劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】中学生と観た『夜叉ヶ池』鈴木麻里さん

■準入選■

中学生と観た『夜叉ヶ池』

鈴木麻里

 制作担当者からの挨拶と諸注意を経て溶暗すると、ホール内にどよめきが広がり拍手が起こった。文化祭の日の体育館を思い起こさせる様な熱気である。


晃    水は、美しい。何時見ても……美しいな。
百合  えゝ。
晃    綺麗な水だよ。

 今しも入水するところのうら若き男女が走馬灯の様に見た夢として『夜叉ヶ池』のドラマを捉え、現実の二人が没する様を戯曲冒頭の台詞に重ねた場面で幕が開く。
 女に男が重なって倒れ込む。中学生たちは瞬間息を呑み、「ヒュー!」と意気がる様に冷やかした。
 紗幕に「夜叉ヶ池」と投影されると「おおっ」とどよめき、映画のエンドロールよろしくキャストやスタッフの名前が流れる間、期待高まる様子でさざめきが止まらない。晃と百合が戯れることひとしきりあって学円が客席から登場すれば、出オチのごとく皆が笑う。

 晃と学円が百合を残して家を立つ場面までは好き勝手に声を出していた生徒たちが変化を見せる。
 威勢良く飛び出してきた村の百姓与十が横抱きにするのは、巨大な緋鯉である。捕獲にはしゃぐのを襲い退散させたのは、大蟹であった。
 ふくふくと綿入れしてけばけばしい重量感をまとった鯉七、硬質でがりがり細長い脚と鋏を持つ大蟹五郎、かたや消化管の底からこすり上げる様な重たい声で力強く、かたや関節をコキコキ鳴らす様な弾んだ声で軽やかにと風変わりな台詞回し、各々どしどし暴れたりちょこまか駆け回ったり人間離れした様に、客席は押し黙っている。
 そこへふらふらと鯰和尚、剣ヶ峰の公達が夜叉ヶ池の姫君に宛てた恋文を持参するも子細あって文箱の封を切るに、何とそこから当の白雪姫と万年姥が現われる。ト書きにてセリで登場するところ会館の機構で叶わぬのを惜しんで待ったが、薄煙を分けてゆっくりと二人歩み出る様に、会場は一層深く静まり返った。


白雪  ふみを読むのに、月の明は、もどかしいな。
姥   御前様、お身体の光りで御覧ずるが可うござります。
    (……)
白雪  可懐しい、優しい、嬉しい、お床しい音信を聞いた。……姥、私は参るよ。

 姫の台詞回しは、たおやかと言うよりずっとお転婆である。
 異様な存在の相次ぐ登場に、観客は非日常的な雰囲気を味わうことに目を奪われて、物語から置いてけぼりを食う事態になり兼ねない。緩急の効いた所作で池の主としての際立った存在感を保ちながらも人間らしくやや身近に感じられる白雪姫の役作りは、そこで語られる言葉の内実、女の想いに観る者が心を留めて耳を傾ける助けになる様に思われた。


白雪  人の生命の何うならうと、其を私が知る事か! ……恋には我身の生命も知らぬ。……姥、堪忍して行かしておくれ。

 姫が剣ヶ峰行きを思い留まるのは、百合の子守唄に聞惚れ、いなされてのことである。


白雪  思ひせまって、つい忘れた。……私が此の村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい(……)此家の二人は、嫉ましいが、羨ましい。姥、おとなしうして、あやからうな。

 百合は序幕より非常に抑制の効いた細い声でせりふを語り、吹いたら消えてしまいそうな儚く美しい生命を燃やし続ける女といった風情が人間離れして感じられるほどであった。互いの住む世界が交じり合う厳かで幻想的な場面であり、役作りの対比も印象的である。

 お百合が村人たちに追われ家に駆け戻る。雨乞に生贄を捧げんと彼女を捕えに掛かる村人は団扇太鼓を打ち鳴らして男ばかり一致団結、全て女優によって演じられていた妖怪たちの場面とは趣の異なる迫力と緊張感を湛えている。
 客席はこの場に変わると少しざわつき、大きな声で「暑い」と私語する生徒まで出てきた。
 虚構の登場人物には違いないが、村人たちは私たちと近い感覚を持った等身大の存在である。中学生たちは、無意識にほっとしたのではないだろうか。妖怪たちは人智を超えた「日常生活で決して出会うことのない者たち」である。自分たちの「理解」が及ぶ等身大の世界へ場が戻り、お互いの消息を確かめ合う隙を手にした。

