劇評講座

2009年8月16日

『スカパンの悪だくみ』(オマール・ポラス演出、モリエール作)

前衛的正統の喜劇
―オマール・ポラス演出 モリエール『スカパンの悪だくみ』劇評

森川泰彦

まず、テクストから検討しよう。この物語の骨格を構成するのは、単純明快な幾何学的人物配置を元に展開する、次から次へと課せられる課題と、それに対する意表をつく解決の連続である。前半の二人の息子の窮地は、スカパンの小気味良いペテンによってとりあえず救われる。後半では、ペテンがバレたことによって振り出しに戻ってしまったばかりか、スカパン自身が処罰の危険にさらされるという窮地に陥るわけだが、そうした増幅された課題は、なされた結婚がなされるべき結婚であることが明らかとなり、当初の課題そのものが遡及的に消失してしまうことで、「解決」されるのである。スカパン自身も、その才覚だけでなく、その「解決」感の高揚のおこぼれにあずかって許されることになる。

そしてこの作品は、古典中の古典とされる喜劇であり、多くの喜劇と同様、カーニヴァル性をその本質としている。父親の留守中にその許しなく結婚するという息子の行為は、父権的秩序への反抗であり、父を頼るのではなく、召使に頭を下げる行為はさらにかかる秩序を転倒させる。こうして幕を開けるカーニヴァルは、召使が息子のために父親=主人を見事騙して金を巻き上げ、さらには棍棒で叩きのめすという父子と主従の二重の逆転を頂点に、真相が発覚して召使が権力を失うことにより衰退を始め、どこの馬の骨とも知れなかった二人の娘の出自が明らかとなり、結婚によって新しい秩序が確立する大団円へ至って終焉するのである。またその過程においては、真理と虚偽、本質と仮象といった前者が優位する二項対立的秩序も、転倒と再転倒の運動を経ることになる。召使の力の源泉は、演技という仮象による虚偽が生む脅しであり、その化けの皮が剥がれ、本質が顕わになり真実が明らかになることで脅しはその効力を失うのだ。そして、スカパンの悪だくみによってではなく、結婚した娘が結婚するはずの娘であり、卑しいはずの娘が卑しからぬ娘であることが明らかになることによる最終的解決は、仮象と虚偽に対する本質と真実の逆転勝利を意味している。

このようにこの物語は、嘘のような嘘の成功が観客を引き付けよく楽しませつつ、それを加速させた挙句、練り上げられた御都合主義というべきどんでん返しにより物語全体の相貌を一変させつつそれを完成させて終わる。開放感とともに安心感を与えてくれるそうした筋立てを持つこの戯曲は、単純だが技巧を凝らした極めて人工的な作品なのである。

それでは、かかるウェルメイド・プレイをどう演出すべきか。字幕付映像が市販されているコメディー・フランセーズの『スカパンの悪だくみ』(ジャン=ルイ・ブノワ演出)だと、スカパンの執念深さに焦点が当てられる。裁判所に代表される体制への怨念、階級的抑圧への憤怒を抱えた人物の抵抗と諦念という側面が強調されるのである。そうした演出はそれなりに一貫した読みに基づいているし、その翳のあるスタニスラフスキー・システム的な演技も一定の説得力を持つ。この作品が飽きるほど繰り返され、差異化を図ることが求められるような状況なら、こうした近代劇的読み直しも選択肢の一つに入って当然である。しかし同時に、そうした「深さ」は、笑劇であるために必要な「軽さ」とは対極の「重さ」を否応なく舞台に持ち込むことで、この劇の最良の性質を減殺してしまう。

これに対しオマール・ポラス氏は、そうした特性を尊重し、この作品を徹底的に笑劇として提示する。この言わば表層の演劇を、深層を加えたいという誘惑に屈することなく貫いてみせたのである。この演出では、この戯曲の源流であるコンメディア・デッラルテがそうであったように、登場人物は性格類型として現れる。彼(女)らは、おとぎ噺の登場人物ほどではないにせよ、「平面性(M・リューティ)」を有する人物であって、近代劇の登場人物のような内面の深みを持たないのだ。しかもそうした演出は、高度な舞台表象技術を駆使して遂行される。それは、笑いのために技術を使うというより、技術を見せるために笑いを言い訳にしていると言えるほどなのである。

上演台本は、アフタートークで話題になったようにジェロントの性が変更されていた他は、ほぼ原作通りであった。そしてこの修正も、演出家自身が説明していたように、家父長の権威が失墜し母親の地位が向上した現代の家庭に照らしてみれば、説得力に富む。母親が財布の紐を握っていることが珍しくない現代において、ケチ役を母親が担うのは「自然」なのだ。そしてこの母親への変更は、二人の親を明確に差異化すると共に、その息子を奇怪な「お坊ちゃま」に発展させ、息子二人を差異化することにもなる。こうして境遇が似ていて区別が曖昧になりがちな二組の父子は、父子と母子の組み合わせとなり、物語は分かりやすくなった。

舞台は、三原色に霞をかけたような水色、ピンク、薄黄で彩られた、シャガールを思わせる華麗な美術で飾られ、観客をおとぎ噺的異空間に誘う。そこでは、半仮面によって鼻や歯や耳を誇張し、その振る舞いと相まって笑劇固有の間抜けさを辺りに波及させる役者たちが、そうした仮面劇でなければ存在しない独特の〈笑劇的身体〉を現前させ、〈笑劇的空間〉を立ち上げる。そして現代的に改良されたコンメディア・デッラルテ的演技が漲らせる機敏な運動感を基盤に、歌あり、踊りあり、クラッカーありと使えるものは何でも使う貪欲な雑種性が、まさにカーニヴァル的祝祭感を盛り上げるのだ。どんな可憐な美女が登場するのかと思いきや、アカ抜けない眼鏡娘が現れ、どんな恐ろしい大男が登場するのかと思いきや、吹けば飛ぶようなチビ老人が登場する。あるいは、観客を巻き込んでおいて「あいつのせいだ」といって逃げるスカパンの図々しさも可笑しい。

そして特に素晴らしいのは、この演出オリジナルの母子の「怪演」ぶりである。ジェロントは、上品さなき上流夫人といった風の強烈なエゴを持つ女傑で、親同士が言い争う場面では、ここぞという瞬間に相手のトランクを蹴り飛ばす。そして二枚目役のはずのレアンドルは、ポルノ雑誌を片手に登場する子供大人で、子供のような大人の間抜けさや頼りなさと大人のような子供の傲慢さや狡猾さを併せ持ち、状況に応じてその二面を往き来する。こうしてポラス氏は、現代の母や子の一面をグロテスクに戯画化して見せるわけだが、これは、モリエールが当時やっていた人物類型に対する風刺の現代版でもある(ⅰ) 。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『じゃじゃ馬ならし』について、正統にとって代わるものではない後衛的前衛であると書いた(ⅱ)が、反対にこの舞台は、現代化を施しつつもテクストを真正面から活かすものであり、前衛的正統なのだと言うことができる。
(2009年7月4日観劇)

