演出している。ここで方法上の遊びが、この劇の主題(真摯な若さはことごとく“大人”の遊びへ流れ入る!)に、これ以上ないというほど一体化し、観る者に肉迫する。
このとき音楽が劇場全体を包み、受苦的に意味(劇の主題)と一致するやいなや、時間とは何か、老いるとは何か、若さはどこへ行くのか、という問いが頭のなかで泳いでいたとしても、そしてその問いの先に、死がぽっかりと穴を空けている、と全くの空白を予感したとしても、あながち私の幻覚とは言えないのではあるまいか。若さと老いという時間のいびつな仕掛けから身をひいて、死を自覚する者の方へ、劇場的アイロニーが誘導したわけだ。
(2008.6.7観劇)