劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】松竹由紀さん

■準入選■

松竹由紀

 百合は、何故カツラを取らなかったのだろう?

 山沢が登場し、萩原がカツラを取って懐かしく登場するシーンだ。
 この時、私は、当然、百合もカツラを取るだろうと思って見ていた。
 ところが、彼女はカツラを取らなかった。どうしてカツラを取らなかったのか、初っ端から感覚的な躓きを覚えたが、答えはそのうちに分かるだろう。と、思い、軽く流して最後まで見続けていた。
 話が進むにつれて、百合が、萩原を心から愛し、離れたくない気持ちでいたのは、よくわかった。日本人の奥ゆかしい、静かな愛を持つ女性なのだと私なりに理解した。しかし、どれも、その時カツラを取らなかった理由とは全く繋がらないまま、消化不良の状態で終演してしまったのだが、初っ端の感覚的な躓きは、その後の劇中でも続いていた。

 それは、生贄にする百合を捕える村人達が太鼓を叩くシーンだ。

 あれは、とてもとても長い時間だった。村人たちが叩くあの太鼓のリズム。はじめのうちは、特別なにも感じなかったが、徐々に耳が不快感を訴えてきた。あの響き、単調なリズムの繰り返しは、私の中の恐怖を呼び起こした。そのうちに見ていて気持ちが悪くなってきたのだが、この身体の反応も、演劇を見る醍醐味だと、たっぷり気持ち悪くなりながら見ていた。早く終わってくれないかな!と、思っていた。
 集団は怖い。太鼓の音、響き、単調なリズム、そして人々の思いは、恐怖を生み、さらなる恐怖を煽るのだということを初めて体験した。
 恐怖だけではない、生贄に関しては、怒りさえ感じて、体が熱くなった。
 終演後、席を立った後も、その感覚は残っていて、少し気持ちが悪かった。

 2階のカフェに移動し、出演の役者さん達が続々とご挨拶に回っているのを眺めていると、山沢役の奥野さんと話せる機会を得た。良い機会だったので、なぜ百合はカツラを取らなかったのか、聞いてみた。
 奥野さんは、まず、夜叉ヶ池の演目についての説明とともに、カツラを取らない女心などを熱く語ってくれた。たくさんのヒントがあった中で、私が印象的だったのは、
 「百合は、山沢が萩原を連れて行ってしまうのではないかという不安が大きかった。」
 と、いうことである。
 「不安」だったのか。
 雨乞いのための生贄、洪水を防ぐための鐘楼、すべては「不安」で繋がっている。私には、そんなふうに見えてきた。人間の不安。泉鏡花の表現の一部を得られた感じがして、やっとスッキリした。

 ただ単純に、愛する人と一緒に村を出てしまえば良いじゃないの。と、思う私だったが、「不安」を表したものだとしたら、やはりカツラは取らなくて良かったのかもしれない。
 現代を、軽い感覚で生きている私には、理解の及ばないところだった。
 
 
 百合が、カツラを取らなかった理由について、もうひとつ、ユニークな見解を聞いたので書いておきたい。この劇に誘ってくれた、新居町の寺田さんだ。NPO法人 新居まちネットでリーディングカフェを開催した面白いおじ様である。
 その寺田さんの見解はこうだ。
 「昔と今との時間の違いを表現したものだと解釈していた。」
 そういった感じのお話だったと思うが、とにかく「時間」を表現したということだ。
 私にはまったく思いつかなかった発想だ。言われてみると、昔と今の違いを白髪のカツラで表現しているのだと言われる方が、私の感覚の中でも、しっくりとくる。
 見方は1つじゃない。もっとたくさんの人からの意見も聞いてみたいと思った。

 今回は、1つのシーンから2つの解釈が得られた。
 初っ端から感覚的な躓きを抱えたままでいた私には、どちらの理由にせよ、カツラを取らなかったのには意味があると分かって、落ち着いた。あの不快だった太鼓の響きでさえ、 「人間の不安」に対する理解を半ば強引に広げ、深めてくれたのだ。

 決して、最後にスッキリ爽快!という展開ではないが、私の心には、人間の中の不安について目を向ける方法が分かった作品である。