ⅰ 例えば『ヴェルサイユ即興劇』の中で明確に語られている。               ⅱ 拙稿『フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛』(SPAC投稿劇評)

2009年8月15日

『スカパンの悪だくみ』(オマール・ポラス演出、モリエール作)

スカパンに仮面を被せること
奥原佳津夫

舞台は、ジュークボックスからオールディーズが流れる数十年前の港町の庶民的なカフェのイメージでしつらえられている。登場人物は、現代衣装ではあるが、口以外を仮面で覆った主人公をはじめ、極端な扮装で素顔を隠した道化芝居の趣。陽気で屈託のない演技は、まるで人形劇を見るようで軽快である。スカパンが主人に袋を被せて打ちすえるよく知られた場面も、女主人に黒いビニール袋を被せる演出は、ともすると陰惨になりかねないのだが、暴力性がまったく気にならないほどに架空の世界ができあがっていた。
この上演で最も重視されていたのは、いわゆる「ライブ感」であり、客席との一体感だろう。劇中の新聞記事に時事ネタ(この日は「今日は県知事選投票日」)を取り込んだり、俳優が盛んに客席に降りて観客に接触したり。終幕での、スカパンの瀕死の重傷の偽計は、口上役と通訳者によって、上演を中断するアクシデントとして述べられる。躍動感ある演技に客席は盛り上がっていたし、その点では充分成功と云えるだろう。

以下、無いものねだりをすれば―まずはその上演形式の意外性の無さである。この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーの独特の手法を考えた時に、この『スカパンの悪だくみ』は、あまりにも予想どおりの仕上がりだったことだ。先年上演された『プンティラと召使マッティ』は、仮面劇と道化芝居の手法が、ブレヒトの叙事的戯曲に思わぬ効果をもたらしたが、モリエール劇の中でも笑劇的要素のまさる『スカパンの悪だくみ』は、そもそも戯曲自体がこのカンパニーの手法に近すぎるのだ。演劇史的な観点に立てば、この戯曲は、古代ローマ喜劇とコメディア・デラルテの影響を直接に受けながら(むしろなぞりながら)モリエールの書いた喜劇だが、むろん仮面劇ではなく、近代劇との過渡的な作品と捉えられることが多い。その『スカパンの悪だくみ』を仮面劇で、道化芝居的な手法で上演するということは、かつて大道で上演された、ライブとしてのコメディア・デラルテの復権、という方向性を持つものと云えるし、モリエール戯曲に近代劇的な解釈を無理にも持ち込もうとした時代に対する批判としても有効だと思う。
ただし、その現代化が安易にすぎたようだ。風俗を現代化するだけでは、古典戯曲を現代に生かすことにはなるまい。
知恵者の従僕、というには後ろ暗い、どこかいかがわしげな雰囲気の赤毛のスカパンに、颯爽たるトリックスターとはなりえない現代的な屈折を期待したが、それ以上踏み込まれないので、人物像も人物間の関係性も、特に現代的な視点が見られるわけではない。前述のとおり、客席との交流は達成していたが、珍妙な扮装の登場人物がドタバタ喜劇で場を沸かせるだけでは、演劇芸術の知的な愉しみには遠い。(もちろん、軽快な笑劇の演劇的な価値自体を否定するのではないが、戯曲に依存した安心感からか、密度の低い皮相な笑いが散見されたのが惜しまれる。)

コメディア・デラルテの現代演劇への復活としては、ジョルジョ・ストレーレル演出の『二人の主人を一度に持つと』を嚆矢にあげられるだろうが、その上演は、舞台上に常にプロンプターを置くことによって文学の優位性を示し、コメディア・デラルテの復権と同時に、その歴史的な終焉を描く周到な演出である。
現代演劇として、スカパンにあえて仮面を被せるためには、そうした複眼的な視点が必要だったのではあるまいか?
一つの独自の演劇手法を確立し、自家薬籠中のものとした演出者(とカンパニー)の、進むべき道は二つしかない。一つは、様式化を恐れず、ひたすらに洗練の度を増してゆくこと。もう一つは、あえてその手法がなじまぬテクスト(題材)に対峙して、両者の化学反応の如き新生面を拓くことだ。おそらくは洗練を望まないこの演出者の次回作に期待したい。
(於.静岡芸術劇場 2009.7.5所見)

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

カテゴリー: じゃじゃ馬ならし

フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛
―イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出 シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』劇評

森川泰彦

この戯曲の人物は、一見多種多様だが効率良く配置されており、その原理となっているのは、男女、老若、主従の二項対立的身分秩序である。かかる秩序が一時的転倒を経て再編成されるというカーニヴァル性 が、この喜劇の本質をなしているのだ。まず、家父長的規範に反抗的なキャタリーナの存在によって男女の秩序は初めから乱されており、これを矯正することが物語全体の課題として提示される。次いでこの物語は、老若、すなわち家父長間の世代交代をもその主題としている。ルーセンショーら若い三人の家父長候補が、結婚によって一人前になろうとするわけだが、そのために花嫁候補の父バプティスタは欺かれ、ルーセンショーの父ヴィンセンショーは偽者に取って代わられて愚弄され、グレミオも騙られ求婚競争に敗れるのである。そしてこの闘争において、主従の地位は見かけ上だが逆転する。召使が主人に化け、身分ある求婚者たちが、家庭教師となるべく学者や音楽家になりすますのだ。ヴィンセンショーがその地位を否認され、あわや投獄されそうになるのも、これにあたる。これに、調教の過程での、ペトルーチオの珍奇な服装、教会や結婚式の権威失墜、馬上から泥の中への新婚夫妻の落下といった転覆のイメージが重ねられる。そして調教の成果として、キャタリーナが太陽を月と、昼を夜と、老いた男を若い女と認めるのも、言葉の上ではあるがそうした壊乱の一環に加えることができる。

そしてカーニヴァルは一種のガス抜きであって、元々その革新的性格と共に保守的性格を併せ持っているが、それはこの劇において露骨に表れている。男性すべての応援を得たペトルーチオは、キャタリーナの反乱を鎮圧する。若い家父長たちは計略を尽くして結婚し、その権力を確立する。それに対し、召使による下克上は形の上であるばかりか、古い家父長の反撃さえ被る。旧家父長ヴィンセンショーの怒りが向けられるのは、息子ではなく彼らなのである。かくして革命は防がれ、クーデターのみが成功してこの物語は終わるのだ。観客はこの劇において、こうした秩序の解体と回復の見事な展開ぶりを楽しめる(はずな)のであり、この劇の人気は一般に高い。