 お百合危うしの処で晃と学円が帰る。晃には出て行け生贄は置いて行けと主張する村人に立ち向かうも一同追いつめられたところで、女は愛する者の命を危ぶみ鎌で自刃した。衣の白地を赤く染める血糊に、一気に客席が凍った。

 私たちには百合の行動をあたたかく受け止めることが出来なかった。理解できない現象に遭遇して畏れたという方が正確である。等身大だった存在が、非等身大の世界へと踏み出した。
 晃も自ら命を絶つ。彼方上方に白雪姫一行が現れて、晴れやかに賑々しくパーカッションでリズムを奏でている。村人たちは固まって絵になった。ここで観客に届けられているのは、意味ではない。体に響くビートが心臓マッサージの様にして、分からないことを分からないまま受け止めるこの時間の中に私たちを生かしてくれている。

 静岡県芸術劇場での鑑賞事業は充実した設備や環境のもとでの上演が可能であり、中高生にとっても普段出掛けることの少ない専門的な劇場に詣でる機会となる。出張公演には上演側の苦心がある一方で、中学生自身が実際に生活する地域のホールが異空間と化す様を目の当たりにした、得難い経験になったのではないだろうか。それは幕開きからヒトとして時を共にしてきた百合がにわかに「わからない」世界へ足を踏み出す瞬間に立ち会ったことと似ている。


参考文献
泉鏡花『夜叉ヶ池』(1979年8月、講談社)
宮城聰「二十代の俳優へ」(『季刊演劇人 5号』所収、2000年7月、舞台芸術財団演劇人会議)

