劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】福井保久さん

■準入選■

福井保久

 宮城聰さんの演出には、様々な要素があり、一度の鑑賞で全部をとらえきるなんてとってもできませんが、場面ごとに劇の真意を匂わせる音楽、緊張からふっと息を抜くユーモア、そこから急にシリアスな演出への転換、そして、光と闇を織り交ぜての役者さん達の動き、観ているだけで楽しいし、深さを感じざるを得ません。
 そして、十分な稽古を重ね洗練されたSPACの演劇にはいつも感動させられます。今回の夜叉ヶ池も素晴らしい演劇でした。

 夜叉ヶ池は、3つ立場の人達で構成されています。
 村の人々、魔界の者達、そして、夜叉ヶ池からなみなみと溢れる清水の麓で、両者を橋渡しする夫婦(正確には夫婦ではないかも)です。
 村の人々の生活と心は平穏な状態から、深刻な日照りが続くことにより変わります。それは当然3者の動きとなります。
 それを見届けるのは、観客を代表する京都の大学講師です。彼の視線で物語が始まり終わります。

 3者がそれぞれメインになる舞台で三者三様の演出があります。

 夫婦と大学講師の場面は、良き人の営みと、悪意がない人の嫌らしさと純な心を伝えます。
 夫も妻も自らの仕事を自覚して淡々と続けています。講師がやってきてもです。また、その講師とのやり取りでは、妻は思いやりとちょっとした悪意の両面を見せます。夫と講師の再会では、懐かしさを感じさせます。この場面には、平穏なことに隠れた貴さが現れています。

 魔界の場面は、宮城さんがユーモアを交えた楽しい演出が光ります。
 その中には魔界の姫がいて、彼女は純粋な心の持ち主です。恋のために全てを捧げる心と、約束(義理人情)を曲げられない姿勢を見せます。姫の周りには鯉、蟹、鯰の妖怪達がいます。グロテスクで仕草が可愛い妖怪達は、姫と同じく純な心を持っています。そこには心の中は外観からは伝わらないというメッセージを感じます。

 村の人々は7人です。政治家、金持ち、教師、神主、農民、ヤクザ、従順な人、世の中を凝縮した人選です。ごく普通の社会に属するそれらの人が、生死の危機を感じた時にとる行動は、魔界の姫の純粋な行動とは真逆でした。
 姫は愛する者のために己を命を厭わないのに対して、村人は己の命のために女(妻)を生贄にします。
 人はこうなるのが常です。
 けれど、魔界の姫の姿も人が創る象徴で、両者はどちらも、人が自ずから持ち合わせた心です。

 だからこの演劇は、人の嫌らしさの極みをみせながら、人の善をも匂わせます。
 人の嫌らしさは、村人が夫婦に、女が生贄になることを迫る行為で表現され、そのピークになる場面の音と迫力は圧巻でした。

 村の人々と魔界の橋渡しをする夫婦が結局は、犠牲になるのですが、何故やり玉に挙げられたのか。それを考えると悲しくなります。
 二人の暮らしは人々にとっての理想像です。だからやられたんだろうと思わずにはいられないからです。

 人には嫌らしさと純粋さの両面があります。その中で、嫌らしさの顔が現れるとそれは徹底されていきます。
 多分夫婦は、村が日照りで困る中でその影響が比較的少なかったのでしょう。決して裕福な暮らしではないけれど、生活に困らない人の揚げ足を取るのが人の性です。そして村人の嫌らしさが助長されたのは、二人が睦ましかったからです。
 7人の村人の中には金持ちがいます。だけど、金持ちでない夫婦がやられるのです、金持ちはやられずに。
 人が持つ嫉妬も生贄を選ぶ大きい一因です。
 それと、誰かを生贄にしようという共通意識の中では、生贄にしやすい者を求めるという安直さが幅をきかせます。その安直さがあたかも行為を正当とする見せ掛けの正義となり、村の共通意識を、誰も疑わなくなります。

 村人が夫婦を責める時、安直に総意した村人の意識が、彼らの行為を推し進めることに正当性を与え、夫婦に女が生贄になるよう言い聞かせ迫ります。そこが圧巻でした。

 この狂った村は葬られます。村人はやり過ぎたからです。魔界(自然)は村人を罰したのではなく、やり過ぎたことに対して自然調整しただけです。神が制裁を加えたのではなく、行き過ぎた村人の行為の末の自然の成り行きでしかありません。
 それを講師は見届けます。私達に見届けて欲しいようにです。

 純粋だった魔界の姫は我が意を得て、恋する者の下に晴れていくことができます。村人、夫婦とは違う皮肉な結果です。
 そして姫はラストに、天空から廃墟になった村を眺め、寄り添いながら死んだ夫婦に語りかけます。けれど夫婦は動き出すことはありません。
 それを見て講師は客席に消えます。私達の下に戻ります。そしてカーテンコールです。
 けれど、夫婦はそのまま動きません。

 このラストは非情です。でもみせかけの非情な演出だと感じました。
 私は心の中で「動くな」と言いながら、素晴らしい俳優(夫婦を除く)達に拍手を贈りました。
 非情に見える演出は、取り戻せない事は常。大きいことも小さいことも。(宮城さんの意図はわかりませんが)私はそう受け止めました。
 そして、それを持ち帰ることが私にとってのこの演劇でした。