■準入選■
吉田汲未
客席を観ている自分は客席にいる。やがて、この劇場を訪れた観客という登場人物によって、観ていた無人の客席に息が吹きかけられ物語が始まった。すると、どう見ても、病人の劇場見学者が一人。しかし、本人は病人では無いと言い張る。あれ?「病は気から」の諺とは反対??と思っている間に、現代、日本、現実から、17世紀、フランス、物語へ。その間の“今”らしき物語に導かれて、今回の喜劇の世界に入っていくこととなった。
外国の物語であるが、日本人が演じる無理矢理の外国人への役作りがなく、むしろ、日本の風俗を積極的に取り入れており、視覚的にも、物語へ入り易かった。更には、日本人に聴こえるフランス語の特徴を利用し、フランス人の物語であることをも、喜劇の要素として取り入れている喜劇への貪欲さを感じた。
喜劇への貪欲さは、他にも、男女の配役の一部入れ替えによっての効果、意表を突く音楽、歌、衣装、俳優の動きにもそのねらいが見受けられた。これが、物語を舞台で表現することの意義なのであろうと改めて思われた。
喜劇のテーマは、物語において十分に表現されてはいるが、それを更に、演劇的手法を使って追及したり、膨らませたり、読み変えたりすることを試みた醍醐味を、この舞台では存分に魅せてもらった。物語のテーマは、舞台化することで、より深めることが出来るということを観せてもらった舞台であった。
作者モリエールは、この作品を4回公演したところで亡くなっているという。つまり、「病は気から」という諺とは逆の出来事が身に起こっていた。「病気である人」であるにもかかわらず、「病気であると思い込んでいる人」を演じたのであった。今回の舞台で、モリエールのやった役の俳優さんが吐血するたび、モリエールの最期について思いをめぐらされた。これは、悲劇であり、そして、こんなブラックなユーモアはないというような喜劇である。そして皮肉なことに、悲しければ悲しいほど喜劇になっていくのである。
半分死にかけているアルガンを、周囲の者が担ぎあげておかしなポーズをさせていた最後のシーンでは、死に直面していたモリエールが喜劇を演じていたことと重なった。当時フランスのモリエールの舞台での観客は、おそらく病身のモリエールの事情を知らずに、モリエール演じるアルガンに大笑いしていたのであろうと想像した。一方、今回の日本の舞台では、最後のシーンに笑い声一つ聞こえてはこなかった。この時、まさに、このシーンは皮肉な喜劇という物語のための表現の集大成であるということを示していると思われた。こんなに悲しい喜劇の舞台表現に私は出会った事がない。
病気というテーマの物語の入口から、医者への痛烈な皮肉もこの作品の特徴である。お金や権力によって名医との人脈をつくることが出来、自分が興味あることへの演説が上手ければ、称号と白衣を与えられる。白衣さえ手に入れられたら医者になれる。これは、他の「先生」と呼ばれる職業に就く人々にも当てはめられるであろう。政治家、大学教授などに読み変えて想像してみると、おかしいくらいぴったり当てはまり、見事に言い当てているモリエールの鋭さに感心し、ひどく笑っている自分がいた。これはとても皮肉な笑いではあったが、代弁してもらったようにすっきりとした気持ちになった。
それらの様々な皮肉な出来事が、今回の舞台ではすべて、自分たちの座っているシートと同じシートが並ぶ、舞台上の観客席で起こっている。それを見せられているのは、観客である自分たちである。舞台はまるで鏡であり、「あなたたちもこんなことをしていますよ」と言われているようである。そう考えると、初めからあらゆる“鏡現象”を見せられ続けてきたことに気付かせられる。
病気でないと主張する病人から、病気でない病人に始まり「思いこみ」の強い人間の数々・・・恋愛、愛情、学識、学歴、職業について、表と裏、嘘と本当、理想と現実、というような人間にまつわる出来事の外側と中身を次から次へと披露してもらった。見かけや肩書に惑わされるのが、人間ですよと改めて言われているかのようであった。そして、いつの時代も、どんな国でも同じような事で人間は喜んだり悲しんだりしている、滑稽ですねと言われている事がわかる。
そして、最後に舞台という鏡から「あなたはどうですか?」と声をかけられて帰ってきた。