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】平井清隆さん

■準入選■

平井清隆

 『夜叉ヶ池』は、泉鏡花が大正2(1913)年に発表した戯曲である。今公演に当たり、オープニングクレジットで、あえて時代は「現代」と記されていた。およそ100年も昔に書かれた作品がなぜ「現代」なのか?
 ひとつには、幽玄ともファンタジックとも評される鏡花の作風によるところも大きい。この世とあの世を結ぶ黄昏時のごとき色彩を帯びた独特の世界観は、時間や空間と言う軛から解き放たれている様に思える。また、「紡ぐ」という表現に相応しい鏡花の日本語の美しさも要因であろう。鏡花の織成す言葉は、聞く者、読む者を作品世界へと誘う妖しくも抗う事の出来ない魔力を持っている。だが、無論、それだけではない。
 物語は、ほぼ、晃と百合の住む山里の小さな小屋で進む。晃は、鐘楼守の弥太兵衛の死に目に会った事と、なにより百合の美しさに魅かれ、自らが鐘楼守となった。百合の美しさは、見目だけではない。琴弾谷に流れる清流を思わせる清らかな心根の美しさが、晃をこの地に留め、「物語の人」ならしめたと言える。百合の心は、人が本来備えている、或は、求めている心の美しさなのかもしれない。
 しかし、百合は、必ずしも「人」とは言えない。人と、人ならざる者の間に属する、それこそ黄昏時のような存在である。また、百合の心根を清流にたとえたが、百合の存在そのものが清流であり、自然の代名詞であるとも考えられる。晃と百合の、凛とした透明感のある演技が、それを一層際立たせている。
 人が、人ならざる者の声を聞く術を失って久しい。鐘楼守の後を引き受けることを一笑に付した鹿見村の村人を我々は笑えない。鹿見村の村人は、まだしも、暗闇に怯えることもあったろう。しかし、私たちは、自然に対する「畏れ」すらなくしてしまっている。自然を思うがままに作り替え、天災も人智で防げると思い込んでいる。百合という「いけにえ」で旱魃を逃れようとした村人と、科学・技術という蟷螂の斧を振りかざす私たちとの間に違いはない。村人の姿は、自然を破壊し、自然からしっぺ返しを受ける私たち現代に生きる者の姿そのものではないだろうか。
 だが、村人も真剣ではある。いけにえの儀式に託け、百合を裸に剝こうとする辺りは、下卑た笑い声とともに、人の愚かさ醜くさを端的に表している。しかし、旱魃から逃れ、生き抜こうとする点においては、真剣そのものである。それがたとえ、百合に命の犠牲を強いる身勝手なものであったとしても、破滅に導く引金を自らの手で引く事であったとしても、である。集団心理やエゴによって、いとも容易く狂気に走る様は、効果的に使われた手太鼓の音が鳴るたびに、観る者に恐怖を与える。その恐怖は、私たちの内に潜む醜い面が太鼓の音に共鳴しているのかもしれない。そう思うと、一層、背筋の凍る思いがする。
 一方で、白雪姫とその一党たち、すなわち人ならざる者は、徹頭徹尾、滑稽と言える程ユーモラスに描かれている。晃の百合への想いの真摯さや、村人の狂気とあまりに対照的である。
 白雪姫が鐘の約束を恨めしく思うのも、格別に森羅万象の理に関わるような大仰なものではない。愛しい剣ヶ峰千蛇ヶ池の君の元に行きたいというだけである。その恋とて、ユーモラスな演技と相まって、一世一代の身を焦がす様なものであるとか、魂の片割れを求めるなどと言う様な重厚さは欠片もない。イケメンタレントの「おっかけ」という風情すら漂う。晃と百合の愛の持つ緊張感とは対極にあるように描かれている。白雪姫の出立によって村里が水に飲み込まれる恐ろしい筈のラストシーンですら、コメディでしかない。
 人ならざる者から見れば、人の営み、生死すらも、ちっぽけで、滑稽で、児戯のようなものであるのかもしれない。それは、東日本大震災や九州の長雨などの自然の猛威を目の当たりにした私たちに逆説的に訴えかけてくるように思える。
 舞台の場面ひとつひとつが、現代を生きる私たちに、根源的な課題を問いかけてくる。なるほど、100年も昔のことではなく、現代と言って何の差支えもない。
 全体が、山沢学円という記録者の目を通すことで、客観性・普遍性を持たされていることも見逃せない。唯一、客席から登場し(この登場も秀逸である)、客席へと退場するのも、「物語の人」ではない事を示すものであろう。
 しかし、なにより感じたのは、理屈や解釈ではない。自刃した百合を追い、自ら首元を掻き切り百合と共にある事を選んだ晃。二人の、琴弾谷の清らかな水のごとき愛に殉じた姿を見た者は、その心を動かさずにはいられない。その心の動きこそが、古今を超え、東西を問わず、人が人である証であると言えよう。それこそが、「現代」でも色褪せる事のない、人としての心情なのだと思う。
 晃は言う、「水は美しい」と。至言である。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】松竹由紀さん

■準入選■

松竹由紀

 百合は、何故カツラを取らなかったのだろう?

 山沢が登場し、萩原がカツラを取って懐かしく登場するシーンだ。
 この時、私は、当然、百合もカツラを取るだろうと思って見ていた。
 ところが、彼女はカツラを取らなかった。どうしてカツラを取らなかったのか、初っ端から感覚的な躓きを覚えたが、答えはそのうちに分かるだろう。と、思い、軽く流して最後まで見続けていた。
 話が進むにつれて、百合が、萩原を心から愛し、離れたくない気持ちでいたのは、よくわかった。日本人の奥ゆかしい、静かな愛を持つ女性なのだと私なりに理解した。しかし、どれも、その時カツラを取らなかった理由とは全く繋がらないまま、消化不良の状態で終演してしまったのだが、初っ端の感覚的な躓きは、その後の劇中でも続いていた。

 それは、生贄にする百合を捕える村人達が太鼓を叩くシーンだ。

 あれは、とてもとても長い時間だった。村人たちが叩くあの太鼓のリズム。はじめのうちは、特別なにも感じなかったが、徐々に耳が不快感を訴えてきた。あの響き、単調なリズムの繰り返しは、私の中の恐怖を呼び起こした。そのうちに見ていて気持ちが悪くなってきたのだが、この身体の反応も、演劇を見る醍醐味だと、たっぷり気持ち悪くなりながら見ていた。早く終わってくれないかな!と、思っていた。
 集団は怖い。太鼓の音、響き、単調なリズム、そして人々の思いは、恐怖を生み、さらなる恐怖を煽るのだということを初めて体験した。
 恐怖だけではない、生贄に関しては、怒りさえ感じて、体が熱くなった。
 終演後、席を立った後も、その感覚は残っていて、少し気持ちが悪かった。

