前衛的正統の喜劇
―オマール・ポラス演出 モリエール『スカパンの悪だくみ』劇評
森川泰彦
まず、テクストから検討しよう。この物語の骨格を構成するのは、単純明快な幾何学的人物配置を元に展開する、次から次へと課せられる課題と、それに対する意表をつく解決の連続である。前半の二人の息子の窮地は、スカパンの小気味良いペテンによってとりあえず救われる。後半では、ペテンがバレたことによって振り出しに戻ってしまったばかりか、スカパン自身が処罰の危険にさらされるという窮地に陥るわけだが、そうした増幅された課題は、なされた結婚がなされるべき結婚であることが明らかとなり、当初の課題そのものが遡及的に消失してしまうことで、「解決」されるのである。スカパン自身も、その才覚だけでなく、その「解決」感の高揚のおこぼれにあずかって許されることになる。
そしてこの作品は、古典中の古典とされる喜劇であり、多くの喜劇と同様、カーニヴァル性をその本質としている。父親の留守中にその許しなく結婚するという息子の行為は、父権的秩序への反抗であり、父を頼るのではなく、召使に頭を下げる行為はさらにかかる秩序を転倒させる。こうして幕を開けるカーニヴァルは、召使が息子のために父親=主人を見事騙して金を巻き上げ、さらには棍棒で叩きのめすという父子と主従の二重の逆転を頂点に、真相が発覚して召使が権力を失うことにより衰退を始め、どこの馬の骨とも知れなかった二人の娘の出自が明らかとなり、結婚によって新しい秩序が確立する大団円へ至って終焉するのである。またその過程においては、真理と虚偽、本質と仮象といった前者が優位する二項対立的秩序も、転倒と再転倒の運動を経ることになる。召使の力の源泉は、演技という仮象による虚偽が生む脅しであり、その化けの皮が剥がれ、本質が顕わになり真実が明らかになることで脅しはその効力を失うのだ。そして、スカパンの悪だくみによってではなく、結婚した娘が結婚するはずの娘であり、卑しいはずの娘が卑しからぬ娘であることが明らかになることによる最終的解決は、仮象と虚偽に対する本質と真実の逆転勝利を意味している。
このようにこの物語は、嘘のような嘘の成功が観客を引き付けよく楽しませつつ、それを加速させた挙句、練り上げられた御都合主義というべきどんでん返しにより物語全体の相貌を一変させつつそれを完成させて終わる。開放感とともに安心感を与えてくれるそうした筋立てを持つこの戯曲は、単純だが技巧を凝らした極めて人工的な作品なのである。
それでは、かかるウェルメイド・プレイをどう演出すべきか。字幕付映像が市販されているコメディー・フランセーズの『スカパンの悪だくみ』(ジャン=ルイ・ブノワ演出)だと、スカパンの執念深さに焦点が当てられる。裁判所に代表される体制への怨念、階級的抑圧への憤怒を抱えた人物の抵抗と諦念という側面が強調されるのである。そうした演出はそれなりに一貫した読みに基づいているし、その翳のあるスタニスラフスキー・システム的な演技も一定の説得力を持つ。この作品が飽きるほど繰り返され、差異化を図ることが求められるような状況なら、こうした近代劇的読み直しも選択肢の一つに入って当然である。しかし同時に、そうした「深さ」は、笑劇であるために必要な「軽さ」とは対極の「重さ」を否応なく舞台に持ち込むことで、この劇の最良の性質を減殺してしまう。
これに対しオマール・ポラス氏は、そうした特性を尊重し、この作品を徹底的に笑劇として提示する。この言わば表層の演劇を、深層を加えたいという誘惑に屈することなく貫いてみせたのである。この演出では、この戯曲の源流であるコンメディア・デッラルテがそうであったように、登場人物は性格類型として現れる。彼(女)らは、おとぎ噺の登場人物ほどではないにせよ、「平面性(M・リューティ)」を有する人物であって、近代劇の登場人物のような内面の深みを持たないのだ。しかもそうした演出は、高度な舞台表象技術を駆使して遂行される。それは、笑いのために技術を使うというより、技術を見せるために笑いを言い訳にしていると言えるほどなのである。
上演台本は、アフタートークで話題になったようにジェロントの性が変更されていた他は、ほぼ原作通りであった。そしてこの修正も、演出家自身が説明していたように、家父長の権威が失墜し母親の地位が向上した現代の家庭に照らしてみれば、説得力に富む。母親が財布の紐を握っていることが珍しくない現代において、ケチ役を母親が担うのは「自然」なのだ。そしてこの母親への変更は、二人の親を明確に差異化すると共に、その息子を奇怪な「お坊ちゃま」に発展させ、息子二人を差異化することにもなる。こうして境遇が似ていて区別が曖昧になりがちな二組の父子は、父子と母子の組み合わせとなり、物語は分かりやすくなった。
舞台は、三原色に霞をかけたような水色、ピンク、薄黄で彩られた、シャガールを思わせる華麗な美術で飾られ、観客をおとぎ噺的異空間に誘う。そこでは、半仮面によって鼻や歯や耳を誇張し、その振る舞いと相まって笑劇固有の間抜けさを辺りに波及させる役者たちが、そうした仮面劇でなければ存在しない独特の〈笑劇的身体〉を現前させ、〈笑劇的空間〉を立ち上げる。そして現代的に改良されたコンメディア・デッラルテ的演技が漲らせる機敏な運動感を基盤に、歌あり、踊りあり、クラッカーありと使えるものは何でも使う貪欲な雑種性が、まさにカーニヴァル的祝祭感を盛り上げるのだ。どんな可憐な美女が登場するのかと思いきや、アカ抜けない眼鏡娘が現れ、どんな恐ろしい大男が登場するのかと思いきや、吹けば飛ぶようなチビ老人が登場する。あるいは、観客を巻き込んでおいて「あいつのせいだ」といって逃げるスカパンの図々しさも可笑しい。
そして特に素晴らしいのは、この演出オリジナルの母子の「怪演」ぶりである。ジェロントは、上品さなき上流夫人といった風の強烈なエゴを持つ女傑で、親同士が言い争う場面では、ここぞという瞬間に相手のトランクを蹴り飛ばす。そして二枚目役のはずのレアンドルは、ポルノ雑誌を片手に登場する子供大人で、子供のような大人の間抜けさや頼りなさと大人のような子供の傲慢さや狡猾さを併せ持ち、状況に応じてその二面を往き来する。こうしてポラス氏は、現代の母や子の一面をグロテスクに戯画化して見せるわけだが、これは、モリエールが当時やっていた人物類型に対する風刺の現代版でもある(ⅰ) 。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『じゃじゃ馬ならし』について、正統にとって代わるものではない後衛的前衛であると書いた(ⅱ)が、反対にこの舞台は、現代化を施しつつもテクストを真正面から活かすものであり、前衛的正統なのだと言うことができる。
(2009年7月4日観劇)
ⅰ 例えば『ヴェルサイユ即興劇』の中で明確に語られている。 ⅱ 拙稿『フーリガンたちの非カーニヴァル的求愛』(SPAC投稿劇評)