しかしこの戯曲には、女性の「調教」という筋立てが、現代のフェミニズム的価値観とは適合しないという大問題がある。これをいかに観客に違和感なくかつ一貫した解釈に基づいて提示できるかが、演出上の最大の課題となるのだ。それでは、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ氏はこれにどう取り組んだか。

今回の演出は、マンチュアの教師が省かれる等多少の省略や変更もあるが、台詞の点では概ね原作の内容に忠実であった。大きく変えられたのは、その視覚化であり、登場人物の設定が、現代のフーリガンの世界に置き換えられたことがその最大の特徴である。背広を着てはいるが中身は粗野なゴロツキたちの馬鹿騒ぎが、パロディも取り入れながら、広い舞台に運動感豊かに展開されていくのである。おしとやかなはずのビアンカもあばずれで、二人の家庭教師による教育の場面は、性交そのものとして描かれる。この演出の世界では、言わば男も女も皆「じゃじゃ馬」なのだ。それでは、こうした現代のアウトローたちの風俗への置き換えは、何を意味するのか。

演出ノートに見られるような演出家の主観はさておき、それが客観的に有していたのは、第一に、ペトルーチオとキャタリーナの筋を際立たせるために、それ以外の人物に皆一様の性格を付しつつ脇役化してしまう機能である。この劇を構成するのは、「調教」の成功だけでない。それと並んで、ルーセンショーのビアンカへの求婚の成功が主筋をなすのだが、この演出は、後者をカットしないものの、「図」たる前者の「地」として後景化させてしまうのだ。

そして第二は、そうして唯一の主筋となった調教を、「純愛」として無理なく成立させる環境を設定する機能である。キャタリーナは、母親からの愛情や求婚者を妹が独占することへ嫉妬する女性として、その心理を写実的に描写される。冷蔵庫に引きこもってしまうように、最初から、弱さからくる強がりであることも示唆されている。そして二度にわたってペトルーチオと長く抱き合う場面が設けられ、二人の間の強い恋愛感情が芽生えたことが強調される。こうしたことは、アウトローたちの恋愛とすることで初めて、可能になったというべきだろう。女を愛しているが暴力的でもあるマッチョな男と、不幸になりながらも彼に魅かれる女という設定は、ヤクザ映画によくあるように、ありうる現実の反映として説得力を持っているのだ。この劇の最大の難関であろう妻の従順を説くキャタリーナの長台詞は、宴の列席者に対してではなく、夫への一種の愛情表現として彼に向かって語られる。これを明示するために、ペトルーチオはわざわざ中央客席に移動し、言わば演出家としてその「演技」を見守るのである。彼女の語り口は、投げやりでもないが完全に媚びているというほどでもない。本心ではないが、愛情ゆえにそこは譲るという態度を見せるのだ。

こうした演出は、フェミニズム問題の対処として巧みな成功を収めている。そして同時に、例えば家庭教師の場面で楽器の調律(音楽の準備)を性器の勃起(性交の準備)に見立てたような、意表をつく置き換えによって、聴覚の世界から分離しつつも対応する視覚の世界を、一貫して重ねてみせた。中世の架空の話を、説得的刺激的かつ整合的な形で現代の物語として再生してみせたのであり、見事な置き換えゲームだと言うべきである。

しかしこの演出では、鋳掛け屋スライに対する領主の悪戯を描く序幕の部分が省かれ、「騙し」の主題を大きく後退していることとも相まって、カーニヴァル的転倒の面白さはほとんど一掃されることになった。ルーセンショーの主筋が埋没し、観客が感情移入できる人物が、機知とトリックで成功してみせることによる痛快さは消えてしまったのである。それまで大活躍のトラーニオらが、本物の大旦那様の予期せぬ出現に慌てふためく再転倒の面白さや、言葉を字義通り受け取るというグルーミオの言語戦略がもたらす混乱のような倒錯に富んだ台詞やりとりが生む面白さについても同様である。演出ノートにはカーニヴァルに着目したかの記述があるが、元々抑圧的秩序を欠くアウトローたちの「日常的」乱痴気騒ぎに見えるこの世界に、「非日常的」な秩序の揺らぎと再構築という契機は希薄なのだ。

従ってこの演出に、かかる意味での喜劇としての楽しみは乏しい。独自の世界を創造してみせた傑出した作品ではあるが、この戯曲の潜在的可能性を十全に活かしてはいないこともまた指摘しておく必要がある。つまりは、正統に挑戦しうるような前衛ではない。理念的であれ正統の存在を前提とする、言わば後衛的前衛なのである。
(2009年6月27日観劇)

2009年8月14日

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

カテゴリー: じゃじゃ馬ならし

冷蔵庫のなかのカタリーナ

奥原佳津夫

戯曲『じゃじゃ馬ならし』には二つの特異な点があって、その上演は他のシェイクスピア劇とは違った形で関心を集める。一つ目は、シェイクスピア劇中異色の劇形式をもっていること。唯一明確な劇中劇形式(しかも序幕のみ)をもち、また、グレーミオの役柄が「パンタローネ」と明記されているように、コメディア・デラルテの影響が最も濃厚な作品でもある。二つ目は、ジェンダー観の問題と、それに伴う、現代の観点では許容しにくいベトルーキオの「馴らし」の暴力性。そして、それらの帰結として、終幕のカタリーナの独白をどう処理するか、という問題である。これらの課題に、上演がどう応えてきたかが、『じゃじゃ馬ならし』の上演史だとも云える。
さて、今回の上演、演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)は意識的にこれらの課題を避け(無効にし)、新たな切り口を探そうとしていたように思える。ただ、結論から云えば、幾つかの興味深い観点は導入されているものの、挑発的な意匠のわりには捻りのない、至って普通の上演に終わってしまっていたようだ。

舞台面は、中央奥にグランドピアノを置いたガラス張りの部屋(バプティスタ家の姉妹の居室)、下手奥に隣家とおぼしき同様ガラス張りの小部屋、そして左右にコンクリートの柱が数本の無機質な空間。
劇中劇の枠組み部分は完全にカットされ、本編のみが現代劇のスタイルで上演される。
まず驚かされるのは、シニョール・バプティスタが姉妹の父ではなく母になっていたこと。ただし、スーツ姿の実業家女性であり、その役割は原戯曲の父親と何らかわらない。現代において、家父長的権力が必ずしも性差には基づかず、恐らくは経済力がそれにかわることが示される。
求婚者の男たちは、体育会系の部活を思わせるチームを形成していてその粗暴な挙措は、過剰に演出されたカタリーナの暴力と相俟って、全編を喧噪のトーンで包み、その中でペトルーキオの暴力性は特に際立たない。
かくして前述の二つの課題は無効化される。

