■準入選■
前田勝浩
シェイクスピア原作の『ロミオとジュリエット』は、普段演劇を観ない人であっても題名を知らない人はいないだろう、という有名な作品である。意外だが、SPACによる他のシェイクスピアの作品は公演してきたが、本作は初の公演となる。構成・演出のオマール・ポラス氏は、コロンビア出身で現在はスイスを中心に活動している。そのオマール氏が西洋社会ではない東洋の日本で、一体どのような演出をするのかに興味があった。
イタリアは花の都ヴェローナでの話だが、舞台美術は西欧の邸宅風ではない。丸柱と梁だけの一見とてもシンプルで仮設的な様相だ。しかも重要なシーンに必要なバルコニーがない事に驚く。おそらく神社の鳥居のようなイメージではないかと思ったが、実は舞台芸術公園内にある「楕円堂」ホール内観を模しているとの事だ。ただし全く同じではなく、中央だけは高い二本の柱で門柱のようになっており、その他が左右対称の列柱配置となっている。これは両家、モンタギュー家とキャピュレット家の対立を表していると感じた。舞台美術を「日本的なもの」としたのは、西欧文化圏ではない場所で公演する意味として、その国や地域への敬意ではないかと思える。日本で公演するからそうしたのであって、他の場所、例えばインドや中東、アフリカであれば、その地域の建築文化に見合ったものとしたであろう。SPAC共同制作なので出演者は日本人が多いが、西欧人との混合であり、セリフも日本語・フランス語が混在しているという、全体的に多国籍な構成も大きな演出内容だ。その演出意図が最もわかりやすい表現が「衣装」である。全体的に「和洋混合」もしくは、昔の日本を現代化したような出立ちとなっている。中でも乳母やメイドは上半身を東洋的、下半身は西欧的となっていて滑稽でもある。舞台全体をひとつのスタイルに纏めきっているというより、あえて異なるものを混在させている演出なのだ。
もうひとつの大きな特徴は、冒頭で話の結末を述べてしまっている事だ。もちろん、あらすじを知っている観劇者も多いかもしれないが、構成としては「事の顛末を語る」というものだ。「悲劇の死」を頭に浮かべながら舞台を観るので、感情移入するというより冷静に観察する視点ができる。原作では、前半では猥褻なくらい喜劇性が強く、恋愛で幸福の絶頂の後、ある事件によって急転直下、悲劇性が増していく構成であったはずだ。だが、そのような対比構成というよりは、「対立構造や争いの虚しさ」という大きなテーマを感じるのだ。ここで、二つの名家の争いというより、多国籍で混合させた舞台の世界観から「世界中で今も続く国や地域の争いと数多くの悲劇」という事を連想させる。そもそも両家が対立し合う理由そのものが既に風化していて分からなくなっているのに、「争いと憎しみの感情」だけが親から子へと連鎖的に伝わっているのだ。仇相手の何が悪かった等も分からず、ただ互いが存在しているだけで争う事になっている。長い争いに疲れたキャピュレットは、どこかで何とか終わらせたい素振りもみせる。だが、血気盛んな若い世代は諍いばかりではなく、お互いを殺し合うまでしてしまう。そのような事が次々と起きてしまう為、争いを終結できないでいるのだ。そして、それは世界の戦争や紛争が続く理由と同じであるとオマールは言っているのではないか。生きている時は威勢のいいマキューシオも、死の直前には本音を吐かずにはいられない。「両家ともくたばってしまえ!」私にはこの恨みの言葉が、争いの犠牲者からの真実の叫びとも思えるのだ。これは両家の人間が全員死んでしまう事を望むというより、「どちらかが勝利する」という対立構造を否定し、お互いが統合する事でどちらでもない全く別の存在へ生まれ変わって欲しい思いを感じざるを得ない。モンタギュー家とキャピュレット家の場合、後継者のロミオとジュリエットが結婚して全く新しい家を創設すれば、それは可能であったはずだ。そう考えると、日本そのものでもなく西欧でもない両者が混在している世界観の演出に納得できるのだった。お互いに忍耐と尊重しあえば、文化や言葉が違っても共存できると。
だが現実社会と同じように、事はうまくはいかない。若さゆえの過ち、もしくは情熱が破滅を導く。運命に翻弄された二人は結果的には「悲劇的な死」を迎える事となる。この家(社会)の義理と愛情との間で、勘違いとはいえ同じ場所で同じ日にお互い「死を選ぶ」のだ。これは日本的な「義理と人情」の板挟みによる「心中」を思い浮かべざるを得ない。クライマックスのシーンは言葉もなく、身振りでお互いの気持ちを表しながら死を迎え、花弁が舞い降りる中での最後の抱擁する場面は、日本的な演出で儚くも大変美しい。
叙情的な最後が美しくて感動してしまうのだが、演出テーマである「争いの虚しさ」を表現する結末としては美しすぎると思える。「両家の和解」が描かれていない以上、二人の死の意味が伝わりにくいと感じるのだ。だが、この作品が多くの国で公演される時、より多文化社会の中でこそ、この多国籍な演出の意図は更に直接的に伝わる。この作品には、多くの国や文化の中で生きてきたオマール自身の祈りが込められているかもしれない。