劇評講座

2024年9月4日

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023 劇評コンクール 審査結果

カテゴリー: 2023

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2023の劇評コンクールの結果を発表いたします。

SPAC文芸部(大澤真幸、大岡淳、横山義志)にて、応募者の名前を伏せて全応募作品を審査しました結果、以下の作品を受賞作と決定いたしました。

(応募数18作品、最優秀賞1作品、優秀賞2作品、入選6作品)

(お名前をクリックすると、応募いただいた劇評に飛びます。)

■最優秀賞■
山田淳也さん(『アインシュタインの夢』)

■優秀賞■
河口雀零さん【虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界】(『天守物語』)
後藤 展維さん【戯曲『ハムレット』とは何か】(『ハムレット(どうしても!)』)

■入選■
青木孝介さん(『ハムレット(どうしても!)』)
海沼知里さん(『XXLレオタードとアナスイの手鏡』)
酒巻鼓さん【複数の生きづらさの絡み方】(『XXLレオタードとアナスイの手鏡』)
澤井亨さん(『パンソリ群唱~済州島 神の歌』)
夏越象栄さん(『天守物語』)
山田淳也さん(『ハムレット(どうしても!)』)

■SPAC文芸部・横山義志の選評■
選評

SPAC ふじのくに⇄せかい演劇祭2023 作品一覧
アインシュタインの夢』(演出:孟京輝[モン・ジンフイ] 製作:ノース・パーク・シアター、孟京辉戏剧工作室[モン・シアター・スタジオ])
ハムレット(どうしても!)』(テキスト:ウィリアム・シェイクスピアに基づく  翻訳・演出:オリヴィエ・ピィ 製作:アヴィニョン演劇祭)
XXLレオタードとアナスイの手鏡』(演出:チョン・インチョル 作:パク・チャンギュ 製作:シアター・カンパニー・ドルパグ)
天守物語』(演出:宮城聰 作:泉鏡花 音楽:棚川寛子 製作:SPAC-静岡県舞台芸術センター)
パンソリ群唱~済州島 神の歌』(演出・作・音楽監督:パク・インへ ドラマトゥルク:イ・ギョンファ 製作:パンソリ・アジト・ノレボックス)
Dancing Grandmothers~グランマを踊る~』(振付・演出:アン・ウンミ 製作:アン・ウンミ舞踊団、斗山アートセンター 共同製作:パリサマーフェスティバル)

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023■選評■SPAC文芸部 横山義志

カテゴリー: 2023

ふじのくに⇄せかい演劇祭2023劇評コンクールには計18作品の応募がありました。内訳は『天守物語』7、『ハムレット(どうしても!)』4、『アインシュタインの夢』3、『XXLレオタードとアナスイの手鏡』3、『パンソリ群唱~済州島 神の歌』1でした。だいたいご覧になった方の数に比例していて、どの作品もきちんと評価していただけたのをうれしく思いました。

ちなみに私は、劇評を以下のような基準で評価しています。
1)(粗筋ではなく)上演がきちんと記述されているか
2)明確な視点が提示されているか
3)その劇評を読まなければ気づかなかったような発見があるか
最優秀賞や優秀賞に選ばれた作品は、自分が見たはずの舞台でも、新たな視点から、驚きをもって思い出させてくれるものでした。

今回、最優秀賞に選ばれた山田淳也さんが劇評の対象とした「アインシュタインの夢」は、今回の演劇祭のなかでも、捉えどころを見つけるのが一番難しい作品だったのではと思います(中国の作品は意図をあまりはっきり表明しない傾向があります)。この劇評は、舞台から「不可能に思える共時性をもたらすもの、私たちが同じ時と空間を共有できる根拠は、「愛」(精神の交流)にある」というメッセージを説得的に抽出したうえで、「演技や上演の根拠となる発見を、演劇=Theatreではない演劇を蓄積してきたアジアの演劇の中から発掘し、それを改めて蓄積していくことで新たな演劇圏をつくる」というより高次の目的から、「ふじのくに⇄せかい演劇祭」全体のなかでこの舞台を位置づけてくれました。

優秀賞に選ばれた河口雀零さんの【虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界】は『天守物語』を取り上げています。『天守物語』は作品として「わかりにくい」ところはあまりないものの、新鮮な視点を見出すのはそれほど容易ではありません。この劇評では、一見全く異なる『人形の家』と比較して、「ある秩序内で暮らしていた者が、その秩序のほころびや理不尽さに気づくことで外部に開かれる」という共通項を見出しています。そして、「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」として現れて主人公達を救う桃六が「現在の思考枠組みでは到底たどり着けない〈革命〉」を可能にする存在として描かれ、それが鯉のぼりを模した衣裳と竜の「獅子頭」という舞台のヴィジュアルとも結びつけて論じられています。

もう一つの優秀賞後藤展維さんの「戯曲『ハムレット』とは何か」は、『ハムレット(どうしても!)』の一場面で、紹介された哲学者たちの解釈が『ハムレット』の最古の版を参照することで全て灰燼に帰するというところに焦点を当てたうえで、「私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側に」なっていくという上演の構造から、私たちの「実社会こそがフィクションであり、[…]優先して批評されなければならない客体」であるという気づきにたどりつきます。

いずれも、具体的な上演を出発点として、非常にスリリングな解釈を提示していて、舞台作品を新たな角度から見つめなおすきっかけをいただきました。演劇祭や劇場のシーズンプログラム全体を視野に入れて論じてくださるような方がいらしたのも、とてもありがたかったです。

まだまだ先の見えない状況のなか、劇場に足を運び、時間をかけて観劇体験に思いをめぐらせ、共有してくださったみなさんに、改めて御礼申し上げます。またみなさんの劇評を拝読できるのを楽しみにしております!