演出者は、無機質な空間で経済関係に縛られながらも、それでも尚、人間が生身の肉体であることを示そうとするように、挑発的、時に露悪的な表現をちりばめるが、例えばビアンカをめぐるプロットでの性描写も、「楽器」と「奏楽」が「性器」と「性的悦楽」の隠喩を持つことは、シェイクスピア当時から周知のことで、全裸を晒して説明するまでもなく、この場合、直接的な表現はむしろ演劇表現としては退行なのではあるまいか?また、カタリーナが失禁して、ペトルーキオがそれを啜ってみせるのも、ショッキングなわりに、作品の構造には特に意味をなさない。

なかで、発展させられる可能性をもつ着想が二つ。
一つは、婚礼の場で、珍妙なかぶり物をした参列者一同に、礼服に白ネクタイの至って常識的な衣裳のペトルーキオが、その身なりを非難される場面。何が正常で、何が異常なのか、という揺さぶりをかけるところから、この戯曲の新たな切り口が見えてきそうなのだが、この場限りの思いつきに終わってしまっているのが惜しまれる。
二つ目は、求婚を拒んだカタリーナが、冷蔵庫に閉じ籠もる印象的なシーン。つづく「馴らし」の場面では、この空の冷蔵庫から冷たい光が舞台を照らす。現代消費社会の経済関係を想起させる家電品であり、また現代でも主に女性の場、家庭的な場であるキッチンを代表する冷蔵庫(しかも空の)とカタリーナの組み合わせは、この上演における彼女の屈折したメンタリティを表象する小道具として秀逸である。

さて、問題の終幕の独白の処理だが―他の登場人物たちは退場し、ペトルーキオは客席中央に座って、舞台に一人残されたカタリーナは、彼だけではなく、客席全員の審査を受けるように、女性の従順を説く長台詞を語りきって、手を差し出す。これに応じて、ペトルーキオは、件の冷蔵庫を小部屋に運びこんで、二人抱き合うところで溶暗―。
劇中随所に、過激な問いかけの姿勢を見せながら、この収まるところに収まった予定調和とも云える結末は、口当たりがいいだけに疑問を感じる。むしろ、カタリーナが客席に差し伸べた手は、回答を与えられないまま終わるべきだったのではなかろうか?
この上演が、数々の奇抜で挑発的な表現を含みながら、本質的には何の違和感も残さなかった所以である。
(於.静岡芸術劇場 2009.6.27所見)

『オリヴィエ・ピィのグリム童話』より『少女と悪魔と風車小屋』(オリヴィエ・ピィ作・演出、グリム兄弟原作)

グリムよりグリム的なグリム童話
―オリヴィエ・ピィ作・演出『少女と悪魔と風車小屋』劇評

森川泰彦

この作品はグリム童話の『手無し娘』を原作とし、それに大筋で従うものである。そこでまず、原作から検討しよう。グリム童話は、民間伝承を忠実に記録したものではなく、グリム兄弟の意図的な編集が加えられていることは今日よく知られている。兄弟は、残酷な場面は残したものの、版を重ねるに従って性的内容を極力排除していった。この童話についても、兄弟は論理的に一貫している「一つ抜群にすばらしい」類話を見つけたのに、全面的には採用しなかった (ⅰ)。悪魔は登場せず、父親に結婚を迫られ拒んだ娘が両手と両乳房を切り取られて家出するという内容であったためである。またこの採話では、手紙をすりかえるのは、嫁を快く思わない王の母であった(ⅱ)。そして兄弟は、改定に当たってキリスト教色を強めていく。天使が登場して娘を助ける役割を担うようになり、また手が回復するのが神様のお恵みとされるのは、二版以降なのである(ⅲ)。

おとぎ噺については、今日、ユング派の深層心理学的解釈や、フロイト派の精神分析的解釈は広く行われている。こうした観点から排除された性的意味を回復しようとすれば、悪魔とは人間の道徳に反する心=欲望の象徴だと見做すことができる。裏を返せば、人間の悪心を外部に投影して擬人化することで、本人を理想化し、その責任を免除するという無意識的置き換えが行われているのだということである。さらによりテクストに素直なのは、父親が人買いに一度は娘を売り渡したが娘を不具にすることで諦めさせたという解釈、そして、王は王妃が不義の子を産んだと疑い立腹して母子の殺害を命じたが、後に後悔したという解釈だろう。不自然なことに、王は「贋」の手紙を見せられても号泣するばかりで言い訳しないのだ。また悪事を働いた悪魔は処罰されず、娘の幸福の回復が解決とされている。現実を否認し、悪魔に責任を転嫁することで、忌まわしい過去を同様に正当化したのだと考えうるのである。さらには家出した娘は、両手が無いのにどうやって生計を立てたのか。林檎の木や梨の木は、エデンの園の禁断の果実を連想させる。前者は近親相姦や人身売買を象徴し、後者は売春を暗示していると捉えうるのである。「王」とは、そこで出会ったのだ。もちろん異なる解釈も可能である。A・ダンデスは、娘が母親に取って代わりたいという願望を持ち(エレクトラ・コンプレックス)、父親が自分と性的関係を持ちたがっていると想像して、無意識的に自らを責める話だと解する(ⅳ) 。王は父親の身代わりであり、かかる近親相姦の結果化け物を産むことになるが、最後には小児的状態を意味する「手の無い状態」から脱却するのだという。

オリヴィエ・ピィ氏は、かかる原作をどう改作・演出したのか。氏の採用したのは、さらなるグリム化というべき方針であった。すなわち、性的含意はさらに取り除き、キリスト教化を推し進めたのである。まず悪魔は一個の主体として存在し、一人の役者が演じることで舞台上に現前する。また王と手紙をやり取りするはずの王母は省略され、庭師がこの役割を兼ねる。悪魔を完全に実体化することで、娘の両親や姑とは別人格であることをはっきりさせ、近親相姦や母親の息子への欲望といった性的要素を物語の表面から拭いさったのである。そして劇中劇の場面を設け、骸骨の人物を登場させる。死の前では万人が平等たることを表す「死の舞踏」は、宗教劇中で儀式化した踊りとして演じられていたというが、これはもちろん、現世のむなしさと死後の救済の重要性、神の前の平等を示唆する宗教的主題である。また、最後に父親が赦しを求めて教会を象徴する家へやってくる場面も付加される。

