劇評講座

2010年1月16日

『オペラ 椿姫』(鈴木忠志演出、飯森範親指揮、ジョゼッペ・ヴェルディ作曲、フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ台本)

カテゴリー: オペラ 椿姫

椿姫の鏡像

奥原佳津夫

オペラの上演は専ら音楽面からの評価がなされ、舞台上演の演劇的な面については、二義的な扱いを受けるのが通例である。多くの場合演出もストーリーを語る上での意匠に留まるか、音楽とは乖離した舞台表象に終始してきたので、それも無理からぬところではある。鈴木忠志演出『椿姫』の特異な点は、その演劇的な表象と音楽との拮抗が、作品の構造にまで立ち入ってなされたことであり、まさに演劇面からの評価が必要な上演と思われる。

演出の要諦は、ヒロイン・ヴィオレッタを男性の側の理想、願望としてしか存在しえない幻、虚像として捉えたところにある。テノール歌手は作曲者ヴェルディとして常に舞台上に居続け、去来する幻想の中でアルフレードとなる趣向。序曲でヴェルディの父親役の俳優が登場し「まだ幻を見ているのか?」という台詞が交わされるのに意表をつかれるが、その設定故に場面転換や時間経過の幕間を要しないため、歯切れのよい演奏(飯森範親・指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)は間断なく、むしろ演奏の密度は高い。(第一幕から第二幕一場、第二幕二場から第三幕は続けて演奏される。)「乾杯の唄」では、水を持った看護婦が登場し、ヴェルディの幻視は精神を病んだ(と看做される)域であることが示される。恋の病ならぬ、病としての恋、その結晶たる幻が椿姫なのである。そもそもこのヒロインがいかなる虚像であるか、原作に遡って確認したい。デュマの原作小説『椿姫』で、作者の実体験から著しく美化された虚構のヒロインに与えられた名はマルグリットであり、物語は彼女の死から始まる。語り手は、改葬のために掘り起こされた骸に対面させられ、その後、恋人の回想する生前の椿姫の物語を小説化する、という再話の手法が採られており、マルグリットは二重のフィルターを通した虚像として、読者の前に立ち現われる。さらにこの『椿姫』が劇化上演されたのを観て創られたヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタは、さらなる鏡像と云えるかもしれず、そこには作曲者自身の経験も写しこまれているらしい。

この上演では、登場人物はそれぞれのエリアから大きく移動することはなく、ことにヴェルディとして作曲の机に向かいつつ唄うテノール歌手は、幻想世界に踏み込むことはない。その分、後半(第二幕二場)では幻想のアルフレードとして吹き替えの俳優が登場することになる。第三幕への転換での、この幻想のアルフレードがヴィオレッタを抱きしめるようにして彼女の外套を脱がせる演出は特筆に値する。物語の上では誤解を抱いたまま外国にいる筈の彼が、あえてこの場に登場するとなれば、それは作曲者ヴェルディの幻想であるアルフレードのさらにその願望が生んだ幻であり、めくるめくような虚像の乱反射が舞台上を闊歩していることになる、それは合わせ鏡の中で虚像が虚像を生みつづけるように。(思えば、この上演に登場するヴェルディはもちろん、作品から逆算された虚像としての作者であり、伝記に照らせば彼は宿屋の主人である父親の元を幼くして離れているので、「ヴェルディの父」という精神性を感じさせる登場人物もまた、得体の知れない幻である。)簡素な舞台美術は、大きな長方形の枠がいくつも重なりあって吊られているのが特徴的だが、ヴィオレッタの居室の場面で同じ枠の姿見が使われると、なるほどと納得がいく。このセノグラフィは、実体を持たぬ虚像の乱反射をのぞき見るための装置なのである。

この上演にはエピローグが付く。「過ぎ去りし日々よ」のフレーズが煽情的に奏でられる中、死んだヴィオレッタが起き上がり、背景のパネルが飛んで、はるか彼方まで延びた白い道を、降りしきる紙吹雪にかき消されながら歩み去ってゆくのである。一見サービス過剰で無くもがなの演出と思ったが、彼女の歩み去る先に、鏡合わせのようにこちらを向いた劇場の客席を認めた時、この幕切れこそ演出上の必然と得心した。彼方に並ぶ客席は、上演中のホールと背中合わせに位置する芸術劇場の客席―白い道は芸術劇場の舞台上に延びていたのである。彼女の死=退場は、すなわち鏡あわせになったもう一つの舞台への登場なのだ。かくして虚像は架空の世界の中に完結する。叶わぬ理想や願望を映しこんだ幻を音楽の内に留めようとしたのがヴェルディの楽曲だとするならば、今回の演出は、云わばその返歌としての「虚像」を演劇的表象の内に立ち上げて見せた巨匠の力技である。冒頭に、演劇的な表象と音楽との拮抗と書いたのは、このような意味による。
(於.グランシップ・中ホール大地 2009.12.11所見)