 2階のカフェに移動し、出演の役者さん達が続々とご挨拶に回っているのを眺めていると、山沢役の奥野さんと話せる機会を得た。良い機会だったので、なぜ百合はカツラを取らなかったのか、聞いてみた。
 奥野さんは、まず、夜叉ヶ池の演目についての説明とともに、カツラを取らない女心などを熱く語ってくれた。たくさんのヒントがあった中で、私が印象的だったのは、
 「百合は、山沢が萩原を連れて行ってしまうのではないかという不安が大きかった。」
 と、いうことである。
 「不安」だったのか。
 雨乞いのための生贄、洪水を防ぐための鐘楼、すべては「不安」で繋がっている。私には、そんなふうに見えてきた。人間の不安。泉鏡花の表現の一部を得られた感じがして、やっとスッキリした。

 ただ単純に、愛する人と一緒に村を出てしまえば良いじゃないの。と、思う私だったが、「不安」を表したものだとしたら、やはりカツラは取らなくて良かったのかもしれない。
 現代を、軽い感覚で生きている私には、理解の及ばないところだった。
 
 
 百合が、カツラを取らなかった理由について、もうひとつ、ユニークな見解を聞いたので書いておきたい。この劇に誘ってくれた、新居町の寺田さんだ。NPO法人 新居まちネットでリーディングカフェを開催した面白いおじ様である。
 その寺田さんの見解はこうだ。
 「昔と今との時間の違いを表現したものだと解釈していた。」
 そういった感じのお話だったと思うが、とにかく「時間」を表現したということだ。
 私にはまったく思いつかなかった発想だ。言われてみると、昔と今の違いを白髪のカツラで表現しているのだと言われる方が、私の感覚の中でも、しっくりとくる。
 見方は1つじゃない。もっとたくさんの人からの意見も聞いてみたいと思った。

 今回は、1つのシーンから2つの解釈が得られた。
 初っ端から感覚的な躓きを抱えたままでいた私には、どちらの理由にせよ、カツラを取らなかったのには意味があると分かって、落ち着いた。あの不快だった太鼓の響きでさえ、 「人間の不安」に対する理解を半ば強引に広げ、深めてくれたのだ。

 決して、最後にスッキリ爽快!という展開ではないが、私の心には、人間の中の不安について目を向ける方法が分かった作品である。

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】福井保久さん

■準入選■

福井保久

 宮城聰さんの演出には、様々な要素があり、一度の鑑賞で全部をとらえきるなんてとってもできませんが、場面ごとに劇の真意を匂わせる音楽、緊張からふっと息を抜くユーモア、そこから急にシリアスな演出への転換、そして、光と闇を織り交ぜての役者さん達の動き、観ているだけで楽しいし、深さを感じざるを得ません。
 そして、十分な稽古を重ね洗練されたSPACの演劇にはいつも感動させられます。今回の夜叉ヶ池も素晴らしい演劇でした。

 夜叉ヶ池は、3つ立場の人達で構成されています。
 村の人々、魔界の者達、そして、夜叉ヶ池からなみなみと溢れる清水の麓で、両者を橋渡しする夫婦(正確には夫婦ではないかも)です。
 村の人々の生活と心は平穏な状態から、深刻な日照りが続くことにより変わります。それは当然3者の動きとなります。
 それを見届けるのは、観客を代表する京都の大学講師です。彼の視線で物語が始まり終わります。

 3者がそれぞれメインになる舞台で三者三様の演出があります。

 夫婦と大学講師の場面は、良き人の営みと、悪意がない人の嫌らしさと純な心を伝えます。
 夫も妻も自らの仕事を自覚して淡々と続けています。講師がやってきてもです。また、その講師とのやり取りでは、妻は思いやりとちょっとした悪意の両面を見せます。夫と講師の再会では、懐かしさを感じさせます。この場面には、平穏なことに隠れた貴さが現れています。

 魔界の場面は、宮城さんがユーモアを交えた楽しい演出が光ります。
 その中には魔界の姫がいて、彼女は純粋な心の持ち主です。恋のために全てを捧げる心と、約束(義理人情)を曲げられない姿勢を見せます。姫の周りには鯉、蟹、鯰の妖怪達がいます。グロテスクで仕草が可愛い妖怪達は、姫と同じく純な心を持っています。そこには心の中は外観からは伝わらないというメッセージを感じます。