しかし、ピィ氏が演出ノートで述べているように、「『グリム童話』がいまでも信じられないほど私たちを魅了するのは、」「変わることのない真理をささやいているから」であり、そこでは「欲望とか」「死とか」「知への渇望」といった「問題が、これ以上ないほどシンプルな仕方で問われている」のだとすると、受け入れるにせよ反対するにせよ、性や悪の抑圧をめぐる知を無視することはできないはずである。また、彼は熱心なカトリックとのことだが、対抗宗教改革に現れたカトリックのバロック美学の本質は、直線的に天を目指す力の表象ではなく、それを破壊する力とそれに打ち勝ってさらに天を目指す力の二項対立的葛藤の表象にあるとされる(ⅴ)。従って、彼の立場を考慮しても、人間の闇を直視せず神による救済が前面に出る改作・演出には、死や罪の意識の強調という要素もあるにせよ物足りなさを感じてしまう。特定の解釈を押し付けよと言うのではない。そうした解釈を喚起し、さらには神学的世界と呼応させる方が豊かだろうし、少なくともそれへ誘う余地を狭めるべきではないということである。例えば、フロイトの言う心的構造をなす超自我、自我、エスの三対を、神、人間、悪魔の三対に対応させることが考えられるし、天使や悪魔は声だけにする、悪魔を複数の役者に演じさせる等、工夫はいくらでも可能だろう。

とはいえこうした深層から表層に目を向ければ、極めて充実した出来栄えであったと言える。走馬灯のように次から次へと現れては消えるシーンの連続は、音楽劇であったこと、分かりやすく感情移入しやすい物語であったことと相まって、豊かな叙情性と見世物的楽しさに富んでおり、観る者を一時も退屈させない。またこれは、ピィ氏の強調する現世の儚さという主題とも調和している。そしてその展開を支えていたのは、物語上の〈虚構〉とそれを表す舞台上の〈現実〉の狭間で働く表象作用(〈虚実〉と呼ぼう(ⅵ))の豊かさである。演奏し歌い演じる役者たちは、その大袈裟な表情・身振りを通じて、観客を巧みに異世界に誘う。また美術や衣装、メイクの赤、黒、白、金を基調とする限られた原色に彩られた空間は、煌びやかだが影をも感じさせる独特の雰囲気を醸し出す。さらに特筆すべきなのは、ブレヒト的な仕掛けの露呈を利用したその美術であり、そこには、最小限のものから最大限のものが生まれることによる演劇特有の面白さが溢れていた。二つの大きな木箱が、変幻自在に移動し回転し組み合わされ、あるいは畳み込まれた壁を広げることで(現実)、様々な場面(虚構)が表象されるわけだが、そうした大道具の変貌(虚実)は、その質素さを保ったままで豊穣さを備えている。それらは、能的身体が老人から乙女まで様々な表象を担う前表現的身体であるのと同様、言わば前表現的美術として、この物語にふさわしい〈虚実の空間〉を切り開いていったのである。
(2009年6月27日観劇)

(ⅰ)鈴木晶『グリム童話』p148~
(ⅱ)高木昌史『グリム童話を読む事典』p140
(ⅲ)間宮史子『白雪姫はなぐられて生き返った』p175~
(ⅳ)J・ザイプス『グリム兄弟』p184~
(ⅴ)渡辺守章他『文化と芸術表象』p49~
(ⅵ)渡辺守章氏らの「虚構の身体」概念の拡張である。渡辺守章『仮面と身体』p242

2009年8月13日

『オリヴィエ・ピィのグリム童話』(オリヴィエ・ピィ作・演出、グリム兄弟原作)

『グリム童話』を語ること
奥原佳津夫

民間伝承やあるいはそれを模した文芸作品が、その構成要素を遡れば祖形において神話と同根であることは云うまでもない。オリヴィエ・ピィ作・演出の三部作は、童話の素朴で典型的な登場人物たちの両脇に天使と悪魔を配することで、『グリム童話』をいわば「キリスト教説話」の次元で語り直した。

父親が悪魔と交わした契約によって両手を失った娘が王妃となり、再び悪魔に仲を裂かれながらも王と再会する『少女と悪魔と風車小屋』。三人の王子の末弟が、天使の助言を容れて瀕死の父王のためにいのちの水を手に入れる『いのちの水』。継母に虐げられた娘が、言い交わした王の記憶を取り戻して結ばれる『本物のフィアンセ』。いずれも、善良な主人公を支える守護天使が登場し、一貫してアコーディオンを持った語り手の女優によって演じられることで、三部作を構成する縦糸となっている。
もう一人、三部作に共通する登場人物として、宮廷に仕える庭師がいる。権力が悪に傾く時も、己の信じる所を曲げないこの庭師には、自然の摂理=天意に従う人間という役割が与えられている。自然に天の恩寵を見るこの作品のメッセージは、『少女と悪魔と風車小屋』の終幕の台詞に明らかである。切断された両手が再生したことは不思議ではない、年々木々が芽吹くのと同じだから、と説明する王妃に、王が答える、「ぼくはいつもそれが不思議だった」と。
だが、純粋素朴なメッセージは、むしろ実感をもって観客に受け取られにくいものでもある。どう語られるか、が問題だ。

単純な物語であるが、それを語る手法には、様々な演劇伝統が援用されている。
まず目につくのは、額縁状に飾られたイルミネーションや、赤黒を基調にした衣装、白塗りのメイクアップなどが連想させるバーレスクやキャバレーの演芸、道化芝居の世界。少人数の俳優が類型的な演技もいとわず複数の役を演じわける手法や、彼らが演奏する音楽もその印象を強めた。
さらに、空間いっぱいに演技エリアを取った今回の上演では、観客が至近距離から仮設舞台を囲むバラガン(縁日芝居、見世物芝居)の感覚も存分に味わえた。
そして何より、主人公をめぐる天使と悪魔の存在を顕在化することで、三連作の童話は、中世道徳劇の並列的なエピソードを思わせるものとなった。「人間」をめぐる「美徳」群と「悪徳」群のせめぎ合いから「天国」に辿り着く結末によって人の一生を描く道徳劇のキリスト教的世界観が、この作品の基調として生かされている。(そしてそれは、クローデルに傾倒するとも聞く、カトリック詩人オリビエ・ピィの資質にも通じるものだろう)
とは云え、中世道徳劇のメッセージ性がそのまま現代に通じる筈もなく、バーレスク風の徹底して「俗」な装いで観客の共感を勝ち取ることで、純粋素朴なメッセージに耳を傾けさせてしまう所が、この作品の工夫であり妙味である。