2010年1月15日

『夜叉ヶ池』(宮城聰演出、泉鏡花作)

カテゴリー: 夜叉ケ池

『夜叉ヶ池』の劇構造
奥原佳津夫

SPACの『夜叉ヶ池』は、泉鏡花の名がイメージさせる日本的な情緒を拭い去った、無国籍なドラマとして立ち上がっていた。装置は簡素な屋台ひとつ、セリを使ったスピーディな展開―土の匂いを感じさせない現代演劇として演じられた鏡花戯曲は、その特殊性に向かうよりは普遍性に光があてられ、全編を覆う打楽器の音色も手伝って、汎アジア的な水神伝説の水脈に連なる様相である。演出者(宮城聰)は、旧来の新派や歌舞伎の制約から戯曲を解き放つ一つの方法を提示するとともに、戯曲に寄り添う丁寧な演出によって、小説に於いては、細部にこだわるあまり構成はバランスを欠きがちと評される鏡花が、その戯曲に於いては意外にも強固な劇構造を築いていることを再確認させた。

まず、家系的にも能楽と由縁の深い鏡花だが、その怪異ものと云われる小説には、語り手が伝聞によって物語る再話の形式が多く(よく知られたところでは『高野聖』『春昼』など)、ワキを介して異界が披かれる能の形式の影響が夙に指摘されている。この上演では、都会と山奥の物語とをつなぐ山沢学円(僧籍にある設定)を客席から登退場させているが、大詰、折り重なる主人公たちの骸に手を合わせる姿には回向のワキ僧の面影が濃く、上演の枠組みを固めた。また、雨乞いを断行しようとする村人たちが、手にした太鼓を一斉に叩き続ける演出は、閉塞的な連帯感や、権力者の横暴にも付和雷同する村落共同体の性質を明確に描いて、実に効果的であった。泉鏡花は、社会の通念や固定観念に抑圧された個人を描くことでそこに疑義を呈する、いわゆる観念小説で世に出た作家だが、やがて人間社会の軋轢をたやすく一蹴する存在として、異界の超越的な視点を作品に導き入れる。この『夜叉ヶ池』でも、もちろん白雪姫ら異界の者たちは、人間界の価値観、現世の桎梏をはるか高みから見下ろすアンチテーゼであるわけだが、その意味では、鏡花は破壊すべき対象を実に正確に見定めていた、と云えるだろう。

こうしたドラマの構造が明確になったについては、分かり易さを心がけたであろう演出もさることながら、再演を迎えて、俳優陣の演技がこなれてきたことの功も大きい。初演時には、鏡花の言葉に喋らされている観もあったが、特に学円を筆頭に、晃、百合との場も消化されて胸に落ちる台詞になった。そのため、続く妖怪たちの場面との演技の質の違いが克明になり、結果、どこか人形めいて切れ切れな台詞を語る百合が、人間界と異界との境にある存在であることが際立った。夜叉ヶ池の魔物たちは、人間界に隣接して棲んでも直接交わることはない。白雪姫が百合の唄声に心動かされるように、ただ白蛇に魅入られたとも噂される彼女を通じて、その消息を聞くばかりである。図式化するなら―つまり、固陋な村人たちと対極をなす異界の者たちの間に一本の線を引けば、その中間点に位置するのが百合であり、そして、客席の我々が棲む現実世界から、自身物語と化した晃を訪ね、舞台上の異界へ踏み入る学円の足取りをもう一本の線とするならば、二本の線の垂直に交わるところに、この『夜叉ヶ池』のドラマは広がっているのだ。