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■最優秀賞■【アインシュタインの夢】山田淳也さん

カテゴリー: 2023

この作品は共時性と共時不可能性という普通両立しないもの同士を舞台という特殊な空間において、それらを拮抗させつつ共存させた。そしてその拮抗の末に、「愛」が時間という概念がなくなってもなお私達をつなぐ、というメッセージが浮かび上がる。
共時性とは、私達が「いまここ」を共有している感覚のことだが、静岡芸術劇場のライブ性を喚起する密度のある構造が、この劇の激しい身体表現と相性がとても良く、強く「いまここ」を共有している感覚になった。フィジカルシアターによる、エンターテイメント的な共時性も強調されているが、劇の内容については明らかに共時的なことの不可能性を描いていた。「私たちは同じ時間を生きることはできない。だが、私たちはこんなにも同じ時間を感じている。どうしたらいいだろう?」と問うていく劇だったのだ。それはいくつかの特徴から読み解くことができる。
舞台上で様々な言語(世界の複数性を意識させる)を使うこと、また中国語以外の言葉には字幕がつかなかったことで観客はその言葉を想像するしかなくなっていたことや、モチーフにアインシュタインを扱い、彼の記憶の断片をカフカの小説やいくつかのエピソードをコラージュし、アインシュタインが相対性理論を、彼の時間の流れに逆らう愛を叶えるための、もう今は会えない人への「手紙」だった、という解釈を与えていたことで私達がもう、一つの世界像や、共通の時間を体験できないことを表している。(一方このエピソードは同じ時間に生きることのできない人たちが共時性ではないやり方で出会える可能性を「相対性理論=手紙」として私達にも宛てられていることを示している)
また、実際の俳優の旅の荷物を最後に提示することで示していること、つまり日本に旅に来た中国の俳優たち(観客にとってわかりえない、共時不可能に思われる人々)がどのような時間を生きているのか想像させる表現は特筆すべきだ。それらを通して訴えかけてくるのは、他者の生命、生活、声、を想像することの重要性だった。それは、共時性と共時不可能性の矛盾に対する問いに答える行為でもあった。つまり、不可能に思える共時性をもたらすもの、私たちが同じ時と空間を共有できる根拠は、「愛」(精神の交流)にあると。
あらゆるものがデジタル時空間において流通し、遠くの国のことを一瞬で理解できた気になれる今、わざわざ中国から日本に来てこれだけ体を酷使する理由は、演劇という同時性と同時不可能性を両立させるものが「戦争」(それが顕在的なものであれ潜在的なものであれ)を止める可能性を信じているということなのではないか?まざまざと目の前に現れ、私たちは分かり合えないし分かり合える 分かち合えないし、わかちあえる。想像せよ、と。

身体表現に関してはピナバウシュの影響を鑑みて、ピナとの比較で考えてみると、手放しに良かったと言えるものではない。身振りのキレはあるが、演技に対する意識の繊細さがあまり感じられなかった。ピナ・バウシュにとっても動きはダイナミックさを観客にアピールするためだけにあるのではなく、動きの中で増幅されるものがダンサーの身体に満たされて、手の届かないところに手を伸ばすような感覚が重要になる。それがどうしても、今回の劇は「フィジカルシアター」という文脈を輸入しただけのように見えてしまった。俳優たちの身体の作動の仕方には深い裏付けや根拠になるものが感じられず、断絶されたようにも感じる。その後に私が観た、オリヴィエ・ピィ演出の「ハムレット(どうしても!)」との比較で考えるとわかりやすい。「ハムレット」の俳優たちの演技は、あらゆる西洋演劇の演出家の演技や上演に対するアイデアを縦横無尽に使い尽くしていた。スタニスラフスキー、ブレヒト、アルトーなど、これらの彼らの中に根拠として存在する過去の発見たちが今現在の彼らの演技をとてつもなく厚みのあるものにしていた。私はさっき記述したような演劇をする上での演技や上演の根拠となる発見を、演劇=Theatreではない演劇を蓄積してきたアジアの演劇の中から発掘し、それを改めて蓄積していくことで新たな演劇圏をつくることが重要だと思う。
ただ、先に記述したラストシーンの旅行カバンを見せていくパフォーマンスには強い裏打ちがあり、そこに可能性を感じる。この表現を裏打ちするもの、それはふじのくにせかい演劇祭の理念だ。多様な世界があり、そこには多様な文化があり、多様な人々がいる。それを肉体を通した体験として知っていくこと。そして認めていくこと。その重要性をふじのくに⇄せかい演劇祭は訴えている。それは鈴木忠志や宮城聰が演劇自体に込めてきた願いでもあるだろう。私はこの表現に、この演劇祭も望んだであろう、アジアだけではなく世界の演劇に通底しうる根拠を見出すことができた。それはこの演劇の大きな成果かもしれない。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【天守物語】河口雀零さん

カテゴリー: 2023

虚構世界ではなく可能世界としての幻想世界

天守閣内に暮らす妖怪、富姫のもとを、同じく妖怪で妹分である亀姫が訪ねるところから物語ははじまる。富姫や亀姫に対して設定上「妖怪」という言葉が使われてはいるが、その言葉がもつおどろおどろしさとは裏腹に、舞台上の彼女たちが放つのは華やかな雰囲気である。鯉のぼりを象った衣装に身を包み、流麗な振り付けで舞い踊る。

彼女らが暮らす天守閣に足を踏み入れることになる人間が、図書之助である。彼は城主のお気に入りの鷹を逃がしてしまった罪を償うために、妖怪の呪いにより入ったら最後、二度と生きて帰ることができないという噂がある天守閣へとおもむく。つまり図書之助は、鷹を逃がした罰として死罪となるか、それとも天守閣に行って妖怪に呪われて死ぬか、どちらかの究極の選択を迫られたのであった。どうせ死ぬならこの世のものではないものを一目見てから、という思いが図書之助にはあったのだろう。彼はおそるおそる、富姫たちのいる天守閣に足を踏み入れる。