多様な演劇の記憶を交錯させた作品だけに、「演劇」自体についての自己言及も注目に値する。
劇中、二つの劇団が登場し、第一作『少女と悪魔と風車小屋』では、余興の骸骨芝居を演じる一座が「芸術とは死とともにある悦楽」というデカダンがかった台詞を語るが、第三作『本物のフィアンセ』に登場する旅芸人一座は大きな役割を担う。記憶喪失の王に、劇中劇で自身の役を演じさせて記憶を取り戻させるというプロセスによって、虚構の中に劇中の現実を取り込むのだが、そればかりではなく、レパートリーとして『少女と悪魔と風車小屋』のパロディを演じてみせることによって、この上演全体を一挙にメタシアトリカルなものにする。
この一座は、不幸な物語を専門に上演する劇団だという。現実世界がそうであるからだ。だが一座の座長は「この結末は芝居がかっていすぎる」と云いながらも、終幕のハッピーエンドをむしろ嬉々として許容する。
ここに、一方にペシミスティックにならざるをえない芸術を見据えながらも、より開かれたものへと演劇を転化しようとする作者の姿勢を感じる。

オリビエ・ピィの作品では、昨年上演された『若き俳優への手紙』が印象深い。まさに、演劇芸術へのクレド(信仰告白)とも云うべき純粋な言葉が至情をもって語られ、なおかつそれが演劇的な充実感を持ちうるという奇跡的な作品に感動したが、一方、演劇創りの側に馴染みの薄い観客には、その言葉は実感しにくいものであったらしい。
その点、この『グリム童話』三部作は、誰にでもわかりやすい内容ながら、ともすると実感をもって受け取られにくい純粋素朴な言葉が、空虚に響くことのない絶妙なバランスが計られていた。一見たわいのない童話劇と見せながら、真摯に、愚直なまでに純粋に演劇芸術と向き合おうとするこの作者ならではの作品世界が拓かれていた。それは、道化芝居の俗性が、時としてそのまま宗教劇の聖性に転ずる瞬間を垣間見せるような、稀有の演劇装置である。
(於.舞台芸術公園 楕円堂 2009.6.27/28所見)

『じゃじゃ馬ならし』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出、シェイクスピア作)

カテゴリー: じゃじゃ馬ならし

「カタリーナ」とは誰か

柴田隆子

美術のインスタレーションを思わせる、美しい舞台装置である。白い柱が立ち並び、右奥のガラス張りの部屋にはグランドピアノ、左奥にはソファーがみえる。天井は高く、空間にゆとりのあるスタイリッシュな邸宅のイメージがそこにある。いきなりハイネケンのビールケースが何箱も持ち込まれ、栓を抜いて上演が始まる。物語はシェイクスピアのテクストに沿って、妹ビアンカとその求婚者たちの関係、「じゃじゃ馬」カタリーナの結婚と夫ペトルーキオによる調教、夫たちによる妻の従順さを競う賭けで、生まれ変わったカタリーナが妻の貞淑を説くようになるまでを描く。イヴォ・ヴァン・ホーヴェの舞台は「喜劇」らしく、明るくテンポよく進む。そして物語が進むにつれ、美しかった舞台は汚れ、物が散乱し、ビールの臭いが客席まで漂ってくるようになる。

パドヴァの町は暴力にあふれている。冒頭ビアンカに一目ぼれしたルーセンシオと入れ替わった従者は、恋敵たちからリンチにあう。ビールをがぶ飲みし、卑猥な歌をわめき歌い、乱暴にふるまう男たち。奥の部屋では、ビアンカが男たちを挑発し、カタリーナはかんしゃくを起こしたように暴れまわる。この町では男も女も皆等しく暴力的だ。しかしシェイクスピアのセリフは、カタリーナひとりに「じゃじゃ馬」のスティグマを科す。彼女の「じゃじゃ馬」ぶりは、愛情への渇望、スティグマを再現することで人の関心をひこうとする虐待児童のそれのようにもみえる。妹ビアンカの美徳とは、単なるセックスアピール、あるいは男たちの目から見た「都合のいい女」である。男たちの口にするビアンカの貞淑さを称えるセリフは、コケティッシュなアイロニーをおびる。町の外から来たペトルーキオはこの町の放縦さには染まっていないが、グローバル経済の法則はきちんと身につけている。要は「金」だ。そのためならどんな女でもいい。どんな女でも調教してしまえばいい。人間は役割であり、役割をこなさせるのだ。

ホーヴェは、人間の関係には暴力とセックスと金しか介在しないことを、シェイクスピアのテクストをつかって浮彫りにする。舞台が単なる女性蔑視の物語と受け取られることを回避するために、パブティスタ家の家長は母親に置き換えられ、男たちと対等にふるまう「女」として登場する。金をもつ母親は権力の側にいる。女性ならば必ず被抑圧者の側に留まるとは限らない。「金」さえあれば性差のヒエラルキーも乗り越えられる。娘たちはこの母を見習うべきなのだろうか。

ペトルーキオとカタリーナの関係には「いじめっ子といじめられっ子のあいだの愛」、「主人と奴隷のあいだの愛」があるとホーヴェはいう。それは倒錯した「所有の愛」、人文主義的な対等の関係を是としない世界での「愛」の形態である。普通、人はそれをSMと呼ぶ。食事を与えず、眠らせずに身体的に弱らせ、親しいものたちから離して自尊心を奪い精神的に支配していくのは、DVに留まらずナチやシュタージあるいはカルト集団などでもお馴染みの手口で、社会的にはどんな「愛」や「正義」の元にも正当化できないことを我々は知っている。しかしこうした「調教」が日常的にあることもまた知っている。これは男女に限った話ではない。派遣労働者、外国人研修生の問題等、そこここにある。

カタリーナを国に例えてもいいかもしれない。周りの兄弟と小競り合いをしていた国が経済力を持つ先進国に組み伏せられ、テロリストの国と名づけられ、爆撃の音で眠れず、餓えさせられる。自国で食料を生産していたのに、もはや先進国に「お願い」しなければ食べていくことすらできず、その上、お礼の言い方が悪いとそのわずかな食料さえ取り上げられる。生存のためには、自我はたいしたことではない、相手にうまく合わせて生き延びられればいい。確かにこれは奴隷の喜びかもしれない。今日も生きていられてよかった、と。

