■準入選■
中学生と観た『夜叉ヶ池』
鈴木麻里
制作担当者からの挨拶と諸注意を経て溶暗すると、ホール内にどよめきが広がり拍手が起こった。文化祭の日の体育館を思い起こさせる様な熱気である。
晃 水は、美しい。何時見ても……美しいな。
百合 えゝ。
晃 綺麗な水だよ。
今しも入水するところのうら若き男女が走馬灯の様に見た夢として『夜叉ヶ池』のドラマを捉え、現実の二人が没する様を戯曲冒頭の台詞に重ねた場面で幕が開く。
女に男が重なって倒れ込む。中学生たちは瞬間息を呑み、「ヒュー!」と意気がる様に冷やかした。
紗幕に「夜叉ヶ池」と投影されると「おおっ」とどよめき、映画のエンドロールよろしくキャストやスタッフの名前が流れる間、期待高まる様子でさざめきが止まらない。晃と百合が戯れることひとしきりあって学円が客席から登場すれば、出オチのごとく皆が笑う。
晃と学円が百合を残して家を立つ場面までは好き勝手に声を出していた生徒たちが変化を見せる。
威勢良く飛び出してきた村の百姓与十が横抱きにするのは、巨大な緋鯉である。捕獲にはしゃぐのを襲い退散させたのは、大蟹であった。
ふくふくと綿入れしてけばけばしい重量感をまとった鯉七、硬質でがりがり細長い脚と鋏を持つ大蟹五郎、かたや消化管の底からこすり上げる様な重たい声で力強く、かたや関節をコキコキ鳴らす様な弾んだ声で軽やかにと風変わりな台詞回し、各々どしどし暴れたりちょこまか駆け回ったり人間離れした様に、客席は押し黙っている。
そこへふらふらと鯰和尚、剣ヶ峰の公達が夜叉ヶ池の姫君に宛てた恋文を持参するも子細あって文箱の封を切るに、何とそこから当の白雪姫と万年姥が現われる。ト書きにてセリで登場するところ会館の機構で叶わぬのを惜しんで待ったが、薄煙を分けてゆっくりと二人歩み出る様に、会場は一層深く静まり返った。
白雪 ふみを読むのに、月の明は、もどかしいな。
姥 御前様、お身体の光りで御覧ずるが可うござります。
(……)
白雪 可懐しい、優しい、嬉しい、お床しい音信を聞いた。……姥、私は参るよ。
姫の台詞回しは、たおやかと言うよりずっとお転婆である。
異様な存在の相次ぐ登場に、観客は非日常的な雰囲気を味わうことに目を奪われて、物語から置いてけぼりを食う事態になり兼ねない。緩急の効いた所作で池の主としての際立った存在感を保ちながらも人間らしくやや身近に感じられる白雪姫の役作りは、そこで語られる言葉の内実、女の想いに観る者が心を留めて耳を傾ける助けになる様に思われた。
白雪 人の生命の何うならうと、其を私が知る事か! ……恋には我身の生命も知らぬ。……姥、堪忍して行かしておくれ。
姫が剣ヶ峰行きを思い留まるのは、百合の子守唄に聞惚れ、いなされてのことである。
白雪 思ひせまって、つい忘れた。……私が此の村を沈めたら、美しい人の生命もあるまい(……)此家の二人は、嫉ましいが、羨ましい。姥、おとなしうして、あやからうな。
百合は序幕より非常に抑制の効いた細い声でせりふを語り、吹いたら消えてしまいそうな儚く美しい生命を燃やし続ける女といった風情が人間離れして感じられるほどであった。互いの住む世界が交じり合う厳かで幻想的な場面であり、役作りの対比も印象的である。
お百合が村人たちに追われ家に駆け戻る。雨乞に生贄を捧げんと彼女を捕えに掛かる村人は団扇太鼓を打ち鳴らして男ばかり一致団結、全て女優によって演じられていた妖怪たちの場面とは趣の異なる迫力と緊張感を湛えている。
客席はこの場に変わると少しざわつき、大きな声で「暑い」と私語する生徒まで出てきた。
虚構の登場人物には違いないが、村人たちは私たちと近い感覚を持った等身大の存在である。中学生たちは、無意識にほっとしたのではないだろうか。妖怪たちは人智を超えた「日常生活で決して出会うことのない者たち」である。自分たちの「理解」が及ぶ等身大の世界へ場が戻り、お互いの消息を確かめ合う隙を手にした。
お百合危うしの処で晃と学円が帰る。晃には出て行け生贄は置いて行けと主張する村人に立ち向かうも一同追いつめられたところで、女は愛する者の命を危ぶみ鎌で自刃した。衣の白地を赤く染める血糊に、一気に客席が凍った。
私たちには百合の行動をあたたかく受け止めることが出来なかった。理解できない現象に遭遇して畏れたという方が正確である。等身大だった存在が、非等身大の世界へと踏み出した。
晃も自ら命を絶つ。彼方上方に白雪姫一行が現れて、晴れやかに賑々しくパーカッションでリズムを奏でている。村人たちは固まって絵になった。ここで観客に届けられているのは、意味ではない。体に響くビートが心臓マッサージの様にして、分からないことを分からないまま受け止めるこの時間の中に私たちを生かしてくれている。
静岡県芸術劇場での鑑賞事業は充実した設備や環境のもとでの上演が可能であり、中高生にとっても普段出掛けることの少ない専門的な劇場に詣でる機会となる。出張公演には上演側の苦心がある一方で、中学生自身が実際に生活する地域のホールが異空間と化す様を目の当たりにした、得難い経験になったのではないだろうか。それは幕開きからヒトとして時を共にしてきた百合がにわかに「わからない」世界へ足を踏み出す瞬間に立ち会ったことと似ている。
参考文献
泉鏡花『夜叉ヶ池』(1979年8月、講談社)
宮城聰「二十代の俳優へ」(『季刊演劇人 5号』所収、2000年7月、舞台芸術財団演劇人会議)