人間が妖怪に呪われてしまって終わり、という筋書きではもちろんない。妖怪という人ならざるものに触れた図書之助は、人でもない鷹一匹を逃がした程度の罪で殺されるという、武士特有の縦社会の掟に疑問を抱く。そうして図書之助は次第に、人の世を離れ、妖怪たちと同じ世界に引き込まれていく。それと同時に、富姫の妖艶さにも惹かれていく。

この物語の結末に、少なくない人が拍子抜けしてしまうかもしれない。図書之助と富姫は、視覚を失ってしまうという悲劇的な結末を迎えそうになる。しかし終幕の直前、桃六という超越的な存在――富姫や亀姫たち妖怪という、人間にとってみればすでに超越的な存在をもってしても、さらに上に位置するような――が突如として現れ、二人は視覚を取り戻し、輝かしい未来が示唆される。つまり、「一件落着」のようなかたちで終わってしまうのである。そこからのもうひとひねりがあるかもと期待していたのだが、その期待は見事に裏切られてしまった。よくある言葉をそのまま使えば、「デウス・エクス・マキナ」として批判されかねない演出であろう(泉鏡花による原作がその通りだから、と言ってしまえばそれまでであるが)。

しかしそうやって一蹴してしまうのでは芸がないし何より面白くないので、ここに少し考察を加えることにしたい。そこで、比較対象としてSPACでの前回の公演『人形の家』をあげてみたい。

『人形の家』では、亭主=父親=男性という「大黒柱」を中心とした「家庭」という空間内で暮らしていたノーラが、女性の権利が制限されていたことに気づき、家庭の外へと出ていく。そして今回の『天守物語』では、武士社会特有の封建制度の内側で暮らしていた図書之助が、富姫たち妖怪という「人ならざるもの」との出会いを通して縦社会の掟に疑問を抱き、「ここではないどこか」へと開かれていく。以上のように、ある秩序内で暮らしていた者が、その秩序のほころびや理不尽さに気づくことで外部に開かれるという点で、二つの作品は共通している。

二つのちがいをあげるとするならば、そこに「現実世界」が描かれているかどうか、ということだろうか。もちろん、「フィクション作品なのだから、私たちが暮らす現実世界とのつながりはない」と言ってしまうことも可能である。しかし『人形の家』は明らかに現実世界のジェンダー観を基にして作られており、最終シーンでノーラが家庭を出ていくとき、観客は少なからず舞台の仮想世界と、自分の生きる現実世界とのつながりを意識することだろう。だが『天守物語』は、神的・霊的な「外部」と接することで幻想世界に引き込まれた図書之助が、現実世界に引き戻されることなく物語が終了している。妖怪という非科学的なものが住むという意味で、虚構世界のまま終了すると言い換えてよいだろう。

しかしこれを、現実の社会問題の排除として受け止めてはいけない。というのも、現実世界から断絶されたものとして物語を描くことでこそ、フィクションの世界と現実世界との相互浸透(小玉, 2021)が起こることがあるのではないかと考えられるからである。つまり『天守物語』は、すでに成長を終えて閉塞感が漂う現代日本社会における劇的な変化、〈革命〉への端緒として捉えることができるのではないか、と。

ここで、本作が「デウス・エクス・マキナ」で終わりを迎える――むしろ、終わりを迎えざるを得ない――ことの意味も、なんとなく見えてくる。現在の思考枠組みでは到底たどり着けない〈革命〉を志向するには、私たちの想像力を大きく超え出る何かを頼るしかない(大澤, 2016)。その「何か」が本作では、桃六という超越的な存在であった。

そう考えれば、本作の衣装・舞台美術に取り入れられた特徴的な意匠も意味を持ってくる。富姫とその周りで舞い踊っていた者たちの衣装には、鯉のぼりを模したデザインが盛り込まれている。そして天守閣に供えられた「獅子頭」は、原作に倣ってそう呼ばれてはいるが、そのデザインは明らかに東洋的な竜を模している。図書之助が武士社会の掟から解放されることは、滝を登った鯉が竜に変化するという非現実的な伝説ほど大きなインパクトを持つものであったということだろう。

現代においてなにがしかの変化が必要であるということは誰もが意識しているが、しかし具体的にその変化がどのようなものなのかは、誰も思い描くことができない。それを現実にするには、鯉が竜に化わってしまうような、生物的種として全く異なるものに変容するほどの、私たちの想像力を大きく超え出るほどの、〈革命〉が必要なのだ。〈革命〉の具体的なかたちは示されなくとも、それが起こる余地だけは残されている。そうして私たちは結局、「そうなるかもしれない」未来としての可能世界を求めて、次なるフィクション作品へと向かうことになる。

 

〈参考文献〉

大澤真幸(2016)『可能なる革命』太田出版。
小玉重夫(2021)『可能世界としての学校』広瀬裕子編著『カリキュラム・学校・統治の理論:ポストグローバル化時代の教育の枠組み』世織書房。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■優秀賞■【ハムレット(どうしても!】後藤 展維さん

カテゴリー: 2023

戯曲『ハムレット』とは何か

テクストに解説を加える注釈は作品の研究において重要な役割を果たすが、『ハムレット(どうしても!)』において、こうした注釈という学問の方法はそのまま、鑑賞に堪え得るナラティブとして落とし込まれている。これは、戯曲の台詞を編んだオリヴィエ・ピィが、あくまで“翻案”ではなく“翻訳”としてクレジットされている姿勢からも明らかである。

