劇評講座

2009年8月16日

『スカパンの悪だくみ』(オマール・ポラス演出、モリエール作)

前衛的正統の喜劇
―オマール・ポラス演出 モリエール『スカパンの悪だくみ』劇評

森川泰彦

まず、テクストから検討しよう。この物語の骨格を構成するのは、単純明快な幾何学的人物配置を元に展開する、次から次へと課せられる課題と、それに対する意表をつく解決の連続である。前半の二人の息子の窮地は、スカパンの小気味良いペテンによってとりあえず救われる。後半では、ペテンがバレたことによって振り出しに戻ってしまったばかりか、スカパン自身が処罰の危険にさらされるという窮地に陥るわけだが、そうした増幅された課題は、なされた結婚がなされるべき結婚であることが明らかとなり、当初の課題そのものが遡及的に消失してしまうことで、「解決」されるのである。スカパン自身も、その才覚だけでなく、その「解決」感の高揚のおこぼれにあずかって許されることになる。

そしてこの作品は、古典中の古典とされる喜劇であり、多くの喜劇と同様、カーニヴァル性をその本質としている。父親の留守中にその許しなく結婚するという息子の行為は、父権的秩序への反抗であり、父を頼るのではなく、召使に頭を下げる行為はさらにかかる秩序を転倒させる。こうして幕を開けるカーニヴァルは、召使が息子のために父親=主人を見事騙して金を巻き上げ、さらには棍棒で叩きのめすという父子と主従の二重の逆転を頂点に、真相が発覚して召使が権力を失うことにより衰退を始め、どこの馬の骨とも知れなかった二人の娘の出自が明らかとなり、結婚によって新しい秩序が確立する大団円へ至って終焉するのである。またその過程においては、真理と虚偽、本質と仮象といった前者が優位する二項対立的秩序も、転倒と再転倒の運動を経ることになる。召使の力の源泉は、演技という仮象による虚偽が生む脅しであり、その化けの皮が剥がれ、本質が顕わになり真実が明らかになることで脅しはその効力を失うのだ。そして、スカパンの悪だくみによってではなく、結婚した娘が結婚するはずの娘であり、卑しいはずの娘が卑しからぬ娘であることが明らかになることによる最終的解決は、仮象と虚偽に対する本質と真実の逆転勝利を意味している。

このようにこの物語は、嘘のような嘘の成功が観客を引き付けよく楽しませつつ、それを加速させた挙句、練り上げられた御都合主義というべきどんでん返しにより物語全体の相貌を一変させつつそれを完成させて終わる。開放感とともに安心感を与えてくれるそうした筋立てを持つこの戯曲は、単純だが技巧を凝らした極めて人工的な作品なのである。

それでは、かかるウェルメイド・プレイをどう演出すべきか。字幕付映像が市販されているコメディー・フランセーズの『スカパンの悪だくみ』(ジャン=ルイ・ブノワ演出)だと、スカパンの執念深さに焦点が当てられる。裁判所に代表される体制への怨念、階級的抑圧への憤怒を抱えた人物の抵抗と諦念という側面が強調されるのである。そうした演出はそれなりに一貫した読みに基づいているし、その翳のあるスタニスラフスキー・システム的な演技も一定の説得力を持つ。この作品が飽きるほど繰り返され、差異化を図ることが求められるような状況なら、こうした近代劇的読み直しも選択肢の一つに入って当然である。しかし同時に、そうした「深さ」は、笑劇であるために必要な「軽さ」とは対極の「重さ」を否応なく舞台に持ち込むことで、この劇の最良の性質を減殺してしまう。

これに対しオマール・ポラス氏は、そうした特性を尊重し、この作品を徹底的に笑劇として提示する。この言わば表層の演劇を、深層を加えたいという誘惑に屈することなく貫いてみせたのである。この演出では、この戯曲の源流であるコンメディア・デッラルテがそうであったように、登場人物は性格類型として現れる。彼(女)らは、おとぎ噺の登場人物ほどではないにせよ、「平面性(M・リューティ)」を有する人物であって、近代劇の登場人物のような内面の深みを持たないのだ。しかもそうした演出は、高度な舞台表象技術を駆使して遂行される。それは、笑いのために技術を使うというより、技術を見せるために笑いを言い訳にしていると言えるほどなのである。

上演台本は、アフタートークで話題になったようにジェロントの性が変更されていた他は、ほぼ原作通りであった。そしてこの修正も、演出家自身が説明していたように、家父長の権威が失墜し母親の地位が向上した現代の家庭に照らしてみれば、説得力に富む。母親が財布の紐を握っていることが珍しくない現代において、ケチ役を母親が担うのは「自然」なのだ。そしてこの母親への変更は、二人の親を明確に差異化すると共に、その息子を奇怪な「お坊ちゃま」に発展させ、息子二人を差異化することにもなる。こうして境遇が似ていて区別が曖昧になりがちな二組の父子は、父子と母子の組み合わせとなり、物語は分かりやすくなった。

舞台は、三原色に霞をかけたような水色、ピンク、薄黄で彩られた、シャガールを思わせる華麗な美術で飾られ、観客をおとぎ噺的異空間に誘う。そこでは、半仮面によって鼻や歯や耳を誇張し、その振る舞いと相まって笑劇固有の間抜けさを辺りに波及させる役者たちが、そうした仮面劇でなければ存在しない独特の〈笑劇的身体〉を現前させ、〈笑劇的空間〉を立ち上げる。そして現代的に改良されたコンメディア・デッラルテ的演技が漲らせる機敏な運動感を基盤に、歌あり、踊りあり、クラッカーありと使えるものは何でも使う貪欲な雑種性が、まさにカーニヴァル的祝祭感を盛り上げるのだ。どんな可憐な美女が登場するのかと思いきや、アカ抜けない眼鏡娘が現れ、どんな恐ろしい大男が登場するのかと思いきや、吹けば飛ぶようなチビ老人が登場する。あるいは、観客を巻き込んでおいて「あいつのせいだ」といって逃げるスカパンの図々しさも可笑しい。

