椿姫の鏡像
奥原佳津夫
オペラの上演は専ら音楽面からの評価がなされ、舞台上演の演劇的な面については、二義的な扱いを受けるのが通例である。多くの場合演出もストーリーを語る上での意匠に留まるか、音楽とは乖離した舞台表象に終始してきたので、それも無理からぬところではある。鈴木忠志演出『椿姫』の特異な点は、その演劇的な表象と音楽との拮抗が、作品の構造にまで立ち入ってなされたことであり、まさに演劇面からの評価が必要な上演と思われる。
演出の要諦は、ヒロイン・ヴィオレッタを男性の側の理想、願望としてしか存在しえない幻、虚像として捉えたところにある。テノール歌手は作曲者ヴェルディとして常に舞台上に居続け、去来する幻想の中でアルフレードとなる趣向。序曲でヴェルディの父親役の俳優が登場し「まだ幻を見ているのか?」という台詞が交わされるのに意表をつかれるが、その設定故に場面転換や時間経過の幕間を要しないため、歯切れのよい演奏(飯森範親・指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)は間断なく、むしろ演奏の密度は高い。(第一幕から第二幕一場、第二幕二場から第三幕は続けて演奏される。)「乾杯の唄」では、水を持った看護婦が登場し、ヴェルディの幻視は精神を病んだ(と看做される)域であることが示される。恋の病ならぬ、病としての恋、その結晶たる幻が椿姫なのである。そもそもこのヒロインがいかなる虚像であるか、原作に遡って確認したい。デュマの原作小説『椿姫』で、作者の実体験から著しく美化された虚構のヒロインに与えられた名はマルグリットであり、物語は彼女の死から始まる。語り手は、改葬のために掘り起こされた骸に対面させられ、その後、恋人の回想する生前の椿姫の物語を小説化する、という再話の手法が採られており、マルグリットは二重のフィルターを通した虚像として、読者の前に立ち現われる。さらにこの『椿姫』が劇化上演されたのを観て創られたヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』のヴィオレッタは、さらなる鏡像と云えるかもしれず、そこには作曲者自身の経験も写しこまれているらしい。
この上演では、登場人物はそれぞれのエリアから大きく移動することはなく、ことにヴェルディとして作曲の机に向かいつつ唄うテノール歌手は、幻想世界に踏み込むことはない。その分、後半(第二幕二場)では幻想のアルフレードとして吹き替えの俳優が登場することになる。第三幕への転換での、この幻想のアルフレードがヴィオレッタを抱きしめるようにして彼女の外套を脱がせる演出は特筆に値する。物語の上では誤解を抱いたまま外国にいる筈の彼が、あえてこの場に登場するとなれば、それは作曲者ヴェルディの幻想であるアルフレードのさらにその願望が生んだ幻であり、めくるめくような虚像の乱反射が舞台上を闊歩していることになる、それは合わせ鏡の中で虚像が虚像を生みつづけるように。(思えば、この上演に登場するヴェルディはもちろん、作品から逆算された虚像としての作者であり、伝記に照らせば彼は宿屋の主人である父親の元を幼くして離れているので、「ヴェルディの父」という精神性を感じさせる登場人物もまた、得体の知れない幻である。)簡素な舞台美術は、大きな長方形の枠がいくつも重なりあって吊られているのが特徴的だが、ヴィオレッタの居室の場面で同じ枠の姿見が使われると、なるほどと納得がいく。このセノグラフィは、実体を持たぬ虚像の乱反射をのぞき見るための装置なのである。
この上演にはエピローグが付く。「過ぎ去りし日々よ」のフレーズが煽情的に奏でられる中、死んだヴィオレッタが起き上がり、背景のパネルが飛んで、はるか彼方まで延びた白い道を、降りしきる紙吹雪にかき消されながら歩み去ってゆくのである。一見サービス過剰で無くもがなの演出と思ったが、彼女の歩み去る先に、鏡合わせのようにこちらを向いた劇場の客席を認めた時、この幕切れこそ演出上の必然と得心した。彼方に並ぶ客席は、上演中のホールと背中合わせに位置する芸術劇場の客席―白い道は芸術劇場の舞台上に延びていたのである。彼女の死=退場は、すなわち鏡あわせになったもう一つの舞台への登場なのだ。かくして虚像は架空の世界の中に完結する。叶わぬ理想や願望を映しこんだ幻を音楽の内に留めようとしたのがヴェルディの楽曲だとするならば、今回の演出は、云わばその返歌としての「虚像」を演劇的表象の内に立ち上げて見せた巨匠の力技である。冒頭に、演劇的な表象と音楽との拮抗と書いたのは、このような意味による。
(於.グランシップ・中ホール大地 2009.12.11所見)