劇評講座

2013年7月2日

■準入選■【『ロビンソンとクルーソー』(イ・ユンテク演出)】渡邊敏さん

■準入選■

渡邊 敏
 
 第二次大戦の終戦時に、無人島に漂着した日本兵と朝鮮人の物語。演出は韓国のイ・ユンテク氏。閉ざされた空間で、必ずや二人の間に恨みや憎しみの感情が交わされるものと予想して、少し緊張しながら見た。

 ところが、帝国軍人と称するわりには日本兵は簡単に弱音を吐くし、かたや農民風の朝鮮人は日本に深い恨みはない様子だ。二人は日本兵が持っていたスルメを巡って争うけれど、それはコミカルでまるで「トムとジェリー」の争いか、昔の喜劇映画のようだ。やがて言葉は通じないながらも友情が芽生え、良き友となる。ロビンソンとクルーソーは孤島に生きる二人の新しい名前だ。結局、一度も戦争や贖罪が語られることなく、それぞれの懐かしい故郷に向かって出発していく。
 個人的に、韓国・中国の人たちに接する時、必ず心の片隅に戦争がある。ない、ということはあり得ない。そういう点で、あまりにも明るく、澄んだこの作品には肩すかしをくらわされた。「え、これでいいの?」と戸惑う。 
 いつのまにか軍服を脱いで褌(ふんどし)姿になった日本人と、上半身裸の朝鮮人。素(す)の人間になった二人は、魚が獲れて大漁祭り、家を作って棟上げ祭り。韓国と日本それぞれの音楽と踊りがお互いを祝福し、人間の善なるものを祝福してくれているようだ。
 二人の姿はあくまでも可愛い。人間の可愛さを見せつけてくれる。旅立ちの時の「チング(友よ)!」という呼び声は、至純な心そのものだ。
 ラスト・シーンは明るい希望の光で輝き、心の通い合いの温かさが満ちていた。人間の善性に期待し希望を抱こうとするこの作品は、韓国ではどのように受けとめられるのだろうか。 

 さて、この作品は中高生の鑑賞事業に指定されている。観劇した日は中学生がいっぱいだった。客席の中学生たちは、時に海のカモメや魚に見立てられ、役者二人は客席に呼びかけ、通路を走り、座席まで入り込んで中学生たちと身体的な接触やエネルギーの交感をする。
 今どきは女子も男子も、汗や体臭といったものを嫌悪して消臭スプレーや香りつきのローションを使うと聞く。子どもながらどんどん神経が細かくなってきて、大らかさが失われていくようだ。二人の役者が放つエネルギーや、目の前で躍動する、彼らから見たら「おじさん」に位置づけられそうな男性の肉体はどんな風に映っただろうか。
 子どもたちより舞台で跳ねている大人の方がはるかに自由で楽しげだった。本当は彼らの方が溢れんばかりのエネルギーを持っているのだろうけれど、それらが蓋をされているような、自由にエネルギーを巡らせる術がなくて、固まっているような。「子どもはのびのびと」なんて嘘だよね、と感じる。
 二人のエネルギーをもらって、元気になったり、発散できた子は沢山いただろうか。演劇の場に共にいることは、そんな効能もあるはずだ。