そして特に素晴らしいのは、この演出オリジナルの母子の「怪演」ぶりである。ジェロントは、上品さなき上流夫人といった風の強烈なエゴを持つ女傑で、親同士が言い争う場面では、ここぞという瞬間に相手のトランクを蹴り飛ばす。そして二枚目役のはずのレアンドルは、ポルノ雑誌を片手に登場する子供大人で、子供のような大人の間抜けさや頼りなさと大人のような子供の傲慢さや狡猾さを併せ持ち、状況に応じてその二面を往き来する。こうしてポラス氏は、現代の母や子の一面をグロテスクに戯画化して見せるわけだが、これは、モリエールが当時やっていた人物類型に対する風刺の現代版でもある(ⅰ) 。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『じゃじゃ馬ならし』について、正統にとって代わるものではない後衛的前衛であると書いた(ⅱ)が、反対にこの舞台は、現代化を施しつつもテクストを真正面から活かすものであり、前衛的正統なのだと言うことができる。
(2009年7月4日観劇)

ⅰ 例えば『ヴェルサイユ即興劇』の中で明確に語られている。               ⅱ 拙稿『フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛』(SPAC投稿劇評)

2009年8月15日

『スカパンの悪だくみ』(オマール・ポラス演出、モリエール作)

スカパンに仮面を被せること
奥原佳津夫

舞台は、ジュークボックスからオールディーズが流れる数十年前の港町の庶民的なカフェのイメージでしつらえられている。登場人物は、現代衣装ではあるが、口以外を仮面で覆った主人公をはじめ、極端な扮装で素顔を隠した道化芝居の趣。陽気で屈託のない演技は、まるで人形劇を見るようで軽快である。スカパンが主人に袋を被せて打ちすえるよく知られた場面も、女主人に黒いビニール袋を被せる演出は、ともすると陰惨になりかねないのだが、暴力性がまったく気にならないほどに架空の世界ができあがっていた。
この上演で最も重視されていたのは、いわゆる「ライブ感」であり、客席との一体感だろう。劇中の新聞記事に時事ネタ(この日は「今日は県知事選投票日」)を取り込んだり、俳優が盛んに客席に降りて観客に接触したり。終幕での、スカパンの瀕死の重傷の偽計は、口上役と通訳者によって、上演を中断するアクシデントとして述べられる。躍動感ある演技に客席は盛り上がっていたし、その点では充分成功と云えるだろう。

以下、無いものねだりをすれば―まずはその上演形式の意外性の無さである。この演出者(オマール・ポラス)とカンパニーの独特の手法を考えた時に、この『スカパンの悪だくみ』は、あまりにも予想どおりの仕上がりだったことだ。先年上演された『プンティラと召使マッティ』は、仮面劇と道化芝居の手法が、ブレヒトの叙事的戯曲に思わぬ効果をもたらしたが、モリエール劇の中でも笑劇的要素のまさる『スカパンの悪だくみ』は、そもそも戯曲自体がこのカンパニーの手法に近すぎるのだ。演劇史的な観点に立てば、この戯曲は、古代ローマ喜劇とコメディア・デラルテの影響を直接に受けながら(むしろなぞりながら)モリエールの書いた喜劇だが、むろん仮面劇ではなく、近代劇との過渡的な作品と捉えられることが多い。その『スカパンの悪だくみ』を仮面劇で、道化芝居的な手法で上演するということは、かつて大道で上演された、ライブとしてのコメディア・デラルテの復権、という方向性を持つものと云えるし、モリエール戯曲に近代劇的な解釈を無理にも持ち込もうとした時代に対する批判としても有効だと思う。
ただし、その現代化が安易にすぎたようだ。風俗を現代化するだけでは、古典戯曲を現代に生かすことにはなるまい。
知恵者の従僕、というには後ろ暗い、どこかいかがわしげな雰囲気の赤毛のスカパンに、颯爽たるトリックスターとはなりえない現代的な屈折を期待したが、それ以上踏み込まれないので、人物像も人物間の関係性も、特に現代的な視点が見られるわけではない。前述のとおり、客席との交流は達成していたが、珍妙な扮装の登場人物がドタバタ喜劇で場を沸かせるだけでは、演劇芸術の知的な愉しみには遠い。(もちろん、軽快な笑劇の演劇的な価値自体を否定するのではないが、戯曲に依存した安心感からか、密度の低い皮相な笑いが散見されたのが惜しまれる。)

コメディア・デラルテの現代演劇への復活としては、ジョルジョ・ストレーレル演出の『二人の主人を一度に持つと』を嚆矢にあげられるだろうが、その上演は、舞台上に常にプロンプターを置くことによって文学の優位性を示し、コメディア・デラルテの復権と同時に、その歴史的な終焉を描く周到な演出である。
現代演劇として、スカパンにあえて仮面を被せるためには、そうした複眼的な視点が必要だったのではあるまいか?
一つの独自の演劇手法を確立し、自家薬籠中のものとした演出者(とカンパニー)の、進むべき道は二つしかない。一つは、様式化を恐れず、ひたすらに洗練の度を増してゆくこと。もう一つは、あえてその手法がなじまぬテクスト(題材)に対峙して、両者の化学反応の如き新生面を拓くことだ。おそらくは洗練を望まないこの演出者の次回作に期待したい。
(於.静岡芸術劇場 2009.7.5所見)