概して「注釈劇」という即席の造語が発想できるほど、劇中で繰り広げられる様々な議論や先行思想の引用は、本作のメタフィクション要素における中核を成す。特に、作品の貌とも言える有名な某台詞に焦点を当てた場合、各言語による翻訳の差異が、舞台上では見過ごすことのできない深刻な誤謬となる。なぜならば、『ハムレット』に焦点を置いた古今あらゆる主張の論拠は、常に作品のテクストへと最大限依拠しなければならず、したがって、肝心のテクストそのものには、絶対的な正確性が必要とされるためである。

しかしながら、本作を通じて――むしろ皮肉とユーモアを積極的に交えながら痛烈に突き付けられている現実は、私たちが論じる都度に典拠としなければならない『ハムレット』のテクスト自体が、その正確性に根本的な危うさを孕んでいるという状況である。たとえば、かつて最古と見做されていた四折版(Q1)よりも古い版が発見されたと明かす序盤の大暴露は、恐らく作品全体を構成する大きな問題意識に対して、その一翼を担っている。

劇中に繰り返し引用されたヴィトゲンシュタイン(実証主義)やドイツ現象学など、これまで『ハムレット』に典拠を示してきた哲学分野や関連する研究の多くは、こうした実資料の更新を前にほぼ無力である。つまり、四折版以降の本文解釈に寄与した諸々の主義や思想及び信条は、原書テクストの絶対的な正確性が瓦解した瞬間からその正当性を等しく剝奪され、互いに優劣無く均される。舞台上で繰り広げられる注釈行為全般が、明確な皮肉を込めた喜劇やユーモアの文脈で演じられている理由には、以上の作為が垣間見える。言語の不完全性がもたらす脅威とは、それほどまでに重い。

それでは、凡そ数百年に渡り繰り返し上演されてきたにもかかわらず、未だ誰一人として物語や台詞の真相を正確に知り得ていない戯曲『ハムレット』とは、いったい“何”なのか。この漠然とした問いに対し、本作はさらに深い層に位置するメタフィクション要素を用いることによって回答している。

――私たち観客が舞台を見る側ではなく、舞台から見られる側になることで、虚構と現実の位置が逆転する。一聞する限りでは修辞法(レトリック)のようにも受け取れるこの提案は、舞台の冒頭、演劇の担う社会的役割を問い直す試みの一環として役者の口から告げられたのち、物語の終盤、王妃やクローディアスの死に際において実践される。

今作が『メタ・ハムレット』として最も特異的な色彩を放つ点は、やはり、虚構の存在であるはずの登場人物そのものが自我〈エゴ〉を持ち、自らの言葉によって独白をする深遠な展開にあると思う。なかでも極めて印象に焼き付くのは、王妃ガートルードの言葉である。

彼女の死に際の、半ば訴えに近い独白が示唆している通り、『ハムレット』における王妃とは、初めからガートルード以外の何者でもなかった。先王が死に、クローディアスと再婚し、ハムレットの策略を意図せず被り命を落とす。長い年月を経てもなお、彼女はそうした在り方を何ひとつ変えていない。

むしろ変化しているのは、『ハムレット』を鑑賞し、批評し、論じる人間の属していた価値観や主義思想、信条にほかならず、それらは常に時代の当事者である。すなわち、今日までに『ハムレット』が“何”であるのかを規定していたのは、そもそも私たち観客側だったという事実に、ここで改めて気づかされる。

そして、舞台から見られる観客とは、詰まるところこの状態を意味する。ガートルードという虚構の存在が自我を持ち、戯曲の台詞でも役者の即興でもない第三の言葉を語り出すことで、批評対象が舞台上から観客席へと移行し、虚構と現実の立場が逆転する。初演当時から同一存在であるはずの彼女にとっては、上演の度に異なる役割や人格をガートルードに求め続けて来た私たち鑑賞者(読み手)の存在やそれらを形成する実社会こそがフィクションであり、いずれも優先して批評されなければならない客体である。また、以上の事柄は、その他のあらゆる登場人物たちに関しても例外ではない。

戯曲『ハムレット』のテクストには、何故これほどまでに多くの注釈が過剰なほど付随しているのか。それは、戯曲自体の不可解さや未成熟さというよりも、戯曲が上演されて来た社会背景の様相が、夥しく存在していたことに根深い事由があると言える。登場人物たちの台詞や言動に或る特定の動機を与えている張本人は、いかなる時代であっても、そのときどきに観客が背後で抱えていた社会的・思想主義的実状そのものである。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【ハムレット(どうしても!】青木孝介さん

カテゴリー: 2023

難しい芝居だった。舞台の上の人々は、どうやら『ハムレット』を演じているらしい。しかし、そこには『ハムレット』だけがあるのではない。時折『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。それは『ハムレット』をかつて観劇し、あるいは読み、『ハムレット』の問いを引き受けた人々の声やその言葉である。

いくつかの小道具が置かれた舞台の上には4人と1人。『ハムレット』の筋をなぞり、多くの登場人物たちがあらわれてくる。だが、次第に『ハムレット』とは異なる声が聞こえてくる。『ハムレット』というテキストの外側からその声はやってきた。それは哲学者たちの声であった。

ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フロイト、デリダ・・・。彼らの名前も言葉も、いかめしい。だけれども、彼らの言葉に注意深く耳を傾けてみる。観客である私も、彼ら哲学者たちも、同じ舞台を見ている。『ハムレット』に彼らの言葉が重なる。これらの声は、私を困惑させた。私は今、芝居を見ているのか。それとも、『ハムレット』についての講義を聴いているのか。重なり合う声の間で、私もまた思考していた。

『ハムレット』には決まったストーリーがある。誰もが知る著名なセリフがある。それまで一度も『ハムレット』という芝居を見たり、テキストを読んだりしたことのない私でも『ハムレット』は知っている。否、知っているつもりになることができていたのだ。「まぁ、ハムレットってこんな話でしょう」。