 村の人々は7人です。政治家、金持ち、教師、神主、農民、ヤクザ、従順な人、世の中を凝縮した人選です。ごく普通の社会に属するそれらの人が、生死の危機を感じた時にとる行動は、魔界の姫の純粋な行動とは真逆でした。
 姫は愛する者のために己を命を厭わないのに対して、村人は己の命のために女(妻)を生贄にします。
 人はこうなるのが常です。
 けれど、魔界の姫の姿も人が創る象徴で、両者はどちらも、人が自ずから持ち合わせた心です。

 だからこの演劇は、人の嫌らしさの極みをみせながら、人の善をも匂わせます。
 人の嫌らしさは、村人が夫婦に、女が生贄になることを迫る行為で表現され、そのピークになる場面の音と迫力は圧巻でした。

 村の人々と魔界の橋渡しをする夫婦が結局は、犠牲になるのですが、何故やり玉に挙げられたのか。それを考えると悲しくなります。
 二人の暮らしは人々にとっての理想像です。だからやられたんだろうと思わずにはいられないからです。

 人には嫌らしさと純粋さの両面があります。その中で、嫌らしさの顔が現れるとそれは徹底されていきます。
 多分夫婦は、村が日照りで困る中でその影響が比較的少なかったのでしょう。決して裕福な暮らしではないけれど、生活に困らない人の揚げ足を取るのが人の性です。そして村人の嫌らしさが助長されたのは、二人が睦ましかったからです。
 7人の村人の中には金持ちがいます。だけど、金持ちでない夫婦がやられるのです、金持ちはやられずに。
 人が持つ嫉妬も生贄を選ぶ大きい一因です。
 それと、誰かを生贄にしようという共通意識の中では、生贄にしやすい者を求めるという安直さが幅をきかせます。その安直さがあたかも行為を正当とする見せ掛けの正義となり、村の共通意識を、誰も疑わなくなります。

 村人が夫婦を責める時、安直に総意した村人の意識が、彼らの行為を推し進めることに正当性を与え、夫婦に女が生贄になるよう言い聞かせ迫ります。そこが圧巻でした。

 この狂った村は葬られます。村人はやり過ぎたからです。魔界(自然)は村人を罰したのではなく、やり過ぎたことに対して自然調整しただけです。神が制裁を加えたのではなく、行き過ぎた村人の行為の末の自然の成り行きでしかありません。
 それを講師は見届けます。私達に見届けて欲しいようにです。

 純粋だった魔界の姫は我が意を得て、恋する者の下に晴れていくことができます。村人、夫婦とは違う皮肉な結果です。
 そして姫はラストに、天空から廃墟になった村を眺め、寄り添いながら死んだ夫婦に語りかけます。けれど夫婦は動き出すことはありません。
 それを見て講師は客席に消えます。私達の下に戻ります。そしてカーテンコールです。
 けれど、夫婦はそのまま動きません。

 このラストは非情です。でもみせかけの非情な演出だと感じました。
 私は心の中で「動くな」と言いながら、素晴らしい俳優(夫婦を除く)達に拍手を贈りました。
 非情に見える演出は、取り戻せない事は常。大きいことも小さいことも。(宮城さんの意図はわかりませんが)私はそう受け止めました。
 そして、それを持ち帰ることが私にとってのこの演劇でした。

2010年1月15日

『夜叉ヶ池』(宮城聰演出、泉鏡花作)

カテゴリー: 夜叉ケ池

『夜叉ヶ池』の劇構造
奥原佳津夫

SPACの『夜叉ヶ池』は、泉鏡花の名がイメージさせる日本的な情緒を拭い去った、無国籍なドラマとして立ち上がっていた。装置は簡素な屋台ひとつ、セリを使ったスピーディな展開―土の匂いを感じさせない現代演劇として演じられた鏡花戯曲は、その特殊性に向かうよりは普遍性に光があてられ、全編を覆う打楽器の音色も手伝って、汎アジア的な水神伝説の水脈に連なる様相である。演出者(宮城聰)は、旧来の新派や歌舞伎の制約から戯曲を解き放つ一つの方法を提示するとともに、戯曲に寄り添う丁寧な演出によって、小説に於いては、細部にこだわるあまり構成はバランスを欠きがちと評される鏡花が、その戯曲に於いては意外にも強固な劇構造を築いていることを再確認させた。