トネールフループ・アムステルダムは『じゃじゃ馬ならし』で、こうした非情なグローバル社会の姿を見せつけたかったのだろうか。どうもそれだけとは思えない。それは、カタリーナを演じるハリナ・レインの身振りにある。ペトルーキオの命令で夫への服従の勧めを、ひとり客席に向かって語りかける時、レインは決してその口からでる言葉と同化していない。彼女は登場人物の感情を再現することなく身振りとしてこれを演じており、ここで語られていることを信じるかどうか、そしてそれをどう考えるかは、我々観客に委ねられているのである。舞台は答えを出さない。たとえ個人の自由を尊重する社会が舞台の最後のようにごみためのようなものであっても、その寛容さをよしとするのか、それともペトルーキオのような「強者」に弱いものや社会からはみ出すものの抑圧を許し、個人を鋳型にはめこみながら「調和」のとれた社会をめざすのがよいのかは観客が考えるべきことなのである。

(6月27日観劇)

2009年8月10日

『ブラスティッド』(ダニエル・ジャンヌトー演出、サラ・ケイン作)

カテゴリー: ブラスティッド

肉食に満ちた寓話・現実・悪夢
―ダニエル・ジャンヌトー演出 サラ・ケイン『ブラスティッド』劇評

森川泰彦

一見無秩序かつ自己破壊的に展開するかに思われるこの戯曲は、多方向に開かれてはいるが強靭な構造を持つ。この劇を兵士登場の前後で分け、その骨格を取り出してみれば、前半においてイアンはケイトを強姦し、後半においてイアンは兵士に強姦され両目をつぶされるが、ケイトに救われる。つまりこれは、加害とそれに対する「処罰」と「赦し」の物語なのである。被害者ケイトのためにイアンを害したのではないから変形されてはいるが、物語論的に言えば、兵士は、加害者イアンに復讐する「主人公」の位置にある。

そしてかかる二重の加害は、副筋として埋め込まれた兵士の語る物語における暴力の連鎖と重なり合う。彼は殺人と強姦の限りを尽くしてきたが、その妻もまた惨殺されたというトラウマと絶望を抱えている。またイアンの振るう暴力の根底にも、生への絶望と共に他者への怒りが存在する。そして、こうしたトラウマと絶望が生む暴力の連鎖が物語全体を覆う一方、それと対比される博愛と救済がケイトの行為によって示される。彼女は自らに関わりのない幼い命を救おうとし、また被害者でありながら、自らを犠牲にしてまで加害者イアンを救うべく帰還するのである。復讐と博愛の二項対立が、この物語を深層で規定しているのだ。そしてこの人物配置に重ねられた二項対立は、男と女や「健常」者と障碍者といった強者と弱者の社会的二項対立、さらには排外主義と寛容主義、差別主義と平等主義の思想的二項対立にも繋がっている。従ってこの劇に、後者の立場からの前者の本質的暴力性の告発といった政治的メッセージを読み取ることも十分可能である。しかし、そのような観念的対応への還元にとどまるのなら、この劇の持つ豊かさを十分に享受しているとは言えない。

というのもまず、この劇の持つこうした抽象的骨格は、「肉・食」をめぐって喚起される鮮烈なイメージ群によって、豊かに肉付けされているからである。イアンはハムやソーセージを頬張り、暴力を拒否し肉を食べないケイトを自分の肉欲の犠牲にする。またケイトは、イアンに対する拒否を食事の拒否で示そうとする。兵士は、登場直後からイアンの肉を奪って貪り食らい、彼を肉欲の対象としたばかりかその両目まで食らう。さらにイアンは、ケイトが葬った赤ん坊の肉を食物とする。この劇では、「人を食い物にする」という比喩が、そのまま現実化していくのである。食欲と性欲は肉のイメージを介して繋がり合い、自己の欲望の赴くままに他者を犠牲にするという主題が、多様で強烈な印象を伴って観る者に植え付けられるのだ。生理的肉体的飢えの現前は、こうした錯綜したイメージの結びつきによって精神的根源的な飢えを実感させる。無意識的であれ、このような緻密に構築された細部を味わうことで初めて、虚構の中にしかない感動に身を浸すことができるのである。

そして、後半に展開する異世界についての理解もまた重要である。イギリスの地方都市が突然、どこかの武装勢力に占領されるという物語は、演出家がノートで語るように「おとぎ話」となりうるし、客観的現実として捉えることもぎりぎり可能だろう。しかし、より自然にかつより豊かに、この劇の持つ諸要素を構造化し意味の連関を広げてくれるのは、絶望と自責の中で酔いつぶれたイアンが実際に見ている悪夢だという解釈である。

恋人を愛しながらも、結局自らの欲望を抑えることができず、傷つけてしまう男。酒やタバコで健康を害し、死を強く恐れながら、なおもこれらに逃避する男。彼は、欲望を果たした後は自責に駆られ、内心では自らの処罰を望んでいる。銃で武装し殺人者だと称してはいるが、「敵」の襲来を恐れてルームサービスのノックにも怯える彼は、元々傍観者たるジャーナリストである。行動する英雄に対し憧れを持ちつつも決してそうはなれないのだ。こうした日中残余は、夢の中に進入してきた現実のノックと結びついて、他者たる兵士(や軍隊)として姿を現し「目には目を」式の処罰を己に与える。従って、敵を容赦なく辱めて殺戮しても恥じず、同様の精神的闇を抱えながら死を恐れず自害する兵士は、イアンの歪んだ自我理想の投影だといえる。兵士に犯されることには、意識上の異性愛規範が抑圧した同性愛願望を読み取ることもできよう。かくして、彼に両目を奪われるイアンは、英雄たる国王から最下等の人間に転落するオイディプスのイメージをも召還することになる。オイディプスと同様、自ら(=超自我)えぐったことになるからだ。ここで強調されるのは、これ以上、自らを恥辱の内に存在させる希望なき世界を目の当たりにしたくないという、自閉≒退行の欲望である。そこへ無条件に己を守ってくれる母≒ケイトが帰って来る。イアンは、死への恐怖を乗り越えた証に自らへ向けてピストルの引き金を引いて見せもしたが、予め弾を抜いてくれたのも彼女なのだ。

ジャンヌトー氏はきちんとテクストに向かい合い、凡庸な演出家がやるように、貧弱な理解に押し込めることで作品の豊穣さを殺してしまうようなことはしない。その可能性を十全に引き出そうとするのであり、前述したような重要な細部を形作る主題系への配慮も怠らない。食物もその生々しさにこだわって本物を使い、さらにはボロボロとこぼしながら貪らせることで、日常においては文化的仮象が隠してしまう「食べる」という行為が持つ本能性を露呈させる。しばしば出てくる性的場面も、猥褻さというよりはその動物的おぞましさをまざまざと見せつけるのだ(猥褻は文化の産物である)。そしておとぎ話だとは言うものの、抽象的象徴的に処理しようとはせず、寓意表現だともリアリズムだとも、そして悪夢の表象だとも見做し得るという世界を構築してみせた。寓話との理解は、前述したような社会的思想的二項対立を前景化するだろう。悪夢との理解は深層的な意味連関を、現実だとの理解は残虐さが本物だと感じられることによる迫真性を生む。夢か現かという適度に限定された曖昧さが、両立しえないはずの劇的効果を共存せしめるのである。こうした本来相容れぬ三つの世界の共存を可能にしたのは、現実とも幻想とも捉えうる具体的だが抽象的な空間であり、それは、ぎりぎりまで明度を落とした照明やスモーク、ばら撒かれる「土砂」、象徴的質感に富むベッドといった要素で構成されていた。