一方、魔物たちの描写には、物足りぬものがないでもない。鯉、蟹、鯰の精霊は、ユーモラスな被り物めいた衣装の女優たちによって屈託なく演じられ、作品全体の印象を軽いものにしており、現代的な意匠としてそれなりに評価できるのだが、今回の再演では、白雪姫までも初演時の好演に比べ幼く演じられているのが気になった。周りの眷属たちとは釣り合いが取れて、作品全体の色分けとしては明瞭なのだが、その恋の情熱には、ある種デーモニッシュなものが必要なのではないだろうか?原戯曲大詰のト書きに、村人たちに「立ちかゝつて、一人も余さず尽く屠り殺す」とあるように、この魔物たちは禍々しい荒神でもあるのだ。そうした残酷さ、グロテスクさも鏡花の資質のうちであり、彼の描く異界の者は、人間世界の尺度の届かぬ曖昧さのうちにある。村人たちが百合を襲う場のスリリングな立ち回りや、大詰のスペクタクルの爽快さなど、見所も工夫され上質のエンターテインメントに徹した上演に、欠けたものを求めればやはりこの部分であろう。

基本的にストーリーラインに沿った演出だが、唯一の改変はラストシーン―「晃、お百合と二人~熟と顔を見合わせ莞爾と笑む」という主人公たちの彼岸の幸福を示すト書きを削除した、というより、執拗なまでにこのト書きに逆行したことである。白雪姫が語りかけても自刃した二人は伏したまま。演出者は、甘すぎる幻想に都合よく身を任せず、距離を置くように現実を対置したのであろうし、その点は納得できるのだが、カーテンコールの間も遺体として留まり続けるのは、念が入りすぎて却って奇異である。
(於.静岡芸術劇場 2009.11.1所見)

2010年1月12日

『ドン・ファン』(オマール・ポラス演出、ティルソ・デ・モリーナ、モリエール他原作)

カテゴリー: ドン・ファン

ドン・ファンとドン・ジュアンの折衷の末路
―オマール・ポラス構成・演出『ドン・ファン』劇評

森川泰彦

この舞台の基本戦略は、前回の『スカパンの悪だくみ』や前々回の『プンティラ旦那と下男マッティ』と同様、高度な舞台造形技術を駆使した「幻想的笑劇」である。今回は演出家子飼いの劇団での公演ではなく、短期滞在による日本人の俳優・スタッフとの創作ということで、その造形の水準に一抹の不安があったのだが、幸い全くの杞憂に終わった。

赤茶色の板を敷き詰めた床面と、微妙な変化を帯びた様々な単色に彩られる背景幕に包まれた抽象的空間が、立ち上がる幻想の基盤である。そこに玉座や衝立といった最小限の事物が適宜配置され、幕が巧みに使用される。原色の醸し出す華やかさを残しつつも複雑な色合いを交えて質感を高めたそれらは、簡素だが豊穣なポラス的空間を具体化してゆく。そして役者の顔立ちを残しながらも誇張した半仮面が、彼(女)らを脱人種化しつつ、その身に纏う装飾性に富む衣装と共にかかる異空間に溶け込ませる。そこにテアトロ・マランドロ的身体が見事に展開されたのだが、お手本とすべき映像があったにせよ、短期間であそこまで習得していることには驚かされた。外国人の演出の際に時折起きる台詞回しの不統一もなく、その聞き取りに苦労はいらない。それらを前提に、ティスベアの嘆きなど例外もあるが、小柄な役者の演じるふんぞり返った国王や原作にはないドン・ファンの女装など、秩序転倒的な身体技に基づく練り上げられた可笑しさが、次から次へと繰り出されてゆくのである。まるで生命を持つかのように動く杖の曲芸的な使用や、絶妙のタイミングで騒々しく撒き散らされる金物がかき立てる混乱感、物音に呼応して小さく飛び上がってはドスンと落ちる役者が錯覚させる大地の揺れなど、細かい芸の積み重ねも素晴らしい。またエルビラの訪問の場面では、清楚なポワントで入場した彼女のトゥシューズを脱がせて収蔵品とする仕草により、ドン・ファンの説教への無関心と彼女への欲望の再燃、さらにはその欲望の幻影追求的性格を美的洗練の内に象徴してみせた。そして、舞台上空を覆う石像の出現は仕掛けの楽しさで最後を盛り上げ、幻のごとく一瞬で消える回転する逆さ吊りで示されたドン・ファンの地獄落ちが、その残虐美によって幕切れに強い印象を残すこととなったのである。

