祝祭的寓話の革新的演出
―中島諒人演出 魯迅『剣を鍛える話』劇評
森川泰彦
まず、形式についての検討から始めよう。この上演の最大の特徴は、語り物形式を採用することにより、小説のすべての言葉を舞台に上げたことにある。それでは、かかる手法をとる理由はどこにあったのか。それはこの小説が、極めて豊かに広がる主題論的体系を有する作品だからである。この作品においては、寓話の寓話とも言うべき重層的な意味を帯びた登場人物たちの行為が、グロテスクなカーニヴァル的世界を繰り広げてゆく。相互に木霊し合う細部を形作っている地の文を切り捨てて、現代演劇のスタイルで上演してしまえば、この作品の魅力はあらかた失われてしまうのである。
しかし、これを劇として成立させるのは容易なことではない。小説は、言葉だけで成り立つべく編まれているのであり、そのまま舞台化すれば語り(語られるもの)と視覚形象(見えるもの)がだぶってしまうのだ。しかし演出家は、そのようなハードルを、数々のテクニックを駆使して乗り越えることに成功している。
まず、演技は簡略化され、言葉をそのまま再現しない。また、語られる視覚的事象が語りに遅れて現れたりもする。語りと視覚形象の間に、絶えず様々なずれが持ち込まれるのである。これは両者に存在意義を与えると同時に、そのせめぎ合い自体を舞台上の劇的表現の一部とすることになる。視覚形象には一定の抽象化が施され、特に演技は、伝統演劇に観られるような様式性を帯びる。しかし、完全な様式と異なり、ある時は言葉に接近して具体的(=リアリズム的)になり、ある時は乖離して抽象的になるといった具合に、両者の離接振り自体がこの上演を構成する重要な要素となっている。このような様式なき様式は、舞台にリズムを生むと共に、その予測不能さがサスペンスを生むことにもなった。
加えて、「仕掛けの露呈」に関わるブレヒト的な手法も的確に用いられる。語り手の語りが演技者の発話に移る過程で、両者が同時発声したり、異時発声(語り手の語りを演技者が繰り返す)したり、片方が口パクになったりといった「遊び」が、随所に盛り込まれているのだ。このように、言葉に対して視覚形象が一定の自律性を持つことが、この舞台を極めて豊かなものにしている。また、暗めの照明を基調とした抽象的空間に、質感豊かな衣装、小道具が置かれるという模範的なセノグラフィーは、この作品のグロテスク・リアリズム的な幻想性をよく支えていた。
工夫は、このような視覚面と言葉の関係をめぐるものだけではない。聴覚面との関係においても際立った技巧が使われる。まず、聞き取れなければすべての言葉にこだわる意味がなくなるから、明晰に発音することが当然の前提となる。その上で、言葉の有する音声としての物質性を際立たせるべく、誇張された語り口が採用される。さらに太鼓の強い連打を中心とする、まさに「劇的」な効果音を随所に挟むことで、語りの冗長さ単調さが避けられる。きびきびとした役者の動作もそれに連動する。これらを実現するためには、通常の芝居でのそれとは異なる高い技量が要求されるわけだが、役者たちはそれに見事に応えていた。
この舞台は、伝統演劇の主たる手法の一つである語り物形式を、上演テクストの内容に即する形で、鮮やかに使いこなして見せた。現代演劇に新たな可能性を開く優れた舞台であったというべきである。
次に、テクスト細部の形象化を検討しよう。まず今回の舞台では、眉間尺の母の父についての語りの際に、父を視覚形象化し、その父親役の役者を黒い男役の役者と兼ねさせていた。これは、黒い男が実は眉間尺の父であるという解釈に適合する。眉間尺の母を娶り、眉間尺をもうけたことも含めて、彼自身の復讐のための謀だと解して初めて、この物語の数々の謎が明らかになるのだ。またこの演出では、眉間尺の生首を、うっすらと青く塗ったマネキンの首によって表していた。これは、眉間尺の首が青剣の寓意であること、つまり「剣を鍛える」とは、彼の成長の寓話であることを示すものである。さらに演出は、大王の鼻を赤くしていた。これは、眉間尺親子の安眠を妨げた鼠が、臣民を苦しめる暴君の分身であることを示している。さりげなくテクストの構造的理解を誘導するこれらの演出は的確である。
また、大王の前に現れた黒い男は、ひょうきんな扮装をし、おどけた声で口上を述べる。これはテクストに直接書き込まれていないものを、適切な読みに基づいて掘り出した説得力ある演出と言える。男は大王の気を紛らせるためのエンターテイナーとして登場しなければならないわけだし、この作品の本質はカーニヴァルにあり、その上演はクライマックスに向かってグロテスクな笑いを増していくべきだからである。
カーニヴァルにおいては、「真面目、恐怖、教条主義」を特徴とする公式文化に支配された日常的生活が、「自由、笑い、陽気な相対主義」を特徴とする民衆文化に突き動かされた非日常的混乱に取って代わられるとされる(バフチン)。黒い男の魔術により、生首が乱舞し噛み殺し合った末、暴君の「恐怖」の支配が崩壊するこの物語の世界は、まさにカーニヴァルそのものなのだ。
最後に、テクスト外部の形象化について検討しよう。この演出は、ブレヒト的な手法を用いることにより、テクスト外の「歴史」を巧みに舞台に取り込むことに成功している。まず物語最後の人民が行列を見る場面、人民を演じる役者たちは、それまでの誰かを演じるための表情を一変させ、鋭く冷ややかな眼つきでじっと観客席(行列)を眺める。見られる者(客体)であった彼(女)らが、見る者(主体)になる瞬間である。これは、有史以来、支配の客体であった人民が政治の主体となる時代の始まりを告げるものだと解し得る。またこの演出では、最終行の「1926年10月作」まで発話の対象としているが、これは効果的にこの時代を想起させる。そしてこの演出では、語りが始まる直前、民衆の子供がこの話を幾度も聞きたがり、母親もまたそれに喜んで応えるという場面が付加されている。この数少ない創作部分は、語りの導入を正当化すると共に、人民の革命願望を表象し、革命到来を暗示する物語終末の場面と響き合うことになるのだ。
他方でカーニヴァルは、民衆の不満を解消させることで社会秩序を安定化する、「ガス抜き」の装置でもある。そこで演出家は、革命到来を謳い上げたりはしないし、また人民を美化したりもしない。行列を見つめる場面のすぐ後の行列の混乱を示す場面では、我先に人を押しのけて前へ出ようとする人民の姿を描き、最後には悠久普遍であるかのような人民の生活を凝縮した場面を付け加えてこの劇の幕を下ろすのだ。テクストの内容にふさわしい、バランス感覚を備えた演出だというべきである。
(2008年6月14日観劇)