役者の演技についても触れておこう。阿部氏は、ことさらに大仰な演技をすることによってではなくその圧倒的な存在感によって、おとぎ話の異者、強烈なトラウマを凄まじい暴力に転化する兵士、イアンの歪んだ理想像を併せ持つ人物を現前せしめた。大高氏は、冒頭は押さえ気味だったのか生彩を欠いていたものの、次第に調子を上げ、自らの欲望と良心に振り回され、暴力を振るい振るわれる、尊大だが卑小な人間を見事に演じ切った。布施氏は、例えば吃るところはあまりうまくないし、けたたましく病的に笑うところなどもっと凄みが欲しいが、総じて無難にこなしていたと言えよう。

(2009年6月20日観劇)

『ふたりの女』(宮城聰演出、唐十郎作)

カテゴリー: ふたりの女

ふたりの女~葵上、または羽衣としての

柳生正名

七月四日、野外劇場「有度」で行われた宮城聰演出・SPAC「ふたりの女」楽日は、この時期としては望外の星空に恵まれた。梅雨の中休みが翌日も続いたおかげで、一歩足を伸ばし、三保松原を訪れる機会さえ得た。

羽衣伝説で知られる、この浜に足が向いた理由―思うに、それは能「葵上」を下敷きに唐十郎が書き上げたこの芝居の幕開きが、伊豆の砂浜の場だったせいだ。現代の光源氏たる精神科医、光一はパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」を口ずさみつつ、舞台の床にアオイあての恋文を書く。やがて波に舐め取られるだろう砂上の文字は、この物語を突き動かす根底的な動因としての光一の愛―ふたりの女(アオイと六条)に向けられた、その情動の空虚な本質を暗示する。

舞台一面に砂を敷き詰めたという初演(一九七九年・劇団第七病棟)に対し、宮城聰は今回、梁や桁が交差する屋根裏さながらの床面を舞台に設けた。それを取り囲む形で、周囲にうず高く積み上げられた角材の山。かつて全共闘が築いたバリケードの内の解放区を思わせる、その板の上で、演者たちは能役者と同様、足袋を履き、格子状に組まれた角材の上を、蜘蛛のごとく伝い歩いた。

物語の場面は、砂浜から精神病棟、自動車レース場、卓袱台の据えられたアパートの一室、と目まぐるしく転換する。これに伴い、矩形の格子上では、時に六条ら病棟の患者が絡み合い、時には車がクラッシュするものの、そこが圧倒的に「狂気」によって支配される場であることは演出上、一貫している。従って、光一の子を宿し、彼の愛を疑わぬまま、「正気」を保つ間のアオイの居場所は、常にバリケードの上である。決して屋根裏のような格子上に降り立ちはしない。

興味深いことに、今回の舞台で、彼女が当初立つ「正気」側の世界の様相は、砂浜に打ち上げられた難破船か、大震災の廃墟のごとき殺伐さを示す。対照的に、同じ角材で組み上げられながら、「狂気」側は、デジタル的で整然とした格子の上に成り立っているのだ。

見方によっては、狂気というものは、独自の論理的秩序に貫かれている。例えば、特定の精神病に特徴的な「聖母マリアは処女である。私も処女である。よって私は聖母マリアである」という論法は、「ひとたび光一の妻と呼ばれた自分は生涯、その妻たらざるをえない」という思いに従い、愛を捧げる六条の揺るぎない姿に、どこかつながる。

加えて、デジタル的な整然さを示す格子上で、アナログの肉体を持つ役者が演じるとき―充分な訓練を積んだ演者であっても―偶然に支配された揺らぎが、いやおうなく生じる。それを免れようとする役者たちの集中力が、今回の上演に魔術的な緊迫感も与えただろう。

このユニークな舞台構造は、ドラマが終局に近づくにつれ、さらに豊かな多義性を発揮する。例えば、入院患者の一人(全共闘の敗北への肉体的オトシマエを自らつけることに固執する男)を訪ねた弟が「鉄格子の向こう側」と叫ぶ、その瞬間。役者たちが立つ格子状の床は、正常と狂気を隔てる境界としての鉄格子そのものであることが突如顕わになる。

六条の生霊に取り付かれ、と言うよりは、光一の愛が砂上の文字に過ぎないことを悟り、自らの内に潜む六条を徐々に呼び起こしていくアオイ。その立ち位置も、正常界たるバリケード上から、狂気と正気が交錯する格子の上に、次第に引き寄せられていく。クライマックスとなる死の場面、白いドレスを流産の血に染め、バリケードの頂、舞台後景の樹々の緑が照明に映える中から、アオイは日傘を手に下界へと、はかなくも美しく落下する。

それは、今思い返せば、浜にひときわ秀でた松の古木めがけ、天女が降臨する姿そのものだった。ならば、終幕、光一の手に縊られる六条が見せた身悶えも、羽衣を取り戻し、天上に戻らんとする天女の羽ばたきに重なる所作、だったかも知れない。

こうした幻視を、筆者の内に引き起こしたもの。それは、能役者を思わせる演者たちの「特権的肉体」(わけても、片や六条/アオイの二役を高い集中力で演じきり、片や光一の虚ろな中にも清々しい存在感を造型した、主役二人の熱演)、彼らに格子上での歩みを強いることで、幽玄なエアー空 気を舞台に招来した「演出」、現代の謡曲とも言うべき詩的陰影をたたえる脚本の「アングラ的文体」―この三者が共鳴し合った結果であったろう。加えて、この三保に程近い山麓の野外劇場に立ち上る霊性めいた何ものかも、「葵上」「羽衣」の二曲が筆者の内でひとつに結び付く依り代となった気がしてならない。

蛇足ではあるが、翌日訪れた三保の浜には波による砂の侵食を防ぐためだろう、所々テトラポットが、あたかもバリケードのように積み上げられていた。その表には、誰の手になるものか、落書きが様々刻まれている。そのひとつはこうであった。―葵参上

これがフィクションであれば、自らの詩的想像力を誇りもしようが、実のところ、何の虚飾もないリアル現 実の話である。(了)