しかし他方で、この舞台からは前二回にはない中途半端さが感じられた。そしてその原因は、個々の舞台形象というより、それらが表象する物語全体の構成にある。今回用いられた台本は、ティルソ・デ・モリーナの『セビーリャの色事師と石の招客』を基に、後半を中心にモリエールの『ドン・ジュアン』を取り入れたものである。それは、前者にある結婚による解決というカーニヴァル的回復の常套手段を取り払い、モータ侯爵を同じくドン・ファンの友人で恋人がその標的となるオクタビオ公爵に吸収させるなど、その簡略化・単純化を図る一方、金貨を餌に極貧の信仰者に瀆聖を迫る場面を導入するなど、後者に強く見られる不信心の主題を強調する。確かにテクストは巧みに繋げられており、造形の卓越もあってそれほど大きな瑕疵は見えない。しかし基盤となった前者のドン・ファンが、臨終に告解すれば足りると考える愚かな信者に過ぎないのに対し、後者のドン・ジュアンは確信犯的無神論者である。苦言も呈するが基本的に主人の同志であるカタリノンと、絶えず主人に抵抗を試みるスガナレルの差も大きい。こうした異質な人物の折衷は新たな創造となっておらず、逆に彼らの性格や相互関係を曖昧にすることで、各々の長所を相殺しているのだ。殊にそれは、結末で告解の機会を与えられなかった部分の省略と相まって、性格不明のプレイボーイの大袈裟な破滅を印象付けることになった。その最期は、物語の表層を疾走するトリックスターの最終的な加速に必要な軽さも、信念あるリベルタンの超越的な殉死ないし享楽(ラカン)への突進に不可欠の重さも、共に欠いていたのである。

また『ドン・ジュアン』の切り貼りは、さほど効果的なものとならない。というのもこの作品の特長は、「言葉」とそれに対応する「行為」の乖離という主題の下に、豊かな細部が構築されていることにあるからである。結婚を誓って女を騙すドン・ジュアンは、同様に借金取りの家族を気遣って見せ、父の前で改心したふりをし、神を口実にエルヴィールの兄の追及をはぐらかす。そしてスガナレルも、主人を怒らせまいと一般論を装って諌め、あるいは堂々と批判しようと試みたものの体が言葉についていかないか、支離滅裂の論理展開になってしまう。また主人の非道を非難する彼自身が、己の借金を踏み倒そうとする。この劇においては、こうした言行不一致の数々が、悪漢の企みが煽り立てる背徳的快感や道化の振舞いがもたらす滑稽感など時に思索へ誘いもする多様な情動を引き起こしつつ、複雑に変奏されてゆくのである。かかる主題論的統一の下に置かれることで、この芝居で発せられる全ての言葉は疑惑の眼で眺められるようになる。エルヴィールが「真心」から悔い改めを説くのも、まさにダ・ポンテのオペラ台本で顕になっているような「夫」への激しい欲望と一縷の希望、それを否定せんとする葛藤を秘めての行いであることが、その言葉とは裏腹に暗示されてしまうのだ。しかし言行不一致をめぐる主題の布置を欠く今回の上演では、このような建前と情念の二重性の軋みは現れにくい。

そして作品全体に張り巡らされた連関が生み出すこの疑念は、まさにドン・ジュアンが戦った現世での信仰に対する来世での神の保証をも揺るがすものである。彼がはっきりと口にする偽善者の言行不一致だけでなく、神の言行不一致(その救済の否定)さえもが、彼個人の見解を超えて構造的に語られることになるからだ。一見、不信心者の処罰によって正しき秩序が取り戻されるかに見せかけつつ、その背面で不信による信の破壊を示してしまう、ここにこの劇の凄さがある。それは、代弁者をこしらえ上げて自己の信念を宣伝させたり、敵を戯画化して溜飲を下げるといったレヴェルの「批判」ではない、芸術を構成する宗教批判なのだ。しかし今回の摘み食いが付け加えたのは中途半端な重みであり、そこにかかる凄みはない。

結局わざわざ折衷テクストを作る必要などなく、単にどちらかを使えば良かったのだと考える。ティルソなら、原作の持つ「格調」に対するドン・キホーテ的パロディとして独自に一貫し得ただろう。この舞台でも、ティルソの部分では概ね表層的な笑劇性が維持されていた。その路線ならば、騙してきた女が差し出したように死神に騙されて差し出した手を摑まれ、秘蹟に与れず地獄落ちするという回帰的落ちで、何ら不都合はあるまい。モリエールにも大いに期待できよう。元々道化役のスガナレルの活躍の余地は大きく、ピエロまでいる。そしてポラス的笑劇化は、哲学的深遠と隣り合わせの対話とも両立しうるばかりか、信と不信の矛盾と反転を際立たせたどす黒い笑いの世界を、運動感豊かに創出しえたはずなのだ。
(2009年10月11日観劇)