しかし、舞台からやってくる、ときに騒々しい言葉たちが『ハムレット』という覆いを少しづつ引きはがしてゆく。私は『ハムレット』を見ていたつもりだったのだが、どうやら違ったらしい。ふと壇上の上のポローニアスと目が合う。ここでようやく思い知る。私は芝居を見ているが、私も見られている。誰からだろう。ハムレットに、ポローニアスに、オフィーリアに。「ハムレットって、何なのだ」。

様々な声、言葉たちの間で、ハムレットたちもまた右往左往しているようだった。彼ら・彼女らは、常に世界に向かって問いを発し続けてきた。同様に、彼ら・彼女らもまた、問われ、解釈され、理解されてきた。積み重ねられた言葉の上で、ハムレット達もまた、呼びかけられていた。一体お前たちは何なのか。お前たちは何をしているのか。

ついには観客の声も巻き込んでいく舞台から、登場人物たちはやがて観客へ自らを語りだす。ハムレットたちの声が聞こえてくる。自らを語りだし、観客へと問い掛ける彼らの言葉は、薄闇の中照らされた劇場に満ちてゆく。呼びかけられたものは応答しなければならない。ハムレットたちは応答していたのだ。自らに差し向けられた言葉に向かって、声を上げていたのだ。その声を、言葉を次に受け取るのは誰か。それは彼ら・彼女らの前に座っている私(たち)なのだ。

呼びかけに答えること。これは「倫理」でもあり、「責任」でもある。ハムレットは、父王の呼びかけに答えようとして、苦悩した。かたき討ちは、ハムレットにとって為すべき倫理であり、果たすべき責任だった。それらは思いくびきとしてハムレットを引きずりまわしたのだった。いま、そのハムレットが観客に問い掛ける。応答をせまっている。しかし、観客たる私は、まだ答える声も、言葉も持っていない。私は応答できない。私にできるのは、ただ舞台を見ること、彼ら・彼女らの声に根気強く耳を傾けることだけだった。それが応答であり、倫理であり、責任なのだ。どうしても。

この芝居は、あまたの声や言葉の中に私(たち)を放り込む。私(たち)は問われ続け、呼びかけられ、応答を求められるのだ。これは遠い昔の、海の向こうの国のお話、ではない。声は、言葉は、今この時、観客の目の前にある。この芝居を前にして、私(たち)はただ舞台を眺める第三者ではない。『ハムレット』を巡る多くの言葉やハムレットたちから呼びかけられる。呼びかけとは、「私」が「あなた」にするものだ。観客は、舞台の上から「あなたは」と呼びかけられる。それに対する答えは、「私は」と始まるだろう。この芝居を見て、この芝居について何かを言おうとするならば、「私は」と語りだすよりほかはない。

『ハムレット』をシェイクスピアが作り出したのは17世紀、いわゆる「近代」の幕開けである。その近代において生まれた「主観」、「自我」、「主体」といった言葉については、現代にいたるまで盛んに論議されてきた。されてきたが故に、皆それを分かった気になってしまった。ハムレットたちの声は、呼びかけるという仕方で、私を「私」へと引き戻してゆく。それは、宙に浮いた何者かではなく、今ここにいる、呼びかけられる者としての「私」なのである。

やがて声は止み、言葉は消えて、役者は舞台から去った。観客は劇場を後にする。それでも、劇場の幕は下りていない。幕は最初からなかったのだ。問いは私の中に残り続ける。

難しい芝居だった。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【XXLレオタードとアナスイの手鏡】海沼知里さん

カテゴリー: 2023

この奇妙な組み合わせの二つの単語は、この劇において何を意味するのだろうか。一見何の関連性も見られない、XXLサイズの巨大なレオタード、そして美しい蝶が羽を広げる高級ブランド・アナスイの手鏡。この二つの物が象徴的に表すものは、物語が進むにつれて明らかになる。

韓国の高校生の日常と葛藤を描いた本作は、韓国社会を取り巻く貧富の差、ジェンダー問題、受験戦争などの社会課題を批判的に織り交ぜながらも、直接的にそれらを伝えるのではなく登場人物たちの様々な側面を巧みに浮かび上がらせることによって、彼らの生きる社会の抱える問題、そしてその中で生きる個々人の在り方を描写する。高校生五人と教師一人という人物構成で進む物語は、見ないようにしていた現代社会の歪みやひびを刻銘に映し出す鏡そのものである。昨今の社会では、個々のジェンダーアイデンティティが多様であるという認識が進み、自身のセクシュアリティを表す言葉が増えるなど、一人の人物の中で内在していた要素が社会的に顕在化することが増えた。そうした個人のアイデンティティが言語化され言葉として提示されていくと、一人の人物であってもある面ではマイノリティとして社会の中で生きる苦しみを抱えていながらも、他の面では特権性を持ったマジョリティであり他者を無意識に虐げているという一見矛盾した側面も存在しうることが分かる。

それは例えば、レオタードを着用することに喜びを覚え、ひそかに学校にも着用していっているジュンホが、自分よりも貧しい同級生に高圧的な態度を取り侮蔑している姿であったり、そんなジュンホにいじめられているヒグァンがジュンホのセクシュアリティを馬鹿にし貶めようとしたりしている姿からも感じられる。他にも、裕福な家庭でより良い大学に入るために努力を重ねているミンジが、母親からの過干渉に追いつめられている中で、自分が世間の目線からどのように見られるのかを気にして体裁を整えようとしている姿が描かれていたり、ミンジのかつての友人であったヒジュは片親家庭でアルバイトに勤しむ傍ら受験の準備に励むといった側面を見せながらも、表面的には全てを持っているミンジの完璧な姿に嫉妬し悪い噂を流す姿があるなど、一面では描き切ることのできない人物たちのアイデンティティの複雑さを伝えている。それを、様々な社会的・心理的バックグラウンドを持った人物たちを交差させることで表しており、それを特徴的で巧みな演出や舞台装置が補強している。

