フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛
―イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出 シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』劇評
森川泰彦
この戯曲の人物は、一見多種多様だが効率良く配置されており、その原理となっているのは、男女、老若、主従の二項対立的身分秩序である。かかる秩序が一時的転倒を経て再編成されるというカーニヴァル性 が、この喜劇の本質をなしているのだ。まず、家父長的規範に反抗的なキャタリーナの存在によって男女の秩序は初めから乱されており、これを矯正することが物語全体の課題として提示される。次いでこの物語は、老若、すなわち家父長間の世代交代をもその主題としている。ルーセンショーら若い三人の家父長候補が、結婚によって一人前になろうとするわけだが、そのために花嫁候補の父バプティスタは欺かれ、ルーセンショーの父ヴィンセンショーは偽者に取って代わられて愚弄され、グレミオも騙られ求婚競争に敗れるのである。そしてこの闘争において、主従の地位は見かけ上だが逆転する。召使が主人に化け、身分ある求婚者たちが、家庭教師となるべく学者や音楽家になりすますのだ。ヴィンセンショーがその地位を否認され、あわや投獄されそうになるのも、これにあたる。これに、調教の過程での、ペトルーチオの珍奇な服装、教会や結婚式の権威失墜、馬上から泥の中への新婚夫妻の落下といった転覆のイメージが重ねられる。そして調教の成果として、キャタリーナが太陽を月と、昼を夜と、老いた男を若い女と認めるのも、言葉の上ではあるがそうした壊乱の一環に加えることができる。
そしてカーニヴァルは一種のガス抜きであって、元々その革新的性格と共に保守的性格を併せ持っているが、それはこの劇において露骨に表れている。男性すべての応援を得たペトルーチオは、キャタリーナの反乱を鎮圧する。若い家父長たちは計略を尽くして結婚し、その権力を確立する。それに対し、召使による下克上は形の上であるばかりか、古い家父長の反撃さえ被る。旧家父長ヴィンセンショーの怒りが向けられるのは、息子ではなく彼らなのである。かくして革命は防がれ、クーデターのみが成功してこの物語は終わるのだ。観客はこの劇において、こうした秩序の解体と回復の見事な展開ぶりを楽しめる(はずな)のであり、この劇の人気は一般に高い。
しかしこの戯曲には、女性の「調教」という筋立てが、現代のフェミニズム的価値観とは適合しないという大問題がある。これをいかに観客に違和感なくかつ一貫した解釈に基づいて提示できるかが、演出上の最大の課題となるのだ。それでは、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ氏はこれにどう取り組んだか。
今回の演出は、マンチュアの教師が省かれる等多少の省略や変更もあるが、台詞の点では概ね原作の内容に忠実であった。大きく変えられたのは、その視覚化であり、登場人物の設定が、現代のフーリガンの世界に置き換えられたことがその最大の特徴である。背広を着てはいるが中身は粗野なゴロツキたちの馬鹿騒ぎが、パロディも取り入れながら、広い舞台に運動感豊かに展開されていくのである。おしとやかなはずのビアンカもあばずれで、二人の家庭教師による教育の場面は、性交そのものとして描かれる。この演出の世界では、言わば男も女も皆「じゃじゃ馬」なのだ。それでは、こうした現代のアウトローたちの風俗への置き換えは、何を意味するのか。
演出ノートに見られるような演出家の主観はさておき、それが客観的に有していたのは、第一に、ペトルーチオとキャタリーナの筋を際立たせるために、それ以外の人物に皆一様の性格を付しつつ脇役化してしまう機能である。この劇を構成するのは、「調教」の成功だけでない。それと並んで、ルーセンショーのビアンカへの求婚の成功が主筋をなすのだが、この演出は、後者をカットしないものの、「図」たる前者の「地」として後景化させてしまうのだ。
そして第二は、そうして唯一の主筋となった調教を、「純愛」として無理なく成立させる環境を設定する機能である。キャタリーナは、母親からの愛情や求婚者を妹が独占することへ嫉妬する女性として、その心理を写実的に描写される。冷蔵庫に引きこもってしまうように、最初から、弱さからくる強がりであることも示唆されている。そして二度にわたってペトルーチオと長く抱き合う場面が設けられ、二人の間の強い恋愛感情が芽生えたことが強調される。こうしたことは、アウトローたちの恋愛とすることで初めて、可能になったというべきだろう。女を愛しているが暴力的でもあるマッチョな男と、不幸になりながらも彼に魅かれる女という設定は、ヤクザ映画によくあるように、ありうる現実の反映として説得力を持っているのだ。この劇の最大の難関であろう妻の従順を説くキャタリーナの長台詞は、宴の列席者に対してではなく、夫への一種の愛情表現として彼に向かって語られる。これを明示するために、ペトルーチオはわざわざ中央客席に移動し、言わば演出家としてその「演技」を見守るのである。彼女の語り口は、投げやりでもないが完全に媚びているというほどでもない。本心ではないが、愛情ゆえにそこは譲るという態度を見せるのだ。
こうした演出は、フェミニズム問題の対処として巧みな成功を収めている。そして同時に、例えば家庭教師の場面で楽器の調律(音楽の準備)を性器の勃起(性交の準備)に見立てたような、意表をつく置き換えによって、聴覚の世界から分離しつつも対応する視覚の世界を、一貫して重ねてみせた。中世の架空の話を、説得的刺激的かつ整合的な形で現代の物語として再生してみせたのであり、見事な置き換えゲームだと言うべきである。
しかしこの演出では、鋳掛け屋スライに対する領主の悪戯を描く序幕の部分が省かれ、「騙し」の主題を大きく後退していることとも相まって、カーニヴァル的転倒の面白さはほとんど一掃されることになった。ルーセンショーの主筋が埋没し、観客が感情移入できる人物が、機知とトリックで成功してみせることによる痛快さは消えてしまったのである。それまで大活躍のトラーニオらが、本物の大旦那様の予期せぬ出現に慌てふためく再転倒の面白さや、言葉を字義通り受け取るというグルーミオの言語戦略がもたらす混乱のような倒錯に富んだ台詞やりとりが生む面白さについても同様である。演出ノートにはカーニヴァルに着目したかの記述があるが、元々抑圧的秩序を欠くアウトローたちの「日常的」乱痴気騒ぎに見えるこの世界に、「非日常的」な秩序の揺らぎと再構築という契機は希薄なのだ。
従ってこの演出に、かかる意味での喜劇としての楽しみは乏しい。独自の世界を創造してみせた傑出した作品ではあるが、この戯曲の潜在的可能性を十全に活かしてはいないこともまた指摘しておく必要がある。つまりは、正統に挑戦しうるような前衛ではない。理念的であれ正統の存在を前提とする、言わば後衛的前衛なのである。
(2009年6月27日観劇)