まず、家系的にも能楽と由縁の深い鏡花だが、その怪異ものと云われる小説には、語り手が伝聞によって物語る再話の形式が多く(よく知られたところでは『高野聖』『春昼』など)、ワキを介して異界が披かれる能の形式の影響が夙に指摘されている。この上演では、都会と山奥の物語とをつなぐ山沢学円(僧籍にある設定)を客席から登退場させているが、大詰、折り重なる主人公たちの骸に手を合わせる姿には回向のワキ僧の面影が濃く、上演の枠組みを固めた。また、雨乞いを断行しようとする村人たちが、手にした太鼓を一斉に叩き続ける演出は、閉塞的な連帯感や、権力者の横暴にも付和雷同する村落共同体の性質を明確に描いて、実に効果的であった。泉鏡花は、社会の通念や固定観念に抑圧された個人を描くことでそこに疑義を呈する、いわゆる観念小説で世に出た作家だが、やがて人間社会の軋轢をたやすく一蹴する存在として、異界の超越的な視点を作品に導き入れる。この『夜叉ヶ池』でも、もちろん白雪姫ら異界の者たちは、人間界の価値観、現世の桎梏をはるか高みから見下ろすアンチテーゼであるわけだが、その意味では、鏡花は破壊すべき対象を実に正確に見定めていた、と云えるだろう。

こうしたドラマの構造が明確になったについては、分かり易さを心がけたであろう演出もさることながら、再演を迎えて、俳優陣の演技がこなれてきたことの功も大きい。初演時には、鏡花の言葉に喋らされている観もあったが、特に学円を筆頭に、晃、百合との場も消化されて胸に落ちる台詞になった。そのため、続く妖怪たちの場面との演技の質の違いが克明になり、結果、どこか人形めいて切れ切れな台詞を語る百合が、人間界と異界との境にある存在であることが際立った。夜叉ヶ池の魔物たちは、人間界に隣接して棲んでも直接交わることはない。白雪姫が百合の唄声に心動かされるように、ただ白蛇に魅入られたとも噂される彼女を通じて、その消息を聞くばかりである。図式化するなら―つまり、固陋な村人たちと対極をなす異界の者たちの間に一本の線を引けば、その中間点に位置するのが百合であり、そして、客席の我々が棲む現実世界から、自身物語と化した晃を訪ね、舞台上の異界へ踏み入る学円の足取りをもう一本の線とするならば、二本の線の垂直に交わるところに、この『夜叉ヶ池』のドラマは広がっているのだ。

一方、魔物たちの描写には、物足りぬものがないでもない。鯉、蟹、鯰の精霊は、ユーモラスな被り物めいた衣装の女優たちによって屈託なく演じられ、作品全体の印象を軽いものにしており、現代的な意匠としてそれなりに評価できるのだが、今回の再演では、白雪姫までも初演時の好演に比べ幼く演じられているのが気になった。周りの眷属たちとは釣り合いが取れて、作品全体の色分けとしては明瞭なのだが、その恋の情熱には、ある種デーモニッシュなものが必要なのではないだろうか?原戯曲大詰のト書きに、村人たちに「立ちかゝつて、一人も余さず尽く屠り殺す」とあるように、この魔物たちは禍々しい荒神でもあるのだ。そうした残酷さ、グロテスクさも鏡花の資質のうちであり、彼の描く異界の者は、人間世界の尺度の届かぬ曖昧さのうちにある。村人たちが百合を襲う場のスリリングな立ち回りや、大詰のスペクタクルの爽快さなど、見所も工夫され上質のエンターテインメントに徹した上演に、欠けたものを求めればやはりこの部分であろう。

基本的にストーリーラインに沿った演出だが、唯一の改変はラストシーン―「晃、お百合と二人~熟と顔を見合わせ莞爾と笑む」という主人公たちの彼岸の幸福を示すト書きを削除した、というより、執拗なまでにこのト書きに逆行したことである。白雪姫が語りかけても自刃した二人は伏したまま。演出者は、甘すぎる幻想に都合よく身を任せず、距離を置くように現実を対置したのであろうし、その点は納得できるのだが、カーテンコールの間も遺体として留まり続けるのは、念が入りすぎて却って奇異である。
(於.静岡芸術劇場 2009.11.1所見)