劇評講座

2026年3月3日

SPAC秋→春のシーズン2024-2025■優秀賞■【象】小迫茉凜さん

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観られたい、見られたくない、その葛藤のはざまで
「放っておいていただきたいのです。そうして、むしろこの世に私が居る、ということなど忘れていただきたいのです。」
『象』の冒頭で男はそう語る。けれど、その男が立っているのは舞台の上である。この劇場の観客たちはじっと彼のことを見つめ、その言葉通りに忘れようとなんて思わない。見てほしくないのだと語る彼は、最初からそんな矛盾のもとにある。
それに対し、病人は頑なに「あの街」へ戻りたがり、またケロイドを見せ、誰かに殺され、そして皆にそれを悔やまれることを望み続けている。特別でありたいと望む彼は舞台の上へ姿を現し、じっと私たちの方を見つめ横たわっている。拍手を求める彼を私たちは静かに見つめ続ける。彼が覗き込むなと言うその眼をじっと覗き込み、観られたがる彼の内の苦しみを読み取ろうとする。彼もまた、私たちをそんな矛盾の中へ誘い込む。

この作品は、2024年9月に富山県南砺市利賀村においても上演されている。SCOT Summer Seasonの課題作として利賀村の創造交流館において上演された同作では、観客と役者の距離は静岡芸術劇場での上演よりも近かった。観客の座席の位置は役者以上に大きく高くなることはなく、観客はいわば人の視座をもって作品と直面することになった。
しかし静岡芸術劇場での上演では、舞台の広い奥行きや観客席の多さから、後方に行けば行くほど役者との距離は遠くなり、彼らを見下ろすような形になる。いわば、舞台上部に煌々と輝く月の視座に近づくのだ。私は今回の装置の変化によって、自分が劇中の人々を「見ている」という実感を強く持った。
見られたがらない男も、観られたがる病人も、ともに同じ人間であり、私はそれを等しく見つめていた。二人はそれぞれ相反する欲望を抱えているように見えたが、今こうして思い返してみると、むしろ二人は同じ呪いにかかっていたのかもしれない。それは「被爆者」というレッテルだ。
男は自分が「被爆者」であるために特別扱いをされることを嫌悪していた。何でもない普通の人とおなじようにありたがっていたのだと思う。冒頭から自分は健康であると主張し続けていた彼は終盤でいよいよ入院に至る。
この彼の台詞の中で特に印象的なのは、病人のケロイドに触れたがった女の子をめぐるエピソードだ。男は一度、女の子は生きていると病人に話す。しかし入院した後で、「あれはウソだったんです」と病人に打ち明ける。彼の言葉を信じるのであれば、被爆者という自己からも女の子の死からも目を背けてきた彼がそれを認めるに至ったという物語を受け取ることができる。しかし彼はその先において、「ジタバタするのはやめましょう」と話し、病院の中で死んだように過ごすことを受け入れる。彼のこの姿は、ようやく見つめた被爆者としての自己に対する諦めのようにも思われる。
それに対して病人は原水爆禁止大会の際のエピソードを持ち出し、見物人たちが彼の眼を覗き込もうとするのだと語る。彼が話す滑稽な話もひょうきんな踊りも笑いの対象とはなり得ず、彼はただその眼を覗き込まれる。それは男がそうであるのと同じように、彼もまた「被爆者」として見つめられていることの証だろう。
しかし病人が男と異なるのは、諦めに至らなかったということだ。彼はあの街へ戻り、ケロイドを観せることを望みもがき続ける。諦めを抱えた男は、そんな姿を見ていられなくなって彼を止めようとする。二人が取っ組み合う終盤のシーンには、諦めきれないという思い、諦めたくないという思い──観られたい、見られたくない、そんな葛藤が表れているように思える。
病人はその瞬間に命を落とす。しかし男は、リヤカーに乗った男の死体を見送り、あの街への近道を叫ぶ。呪われた身体から解放された彼があの街に辿り着くことを願う姿は、諦めたはずの望みを彼に託しているように見える。男は本当に諦めていたのだろうか。否、むしろ諦めざるを得なかったのかもしれない。
観られたい、見られたくない、そんな相反する思いが舞台の上でぶつかり合うことにより、私たち観客も矛盾の中で苦しむことになる。私たちは「放っておいていただきたいのです」と語る男から目をそらすことができない。ケロイドを披露する病人の眼を覗き込んでしまう。しかしその矛盾こそが、私たちの胸に彼らの苦しみを焼き付ける。
この作品を安易に過去の遺産、あるいは作り話とすることはできないだろう。不条理演劇だからこそ際立てられた反戦のメッセージは、戦争の蔓延する現代に強く響き渡っている。