劇評講座

2008年7月27日

『遊べ! はじめ人間』(メルラン・ニヤカム振付)

カテゴリー: 遊べ! はじめ人間

「悦びの彼方の身体」~『遊べ! はじめ人間』より
                              高原幸子

 はじめに預言があった。村の語り部によって世界で今なにが起こっているのかを告げる預言。それは言葉がそのまま「音」であることで意味を与えるものだという。
 そこからドラムのリズムが流れ始める。通常私たちがする呼吸よりも速いペースのリズムの流れ。そこに5人の身体が躍動し始める。体のなかに既にあったリズムが、アフリカの日常の中に与えられているリズムが、踊りとして現れる。
 この舞台が植民地の歴史を含む近代ヨーロッパを通じたところの「アフリカ的なるもの」の表象をしているのではなく、それを突き抜けた異種混淆の地平を見出しているとするのなら、それはこの「音」と「リズム」が主役となっているからだと言っても過言ではないだろう。「はじめ人間 ― Recreation Primitive」という原初的な人間の再創造には、性別も、社会的格差も、人種的差異も顕在化したものではなく、白塗りによって体を浄化した一種のトランス状態(忘我/陶酔)のなかでの身体の躍動が迫ってくる。
 私たちはそれぞれ個々の物語りを生み、大きな物語りに同化し、生を与えられている。しかしその物語りは個々の主体、ある集団の主体がなければ語ることができないものだ。言い換えればある役柄が明確でなければ物語は生み出されない。しかし物語りはその展開が一定の社会的承認どおりに動かなければ、ほぼ悲劇性を生み出す。
 この舞台にはこういったかたちの「悲しみ」の感情が現れない。いや、その名をつける以前の独りであることの驚嘆の声、衣装をまとった女たちが男たちに怒りをぶつける場面など、感情というものは表わされる。しかし物語りを背負った一人の人間が苦悩し、その主体の破壊に立ち会うまでの悲劇性は現れない。その代わりに、舞台前方で眠りにつくダンサーたちを後方から出てくるミュージシャンたちが色つきの棒で音を出しながら起こしたり、蝋燭や花の形をしたオブジェなどの光にダンサーたちが魅せられていくように、原初的な悦びに満ちた場面が途切れなく続いていく。
 一つ、こういった原初的な身体の悦びに対比されるものとして映像と音楽があるだろう。舞台中央に設置されたスクリーンいっぱいにダンサーたちの顔の表情、踊りながら切り離されていくユーモラスな身体、アフリカの何処からしい現実の映像といったものが映しだされる。音楽も、クラシックから現代アフリカのメランコリックな歌、民族音楽といったものまでもがダンサーやミュージシャンたちの歌声と交錯する。
 独りの人間の発する言葉は「悲しみ」のなかに置き去りにされるが、意味を作り出す「音」は、そこから遠く離れた場所へと、見て、聴き、体を動かす者たちを連れて行ってくれる。それは決して現実から切り離された「想像領域」なのではなく、世界の現実を認識する以前に保持されている身体の「想像領域」なのだ。
 振付のメルラン・ニヤカム氏はそこにダダイズムの影響を言及するが、20世紀初頭の社会秩序や戦争への抵抗は、そのまま現在の2000年代の大きな物語りを失った私たちが突きつけられている問いでもある。
 アフリカの日常のなかに与えられているリズムに呼応する身体内のリズム。それをアフリカ的な生命の躍動感などという表象をするのはできるだけ避けてみたい。常に既に自然に行為するように、ふるまうようにと馴らされている私たちの日常は、張り巡らされた社会規範のなか、実はこのようなリズムに気づかされないように生き延びさせられているのかもしれない。
 ニヤカム氏が「私たちは急ぎすぎている」。「本当の価値を失っている」。「自然を忘れないように」、という警告を発しているとすれば、それは資本や社会秩序が構成するこの世界の悲劇性に満ちた現実にしか置かれることはない私たちの身体に対してであり、ダンスが醸し出すプリミティブなものへの誘いは、決して太古の人間への素朴な回帰ではなく、今ある現実においていかに身体の「想像的領域」を開いていくのか、という問いに結実していくだろう。
 悦びに満ちた身体の躍動が、「悲しみ」を解きほぐすように、言葉を「音」として享受する、研ぎ澄まされた身体を取り戻すことが見出される。私たちは、いまだ「悦びの彼方」にある身体しか持ちえていないことを思い知らされるように。
(以上)