韓国の高校生が置かれている親や学校、受験といった社会的圧力が差し迫る出口のない状況は、三方面が白い壁で囲われており、入口や出口がない舞台装置に表象されている。出入り口がないため、劇中役者ははけることなく舞台中央で起こっている場面ごとの人物のやりとりを壁際に座って眺めることもなしに眺めている。通常舞台は、その場面で登場する必要のない人物を同じ舞台上に存在させようとしない。しかしこの劇で、常に全ての登場人物が存在している意味を考えてみたときに、今ここにいなくても繋がりのある身近な他者を存在させることで、狭い高校の中の関係性の網の目を可視化させること、またその網の目は同時に社会の縮図でもあるということを感じさせる意図があると考える。また、登場人物が何らかの事情や人柄を揶揄されているときに、舞台上にその人物がかつて虐げていた人物が存在していることで、常に物事は表裏一体であることを感じさせ、人物の一面を切り取って一つの印象だけを押し付けないようにする工夫をしているととることもできる。また、俳優が舞台からはける構造自体がないことで、舞台裏を感じさせることがなく、舞台上で起こっていることが観客席で傍観している私たち観客と地続きでありこれは創作の舞台でありながらそうではないということを伝えているようにも感じられた。

物語はレオタードを着用した画像が流出したジュンホの内面の葛藤と、秘密が知られたことによる外的世界の変容が中心となって進んでいく。最後、自身のアイデンティティをカミングアウトしたジュンホは、周りにも結局は受け入れられハッピーエンドを迎える…と思わせる。しかし、結局は世間体を気にするジュンホの母親により転校を余儀なくさせられ、周りも手のひらを返してジュンホから離れていく。口当たりの良い「多様性」という言葉や理想と、実際にどうにもならない現実との齟齬が明らかになり、社会の圧力に絡み取られていく高校生たちの姿が残像として残る。

本作品の特長は、アイデンティティの複雑さと、数字や分かりやすさによって線引きをする社会の姿勢といった描き難い対象を、暗く重く描いていくのではなく、ダンスのシーンを挟み音楽のリズムと踊る肉体に観客の目線を誘導させブレイクを挟みながらポップな音響やカラフルな照明の色彩で彩り、あくまでリズミカルに、皮肉な笑いを交えながら進んでいくことにあるだろう。更に、韓国語で上演されることを踏まえて壁に日本語字幕を投影させ、2カ国語がオーバーラップしていく工夫や、冒頭で視覚障害がある人を意識して劇中で使われる音響の紹介をするなど、アクセシビリティへの配慮が行われている点も、劇団自体が社会とのアクセスを図ろうとしている態度を見せていた。

困難と葛藤、自己との格闘と相克の渦中で揺れ動き、突破できない社会の壁にもがく生々しい若者たちの姿は、韓国社会に特有のものではないだろう。決してハッピーエンドでは終わらない物語の残した、ジュンホの大切にしている言葉が胸に刺さる。

 

The only true currency in this bankrupt world is what you share with someone when you’re uncool else.

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【XXLレオタードとアナスイの手鏡】酒巻鼓さん

カテゴリー: 2023

韓国の劇団、シアター・カンパニー・ドルパグがふじのくに⇄せかい演劇祭 2023 にて「XXL レオタードとアナスイの手鏡」を上演した。2014 年のセウォル号沈没事故をきっかけに、犠牲となった高校生たちが暮らしていたアンサン市の協力を得て製作されたこの作品では、劇中に登場する 4 人の高校生がそれぞれ持つ生きづらさが複雑に絡み合って物語が紡がれていた。
高校生のジュンホは女性用のレオタードを着用することを好んでいるが、そのことを周りに打ち明けられないでいた。ある日、女性用のレオタードを着用した男性の写真が SNS上で拡散された。ジュンホの友人のテウやヒグァン、パートナーのミンジらをはじめ、学生らはその写真の男性が誰なのか、まるで犯人捜しをするように探り始めた。その写真を拡散した人物はヒジュであった。ヒジュはバイトをしながらソウルの体育大学入学を目指す学生である。ヒジュは体育の授業成績を良くしなければいけないため、写真に写る男性の顔のモザイクを外すと脅して、ジュンホとダンスのペアになることを要求した。体育教師のヨンギルは学生たちに「ダンスにおいて重要なことはペアを観察することである」と言う。ヒジュとペアになったジュンホはヒジュと関わり、互いに観察する中で、自分自身の問題に向き合おうとするようになった。一方で、テウやヒグァン、ミンジらは、写真に写る男性がジュンホであると気づき始めていた。ダンス発表会の授業の日、ジュンホが写真の男性であると確信したヒグァンは、ジュンホの衣装を隠してしまう。発表の時間が近づき、手立てが無くなったジュンホは女性用のレオタードの姿でダンスを踊ることを決意する。ダンス発表会の日から時がたった頃、ジュンホは周りの目を気にする母の決定により転校することとなった。
本作では 5 人の俳優が客席側から登場し、上演中は常に舞台上におり、終演後にはまた客席の方へはけていくという構成であった。客席側から登場し、客席側にはけることで、目の前で繰り広げられている物語の中にいる登場人物は私たちと同じ社会の一員であるということをより強く感じることができた。舞台は圧迫感を覚えさせるかのように際まで白い壁が埋め尽くし、蛍光の塗装がされた姿見と鉄棒、俳優が座るいくつかの椅子、モップ等の小道具から構成されていた。ジュンホとヒジュの乗り越えるべきものを象徴する姿見と鉄棒は蛍光の塗装によって暗い中でも発光し存在感を主張していた。
本作の終盤、ヒジュとミンジが同じタイミングで電話をする演出があった。二人は同じタイミングで電話をしているが、それぞれ話している相手は別である。ヒジュはバイト先の大人と、ミンジは彼女の母親と話していた。この演出はヒジュとミンジがそれぞれ置かれている状況を対比していたと考える。ヒジュから見たミンジは裕福で自分のようにバイトをしなくてもよく、勉強もできるため悩むことも少ないような存在である。ミンジから見たヒジュは自分ほど親に過干渉されることもなく、受験勉強や模試のプレッシャーを感じなくてもよい存在に映っているだろう。人は自分が抱いている悩みを分かってもらえるかどうかで相手を判断してしまう節があるのではないだろうか。しかし、本作に登場する人物はみな異なった生きづらさを抱えていたり、同じような事象に対して別の角度から悩みを抱えていたりしていた。誰一人として全く同じ生きづらさを抱える人はいないのではないか。このことに気づくことが大切である。相手は自分が抱えるような悩みを持たないからといって妬み、複数の生きづらさが絡んでゆくのではなく、自分が悩みを抱えているときに相手も何かと戦っているのかもしれないと考えてみることで、ジュンホとヒジュのように生きづらさを共有して互いに抜け道を見つけることができるのかもしれない。
自らが抱える悩みや生きづらさを妬みに変え、さらに誰かの生きづらさを生んでしまうという悪循環ではなく、それぞれが抱える悩みを共有することで、自分の生きづらさにも改めて向き合えるような関係性が社会の中に必要だと感じた。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【パンソリ群唱~済州島 神の歌】澤井亨さん

