■準入選■
福井保久
『病は気から』は、人間不信になってしまいそうで、社会の構造の負を見せつけられてしまいます。
全編が喜劇で、それが際立っているから、どうにもこうにも最後の審判で人の性とその普遍を鑑賞後にも感じ続けます。
ありきたりな言葉ですが、人というものは350年前とこうも同じものか、そして、可愛く優しく憎たらしく、愚かであることがわかります。
演劇は、SPACの宮城総監督が舞台に出て、演者を導くという、演者としての宮城さんが出演するというサプライズで始まります。
8人劇で、8人の中で一番元気で健康な、でも病人かぶれの主人公アルガンが主導します。アルガンは、浣腸と薬で生きながらえていると信じています。ここからして喜劇そのものですし、ここからしてその真意はシリアスで深く、病気と健康がテーマですから、広義に誰もが関わりあっていることを、冒頭で意識します。
アルガンは自分を病人と信じていますから、それを打開することに躍起です。有能な召使に自分のその病状を叫ぶことで病人に成りきろうとします。後妻はそんなアルガンの亡くなる姿を期待していて遺産が目当てです。
アルガンには娘が二人います。二人とも可愛く、終盤のアルガンを本当に愛しているかの踏み絵に関しない純粋な二人です。ちなみに後妻は踏み絵を踏みました。
その長女アンジの婿を、自分の病気を診る医者を選び望み、アンジに強要します。けれど、アンジには恋人がいます。それを無視されて医者との強制的な結婚を迫られます。アンジは恋人と結婚することが適わないこととの引き換えに、結婚したくない結婚を拒否する権利を欲します。ここは人の崇高さを表現しています。
アルガンを中心に、召使を媒体そして、アンジの結婚相手の医者親子、アンジと相思相愛の恋人、末娘のルイジ達で、風刺の効いた喜劇が場内に蔓延します。
その喜劇は確かに洒落ていたり、野暮ったかったりですが、粋な演出の中に行き過ぎをはさみます。行き過ぎとは、あまりにも予想の範囲をなぞったり、時にベタだったりで、そこには喜劇なのだけれども、笑えられないのです。それは愚かな人の性をみせたり、喜劇を超える誇張を感じるからです。それらが、それらとは無縁の笑いの中に散りばめられているから確信犯でこちらを刺すものをしたためています。これらは全て、最後の審判につなげる伏線です。
痛烈な喜劇を貫くことの中に、病気でいることを言い聞かせるアルガンのあの姿を、観客一人ひとりに置き換えるという仮定をすれば、最後の審判の意味は一目瞭然です。
観客それぞれが、病気のように気にすること、とらわれることをイメージし、病気に置き換えれば、アルガンが望んだ儀式は私達の姿そのものです。
病気でいることを信じていたアルガンが健康そのものであったのに、医者としての権威を得た瞬間に真の病気を得たことは痛烈そのものです。
そしてあの場面は、既得権益バンザイという医者達(どの業界でも同じです)と世の中(教育されたわれわれ)の望みのどちらをも適えたウィンウィンの実体を、嫌らしく誇張します。私達が持つ価値観を嘲笑するように。
この演劇は喜劇ですが、すごく醒めています。世の中の価値観を鵜呑みにする個人に警鐘を響かせています。それほどに、最後の審判は恐ろしいほどに、偏った価値観を肯定確認し、納得したいということをどこまでも求める人々の姿に見えます。都合が良いことを私利にする個人の小さい出来事を、世間の同意にする怖いシーンです。
そしてその後もアルガンの亡骸はもてあそび続けられます。それはみんなを結束させて、安心を得るための手段であり、儀式の一旦ですから。
繰り返しますが、この演劇は喜劇です。だからそれを続けた最後に、真意を伝えることで、その真意は深く心を刺します。
この演劇の舞台セットは観客席です。演じるあっちも鑑賞するこっちも同じ舞台だということを示唆します。たぶんこの演劇はどんなセットでも演じられます、でも敢えて観客席のセットとしています。それは、舞台の中で演じられていることは、舞台から観ている者の日常と同じだからです。
そしてもうひとつの演出は、最初と最後に、SPAC総監督の宮城さんが演者全体を舞台見学者・観客として扱うことです。これも演者と観客が一体をしていることを、印象付けています。それを前提として演劇全体は笑わせるという手法です。
私にはこの演劇はどこまで笑えないかを試されているように思えてなりませんでした。