カテゴリー: 2023

パンソリ群唱の舞台である、韓国の最南部にある済州島は、楕円形をした火山島で、その面積は、静岡県の約4分の1ほどである。温暖な気候から、静岡県と同じく、みかんやお茶が栽培されている。その国の最高峰、漢拏(ハルラ)山があるという点でも静岡県と同じだ。こうしたことから、「パンソリ群唱」が静岡舞台芸術公園の楕円堂で、コロナ禍がようやく落ち着いたこのタイミングで上演されたことは、いろいろな縁が積み重なって起きた奇跡だと私は思う。

済州島には、三無島という別名がある。物乞い、泥棒、門がないというのだ。だから、この劇にも、物乞い、泥棒は出てこない。門に関する話としては、チョンジュモクが出てくる。家の入口にあり、両脇に3つの穴が開いていて、3つの横長の丸太(チョンナン)をかけて置くというもの。主人がいるかいないかだけでなく、不在の時はいつ頃戻るかを、かけて置くチョンナンの数で示すというものだ。一般的に言う「門」が、外と家(うち)を区分するものだとしたら、チョンジュモクは基本的に開かれている。劇中においても、チョンジュモクに3本のチョンナンがかけられることはなく、果ては、父親であるナムソンビがオドン島に行く際に、七男のノクティセンイにより1本のチョナンは櫓にされてしまう。

いずれにせよ、いつも開かれたチョンジュモクを通して、ジョンサンおじさんがやってくるところから、劇は動き始める。三無島だから、ジョンサンおじさんは悪人ではない。その証拠に、劇後半には、ノクティセンイをヨサン夫人に会わせるという大役を担っている。とはいえ、ジョンサンおじさんがナンソンビをオドン島に行って、貿易をするように勧めなければ悲劇は起きなかったのにとも思ってしまう。でも、ジョンサンおじさんは、泥棒に代表されるところの悪人ではないのだ。いや、ヨサン夫人をチュチョン川の池につき落としたノイルジョデは、悪人だろうと指摘する方もいるだろうが、彼女は、済州島の人間ではなく、オドン島から来た。だから、ノイルジョデが悪人だとしても、済州島が三無島であるということには変わりない。

ちなみに、済州島には、もう一つの別名がある。それは三多島だ。なにが、多いかというと、石と風と女性だ。女性が多いというのは、人数というよりは、働く女性が多いという意味で、現在も多くの海女が活躍している。男性は、ナンソンビのように、女性に働かせて楽をしているというイメージだ(済州島の男性の名誉のために、あくまでイメージ)。この劇でも、太鼓等の演奏をした鼓手1人以外は、カヤグム(韓国の伝統的な弦楽器)の演奏者を含めて、舞台上にいるのはすべて女性だ。ここにも、三多島の話らしさを感じる。

題名にあるパンソリは、基本的に、歌を歌う「ソリックン」と太鼓等の演奏をする鼓手の二人で構成される、韓国の伝統芸能である。林權澤(イム・グォンテク)監督の韓国映画「西便制」(ソピョンジェ)が、芸術性を高めるためにわざと娘を失明させるという衝撃的な内容を含め、パンソリを追求する人々を詳しく描き、とても感動的であった影響か、私は、パンソリを日本文化にあえて例えるならば、平家物語を語って日本各地を巡った琵琶法師を連想する。琵琶法師は廃れたが、パンソリは国家の保護も受けて、韓国において続いていて、今も広く愛されている。

ただ、伝統を守るだけで、パンソリが続くのかという、高い芸術性を持つゆえの葛藤を常に持っているのでしょう。今回、主役だけでなく、脚色、演出、作詞作曲、音楽監督を務めたパク・インへさんは、従来の二人構成のパンソリではなく、パンソリ群唱に挑戦した。ただ、パク・インへさんを始めとするソリックンたちは、幼い頃から師匠について修行を続けてきているので、いわゆる伝統が日常習慣のように身についている。だから、今回のような創作・新作においても、自然と伝統を踏まえたものになっている。そこには不自然さはない。ちなみに、パク・インへさんによれば、パンソリの3要素は、ソリックンと鼓手に加えて、聴衆が必要だということなので、従来の二人構成という私の表現は、適切ではないかもしれない。

この劇を作るきっかけについては、劇冒頭に説明がある。コロナ禍により、公演もなくなり、パク・インへさんは、将来に対して不安ばかり増していく。そこで、その不安を忘れるためにトイレや寝室等を掃除する。突然、引っ越しの際に、母親が玄関に貼った赤札を発見する。赤札に何が書かれているかもわからない。でも、そこには神がいる。そこここに神がいる。そのことに気づき、どんな神が、どんな理由で、そこに宿ったのかという由来を突き止めようと思い立ったというわけだ。そのため、劇を通して、コロナ禍をきっかけに、今ある生活が成り立っている由来や歴史を見つめようとする姿勢が貫かれている。劇の最後には、ナムソン村らしき、かやぶき屋根の家々がソリックンたちとともに映し出される。そこには、高層ビル群には探し求められない、人と神とのつながりが息づいている。蛇口をひねれば、すぐに湯水が出てくる生活をしている我々は、その恵みに改めて感謝すべきだろう。ちょうど、公演日には、楕円堂周辺で新茶の摘み取りが行われていた。素晴らしい歌声を素晴らしい環境で楽しむことができた、素晴らしいひと時だった。関係者一同に深く感謝する。

SPACふじのくに⇄せかい演劇祭2023■入選■【天守物語】夏越象栄さん

カテゴリー: 2023

あれはおとぎ話のラブロマンスではなく、富姫という女性の再生譚だったのかもしれない――。
2023年5月6日、小ぬか雨のちらつく不穏な曇天の下で演じられたSPACの「天守物語」について開眼するように直感を得たのは、数日後の、奇しくも土砂降りの深夜のことだった。巧みに物語を省略・、人物にテキストにない所作を追加することにより、テキストとは異なる富姫像を現出させたのだ。
天守物語をラブロマンスとして観た時に、今回の舞台で最も違和感を覚えたのが図書之助の存在だ。人間という最も「現実的」なキャラクターであるはずなのに、清廉すぎて現実味がなかった。宮城作品特有の言動不一致で、声を女性が演じていたことも要因の一つかもしれない。元服したての少年かと思えるほど無垢な男主人公。それに対して、ヒロインである富姫の生々しさ、存在感は、一見アンバランスですらある。
この作品を整理する上で引き合いに出したいのが、今年の春に上演された、SPACの「人形の家」だ。天守物語とはかなり対照的な作品となっている。
人形の家で能を意識した演出がみられる一方、天守物語では歌舞伎を思わせる手法が使われている。例えば、ヒロインの登場シーン。前者(ノーラ)は舞台の左手からひっそりとすり足で、後者(富姫)では客席から出現した後、観衆の間を進んでいく。
ヒロインの心の動きも対照的だ。ノーラの変化が清楚な小面から般若へのそれなら、富姫はその逆。前者は男性への信頼が嫌悪に、後者は軽蔑が慈愛に転じていく様が描かれている。共通しているのは、物語の主役があくまでヒロインで、男性は主役が脱皮するための装置となっていること。いずれも物語の中で、その内面や葛藤には重きを置かれていない。
こうした「舞台装置」の上で、演出自体、富姫の心の動き・人物背景にクローズアップされている。まず音楽に着目すると、物語の前半、富姫と図書之助が初めて相対したシーンでは、比較的少ない楽器を使い、単調で暗く、冷たいリズムが刻まれる。その後、図書之助が天守に戻ってきた後は楽器の種類が増え、激しくなっていく。物語の盛り上がりに合わせているだけとも思えるが、富姫の心情、あるいは図書之助の目に映る富姫の印象を表現しているのではないだろうか。物語の序盤、富姫の周囲にはほとんど「女」しかいない。「女の園」の中では、少女の疑似恋愛めいたやりとりが続く。テキストには見られない、富姫が亀姫を自分の袖の内に包み込むシーンはその最たるものに思える。
男の生首を前に繰り広げられる残酷な悪態も、思春期の少女が男性に向ける嫌悪感を想起させる。富姫が人であった頃の悲惨な体験は、語られず、物語の「外側」に置かれている。それ故に、少なくともこの舞台では、富姫が男を知らない無垢な少女にも見えてくる。天守に初めて足を踏み入れた「男性」に、戸惑いつつも敵意を向けることなく、淡々と対応することにも筋が通るのではないか。
一転、図書之助が同胞に追われ天守へ戻ってくると、富姫は情念の虜になったように、善意の塊のような若武者と絡み合いながら、むさぼるように、情熱的な言葉を吐き出す。背後に映し出された二人の影はぴたりと重なり合い、まるで一つの生き物のように壁を這う。富姫はここで初めて、男を受け入れ、知ったのだ。
富姫のこの二面性を象徴しているのが、彼女の打ち掛けだろう。天を仰ぐ1匹の黒い鯉と、下界を見下ろす2匹の赤い鯉。同じく鯉のデザインの亀姫や桔梗の衣装が、色は同系色で、鯉の向きもそろっているのとは一線を画している。化け物と人間、天守と地上の間で葛藤を抱える彼女そのものに見えるそれは、上演中ほとんどずっと、舞台上に置かれてる。
図書之助という、善性を持つ人間の男を受け入れたことにより、富姫は人間性を取り戻したのだ。物語の最後に二人を救うのが神でも化け物でもなく、人であるのも象徴的だ。ご都合主義にも見えかねないが、ここで先に触れた歌舞伎的な演出が生きてくる。
これは「ファンタジー」なのだ。現実で傷付いた心と魂を、幻想の中で癒やし、現実へ生還するための物語。
この構造は、先に触れた人形の家と見事なまでに対照的だ。囲われた夢の世界から目を覚まし、現実に傷付き失望するノーラ。これは、前世で男に傷付けられ化け物に変じた富姫なのではないか。
傷付いた「富姫」は「ファンタジー」の中で癒やされ生まれ直し、再び「ノーラ」の「現実」に戻っていく――。そんなループが思い浮かぶ。
SPAC版「天守物語」は、傷付いた心の再生の物語なのだ。